甲烏賊

その話しを僕は友人のMから聞いた。上野の駅から歩いて十分程の蕎麦屋での話しである。「日本人に生まれてよかったと思うことは多々あるが、蕎麦屋で酒を飲むときこそ、まさにそう感じる最高の幸せの瞬間だ。う」と書いたのは、芝浦工大教授の古川修氏であるがその楽しみを理解してくれる数少ない友人が、幼馴染のM君であった。ここ数年会っていなかったが、年明けて、彼が上京してきて、以前一度行ったことのある蕎麦屋へ行き、昼間の酒でも飲もうといことになり、蕎麦屋で、一息ついたとき、その話が出てきた。

「実は、昨年の十一月のことなのだが、本当に驚かされる経験をした。」と神妙な表情で語り始めた。彼の話は、次のようなものであった。定年後の彼は、数年前から、知人に誘われて、チヌ(黒鯛)のイカダ釣りをしている。イカダ釣りは、海の上に浮かべたイカダの上でする魚釣りであり、イカダは、五メートル四方の広さで、屋根付きで、机やトイレもある。釣り人は船宿の船頭に、朝そこまで船で送ってもらい、夕方迎えに来てもらうシステムになっている。その日も仲間と共に早朝まだ暗い五時名古屋を立ち、釣り場の志摩半島の鵜方浜についたのは、午前七時三十分過ぎであった。無論途中で、いつものように、魚のエサやコマセの団子の材料、当日一日の飲み物と食料を仕入れてのことである。11月の半ばの平日は、釣り客も少なく、自由に場所とりが出来たので、比較的風の影響の少ない場所のイカダを選び、そこに運んでもらった。その日は、中潮で、午前八時頃と午後七時頃が満潮であり、着いた直後と潮目が変る干潮の前後の午後2時頃が魚の動きが活発となる釣りのチャンスとなるはずであった。

チヌ釣りは、忍耐の要る魚釣りで、魚の活性が強いときには、エサ取りと称する本命以外の魚に妨害され、本当のチヌが釣れるチャンスは、ほんの一二度のことである。チヌ釣りでは、そのチャンスのために黙々とエサをとり代える作業続ける。チヌが本命であるが、時期により、鯵がつれたり、キスがつれたりする場合があり、その日の都合により、こうした獲物狙いに軌道修正することもある。

その日は、魚の活性が弱く、アタリも少なく午前中数匹の鯵を釣上げただけで、帰りの船が迎えにくる午後四時まで、あと一時間となった頃である。大きな曳きがあり、サオを上げるとドーンと重い手ごたえがあった。期待をもって引き上げると奇妙な形の烏賊がかかっていた。それが、甲烏賊であった。コウイカ(英: Cuttlefish、甲イカ)は(イカ、タコ、オウムガイが属する)頭足綱の、コウイカ目の海洋生物で、体内に殻(イカの骨)があり、これが甲羅のようであるため、こう呼ばれている。

甲烏賊を釣上げているとき、もう一本のサオが動いたので、近くのSさんにそのサオを上げてくれるように頼んだのだが、結果的には、隣りのサオは、甲烏賊のかかったサオと糸が絡まっていただけであった。期せずして、Sさんは、M君が釣上げた甲烏賊を目の前にみることになった。Sさんが、目の前の甲烏賊に手をかけ、つかもうとした瞬間。「ヒャー」Sさんが素っ頓狂な声を上げた。その烏賊が、シューと海水を吹き出し、それに続いて真っ黒な墨を吐いたのである。烏賊は、イカダの上に投げ出され、逃げようともがく。Mはそれを押さえ込もうとするが、ヌルヌルした体のせいでなかなか押さえ込めない。イカと格闘したのは、ほんの数秒間であったが、その間、イカは、墨を吐き続けて、イカダの上を黒く汚し続けた。

ようやく取り押さえて、網篭に入れてからもイカは墨を吐き続けていた。その後も釣りは続いたが、その後は、たいしたアタリもなく、その日の釣りは、これでほぼ終わりとなった。午後四時に迎えの船がきて、船着場について、そこで獲物を分けることになり、Mは、氷を譲ってもらって、その上にイカを乗せた。そのときイカはかなり弱っており、身動きすらしなかった。船宿で支払いを済ませて、そこを出たのは、午後五時で、既に周りは薄暗かった。それから途中に二度の休憩をして、その一つで夕食をすませ、家についたときには、午後九時を過ぎていた。

釣った獲物は、その日の内に捌いておくのが、原則であるので、台所にクーラーを持ち込み、開いてみて「あっ」と驚いた。一瞬何が起こったかわからなかった。クーラーボックスの中が、真っ黒になっていたのである。それは、膨大なイカの墨であった。甲烏賊は、クーラーボックスに入れられてから、全生命をかけて墨を吐き続けたのであった。それは、不条理な死を迎えることに対する怒りの突出であり、抗議の叫びのように思われた。しかし、既に甲イカは、冷たく硬直して完全に死んでいた。その時、死というものを肉感的に理解できた気がした。この感覚は、どこかで経験したことがある。咄嗟にそう思った。

蕎麦屋の酒では、まずは、板わさ、焼き味噌やたたき海苔などの簡単な酒の肴で、最初の一本を飲み、その後、出汁巻き玉子や天ヌキや鴨焼きなどで、もう一本の酒を飲む。最初の一本が終わり、注文した出汁巻き玉子と天ヌキが出されたのを機に二本目の銚子を注文すると彼の話しは、続いた。

それは、その年の三月末のことで、癌の末期でホスピスに入院していた舅を見舞ったときのことである。その病室で、舅が無意識に手を虚空に差し出すのを見て、一瞬彼の死に対する抗議の叫びを聞いたように思った。その舅は、その二年ほど前に、舌癌と診断されたが、それまで、病気にかかったこともなく九十年を過ごしてきた彼には、それは全く不条理に感じられることで、受け入れがたいことであった。検査入院の一週間の病院の拘束が、彼には耐え難いことであり、「こんなところにいては、病気になってしまう」といい続け、舌癌と診断されたときも、その事実は、受け入れがたいものであった。彼は、病院へ行けば、医者が簡単に直してくれるべきであると確信していて、そのような期待に答えてくれない医者にいらだっていた。いよいよ治療の話しとなり、手術か放射線治療か抗がん剤治療かの選択を迫られる事態となっても飲み薬程度で治ることを望んで、憤りを周囲にぶっつけていた。医者もそんな彼をなだめあぐねていた。

結局通院で放射線治療をおこなうことになり、自分で、汽車にのり、歩いて病院にゆき、治療を続けた。その治療も限界となり、抗癌剤や痛み止めを使用するようになっても彼の病院嫌いは止まず、入院を余儀なくされてからも、帰宅申請をして、家に帰りたがり、あるときは、無断で病院を抜け出し、大目玉をくらったこともあった。その彼が、死の半年前、最後の旅行に行きたいといい、二泊三日の北海道旅行に付き合ったことがあった。この旅行の途中、彼は、有珠山の見学で、駐車場から火口までの約1・八.キロを元気に往復したほどである。

その彼が、病院に入院するようになったのは、それから二ヶ月半ばかりたった正月早々のことである。自宅での痛み治療が限界にきたのと便秘に耐えかねてのことであった。癌の進行は、阻止できていたが、そのままの状態で、次第に体力は無くなっていった。事態が改善しないままに、病院を移るように云われ、最終的には、ホスピスに移った。癌のせいで口臭がひどくなり、便秘のため食欲はなくなったが、当初は、意識はしっかりしており、トイレも自分でゆくことが出来た。もともと耳が遠かったので、会話は不自由であったが、死の一ヶ月程前からは、しゃべることも次第に分かりづらくなった。しかし、意識は比較的はっきりしていた。寝たきりになったのは、死を前にした一週間だけであった。ホスピスに入院し死を覚悟するようになってからも、感覚的に死は、彼にとって、不条理なこと、受け入れがたいことであり、そのこと対する憤りや怒りの気持ちがあり、その感情をイカが墨を吐くように周囲に発散し続けていたように思う。

リルケは、「マルテの手記」の中で、侍従職であった祖父ブリッゲの「放埓無体に暴れまわる死」について語っているが、この甲イカの死には、それに劣らぬものを感じた。今まで何度も死に立ち会う経験をしたが、このような死は、初めて経験した。

Mは、二本目の銚子を空にしつつそう語った。僕は、クーラーボックスの中にあふれる墨と甲イカの怒りを思うと恐怖を感じた。「ところで、その甲イカをどうした。」僕はおそるおそる聞いてみた。「無論頂いたさ」Mはサラリと云ってから次のように言葉を継いだ。イカの墨の量は多く、クーラーボックスの中を何度も洗った。このイカをどうすべきか一瞬考えたが、おいしく頂くことが、イカの供養になると即座に思った。甲イカは、その日の内に刺身にしたが、さすがにその日食べるのはやめ、翌日一人で食べた。甲イカの怒りは、釣上げた自分が、その責任において受け止めるべきと思ったからだ。

蕎麦屋の酒の締めくくりは、そば切りで終わる。注文した三本目の銚子に手をつけ、注文したそば切りを食べながら、話しは、EUの金融危機などの経済社会問題へと移っていった。やがて、彼は、新幹線の発車時刻が近づいてきたといい、店を出で、上野駅で別れた。

帰りの電車の中で、僕は、目の前一杯に広がる墨の海を思った。         完  (2012年7月まきば7号より)

 

生の源流をたどって―追憶と姉―

追憶とは、過去の出来事を思い出すことであるが、人は、自分の記憶をどこまで、辿ることが出来るのか。

二年程前、中学の同級生と六十年前に住んでいた田舎の家の跡を尋ねたことがある。かつて自分が住んでいた家と周囲の風景、それをもう一度目にしたかったためであるが、その期待は、完全に裏切られてしまった。家が跡形も無くなっているばかりか地形も木々もまるで異なってしまっていた。目を瞑れば、すぐに思い出す竹薮や柿の木や小道や池までもが無くなっていて当時の面影を残すものは、何も無くなっていた。近くで畑仕事をしている老婦人と話して分かったことは、彼女が、小学校の同級生の兄嫁で、私が小学校に上がったとき、隣家へ嫁にきた人だったということである。今や自分の生い立ちに係わるものは、自分の記憶の中にしか存在しないことを痛切に感じた瞬間であった。

人は、自分がこの世に生きていることを、何時から覚えているのだろうか。女二人、男三人の末っ子として生まれた私の生の初期の記憶は、二人の姉と密接に関連している。生まれて最初の記憶は、下の姉に背負われていた。八歳年上のこの姉は、私をおぶって、家から五十メートル程離れた当時「とらさん」と呼ばれていた人の屋敷の北西の角にある溜め池の横の三叉路で友達と立ち話をしていた。延々と続くおしゃべりが、内容の理解できない私には、たまらなく退屈で、背中で、暴れていた。下の姉が、小学校の五、六年生の頃であるので、私の二,三歳の頃、多分、昭和二十年か二十一年の冬のことである。

次の記憶では、私は、自転車の荷台に摑まって上の姉と林の中を走っていた。風は暖かく、さわやかであり、五月頃と思われる。十二歳年上の姉は、数人の仲間と共にどこかへ行こうとしていた。微かに歌声も聞こえていたような気がする。戦時中、愛知時計の工場が、疎開して近くにあったと聞かされたことがあり、上の姉も一時、そこに通ったことがあるらしい。これは、その当時の記憶で、多分私の三歳頃のことである。

名古屋の港区に住んでいた私の一家は、終戦の年、先祖代々住んでいた春日井の山里に親戚を頼って疎開してきた。六畳と八畳の二間の家に、祖母と母と叔母と子供三人の六人が住んでいた。父は、名古屋の家に残っており、上の姉もここに残っていたためである。私の中には、父の記憶は無い。終戦の少し前、名古屋で病死したためである。四十九歳であった。

疎開して住んだ家は、遠縁の家の馬小屋を改造した建物で、その八畳間の部屋には、天井がなく梁がむき出しになっていた。あるとき、数人の人が現れ、家の横にトタン葺きの建物を増築してくれ、そこに、お勝手場と風呂桶がすえつけられた。勝手場と風呂桶は、立派な食器棚で区切られたが、その食器棚は、名古屋から運んでいたものだった。その食器棚の引き出しの中には、ナイフやフォークやスプーン等料理屋であった名古屋の家の名残が詰まっていた。少し高台にあったその家には、水が無かったため五十メートル程離れた家の湧き水をもらっていた。風呂に入るためには、五十メートル離れたところからバケツで、何回も水を運んでくる必要があった。一、二年した頃、井戸堀の人が二人で現れ家の前に、井戸を掘った。七、八メートルで、水が出て、手押しの水汲みポンプが取り付けられた。水運搬の労働から解放された瞬間であった。

勝手場と反対側には、間口半間程の物置場があったが、その外側に、同じ幅でトタン葺きの鶏小屋も造られた。明治二十三年生まれの祖母は、代々神社の世話をしている神道の家柄の出で、当時珍しく、女子で尋常小学校を卒業しており、読み書きもできる気位の高い人であった。この祖母が、実家に預けてあった畑を返してもらい、そこで農業を始めた。また、家の横の空き地を耕して野菜畑とした。鶏小屋で、鶏を飼い始めたのも祖母であった。

この祖母の引くリヤカーに乗せられて今は、造形大学の敷地となっているこの畑へ出掛け、幼い私は、祖母の働く姿を畑の傍らで眺めていた。母は、父に代わって現金収入を得るために、手袋を編みの内職など様々な仕事をしていて、幼い私には、遠い存在であった。こういったことは、すべて小学校に上がる前の出来事で、家の改造や増築に手を貸してくれたのは、隣村に住む祖母の姉の連れ合いの友平さんだった。

小学校は、部落の中に分校があり、一、二年生までは、この分校で、三年生になると歩いて三十分程かかる岡の上の本校に通うことになっていた。入学式は分校で行われ、祖母が付き添ってくれた。その日の身体検査で、虫歯の無い子が十名おり、その子達が、黒板に10と書いた。私もその一人であった。二年生の学芸会の時の私の台詞は、「今年は、昭和二十七年、いよいよ日本独立の年」というものであった。

中学校は、小学校の本校の隣りにあった。本校に通うようになって間もなくのことである。中学校の学芸会を見学することがあった。何故か、下の姉が、私のところに来て、会場の講堂に案内してくれた。その時演じられたのは、「修善寺物語」の一節で、伊豆に流された源頼家に面の制作を依頼された能面師とその娘の物語で、その能面師が、何度面を打っても、そこに死相が出てしまうため、面を届けることが出来ない。それを責められる父親を見かねて、娘が代わって許しを請う。「お待ち下さい。面は、確かに出来ております。」この娘の役を姉が演じていた。何故か、この場面が、絵画の映像のように記憶に残っている。高校生まで、私の身近にいたのは下の姉であった。上の姉を身近に感ずるようになるのは、私が大学生になってからのことである。

その二人の姉は、もう居ない。下の姉は、母と祖母が亡くなってまもなく、五十三歳で亡くなり、上の姉も私の定年前、六十九歳で亡くなった。しかし、この二人が、私の生の原点とも云える記憶に繋がっているせいか、今でも身近に気配を感ずることがある。

定年の二年程前、東京で単身赴任で働いていた頃、全社的なプロジェクトの責任者をやり、心身共に疲れ、風邪で、一人社宅で寝込んでいたとき、突如二人のことが思い出され、背中を誰かに暖かく支えられている感覚を持ったことがあり、その後、急速に元気になったことがあった。 その時、私は、二人から見守られているかも知れないと、ふと思った。いつか二人の絵を描いてみよう。そしてその眼差しの彼方に、自分の生の源流を描きたい。そう思うようになった。彼女達の最も輝いていた時期を描こうとしたその絵はなかなか完成しなかった。次女がようやく子供を授かってお産ののために帰ってきたとき、二人の姉に安産の願いを託して、その絵を描きあげた。描き始めて7年が経過していた。しかし、この絵は多分これで完成したのではないのかも知れない。自分の生の源流を見つめる作業に終わりがないようにつ。            完