私は、もともとは、唯物論者で、大学では、理学部で物理学を学んだ科学的な知識を重んずる人間を自負してきた。しかし、私の11歳年上の姉は、シャーマン気質を持つ霊能者を自認しており、彼女は、その能力を歴代神社のお守りする社家と云われる家系の血に由来すると信じていたようで、祖母の姉の「くわ」と云う人もそうした能力を持っていたらしいと語ってくれたことがあった。
彼女がその能力を自覚するようになったのは、私が大学生の頃であるので、30歳前後の頃で、それは彼女が、叔母の影響で仏生護念会という法華経を奉ずる宗教団体の会員になった頃と機を一にする。
法華経は、極めて強い感化力を持つ経で、今も創価学会を中心として数多くの信者を持つ。詩人で童話作家の宮沢賢治もその一人であることは、よく知られている。この中の観音教と云われるのは、その中の観世音菩薩普門品第二十五と云われる部分で、そこでは、この観音の力を念ずれば様々な危害から逃れることが出来ると説かれている。
この観音教は、日蓮が首を切られようとしたとき刀がおれて死刑を逃れることが出来たとか、平家の武人盛久がこの教の功徳で同じく死刑を免れたと謡曲の中で語られるほど古くから有名である。姉は、とりわけ、この観音経が好きであり、死の直前まで、この経を唱えることが、日常の日課になっているほどであった。
その姉は、ことあるごと、時には心霊写真等を見せて自分の霊的な体験を語ってくれたが、私にとっては、遠い世界の出来事としてさしたる興味の対象ではなかったが、彼女の信ずる内容を否定する気にもならず、彼女もそれ以上に自分の信仰を私に強いることはなかった。
その姉が、私が家を新築するとき、結界を張り、危害から家を守るようにと家の敷地の四隅に、写経した経と陀羅尼を墨で書いた石を竹筒に入れて埋めることを提案してきたので、彼女と共に私も写経し、陀羅尼を記した石と共に埋めることになった。この時写経したのが、般若心経と観音経であり石に書かれたのが観音菩薩の一文字のサの梵語であった。
この結界のせいかどうかは、分からないが、我が家の敷地にトラブルが起こるたびに結果的に相手が不幸になり、事態が収束するといったことが起こった。最初の事件は、北側の敷地境界をめぐるトラブルで、家を建てた当時、家の北側は、低地であり、その境界に杭を打って盛土したのが我が家の敷地であったが、土留めが弱く、大雨でそれが傾き始めたので地主に了解を得て、敷地境界線から4mの幅で、自費で埋め立てた。その敷地は、やがてビルの残土で残りを埋められ、そこは立派な畑となり、梅畑となった。
事件が起こったのは、それから数年たったころであった。隣の地主が、家の樋が敷地境界線から出ているといってきた。しかし、低地を盛土した土地で、境界線もはっきりしていないし、その後は何も言ってこないので不審に思っていたところ、地主夫婦は、二人とも脳の病で亡くなったと知らされた。
敷地境界問題が最終的に決着をみたのは、地主の相続人が、物納のため敷地境界を確定するためあらためて測量を実施し、五人の地主が関係する杭の位置を最終的に決めて、合意したあとのことであった。
この土地はやがて競売にかけられ、我々より10歳以上若い夫婦が持主となり、広い敷地に洋風の家を建て引っ越してきた。
敷地境界をめぐるトラブルは、南側の敷地でも起こった。当時南側の敷地は、我が家より50cmばかり高く、その土地の土が我が家へ1m以上流れ込んできていた。再三その処理をするよう申し入れたが、埒が明かないのでとうとう自分の側で擁壁工事を行うことにした。
隣の地主は、この時、その擁壁を私の敷地内に収めるように要求してきた。この工事の途中で、この地主の家で、長男が死亡する事故が起こった。工事完了後さすがに気が引けたか、その地主は、工事の費用を半額負担するといってきた。この地主の奥さんが亡くなったのはこの事件の後1年程たった頃であった。
さらに敷地境界をめぐる事件は続く、建設当時南側の敷地の半分は、三角形の20坪ばかりの空き地に接しており、雑草がひどいので地主にその処理をするように申し入れたが、電話口に出た地主は、そこにゆくのは大変で、対応は出来ないが、そのかわりその土地をかってに使ってもらってよいと云うので、その雑草を刈り取り、そこに新しい土と肥料を入れ、家庭菜園として使うことにした。それから15年程したある日その地主から電話がかかってきてその土地を利用するので、その使用をやめて欲しいといってきた。そして数カ月した夏の暑い日に、地主がやってきて草刈りする姿を見つけたが、その後姿を見かけないので、電話すると電話口に出た娘さんの話で、その地主が既に亡くなっていたことを知った。それは私が姿を見た数か月後のことであったと云う。
その20坪ばかりの土地が売りに出されていることを知ったのは、その数か月後のことであった。ある不動産会社が、その土地に家を建てる計画で、図面付きで広告を流したところ2400万円で購入する人間が現れたとのことで、不動産屋の女社長が挨拶にやってきて、全貌が判明した。
その計画では、建物を敷地境界ギリギリに建て、我が家の南側の半分以上が日陰になることになっていた。色々やり取りがあったが、結果的には、敷地の原寸が狭く、南側の日陰部分は、当初計画の半分になることで、ツウバイ工法の薄幅の住宅が出来上がり、それを購入した二人の小学生の男の子を持つ夫婦が引っ越してきた。しかし2年程したある日、子供二人を連れて奥さんが突如として出て行った。離婚したとのことであった。
その後、その家には、職人の旦那が一人で住んでいたが、2年程たったある日、今度は、女の子二人をつれた太った女の人が、この家に引っ越してきた。再婚したらしい。この新しい夫婦は、やがて、家の改造をはじめ、数か月後に軒下に赤提灯が下げられた。居酒屋を始めたのである。そしてあろうことか、深夜まで、カラオケの音が、枕元に響くようになり、妻が苦情を云っても聞いてくれないと云うので、 さすがに11時以降はカラオケを中止してくれるように申し入れこの願いは聞いてくれた。
こんな事件があって1年程経過した頃、12月の末、突如として、隣の家族が消えてしまった。そして2か月程した頃、警察官がやってきて隣の住人のことを訪ねてきた。その時初めて分かったことであったが、隣の奥さんが運転するバイクに旦那を乗せ、赤信号の交差点に突っ込み交通事故を起こしたとの話であった。前年の12月慌ただしく荷物をまとめ出て行ったとの妻の話を伝えると。旦那とは云え、赤信号で、交通事故を起こせば、本人が障害罪に問われるので、急いで姿を隠しただろうとのことであった。
その家が、売りに出されていることを知ったのは、警官がきてから半年程たったころであった。菓子折りを携えたばあさんが、その家を買ったといって我が家にやってきた。そのばあさんは、その敷地に隣接する駐車場の地主であった。このばあさんは、この家は人に貸すつもりはないと云って去っていった。しかし、2年程して、その家を借りたと云って金髪の小柄な外人がコンビニで買ったビールと菓子を携えてやってきた。聞けばオーストラリアの出で、日本の中学校でネイティブ英語を教える教師と名乗った。この外人は、大家から、家を自由に改造してよいむと云われたといい、何かしら、家の中を改造し始めた。多分居酒屋をもとに戻す工事をしたのだろう。半年程たった頃、その彼は、小学校の高学年と思しき子供をつれた南米出(ベネゼイラと云っていた)のやせ形の女性と同棲を始めた。そしてさらに半年経った頃、家から煙が出ているので、玄関で呼び出すとその女のひとが慌てて、押し入れを開くとバックから煙が出ている。慌てて水をかけて火をけしたが、中に入っていた花火がバックを入れた衝撃で発火したのだと云う。隣の火事を未然に防いだ事件であった。まもなくこのカップルは、忽然と姿を消した。
次の住人がやってきたのは、それから半年たった頃で、今度は、相生山住宅に住んでいる一家がやってきた。この家族は、夫婦と成人した子供数人の家族であったが、この家族が生活し始めてまもなく家のリニューアルをするので、色々迷惑をかけると云って挨拶にゆくと愛想のよい小柄の奥さんが出てきた。駐車場付にもかかわらず安いので借りたといい、安いわけには何かあるのではないかと夫婦で話あっているとのことであるので、この家の経緯をざっとはなしてやった。この一家がやってきて2年程たった頃やたらに建築屋がやってきて、壁の塗装をやり直したりしたり、我が家との境界の木造の塀が朽ちてきたりしてその補修工事を行っていたが、ある日突然この一家が引っ越していった。奥さんに訳を聴くと雨漏りがひどくどうしても直らないし、手を加えるなら値上げすると云うので、出てゆくことにしたとの話であった。
この一家が出て行った頃、敷地境界に生えていた邪魔な立木を一本切り取ったが、それから一カ月もたたない内に、突如として菓子折りをもった建築屋がやってきた。聞けば建物を取り壊すとのことであった。彼の話では、この家を買ったばあさんは既に亡くなり、この家は、横浜に住む娘さんが相続し、その娘さんが、トラブル続きの建物の管理に困り、跡地を駐車場にしたいとのことであった。そして1か月もたたない内に建物は撤去され、そこに駐車場が出現した。この工事の時、敷地境界に設置したブロックと塀は残しておいて欲しいと申し入れ、その要求は受け入れられた。南側は、明るくなり家の環境は一新した。
今となっては、最後に立木を切ったのが、悔やまれるが、日当たりがよくなったせいか切った立木の株から新芽が勢いよく吹き出しコロナ下でもう1mにまで育った。またかって隣に家が建つとき、やむを得ず切った夏蜜柑の木から目覚めたように新芽が伸び出した。
以前南側の半分の敷地境界線でもめた地主が施設で亡くなり、東京在住の一人残された息子が土地を相続したと挨拶に来たのは、コロナ2年目の1月のことで、彼は、境界に生えていた雑木をすべてきり去ってくれた。
数十年振りに我が家の周囲は、静かになった。この地に来てから45年経過を振り返ってみると、我が家に危害をもたらそうとする人々から自分が守られてきたのは、あの結界のためであったような気がするが、信ずるか信じないかはあなた次第ということで、筆をおきたい。 了