神と神話をめぐって

もう、27年ほども前、東京に出張したとき会社のある飯田橋の本屋へぶらりとよった私は、その新刊書のコーナーで、「はじめてのインド哲学」と云う現代新書を手にして、どこか記憶の中にあるような名前に出会った。立川武蔵というその著者の略暦を確認して、数十年前のある夏の日の記憶か゛鮮やかに蘇ってきた。

それは、僕が大学2年の夏のことで、僕は、友人のKと学生会館の一角で、その立川武蔵さんと話し合っていた。大学に入学して、早くもマルキシズムの洗礼を受けていた僕は、入学して一年半の間に、はやくもいっぱしの唯物論者になっていた。高校生時代、倉田百三や西田哲学に惹かれていた僕は、大学に入ると共に、今度は、鮮やかに唯物論者に転向していた。その僕と哲学論争をしていた友人がKで、クリスチャンの家に育ったKは、聖書研究会かなんかを通じて、立川武蔵さんと知り合い、僕を引き合わせたのだった。

彼の真意がどこにあったのかは忘れてしまったが、そのときの話のテーマは、神と宗教についてであった。当時の存在や宗教を真っ向から否定する僕に、彼は、かれが問題にしているのは、神とはなにかではなく「神とは何かを問うている人間とはなにか」という問いかけこそが、哲学又は宗教の課題であるといい。「君は、反宗教的というより非宗教的な人間だね」とポツリと語った。夏の日差しの中で交わされたこの会話は、その後ずっと僕の心の奥に沈殿したままになっていた。

当時彼は、インド哲学を勉強していたといっていたが、その「はじめてのインド哲学」を中で、僕は始めて、彼があれから文学部の大学院に進み、その後アメリカのハーバード大学の大学院へ進み、そこでph.Dの資格をとり、名古屋大学の教授へ経て、国立民族学博物館の教授になっているのを知った。あのマルクス主義と唯物論の全盛時代に、彼は、インド哲学にキチンと照準を合わせ、ヨーガを実践するなど知と体験を通じての努力を続けており、その道が現在まで、続いていることを思って、僕は、目眩にも似たある種の清清しい感動を覚えた。

それは、この二十年間の僕の思索の中心テーマが、仏教や神秘主義と宗教体験をめぐる問題であったことと関係していたせいでもあった。宗教や神話と人間をめぐる問題は、マルクス主義に変わる歴史観を模索する中で、トインビーの歴史の研究を再読したり、エリアーデ等の宗教学に関する研究書を読んでゆく内に、序々に自分の中で明確な形で一つの認識を僕にもたらしつつあった。宗教とは何か、神話とはなにかそしてそれらは人間にとってどんな意味があるのかについて簡単にまとめてみたいとおもう。

人間は、世界を眺めるのに、自分なりに秩序づけて、理解しようとする。この場合、現実の世界は、何の意識もなしに眺めれば、ただ無秩序な現象の集まりにすぎないが、こうした無秩序な世界に秩序をもたらすものが、神や仏の概念であるのかも知れない。つまり

神は、遠近法で描かれた風景画の中の焦点に似ている。つまり、焦点の存在が、その風景に秩序を与え、それに美を与え、人を感動させることになる。

人間は、本質的に無秩序な世界の中にあって、その中を居心地よくするための壮大な知の仕組みをつくり上げて生きている。これらの知の仕組みの焦点となるものが神つまり普遍的な中心となる仮想の存在である。しかし、この仮想的存在は、世界に秩序を与える存在であるので、ある意味では、実在の存在でもある。社会が安定しているときこれらの観念も安定しているが、社会に変動が生ずるとこの観念にも変動が生ずる、ある局面では、観念の変動が現実の変動を誘導する。かくして、トインビーが語るように文明の衰退期には、その文明の象徴としての神の衰退をもたらし、その文明から離反する周辺から新しい価値観が生まれ、これが新たな秩序をもたらすにつれて、その価値観を担う新たな神が

新たな宗教を誕生させる。混沌がおさまり、安定期が訪れるとその秩序を象徴する価値体系が定まり、これがその文明の価値観としてひとつの知的観念体系を成長させる。

つまり、新たな文明や宗教の誕生は、風景の中に新しい焦点を設定する作業に似ている。

人間は、ある方向に行き詰まると別の方向へ歩き出そうとするが、その方向風景には、新しい焦点が必要でありその焦点を定める存在が、予言者であり、教祖であり、思想家であり、詩人であり芸術家、哲学者ではなかろうか。そして、行く手の世界が、新たな焦点

によって美しい風景画のように見え始めたとき民衆はそれらに支持を与え、新しい文明が

成長し始めることになる。                    以  上

 

 ――西行のもののあわれをめぐって――

「この文明は亡びるな・・・」今の社会に関する漠たる予感が突如言葉の形をとって脳裏に浮かんだのは、2005年11月の中国旅行で、香港島の頂から香港の夜景を見たときであった。超高層ビル群のネオンに彩られた夜景それは、莫大なエネルギー消費を伴うあまりに人工的で、きらびやかな光景であった。こうした、感想をもったのは、今回だけではなかった。

1980年代のバブルの絶頂期、土地神話と株価の高騰で、皆がばら色の未来を夢見ていた時期、古くからの友人と東京六本木の居酒屋で一杯飲んで、高層ビル群のネオンサインを眺めて帰途につきながら、「こんなこと続くはずがないね」どちらとも無く語りあったときも、同じような漠たる不安の中にあった。

市場経済化とグローバル化の流れの中で、地球が何億年もかかって蓄積してきた化石燃料の浪費を基盤とする現代文明に、未来がないことは誰の目にも明らかなはずなのに、この現実に対して、効果的な対策は何もなされていない。1974年にローマクラブが「成長の限界」を発表し、人類の危機を訴えてから事態は悪化するばかりである。

数十年先のことなど多くの人達にとっては、関係が無いことで真剣に考える人は、一万人に一人もいない。つまり、民主主義は、将来的な危機に対しては極めて応答が悪い制度といえる。亡びの兆候がはっきりとしていても、個人にこの流れを止めることは出来ない。

この感覚をどう表現するかで、悩んでいたとき、自然と脳裏に浮かんだのは、西行の次の歌であった。「こころなき身にも哀れは知られけり、鴫立つ沢の秋の夕暮れ」そしてその夜夢の中で、突如この歌の意味が、はっきりと分ったと思った。この光景は、沢に一羽立つ鴫が秋の夕暮れを見ている。このこころなき身の鴫は、西行そのものだ。この鴫は、秋の夕暮れを見ている。秋の夕暮れは、一年の終わりの夕暮れであり、これは、多分西行の目からは、貴族文化の亡びの時期で、ほんの短い自分の一生の黄昏を意味している。心を持たぬ鴫が、沢の中に一羽立って、秋の夕暮れを見つめている。あの鴫も哀れを知っている。自分も世間から離脱して一人、王朝文化の亡びの時期に、人生の終末を見つめている。この感情をものの哀れと表現した。僕には、そう思えた。

そして、僕の作った歌「雲去りてふるえる秋の夕暮れに、宵の月影みる人ぞなし」

「脳とこころ「の問題を研究している茂木健一郎「クオリヤ入門」という本を何気なく

書店で、買ったのは、彼が理学部物理科の出身でありながら小林秀雄賞を受賞したという点に興味をもったからであったが、彼に云わせると人間は皆、自分を通してしか世界を見られない。そして個々人は、孤立した存在であるが、歴史的に蓄積して来た文化や言語により自分の中に仮想の世界をつくって生きている。そしてこの言語や文化によって他者と係わるがこのことは時空を超えて他者とも係わることを意味する。このことにより、人間は、孤立しながら孤独ではない。西行の読んだ「もののあわれ」は一千年の時空を超えて僕のこころの中に伝わったといえる。

 

―定年後から始めた謡曲と私―

「定年後に謡曲を習い始めた」と云うと、ほとんどの人が怪訝な表情を示す。その中には、謡曲とは何かについての基本的なことが分らぬ戸惑いもあれば、いまさら謡などに興味をもつことの不可解さに対する戸惑いもある。謡曲とは、能の謡いと台詞の部分を取り出したものである。織田信長が、桶狭間の合戦に出掛けるときに、「敦盛」を謡い舞う場面があるし、結婚式には、高砂の一節が謡われる。では、僕にとっての謡曲とは何か、そこにどんな出会いがあったのか。

もう55年も前、大学1年生のとき、県女の大学祭で、初めて謡いの場面に出会った。はかま姿の女子大生が、扇を前に垂らして端正に座って集団で謡う姿にいたく心を動かされたが、これはその集団の中に高校時代の文学仲間のマドンナ的存在であったT子さんの姿があったせいかも知れない。この文学仲間は、今から思えば、僕を除き比較的恵まれた家庭の子女が多く、高校生ながらクラッシックだけでなくジャズやイタリヤの歌曲に親しみ音楽喫茶やジャズ喫茶に出入りしたりする多分に知的で大人びた個人的な繋がりの連鎖といった緩やかな関係で結ばれていた。大学入学の当初、同人誌「砂漠」を発行していた文学サークルに加わり、大江健三郎や阿部公房といった当時新進の作家についての先輩達の議論を聞きながら、村野四郎の詩人論等が掲載された同人誌に刺激を受けたりしていたが、政治の時代の潮流の中で、こうした文学的な環境から次第に遠ざかることになった。

僕が、再び謡曲と出会うには、長い政治の時代とその後の荘子や仏教、キリスト教神秘主義、トインビー等の文明論等との出会いと格闘の長い道のりが必要であった。思想として生死の問題を考える中で出会ったのが、朝日選書として出版された田代慶一郎の「謡曲を読む」の中にある「文学としての謡曲」の一文であった。謡曲をギリシャ悲劇やシェクスピアの戯曲との対比で捉えたこの一文によって、僕の中には、謡曲への憧れが一気に芽生えた。そして、ここ十数年ばかり前、狂言や能の案内のチラシの中に懐かしい大学時代の文学サークルの仲間であった狂言師の佐藤友彦の名前を見つけ、彼が狂言師の家元の生まれであったのを思い出し、能や狂言の舞台を見に行くようになってから、狂言、能、謡曲が、日常的な身近なものと感じられるようになった。

そして定年の数年前、たまたま泊めてもらった友人の家で、謡いの和紙の教本をはじめて手にとって、伝統の持つ不思議な魅力にとりつかれた。謡曲「隅田川」を聞いて涙が流れ、こんなすごいものが日本にあったかと感動したのが、謡曲を始めたきっかけであったとは、その友人の話である。

そして定年後、ある技術者の集まりで、50年近く謡曲を習って名誉師範の資格を持つ人が、先輩の跡をついで、ある謡曲の会の先生をすることになったとの話を聞いて、早速弟子入りすることにした。月2回の個人レッスンを受けるようになってはや5年目になる。謡い7年、舞3年といわれその半分の時間が過ぎた。30年以上習っている人達に囲まれてようやく10曲ばかりを習い終えた。謡曲は、全部で250曲あまりあり、この調子では、全て習うには、100年かかることになる。近頃は、月一回の謡いのサークルにも加わるようになった。練習のためのツールもテープレコーダー、ICレコーダー、ICウォークマンと進化しつつある。歴史と文化を凝縮した言葉、無駄のない台詞、七五調一句を八個拍子にはめる平のり等の日本語の特徴を生かした拍子法、喜怒哀楽の妙を表す深い音階等、洗練された文化の極としての謡曲の世界は、生者と死者の出会いの世界であり、古今東西、春夏秋冬、森羅万象の多次元の時空を超越した宇宙である。謡うことは、自らが主体となって人間世界を詩的に時空間旅行することである。今になって思えば、この日本文化の最も洗練された感性を共にする人が少ないのが残念でならない。能観賞の後で、その感想を魚に、古酒を酌み交わし、人生と生死をしみじみ語り合えるならそれに勝る楽しみはない。同好の士よ、来たれ。

――忘れられなない手帳の記録・・スペイン戦争と思想をめぐって――

もう30数年も前のことになるが一つの新聞記事についていたく感動し、その感想を手帳に書きとめたことがある。この手帳は、引越しや整理のたびごとに捨てようとしたが、この中に書いたその感想を読み返すたびに、そのときの感動がよみがえりどうしても捨てられなかった。その手帳は、最後には、表紙とその感想文だけとなり、今手元にある。記事に感動した私は、その著者に向けて手紙を出す気持ちで、その感想を書いた。以下はその内容である。

スペイン戦争について

1985年3月26日

拝啓 法政大学教授 川成 洋様

1985年3月26日(火)付けの朝日新聞にあなたが発表された「スペインで戦死した無名の日本人ジャック白井の足跡たどって」と称する一文を読み貴重なる御研究に思わず感動しました。この一文の中で、何よりも私を感動させたのは、50年近くを経てもなお且つ若き日の思想を持ち続けて集まってきた元義勇兵達の存在とその持続せる思想の輝きです。ここに焦点を合わせて貴重な取材結果を発表されたあなたの視点に心から敬意を表するものであります。一人の人間が一つの基本的な観点、それは、リンカーン大隊の隊長だったミルトン・ウルフの「われわれは、未熟な反ファシストだった。今でも同じだ」の言葉に集約されるが、このような観点を貫くことあるいは貫ける思想を持つ事の困難さと素晴らしさに心から感動すると共に、この50年間の歴史の中に美しく光を掲げ続ける一群の人達がいたことを知り、これらの人達と同じ時代に生きた一時期を持てたことを心から喜ぶものであります。

私の中のスペイン戦争は、頭の中の歴史のひとコマでしかありませんでした。しかし、あなたの報道に接し、それらの歴史が、50年の時空を超えて突如私の日常生活に訪れたような衝撃を受けました。今私の中には、これらの人々のことが、その言葉が、思想が、帰還後のその生活と戦いが想像され、1日でも早く、これらの人々の真実に接したい思いで一杯です。2月24日、サンフランシスコの隣の町オークランドで上映されたドキュメンタリー映画「果敢なる闘争」とはどんな映画であったでしょうか。

そして50年の歳月を経てもなお、連帯を感じさせるリンカーン大隊の仲間とそれを結びつける思想とは、何だったのでしょうか。その思想の根本には、今日の我々が失いつつあり、しかも失ってはならない熱いものがあるように思えてしかたがありません。サラリーマンとしての仕事に毎日追われる経済大国日本の中で、一見平和な生活を送っている41歳の私も20年前には、「未熟な反ファシスト」でありました。そしてこの私とて「今でも同じ」です。しかし、残念ながら集まるべき仲間はいず、一人の孤独な「未熟な反ファシスト」にしかすぎません。しかし、あなたの一文によって、遠く離れた世代の中に同じ仲間をみつけ、心から励ましを受けた次第です。無名の日本人ジャック白井のことに関する探索を続けられ、貴重な研究結果を発表して下さるよう心からお願い申しあげます。

敬具

()ジャック白井(1900年?-1937年7月11日)は、スペイン内戦において人民戦線・共和国側の国際旅

団に志願入隊して参戦、戦死した日本人義勇兵。北海道函館市出身。生まれてすぐに両親に捨てられ、孤児院で育ったということだが、その前半生は謎に包まれている。

詳細『スペイン戦争―ジャック白井と国際旅団』 朝日選書 川成 洋