「この文明は亡びるな・・・」今の社会に関する漠たる予感が突如言葉の形をとって脳裏に浮かんだのは、2005年11月の中国旅行で、香港島の頂から香港の夜景を見たときであった。超高層ビル群のネオンに彩られた夜景それは、莫大なエネルギー消費を伴うあまりに人工的で、きらびやかな光景であった。こうした、感想をもったのは、今回だけではなかった。
1980年代のバブルの絶頂期、土地神話と株価の高騰で、皆がばら色の未来を夢見ていた時期、古くからの友人と東京六本木の居酒屋で一杯飲んで、高層ビル群のネオンサインを眺めて帰途につきながら、「こんなこと続くはずがないね」どちらとも無く語りあったときも、同じような漠たる不安の中にあった。
市場経済化とグローバル化の流れの中で、地球が何億年もかかって蓄積してきた化石燃料の浪費を基盤とする現代文明に、未来がないことは誰の目にも明らかなはずなのに、この現実に対して、効果的な対策は何もなされていない。1974年にローマクラブが「成長の限界」を発表し、人類の危機を訴えてから事態は悪化するばかりである。
数十年先のことなど多くの人達にとっては、関係が無いことで真剣に考える人は、一万人に一人もいない。つまり、民主主義は、将来的な危機に対しては極めて応答が悪い制度といえる。亡びの兆候がはっきりとしていても、個人にこの流れを止めることは出来ない。
この感覚をどう表現するかで、悩んでいたとき、自然と脳裏に浮かんだのは、西行の次の歌であった。「こころなき身にも哀れは知られけり、鴫立つ沢の秋の夕暮れ」そしてその夜夢の中で、突如この歌の意味が、はっきりと分ったと思った。この光景は、沢に一羽立つ鴫が秋の夕暮れを見ている。このこころなき身の鴫は、西行そのものだ。この鴫は、秋の夕暮れを見ている。秋の夕暮れは、一年の終わりの夕暮れであり、これは、多分西行の目からは、貴族文化の亡びの時期で、ほんの短い自分の一生の黄昏を意味している。心を持たぬ鴫が、沢の中に一羽立って、秋の夕暮れを見つめている。あの鴫も哀れを知っている。自分も世間から離脱して一人、王朝文化の亡びの時期に、人生の終末を見つめている。この感情をものの哀れと表現した。僕には、そう思えた。
そして、僕の作った歌「雲去りてふるえる秋の夕暮れに、宵の月影みる人ぞなし」
「脳とこころ「の問題を研究している茂木健一郎「クオリヤ入門」という本を何気なく
書店で、買ったのは、彼が理学部物理科の出身でありながら小林秀雄賞を受賞したという点に興味をもったからであったが、彼に云わせると人間は皆、自分を通してしか世界を見られない。そして個々人は、孤立した存在であるが、歴史的に蓄積して来た文化や言語により自分の中に仮想の世界をつくって生きている。そしてこの言語や文化によって他者と係わるがこのことは時空を超えて他者とも係わることを意味する。このことにより、人間は、孤立しながら孤独ではない。西行の読んだ「もののあわれ」は一千年の時空を超えて僕のこころの中に伝わったといえる。