生死と天人五衰

何か大切なものにまだ出会っていないのではないか。そんな気がしたのは、佐賀出身で明治維新後三十四歳で頭角を現し、新政府で日本の司法制度を確立し、司法卿(法務大臣)で参事にまでのぼりつめ、征韓論をめぐって、大久保利通等と対立し、西郷隆盛と共に下野し、明治七年の佐賀の乱で敗れて四十一歳で梟首刑となる江藤新平の生涯を描いた司馬遼太郎の「歳月」という小説を読んでからである。それは、維新後の革命政権を舞台とし、時の勢に翻弄され時代を生きた個人の目を通した歴史物語で、文庫本で七百頁ものその本を五日程で読了した後思わず湧き上がってきた感情であった。

その本を見つけたのは、平田町の交差点近くの古書センターで、月一回開かれる「古書展」の三冊100円のコーナーの中からであった。この古書展では、一千冊あまりの書籍が投げ売りされるため、愛書家にとっては、宝の山と出会う貴重な機会と思われる。

この古書展で、三島由紀夫の最後の長編小説「豊穣の海」を見つけたのは、司馬遼太郎の「歳月」を見つけた一か月後の古書展でのことである。「豊穣の海」は、全4巻からなり、第一巻が「春の雪」第二巻が「奔馬」第三巻が「暁の寺」第四巻が「天人五衰」であるが僕が見つけたのは、第三巻の「暁の寺」と第四巻の「天人五衰」の二冊で、いずれも昭和46年に発行され黒字の装丁された箱に納められた新潮の初版本であった。これ等は、一冊100円のコーナーに無造作に置かれていた。紙は古くなっていたが、読まれた形跡はなかった。値段が安いのは、四巻揃っていないためかあるいは「三島由紀夫」そのものがもはや顧みられない作家となってしまったのか。一冊六百グラムもある本を二冊持つ煩わしさもある。数分の迷いの後、購入を決めた。その理由は、三島由紀夫にとって最後となったこの作品の中に、彼が人生の最後にみた風景と死生観が書かれているに違いないと確信したからであった。

我々は、同じ世界に生きていることを当然のこととしているが、年を経るに従って、人は各々全く違う宇宙や風景の中で生きているという思いに囚われるようになった。

 その宇宙や風景を単的に示すものとしては、絵画や詩があるが、作家にとっては小説でしかない。七十を過ぎた僕にとって、今関心があるのは、死を間時かに控えた人生の終わりに人はどんな風景を見ていたかであるが、絵画や詩に比べて小説は大部な媒体であるため時間と集中力を要するし、目も疲れる。このため、小説類は、極めて限定することにしている。この観点で、この十年間で読んだのは、埴谷雄高の「死霊」ぐらいで、もう他はないと思っていたが、この本を手にして、三島由紀夫が最後にどんな世界と風景の中で死んだのか無性に知りたくなった。

 三島由紀夫(本名平岡 公威)は、一九二五年生まれ、学習院高等科を首席で卒業、昭和天皇から恩賜の銀時計を拝受。東大在学中、一九四五年二月に兵役検査を受けるも気管支炎で不合格となる。東大法学部後 一時大蔵省事務官になるがすぐに退職し作家生活に入る。十代から、文藝に親しみ、戦前から川端康成と交友があった。一九四九年「仮面の告白」で作家としての地位確立、代表作「潮騒」「金閣寺」等多数。千九百五十八年日本画家・杉山寧の長女・瑤子と結婚。一男一女をもうける。

一九七〇年(昭和四五年)十一月、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)を訪れて東部方面総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、その約五分後に割腹自殺を遂げた。享年四十五歳。

 三島由紀夫が、割腹自殺したのは、僕の就職後間もない70年安保の真っ只中の時期で、新聞に取り上げられたが、「不可解」の一言に尽きる事件だった。その当時三島由紀夫については、「右翼作家」のイメージが強く、一切関心がなかった。その三島由紀夫に少し興味が湧いたのは、テレビのある旅の番組で、三島由紀夫のファンと云う女優の常盤貴子が、紀行文集『アポロの杯』の中一節に触れたのをみて、彼の文学の中に若い女性を動かす感性があると気づかされてからである。その三島由紀夫の最晩年(と云ってもたかが45歳でしかないが)の作品を読めば、その当時の彼の宇宙と風景が見えて彼の不可解な行動の謎に迫れるかもしれない。それが「豊穣の海」を読んでみる気になった理由であった。

「暁の寺」は、タイ、バンコックの大理石寺院と王宮を主な舞台とする四十代の主人公と幼い姫をめぐる物語であり、「天人五衰」は、70代の主人公と10代の少年をめぐる生の頂点と死滅をテーマとした物語で、いずれも輪廻転生をテーマとしている。その始まりは、第一巻の恋愛をテーマとする「春の雪」であり、それが、第二巻の青年期の政治運動をテーマとする「奔馬」でこれが、輪廻転生の最初の展開に引き継がれる。つまり、「豊穣の海」は、輪廻転生をテーマとして四つの巻が起承転結で結ばれた物語と云える。第四巻の「天人五衰」の完成の11月25日の日付が、彼の割腹自殺した日付となっているのは、まさしくこの作品の最後の風景が彼の人生の最後の風景であることを物語っている。

司馬遼太郎の歴史小説「歳月」が、歴史上の個人の眼を通した「歴史」であるならば、三島由紀夫の「豊穣の海」は、彼の眼を通した「世界」と云えるかもしれない。1923年生まれの司馬遼太郎は、1925年生まれの三島由紀夫と同じ世代でありながら全く異なる空間に生きたかに見える。それが僕には、住んでいる世界の時間方向の違いではないかと思える。

物理学者のホーキングは、「最新宇宙論」の中で、普通の時間とは垂直な方向を持つ虚時間を仮定すれば、特異点を考えない無境界の時空を考えることが出来き、空から有の宇宙の誕生が説明可能だと述べているが、司馬遼太郎が「実時間の宇宙」を感じていたのに対して三島由紀夫は、「虚時間の宇宙」を感じていたことにはならないだろうか。虚時間の宇宙では、時間は、球面上の空間のように円環的である。実時間からみれば、虚時間はその一瞬間であり、虚偽間から見れば、実時間がその一瞬間ということになる。一般の科学は(従って歴史学も)実時間の中にあるが、芸術は、虚時間の中にある。虚時間の中では、現在、過去、未来がすべて実時間の一瞬の中に現れる。

 臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師の話に次のようなものがある。若いとき唐の天才禅僧厳頭の話として、『厳頭が法難を避けて世を韜晦して俗形となって渡し守をしていたが、盗賊に首を切られ「痛いっ」と大声を発して死んだ、その叫び声が数里も聞こえた。」という話を聞き、それほど禅僧でも、盗賊の難を転ずることが出来ないなら禅学道にどんな意味があるのかとの疑問をもった。しかし、その後修行に勢を出し、ある晩、暁に達し、折から遠くの鐘の音が「ゴーン」と響いた。その微かな音が耳に入ったとたんに、徹底して煩悩の塵が落ち、ちょうど耳のあたりで大鐘を打つたように聞こえ、白隠 豁然として大悟して叫んだ「やれやれ。厳頭和尚は豆息災であったわやい。厳頭和尚は豆息災であったわやい。」という話である。臨済禅では、「見性」体験が重視されるが、この話は、その例として有名である。この話は、「芸術」における「美」や「永遠性」との出会いに似ている。

 三島由紀夫は、実時間の現実の世界を虚時間の芸術世界で塗りつくそうとしたが、それは、実時間の中の本の一瞬間に戻ることで、それは、1945年の8月15日の敗戦の年の夏の陽光の世界であったのかもしれない。虚時間を生きた三島由紀夫は、45歳で死んだが、実時間を生きた司馬遼太郎は、三島由紀夫の死後26年生き、73歳で亡くなっている。