生の源流をたどって―追憶と姉―

追憶とは、過去の出来事を思い出すことであるが、人は、自分の記憶をどこまで、辿ることが出来るのか。

二年程前、中学の同級生と六十年前に住んでいた田舎の家の跡を尋ねたことがある。かつて自分が住んでいた家と周囲の風景、それをもう一度目にしたかったためであるが、その期待は、完全に裏切られてしまった。家が跡形も無くなっているばかりか地形も木々もまるで異なってしまっていた。目を瞑れば、すぐに思い出す竹薮や柿の木や小道や池までもが無くなっていて当時の面影を残すものは、何も無くなっていた。近くで畑仕事をしている老婦人と話して分かったことは、彼女が、小学校の同級生の兄嫁で、私が小学校に上がったとき、隣家へ嫁にきた人だったということである。今や自分の生い立ちに係わるものは、自分の記憶の中にしか存在しないことを痛切に感じた瞬間であった。

人は、自分がこの世に生きていることを、何時から覚えているのだろうか。女二人、男三人の末っ子として生まれた私の生の初期の記憶は、二人の姉と密接に関連している。生まれて最初の記憶は、下の姉に背負われていた。八歳年上のこの姉は、私をおぶって、家から五十メートル程離れた当時「とらさん」と呼ばれていた人の屋敷の北西の角にある溜め池の横の三叉路で友達と立ち話をしていた。延々と続くおしゃべりが、内容の理解できない私には、たまらなく退屈で、背中で、暴れていた。下の姉が、小学校の五、六年生の頃であるので、私の二,三歳の頃、多分、昭和二十年か二十一年の冬のことである。

次の記憶では、私は、自転車の荷台に摑まって上の姉と林の中を走っていた。風は暖かく、さわやかであり、五月頃と思われる。十二歳年上の姉は、数人の仲間と共にどこかへ行こうとしていた。微かに歌声も聞こえていたような気がする。戦時中、愛知時計の工場が、疎開して近くにあったと聞かされたことがあり、上の姉も一時、そこに通ったことがあるらしい。これは、その当時の記憶で、多分私の三歳頃のことである。

名古屋の港区に住んでいた私の一家は、終戦の年、先祖代々住んでいた春日井の山里に親戚を頼って疎開してきた。六畳と八畳の二間の家に、祖母と母と叔母と子供三人の六人が住んでいた。父は、名古屋の家に残っており、上の姉もここに残っていたためである。私の中には、父の記憶は無い。終戦の少し前、名古屋で病死したためである。四十九歳であった。

疎開して住んだ家は、遠縁の家の馬小屋を改造した建物で、その八畳間の部屋には、天井がなく梁がむき出しになっていた。あるとき、数人の人が現れ、家の横にトタン葺きの建物を増築してくれ、そこに、お勝手場と風呂桶がすえつけられた。勝手場と風呂桶は、立派な食器棚で区切られたが、その食器棚は、名古屋から運んでいたものだった。その食器棚の引き出しの中には、ナイフやフォークやスプーン等料理屋であった名古屋の家の名残が詰まっていた。少し高台にあったその家には、水が無かったため五十メートル程離れた家の湧き水をもらっていた。風呂に入るためには、五十メートル離れたところからバケツで、何回も水を運んでくる必要があった。一、二年した頃、井戸堀の人が二人で現れ家の前に、井戸を掘った。七、八メートルで、水が出て、手押しの水汲みポンプが取り付けられた。水運搬の労働から解放された瞬間であった。

勝手場と反対側には、間口半間程の物置場があったが、その外側に、同じ幅でトタン葺きの鶏小屋も造られた。明治二十三年生まれの祖母は、代々神社の世話をしている神道の家柄の出で、当時珍しく、女子で尋常小学校を卒業しており、読み書きもできる気位の高い人であった。この祖母が、実家に預けてあった畑を返してもらい、そこで農業を始めた。また、家の横の空き地を耕して野菜畑とした。鶏小屋で、鶏を飼い始めたのも祖母であった。

この祖母の引くリヤカーに乗せられて今は、造形大学の敷地となっているこの畑へ出掛け、幼い私は、祖母の働く姿を畑の傍らで眺めていた。母は、父に代わって現金収入を得るために、手袋を編みの内職など様々な仕事をしていて、幼い私には、遠い存在であった。こういったことは、すべて小学校に上がる前の出来事で、家の改造や増築に手を貸してくれたのは、隣村に住む祖母の姉の連れ合いの友平さんだった。

小学校は、部落の中に分校があり、一、二年生までは、この分校で、三年生になると歩いて三十分程かかる岡の上の本校に通うことになっていた。入学式は分校で行われ、祖母が付き添ってくれた。その日の身体検査で、虫歯の無い子が十名おり、その子達が、黒板に10と書いた。私もその一人であった。二年生の学芸会の時の私の台詞は、「今年は、昭和二十七年、いよいよ日本独立の年」というものであった。

中学校は、小学校の本校の隣りにあった。本校に通うようになって間もなくのことである。中学校の学芸会を見学することがあった。何故か、下の姉が、私のところに来て、会場の講堂に案内してくれた。その時演じられたのは、「修善寺物語」の一節で、伊豆に流された源頼家に面の制作を依頼された能面師とその娘の物語で、その能面師が、何度面を打っても、そこに死相が出てしまうため、面を届けることが出来ない。それを責められる父親を見かねて、娘が代わって許しを請う。「お待ち下さい。面は、確かに出来ております。」この娘の役を姉が演じていた。何故か、この場面が、絵画の映像のように記憶に残っている。高校生まで、私の身近にいたのは下の姉であった。上の姉を身近に感ずるようになるのは、私が大学生になってからのことである。

その二人の姉は、もう居ない。下の姉は、母と祖母が亡くなってまもなく、五十三歳で亡くなり、上の姉も私の定年前、六十九歳で亡くなった。しかし、この二人が、私の生の原点とも云える記憶に繋がっているせいか、今でも身近に気配を感ずることがある。

定年の二年程前、東京で単身赴任で働いていた頃、全社的なプロジェクトの責任者をやり、心身共に疲れ、風邪で、一人社宅で寝込んでいたとき、突如二人のことが思い出され、背中を誰かに暖かく支えられている感覚を持ったことがあり、その後、急速に元気になったことがあった。 その時、私は、二人から見守られているかも知れないと、ふと思った。いつか二人の絵を描いてみよう。そしてその眼差しの彼方に、自分の生の源流を描きたい。そう思うようになった。彼女達の最も輝いていた時期を描こうとしたその絵はなかなか完成しなかった。次女がようやく子供を授かってお産ののために帰ってきたとき、二人の姉に安産の願いを託して、その絵を描きあげた。描き始めて7年が経過していた。しかし、この絵は多分これで完成したのではないのかも知れない。自分の生の源流を見つめる作業に終わりがないようにつ。            完