太宰治は、1948年6月13日に39歳で亡くなったが、今年は、それから70年経つ。今から14年程前の2004年、友人達と白神山地を訪れたとき、偶然太宰の生家を訪れたが、その感想を、「はらっぱ」という大学時代の仲間との会報に乗せたことがある。これは、その時の文章である。
7月27日、白神山地のブナ林散策の帰途、津軽半島を北上して竜飛岬に到つたが、その途中で、太宰治の記念館である斜陽館を訪ねた。先を急ぐ僕に、「ここまできたら見るものを見なくては」とのたまう女性陣に押されての訪問であったが。400坪もの太宰の生家を復元した屋敷の中を歩き、渺茫たる津軽平野をレンターカーで旅する間に、この北端の陸奥で、権力の象徴とも云える名家に多人数の兄弟の末の方の子として生まれた太宰を思って、久振りに胸の高まるのを感じた。その胸の高まりは、津軽半島を一周して青森駅に着き、青森空港から名古屋空港に到着し、家に落ち着いてから益々大きく感じられた。自分たちが旅した津軽地方とその印象が、作家太宰治(本名津島修司)の中でどのように感じられ、それが現在の自分とどのように繋がっているのか、それを確認したい要求が、ますます強くなった。
そういえば、太宰は、津軽という作品を残しているが、それは、昭和19年太宰が36歳の時、生まれ故郷の津軽を3週間がかりで旅した記録的な作品である。昭和19年は、私が生まれた年であり、それは丁度60年前のことである。記念館の中の陳列物の多くに津島美知子寄贈の札が掛っていたが、それが太宰の奥さんの名前であること作家の津島裕子が、次女の里子であることを始めて知った。一度作品「津軽」を読んで見たい。僕の中で、その気持ちが次第に押さえがたくなり、とうとう作品を手にしたのは、8月の9日久振りに出かけた栄地下の書店でのことだった。太宰の「津軽」の中には、私達が目にした北端の町々に関する記述が、その歴史と風土、それと太宰の少年期の思い出、旅で出会った知人達との会合・会話と共に示されていた。
少し自虐的でユーモアのセンスに満ちたこの作品の後には、作家亀井勝一郎が、その評の中で、これは太宰の前期と後期を繋ぐ作品で、太宰の精神が健全な時期の作品と絶賛していた。
36歳の彼の文章は、わかりやすい文体の割には難しい漢字や言葉が各所に出ており、旧制弘前高校から東大文科へ進んだ秀才の片鱗を感じさせ、彼の読書量と知識の豊かさを感じた。60歳の自分なら、彼と同じ程度の文章は書けるかも知れないが、この漢字表現には、脱帽せざるを得ない。36歳と60歳が同じ程度であるということは、つまり、彼は、いや彼も含めた、正岡子規、尾崎紅葉、国木田独歩、斉藤緑雨、長塚節、芥川龍之介など30代で亡くなった作家達は、我々より人生を6割も圧縮して生きていたのかも知れぬ。
「津軽」の中の彼の感覚や印象を自分の印象と対比させながら、僕はふとこんなことを考えていた。作品「津軽」は、彼が幼いときに育ててもらった「たけ」という乳母に出会うため北端の港町小泊を訪ねた場面で終わっている。
小泊は、豊かにカーブする日本海側の海岸線を北上した最後の港町で、この後、道は右に回り、竜飛岬まで舗装された山道が連なっていたが、無論太宰が旅した頃は、この竜飛に至る道路はなく、小泊は、北辺の行き止まりの港町であり、このことは、その後の太宰の生を象徴していた。
この繊細な少年の神経を持った作家は、これを書いてから3年後、玉川で入水自殺して亡くなる。彼が求め続けた「愛」と自分の現実との亀裂の中で生への衝動を見失ったためかも知れない。
そういえば17年前、長男・長女で結婚した古くから友人がガソリンを被って焼身自殺したことがあった。その彼は、早稲田の文学サークルに所属し、学生当時、太宰治についての一文が当時の文芸誌に掲載され、賞金を貰ったと僕に語ったことがあった。
かれが、自殺した当時、僕には彼の行動が全く内的に理解できなかった。夫婦間と親子間の愛憎の結果と理由ははっきりしていたが、高校教師で、分別も十分あったはずの彼の自殺に至るまでの絶望感がまるで想像できなかった。その思いは、いまだに変わらないが、太宰の「津軽」の中にその謎に迫る微かな足跡を見た思いがした。「津軽」を読み終えて、久振りに青春に戻った充実感があった。こんなきっかけをつくってくれたのは、Tさんの御主人の企画と無心でレンターカーを運転してくれたM君、そして、見るところは見なくてはと、強引に斜陽館見学に誘ってくれた、T、K、Eさんのおかげと感謝している。 以 上