忘れえぬ人々 

 国木田独歩の作品「忘れ得ぬ人々」というのがある。これは、人生で出会った人々の内、特別に深い関係はないが、何故か印象にのこり、数十年経っても忘れられない人のことである。そして、そのとおりの人が私にもある。

   もう、40年近くも前のことである。当時私は、結婚して、神奈川県の川崎市の中原区というところに住んでおり、歩いて15分程の元住吉の駅から相互乗り入れのある東横線・地下鉄日比谷線で銀座にある勤務先に通っていた。28歳で、結婚したときそれと同時に移り住んだのは、同じく東横線の学芸大學駅から歩いて10分程のマンションであった。

  学芸大學駅は、東京都の目黒区に所属した高級住宅街を擁した駅で、そのマンションも閑静な住宅街の一 角にあり、その環境も申し分なかった。唯一の の欠点は、狭いことで、単身者を想定した1LDKであったことである。新婚当初はそれでもよかったが、子供が生まれるとその狭さは、耐え難くなり、とうとう直属の上司に願い出て、単身赴任で、大阪から移ってきた別の上司といれ替わってもらうことになった。この別の上司の住んでいたのが元住吉のマンションで、ここは、2LDKであった。通勤時間も長くなり、周囲の環境もわるくなるが、背に腹は変えられなかった。

   元住吉に引越して、間もない夏の日のことである。暑い盛の昼間の頃のことである。私は、地下鉄日比谷線に乗って家に帰る途中のことであった。今から思と普通の通勤であれば、夕方しか乗らない電車なので、休日出勤かなんかで、早く帰宅したものと思う。

  列車が、祐天寺の駅に到着したときのことである。子供連れの女性が、列車に乗り込んできた。その人は、赤ん坊を背負い、5歳ばかりの女の子の手を引いて、荷物も持っていた。赤ん坊との移動で、いつも大変な思いをしていた私は、思わず立って、席を譲った。

 彼女は、かるく会釈をして、子供と荷物をその席に乗せた。それだけのことである。

   それだけのことであれば、多分なんの記憶も残らなかったことと思う。しかし、列車が、自由が丘の駅につき、彼女が列車から降りるときのことである。出口近くに立っていた私の方をしっかりと見据えて、彼女は、僕に「今日は困っていたところを助けていただいて本当に嬉しかった。ありがとう御座いました。」とお礼をいったのである。

   そのとき、私は、初めて、彼女の顔をみたが20代後半の理知的な顔立ちの女性であった。その率直さに、私は、ドギマギするばありであったが、その時の真剣なまなざしが印象的であった。彼女達が降り、再び列車が動きはじめてからもしばらくの間、僕には、なにが起こったのかよくわからなかった。ただ、なんとなく嬉しくも恥ずかしい感覚だけが残った。

   元住吉から通勤していた同じその頃のことである。夏の夜、午後8時を過ぎた頃のことだったと思うが、銀座から地下鉄日比谷線にのり、東横線に入って間もなく、突如として、空が曇り、雨が降り出し、電車が元住吉の駅に着く頃には、本格的な雨になっていた。

   駅の改札口を出たところで、傘もなく呆然と立ち尽くしていたときのことである。突如若い男性が、声を掛けて来た。「お困りでしょう。この傘をお持ち下さい。」そう云って、雨傘を差し出してくれたのは、自分より数才若い、20台後半と見える背の高い青年であった。

   突然の申し出に私が戸惑っていると。「私は、大丈夫です。妻と一緒に帰りますから。」そう云って、彼が向けた視線の先には、小柄な若い女性が、笑顔で、こちらの方を見ていた。そのとき、その後。どんなやりとりがあったか、はっきりと覚えていないが、傘を返す必要がないと私に告げるとその若い夫婦は、寄り添って一本の傘に入り、暗闇の中へ消えていった。私は、実際に起こったことが信じられなく茫然と彼等を見送りながら、次第に心が暖かくなってゆくのを感じた。

   たったこれだけのことでる。しかし、結婚と共、移った知り合いの少ない東京で、都会というものが、自由である反面、個々人が、孤立して生きている空間として考えていた私にとって、全く見ず知らずの人達と偶然に通わしたこの二つの出来事は、衝撃的であった。

  その衝撃の意味は、今だによく分らないが、その時以来「人間もまんざら捨てたものではない。」そう思えるようになったような気がする。               完     (2010年9月まきば1号)

竹さんの奇妙な話

竹さんの奇妙な話

人は、あまり他人に話せない奇妙な体験をすることがある。これらの体験は、どんな人にもあると思うが、多くの場合、それを奇妙と感じないように知らぬふりして見過ごすか又は、あまりに奇妙なので、まじめに話すと人から笑われるので、個人の中に、秘密裡に止め置かれていることになる。六十数年生きているとこんな話は、一つや二つではない。この話も、その一つである。

「銀座の地下鉄の駅の出口についたのですが、ここからどう行けばよいのでしょう」「地下鉄の出口といっても、銀座の地下鉄の出口は、二十三箇所あるので、どこの出口かが問題です。出口を出てなにが見えるが教えてください。」これが、中途入社で、大阪の神戸支店から転勤してきた「竹さん」と私の始めての会話であった。当時私は、東京駅の東側を新橋に向かって走る外堀通り沿いの、有楽町駅とは反対側を、東側に一本入った東銀座の場末のアーニービルという古びたビルの2階の技術本部というところに勤務していた。

名古屋支店に勤務して五年目、結婚式を半年後に控えた十月頃、上司に呼ばれ、「今度本社に技術開発室というのが設けられることになった。ついては、そこに行って欲しい君が嫌でも行って欲しい。」とのことであり、有無を言わせぬ話であった。多分、入社五年目で、あまり戦力となっておらず、大卒が、珍しい時代でもあったので選ばれたのだろう。新設された、技術開発室は、室長と課長その他三名、合計五名の小規模な組織で、僕を入れてもたった六名の組織であった。その組織が、一年経って技術本部として再編・拡充されることになり、その流れで、竹さんも転勤してきたのであった。

竹さんは、商船大学で、機関科を卒業し、一等機関士として七年間も船に乗っていた異色の経歴の持ち主で、外洋勤務で、殆んどの時間を海上で過す船乗りの生活に飽き、当時の僕等の四倍もの俸給を投げ捨て、結婚を機に船を下り、中途で入社してきたとのことであった。僕より一つ年上であったが、酒好きで、気さくであり、同じ転勤続ということでたちまち仲良くなった。

竹さんは、当初から元住吉のマンションの一室の会社の借り入れ社宅に入っていた。一年程して私もこのマンションの四階に引越してからは、一階と四階とで、階は異なったが、家族ぐるみの付き合いをするようになった。竹さんは、酒がめっぽう強く、まず、酔っ払って乱れるようなことはなかった。僕らは、家が近くということで、よく酒を飲んだ。有楽町の駅の高架下の赤提灯で、いつも千円会費ということで飲んでいた。

竹さんは、普段は、穏やかに笑って皆の意見を聞くことが多く決して乱れない。しかし、時計が、午後十一時時近くなり、目が据わってくると妙に凄みのある表情になることがある。聞けば、拳法部に所属しており、後輩のトラブルに巻き込まれ、ヤクザとわたりあったこともあると話していた。その話が、まんざら嘘でもないと感じたのは、酔っ払った帰り道、なにかのついでに、コンクリートの塀を拳で打って、凹ませたのを目撃してからである。

元住吉に移って、一年経った頃、いつものように、居酒屋で、酒を飲み出したときのことである。普段、有楽町で、飲むときは、他の同僚と四~五名の場合が多いが、このときは、二人きりであった。またこの頃、酒好きの我々は、有楽町で飲み過ぎ過ぎ、タクシーで帰り、飲み代の数倍の料金を払って後で後悔した経験から、ときたま、元住吉の駅から家に帰る途中の焼鳥屋で一杯やることがあった。

この話も多分その時のことである。乾杯をして間もなく、竹さんが、何時になく真剣な眼差しで、「今まで、この話は、他の人にしたことはないが、奇妙な体験をしたことがある。これは、本当の話なんだ」と云って、次のような話をしてくれた。

彼が、後輩のトラブルに巻き込まれて、ヤクザと渡り合った結果、警察沙汰になり、休学させたれた時期、寮を離れて、ひと夏、試験勉強のため、海辺のある家の2階に下宿したとことがある。その時の話だという。

ある夜、重く寝苦しいので、ふと、目を覚まして、暗闇の中をよく見ると一人の子供が、体の上に乗っているのに気づいた。あわてて起きて、電気をつけた途端、その姿は、忽然と消えた。その時は、何かの錯覚であろうと思うことにしたが、翌日も同じことが起こった。これは、元来、亡霊や霊魂など頭から信じていない彼としては、全く理解できない出来事であった。こんな夜が二三日続いたが、気が弱いせいと思われるのがしゃくで、誰にも話せなかったという。

とうとう、彼は、これが何者なのか、はっきりさせるため、今度現れたら、捕まえようと固く決心し夜を待った。そして、その子供は、また現れた。その機会を狙っていた彼は、起きざまに、子供の足をつかもうとした。「それでどうした」と私が尋ねると、彼は、「がばっと捕まえた。」と云い。一呼吸おいて、「捕まえたのを確信して起き上がって電気をつけてみたら、捕まえたのは、自分の腕であった。」と云い、しかし、その夜以降は、その子供は、現れなくなった。

その下宿を引き払うとき、宿の人にその話をすると「やはり出たんですか。以前この浜で、溺れた男の子がいて、そのせいか、以前にもそんな話があった」とのことであった。その時、そんな話が、あれば、最初に話しをするべきだと憤激した覚えがあると話し、自分は、決して臆病な人間では、ないと思うが、どう思うかと質問された。

科学的に考えれば、寮生活という集団生活から離れた潜在的な不安感がなせるわざとも思えるが、宿の人の話との整合性がとれない。何かの現象があったことは、事実である。また、彼が、嘘を云っているとも思われない。その当時生きていた私の姉は、自分で霊媒体質だと云い、私が大学生であった頃から、自らの体験した奇妙な話をよくしてくれ、あるときには、数枚の心霊写真も見せてくれた。

当時唯物論者であった私は、自分の直接体験でないこうした話には、あまり関心がなかった。しかし、この姉が、私に嘘をいう理由もないので、多分本人が何かを体験したのは、事実であろうと思っていた。このため、竹さんの話もそれは、事実であろうとあっさり認めた。そのせいかこの話題は、その後私と竹さんとの間で、二度と話されることはなかった。それから数年して、私は、名古屋に帰り、たけさんも、生まれ故郷の熊本に帰っていった。姉以外から聞いたこの話は、深く印象に残った。竹さんとは、遠く離れているが、その後も付き合いが続いている。     完                      (2010年11月 まきば2号掲載)

詩精神の覚醒・・25歳の旅立ち

詩精神の覚醒急いで歩いてゆく街路の上に、ふと気が付くと濃紺の空が広がっていて、その深く鮮やかな光景を見つめていると、不意に突きあげてくる郷愁のために、我ながらどうしょうもなく打ち震えてしまう瞬間がある。僕自身の中の何者かが、その光景に触発され、沸騰する瞬間である。

それは、つまらぬ感傷であるかも知れない。しかしたとえそうであったとしても、僕はなおかつ、そうしたものの背後にいる何か未知なるものの存在を確信せざるを得ない。

僕の中にそうしたものがあるということ、そしてそれこそがある意味で僕の思想や行動や生活のエキスのようなものであること、そのことに気づき始めてはや一年になる。

それは始め予感としてあった。徐々に一つの終末が訪れ、何かが生まれようとしていた。

僕は、それを必死で追跡した。感情より先に、そのものの到来より先に僕は言葉でそれを捉えようとした。しかし、それは頑強に言葉を拒絶するかに見えた。それはただ予感としてあった。しかし、それは次第に姿を見せ始めた。僕の生活のほんの稀な瞬間にそれは、僕の内面の膜を激しく揺さぶり未知に向かって予告するように胎動した。そんな時、それは、僕自身の膜の薄い場所を突き破って忽然と顔を出し、僕がまだ、凝視しない内にたちまち、膜の背後に退いてしまった。

しかし、とにかく僕は、それを知り始めた。そのものの感触がまだ指先に残っている、その間に、そのものに僕は大急ぎで言葉を与えた。それはある時には、リルケの「死の核」であると思われ、またある時には、「生の原型」であり、またある時には、シューベルトの「冬の旅」であり、加藤周一の「羊の歌」の世界であると思われた。

しかし、そうした言葉は、そのものではなかった。それらは確かにそのものの一部分、一つの現れではあったのだが・・・。

けれども、そうした日常生活の偶然とも云える一つ一つの出来事や出会いや経験が、一つの終局点に向かって、ある一つの世界に向って追い込んでゆきつつあること、そのことを僕は自覚した。僕はそのものの正体が知りたかった。そのものこそ十年近くも僕が無意識の内に求め続けていたものと確信できたからである。

しかし、そのものは、なかなか正体を見せてはくれなかった。それは確かに以前より頻繁に僕の戸口のすぐ近くまで、訪れるようになっていた。しかしそれは僕が抱きしめようとすると素早く去っていった。僕自身の焦りや恋心をからかう少女の如く、それは僕の手の中からするりと逃げ去ってしまうのだ。しかし、その時の香は、確かに僕が求め続けていたものを暗示していた。

冬が訪れ、春が訪れ、僕とそのものの激しい追跡戦の日々が続いた。ある時は、ビルの谷間に、そしてある時は、群青の下の並木の道に、僕はそのものの映像を求め、見えない地図の上を探索し、進軍した。そして夏、僕の心は、疲労で憔悴し、見つめる僕の眼は、砂漠血に充血し、微かに差し伸べる僕の指先は、強烈な光の中で溺死した。僕自身の中で

一つの「死」が進行していた。思惟は、はやいたずらに感性の中で空転し、見つめる思考場の中に砂漠のような終末が広がっていた。

しかし、長い苦闘の結果、自我の膜は、今や極限まで問い詰められ、一つの薄い不透明な膜としてのみ僕の前にあった。僕は、熱つく海辺で確実に死を迎えた。僕の中の予告が終わり、倒れ伏した僕の上には、幾つもの幻影が降りそそいだ・・・。

そして長い眠りの後に、ふと気づくとそのものは、僕の周辺に漂っていた。それは、透明なままで僕の前にあった。

そのもの、それはかって誤って一人の女性の中に求めたもの、最も親しい友の中に求めたもの、学問の世界に求めたもの、そして結局は、それらの中には、見出し得なかったもの、いやそうした特定の対象の中にあると僕が錯覚したもの。

それは、求めるのではなく共有するところに初めて愛や友情が在り得るもの、始原であり、終末であるもの、僕等の生を貫いて、ずっと先まで広がっているもの。

そのものの到来によって突如として世界が変わるものではなく、そのものの到来によって孤絶するものでもなく、そのものの到来によって初めて僕自身が誕生し、僕の中にリルケの死のようなものが芽生えてくるものである。

それは、エゴイズムや自尊心が無意味になるもの、自己嫌悪の破産するもの、醜さを暖かく支えてくれるもの、対立さえも許しあうもの、悲劇さえも美しくし、悲惨にさえも栄光を与えるもの。

あらゆる理論に対して不敗であり、どんな恋人の愛よりもかるかに深いもの、田村隆一の云う

「詩人だけが発見する失われた海を貫通し、

世界の最も寒冷な空気を引き裂き、

世界の最もデリケートな艦隊を海底に沈め

我々の王と我々の感情の都市を支配するもの」

僕自身の今までの一つ一つの体験や経験が、苦しみや歓びが、悲惨や栄光が、彷徨や安住が、そして限りなく続けられる僕達の生の営みが、ある人との出会いが、その時の会話が、街角の光景が、喫茶店「ラムチー」の片隅で飲むコーヒーの胸に満ちてくるまろやかな情感が、そのものの中でその存在意義を明らかにしてくれるもの。

異なる世紀の異なる国々の一つ一つの事件の中、出会いと別離の中、無数の色彩をなす日々の労働の中、真っ暗な恋の中、悲惨な栄光の中、一つの地方のその風土文化の中、世界史の革命や反革命の中、土着したナショナリズムの中、海を越えるインターナショナリズムの中、それらを貫く全ての思想や意識の中、それら一切を貫いて、すべてを一つの流れの中に導くもの。

人々のその経験や年齢、知識や性別を乗り越えて流れるもの。人間である限り、誰もが空気のように呼吸しているもの、それは確かにそんなものである。それは、感情ではなく、ましてや理論ではなく、しかし理論を拒絶するねのでもなく、そのものの存在によって初めて理論が生命を持ちうるもの、それは確かにそんなものである。

そのもの、それは僕の自我の膜を潜り抜けた彼方に草原のように広がっていた。それは澄み切っていて透明であり、太陽のように明るくはないが、高原の夕暮れのように和やかであった。

それは、特定の言葉を拒絶し、すべての言葉を要求した。それは、固定した領土ではなく、一つの流れであり、無限に広がる大洋のようでもあった。

そのものとの出会いによって、僕は生の地平線をみた。そのものとの出会いによって、僕は都会の窓をみた。歴史のすすり泣きを人間の落ちてゆく地平をみた。幾千万の夜と幾億もの生と死を迎え入れた。そのものとの出会いによって僕は、歴史の落陽を見、欧州史の素顔をみた。愛の生まれてくるカオスを知り、不信が芽生える氷結の木枯らしを知った・

そのものとの出会いによって僕は、自我の彼方を見た。そのものとの出会いによって、僕は僕の母を生み、死は僕の生を生んだ。

それは、詩精神というものが僕の中で覚醒した瞬間であった。

(1970年 陽樹第一号「僕にとってロマンチシズムとはなにか」より)

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