竹さんの奇妙な話
人は、あまり他人に話せない奇妙な体験をすることがある。これらの体験は、どんな人にもあると思うが、多くの場合、それを奇妙と感じないように知らぬふりして見過ごすか又は、あまりに奇妙なので、まじめに話すと人から笑われるので、個人の中に、秘密裡に止め置かれていることになる。六十数年生きているとこんな話は、一つや二つではない。この話も、その一つである。
「銀座の地下鉄の駅の出口についたのですが、ここからどう行けばよいのでしょう」「地下鉄の出口といっても、銀座の地下鉄の出口は、二十三箇所あるので、どこの出口かが問題です。出口を出てなにが見えるが教えてください。」これが、中途入社で、大阪の神戸支店から転勤してきた「竹さん」と私の始めての会話であった。当時私は、東京駅の東側を新橋に向かって走る外堀通り沿いの、有楽町駅とは反対側を、東側に一本入った東銀座の場末のアーニービルという古びたビルの2階の技術本部というところに勤務していた。
名古屋支店に勤務して五年目、結婚式を半年後に控えた十月頃、上司に呼ばれ、「今度本社に技術開発室というのが設けられることになった。ついては、そこに行って欲しい君が嫌でも行って欲しい。」とのことであり、有無を言わせぬ話であった。多分、入社五年目で、あまり戦力となっておらず、大卒が、珍しい時代でもあったので選ばれたのだろう。新設された、技術開発室は、室長と課長その他三名、合計五名の小規模な組織で、僕を入れてもたった六名の組織であった。その組織が、一年経って技術本部として再編・拡充されることになり、その流れで、竹さんも転勤してきたのであった。
竹さんは、商船大学で、機関科を卒業し、一等機関士として七年間も船に乗っていた異色の経歴の持ち主で、外洋勤務で、殆んどの時間を海上で過す船乗りの生活に飽き、当時の僕等の四倍もの俸給を投げ捨て、結婚を機に船を下り、中途で入社してきたとのことであった。僕より一つ年上であったが、酒好きで、気さくであり、同じ転勤続ということでたちまち仲良くなった。
竹さんは、当初から元住吉のマンションの一室の会社の借り入れ社宅に入っていた。一年程して私もこのマンションの四階に引越してからは、一階と四階とで、階は異なったが、家族ぐるみの付き合いをするようになった。竹さんは、酒がめっぽう強く、まず、酔っ払って乱れるようなことはなかった。僕らは、家が近くということで、よく酒を飲んだ。有楽町の駅の高架下の赤提灯で、いつも千円会費ということで飲んでいた。
竹さんは、普段は、穏やかに笑って皆の意見を聞くことが多く決して乱れない。しかし、時計が、午後十一時時近くなり、目が据わってくると妙に凄みのある表情になることがある。聞けば、拳法部に所属しており、後輩のトラブルに巻き込まれ、ヤクザとわたりあったこともあると話していた。その話が、まんざら嘘でもないと感じたのは、酔っ払った帰り道、なにかのついでに、コンクリートの塀を拳で打って、凹ませたのを目撃してからである。
元住吉に移って、一年経った頃、いつものように、居酒屋で、酒を飲み出したときのことである。普段、有楽町で、飲むときは、他の同僚と四~五名の場合が多いが、このときは、二人きりであった。またこの頃、酒好きの我々は、有楽町で飲み過ぎ過ぎ、タクシーで帰り、飲み代の数倍の料金を払って後で後悔した経験から、ときたま、元住吉の駅から家に帰る途中の焼鳥屋で一杯やることがあった。
この話も多分その時のことである。乾杯をして間もなく、竹さんが、何時になく真剣な眼差しで、「今まで、この話は、他の人にしたことはないが、奇妙な体験をしたことがある。これは、本当の話なんだ」と云って、次のような話をしてくれた。
彼が、後輩のトラブルに巻き込まれて、ヤクザと渡り合った結果、警察沙汰になり、休学させたれた時期、寮を離れて、ひと夏、試験勉強のため、海辺のある家の2階に下宿したとことがある。その時の話だという。
ある夜、重く寝苦しいので、ふと、目を覚まして、暗闇の中をよく見ると一人の子供が、体の上に乗っているのに気づいた。あわてて起きて、電気をつけた途端、その姿は、忽然と消えた。その時は、何かの錯覚であろうと思うことにしたが、翌日も同じことが起こった。これは、元来、亡霊や霊魂など頭から信じていない彼としては、全く理解できない出来事であった。こんな夜が二三日続いたが、気が弱いせいと思われるのがしゃくで、誰にも話せなかったという。
とうとう、彼は、これが何者なのか、はっきりさせるため、今度現れたら、捕まえようと固く決心し夜を待った。そして、その子供は、また現れた。その機会を狙っていた彼は、起きざまに、子供の足をつかもうとした。「それでどうした」と私が尋ねると、彼は、「がばっと捕まえた。」と云い。一呼吸おいて、「捕まえたのを確信して起き上がって電気をつけてみたら、捕まえたのは、自分の腕であった。」と云い、しかし、その夜以降は、その子供は、現れなくなった。
その下宿を引き払うとき、宿の人にその話をすると「やはり出たんですか。以前この浜で、溺れた男の子がいて、そのせいか、以前にもそんな話があった」とのことであった。その時、そんな話が、あれば、最初に話しをするべきだと憤激した覚えがあると話し、自分は、決して臆病な人間では、ないと思うが、どう思うかと質問された。
科学的に考えれば、寮生活という集団生活から離れた潜在的な不安感がなせるわざとも思えるが、宿の人の話との整合性がとれない。何かの現象があったことは、事実である。また、彼が、嘘を云っているとも思われない。その当時生きていた私の姉は、自分で霊媒体質だと云い、私が大学生であった頃から、自らの体験した奇妙な話をよくしてくれ、あるときには、数枚の心霊写真も見せてくれた。
当時唯物論者であった私は、自分の直接体験でないこうした話には、あまり関心がなかった。しかし、この姉が、私に嘘をいう理由もないので、多分本人が何かを体験したのは、事実であろうと思っていた。このため、竹さんの話もそれは、事実であろうとあっさり認めた。そのせいかこの話題は、その後私と竹さんとの間で、二度と話されることはなかった。それから数年して、私は、名古屋に帰り、たけさんも、生まれ故郷の熊本に帰っていった。姉以外から聞いたこの話は、深く印象に残った。竹さんとは、遠く離れているが、その後も付き合いが続いている。 完 (2010年11月 まきば2号掲載)