一枚の挿絵に導かれて ―泉鏡花と日本橋― 

もう二十数年も前のことになる。その当持勤めていた会社の北陸支店の近くに飯泉鏡花記念館があることに気がついて、立ち寄ったことがあった。その記念館は、金沢市尾張町にあり、付近には、粋な町並の御茶屋街がある。御茶屋は、芸者遊びして酒を飲む場所であるが、そこへ行ったのは、一度だけで、しかもそのときは、年配の中居さんのお酌で鍋を突いて、酒を飲んだだけなので、詳しく知らない。ただ、天井の低い和室は、何か一つの小宇宙のような趣があり、応時の雰囲気だけは感ずることができた。そんな街の一角に記念館があることを知ったのは、鏡花の小説を読み初めて、彼が金沢出身と知ってからである。

その記念館は、和風の二階屋で、その一階部分が、展示室となっており、鏡花が描いた女性「美しい人」や、「美しい本である鏡花本の装丁をテーマとした第一展示場と鏡花の創作活動やゆかりの品々を紹介した第二展示場と特定のテーマによる企画展を行う第三展示場などから構成されている小規模な家庭的ともいえる施設であった。

鏡花は、本の装丁に凝っていて、かれの小説の挿絵には、鏑木清方,小村雪岱、鰭崎英朋、鈴木華邨等10名以上が関係していが、この第一展示場で僕は、鏡花の本の様々な挿絵を見ることができた。

そこで、僕は一枚の挿絵を目にした。一見何気ない風景を描いたものであるが、何か奇妙な印象を受け、ひきつけられるものがあった。それは透視図法で描かれた冬の雪降る街の風景画で、遠景には、1人の女が描かれていた。ただその女は、背中を見せており、直接その表情は見えない。町並みを描いているが、その女を除いて周囲に人の気配はない。ただ深々と雪がふるばかりである。その絵の題名は、「日本橋に出る女の幽霊」で、鏡花の小説「日本橋」の挿絵として小村雪岱により描かれたものである。泉鏡花の作品の熱心な愛読者であった小村雪岱は、27歳のとき「日本橋」で、始めて泉鏡花の小説の装丁を手がけたが、これはその時の作品である。

第一展示場で、思わずその絵に惹きつけられた僕は、館内を一通り回ってから、また気になって再度その絵を眺めた。その絵を見て突如連想したのは、中学時代に読んだ青春小説「モーヌの大将」の寒空のパリで、人を探して佇むモーヌと街中を徘徊する狂女の世界であった。だが、そうした印象が、どこからくるのか、僕には、分からないまま、記念館を後にした。小村雪岱に「日本橋に出る女の幽霊」を描かすことになった「日本橋」とは

どんな作品なのか。そして「日本橋に出る女の幽霊」とは何か。僕は何故、あの絵に惹かれたのか、それらの疑問は、長い間僕の中で、沈殿したままであった。これ等のことを、全く忘れていたのではない。本屋へ立ち寄るたびに、僕は、無意識に小説「日本橋」を探していたし、泉鏡花の挿絵集が出版されていないかと探し回っていた。その証拠に泉鏡花の単行本や紹介本全集等を買ってきては、その幾つかを手にするようになった。しかし、

泉鏡花の文章は、視覚的な漢字が多い独特な文体で、その読書は、遅々として進まなかった。

泉鏡花の小説の真骨頂とも云える作品は、幻想譚の幻想と怪奇の物語であり、その世界の面白さに関心が集中するなか、その単行本が出版されたのは、1953年のことで、これは久しく絶版となっていたこともあり、小説「日本橋」は、僕の中から忘れられていた。その復刻版が、2010年の春出版され、それを書店の店頭で見つけ、沈殿していた疑問が再び

蘇えり、一気に読むことになった。日本橋は、泉鏡花晩年の作品で、怪奇小説ではなく

日本橋に住む芸姑と客をめぐる愛憎の物語であり、詩人の佐藤春夫は、その解説の中で、「日本橋は、教防日本橋の美的詩誌であると同時に鏡花の恋愛論乃至愛情一般についてのお談義である。」と述べている。僕はこの小説を何度も読み直し、あの「日本橋に出る女の幽霊」の場面がどこであるのかを捜し求めた。しかし、物語の本筋の中に、幽霊は現れてこない。

幽霊の話しは、物語の舞台の背景となる風景の中にでてくる。「~露地の細路駒下駄で~」の唄に示される場所、露地の細路で、寒空の夜に、そこで不幸な死に方をした芸姑の幽霊があるく駒下駄の響きがする、この風景を描いたのではないかというのが、僕の推測である。

しかし、十数年、僕はどうしてあの絵に引かれたのであろうか、泉鏡花の作品は、怪奇幻想譚が多いが、そこでは、日常と非日常が、紙一重に連なっている。日常の明るい日差しが、一転すると闇の世界につながっている。それが、性の不思議さでもあるし、この世の面白さでもある。全くの異界ではなく、日常の一部にふと顔を出す異界の兆し、それは異界への入り口乃至異界と現世の境界に出来た隙間、僕は、ここに惹かれたかも知れない。全たき異界の絵ではなく、普通の風景である日本橋、人通りが多ければ、現世そのものである風景に、ただ1人の女を描くことによってそこに非日常の感じを表現する。僕が感じた奇妙な感覚は、今では、この絵によって描かれた日常と非日常の境界つまり異界への入り口によって引き起こされたもののように思える。        完