60年生きてきて、本当に魂を突き動かしたものは、田村隆一の詩だけだった。無論一時的な感動であれば、恋も死もその他の出来事でも何度も味わったが、それらの多くは、年を経るにつれ、忘却の彼方に姿を消していった。その中で「田村隆一」の詩だけは、何年経っても絶えず、若々しく、僕の心に蘇えってくる。田村隆一の詩は、世界であり、宇宙である。
2003年10月の朝、ラッシュアワーの電車の中で、僕は田村隆一の詩を読んでいた。いや正確に云えば、田村隆一の詩を聞いていた。昨晩、僕は田村隆一の詩を朗読し、それをICレコーダーに記録し、それをイヤホンで聞けるようにしたのだった。詩は本質的にリズム的でなければならないとは、40年前に田村隆一の詩に出会ったとき感じたことであった。ラッシュアワーの電車の中で聞く、田村隆一の詩は、眼で読む世界と別の世界に思えた。彼の詩のフレーズの一つ一つが世界の一瞬、一瞬の輝きであり、75年間の田村隆一の全ての視覚映像が言葉のきらめきの中に現れてきた。「眼が肉眼になるには、50年かかる。」と田村隆一は、詠っているが、この言葉の意味が分かるのに、僕は60年かかった。
2003年11月の連休、深夜、僕等は、東海北陸自動車道を車で駆けて、白鳥ICから油坂峠を越え、九頭龍川の上流を目指した。暗闇の中を2時間走って、四方を山に囲まれた渓流の川辺に立ち、迫ってくる冷気に対抗するようにテントを張った。曇り空、漆黒の闇の中で、僕等は、流木を焚き仲間達と酒を酌み交わし、ブリューゲルの絵のように幻想的な時間を過ごした。その日、天候の回復した空には、無数の銀河を湛えた満天の星空が広がっていた。積み上げた流木が真っ赤に燃え上がり、周囲に強烈な熱を放射し始める頃、夜が明け始め、僕は2重にした寝袋の中に入り、獣のように眠りについた。
この体験のほんの一週間前、友人に誘われ、東京サントリーホールの小ホールで、チェロ奏者堤剛のコンサートを聞いていた。「四世紀にわたるチェロ音楽」と銘打った、そのコンサートは、ピアニスト野平一郎のフロデュースによる競演で、作家の中西礼の姿も見かけたこの低音を主体とした音楽会は、いつになく男性が多いとは、一緒にいった友の言葉であった。しかし、僕にとって音楽は、ひとつ秩序と快感をもたらすものであっても、視覚映像に似た世界を開示するものにはならなかった。3回ものアンコールのあった演奏会は、それ自身充実していたにも拘わらず、である。その夜、六本木の居酒屋で麦焼酎をロックで飲み、高層ビル建設によって急激に変貌する都会の小雨に震えるネオンの中を有楽町経由で家路についた。
そして、2003年11月中旬、僕は、出張で金沢にいた。打ち合わせまでの僅かな時間を使って、僕は、泉鏡花記念館を訪れた。明治半ばから創作活動を始め、大正、昭和にかけて多くの作品を残した鏡花は、エドガーアランポーと共に、僕が心惹かれる作家であった。彼の作品には、リズムがあり、それは,詩の世界に類似しているためであった。その記念館には、鏡花の作品の挿絵が展示されており、その中で、僕は恐ろしい一枚の絵をみた。それは、遠近法で描かれた浮世絵風の絵で、冬の日本橋に佇む幽霊を描いたものだった。その冬の寒寒とした風景の彼方に僕は、中学時代読んだ青春小説アランフルニエの「モーヌの大将」の最終場面を連想していた。恋求める主人公が、雪降る木枯らしの中に佇む姿を。そして、突然その場面の中で、シューベルトの歌曲「冬の旅」が思い出された。僕の青春の出発点。自分でも理解できない衝動に突き動かされていた40年前、僕の中で青春の感動がほろ苦く蘇えった。人は、それ自身が、時間旅行機(タイムマシーン)であり、宇宙船であるのかもしれない。そして、詩人「田村隆一」は、このことを知っており、その証が彼の詩ではなかったのか。金沢からの帰る途中の特急「しらさぎ」の中で僕は再び「田村隆一」を聞き、そう思った。 以 上