日常の隙間より・・・新型コロナ考 

突如として日常のベールが剥がされ、真実が垣間見えることがある。2011年の3.11の時がそうであったし、その前の2001年9月11日の米国同時多発テロの瞬間がそうであった。さらにその前を辿れば、1994年6月27日の松本サリン事件と1995年3月20日の地下鉄サリン事件がそうであった。オーム真理教によるサリン事件は、直接目撃できなかった事件であるが、9.11と3.11は、それが映像として報道されたため、その衝撃も大きかった。9.11の時、私は、単身赴任しており、川口の社宅から東京駅まで、通勤していたが、朝テレビをつけるとそこに、ワールドセンタービルとそこに突っ込む旅客機が写っていた。ニュヨークに立つそのビルは、28歳で米国省エネルギー調査団の一員として訪米した折に、その屋上でその調査団の団長であった芝浦工大学長の藤井正一先生と記念写真をとった場所であった。3.11の時は、自宅で自分の部屋に居て揺れを感じ、それからは、何時間もテレビにくぎ付けになり、津波が田老町の10mの防波堤を軽々と乗り越える映像等、SF映画を見るような非現実感で眺めた。

 目に見えるこの二つの事件に比べて、サリン事件は、不気味な事件であった。その理由は、その原因や動機が全く不明な事件として立ち現れたためである。しかし、この時一人直感的に思った。これは何らかの信念を持つものの仕業であると。大量殺りくは、普通の感覚では、起こりえない。深く正義を信ずるものにしか実行できない。そしてそれは、政党か宗教団体である。その直感は、あの1960年代から70年代の動乱期の自らの政治・思想体験に根差していた。それは死が自分の手中にあり、命がけで生きていた時代を体験したものにしか分からない心の闇と関係していた。

 これら今まで体験してきた事件に比べて、今回のパンデェミックは、全く違った様相の事件であった。それは目に見えないと云う意味では、地下鉄サリン事件と同じであるが、それによる外国のロックダウンの状況や混乱する医療現場の映像という意味では、9.11や3.11事件と同じである。しかし、これら二つの事件と全く異なるのは、この事件が、クルーズ船と云う時空の一点から始まり、それがあたかも次第に濃くなる霧があたり一面を覆ってゆくように世界的規模で、時空を覆っていったことである。

私にとっては、この世界的なパンデミックはそれ程、衝撃的な事件ではなかった。こうした事件は、バイオハザードや猿の惑星等を通してSFの中ですでに経験済みの出来事であったし、古くは、旧約聖書のエジプト記の中で、不信者への神の罰として、不信者達が、無音、無臭の力によって死んでゆく場面も見てきた。

しかし、こうした出来事が社会にいかなる形で衝撃を与えて行くのか、その結末や収束についてビジョンを扱った作品は、少ない。「事実は、小説より奇なり」であるからである。

パンデミックによる世界終末を描いたのは、ドフトエフスキーで、「罪と罰」の最後の方で主人公のラスコーリニコフが熱病に罹りながら、世界が疫病で滅んでゆく夢を見る。このことをどこかの文章で読んで、その内容が気になり、書店で「罪と罰」を立ち読みした。私には、この長編を読み通す気力も時間も残されていないと思われたためである。そこには、世界が疫病に罹り、それにより、人々は、異常に自分が正しいとの信念を持つようになり、多くの人が、それぞれの信念を正しいとすることにより、対立が生じ、互いに殺しあって世界を滅亡させてゆく様相が簡潔に描かれていた。ドフトエフスキーは、世界を破滅させるのは、人間であり、各自の正義の信念こそが、争いの原因と云いたかったのであろうか。

「罪と罰」のテーマは、世界の終末ではないので、ドフトエフスキーはそれ以上の事を語ってはいない。しかし彼は、人間と云うものの根源を見据えていたに違いない。

フランスの歴史人口学者のエマニエル・ドッドは、死亡率からソ連邦の崩壊やトランプ政権の誕生を予測したように、社会変化をもたらすものは、生への渇望と死への恐怖である。 新型コロナ影響下の不安・恐怖と自粛による社会的ストレスは、人々から心のゆとりや寛容さを奪い、社会全体としてのある種の集団ヒステリー症状を生み出す。この中で、このような現状を生み出した犯人探しや事態を招いた責任の擦り付け合いがはじまり、それを利用して、権力奪取をくわだてる政党や団体が暗躍し、各個人・各集団が自らの正義を掲げて対立・抗争を激化させる。まさに「罪と罰」の中でラスコーリニコフが熱病にうなされながら見た夢の世界が繰り広げられている。

新型コロナの恐ろしさは、その感染力や致死率ではなく、不安や恐怖にかられ集団ヒステリー現象に感染してゆく人々の精神状態である。熱はいずれ下がる。その時人々は、熱病にうなされて叫んだ正義や信念等自らの異常行動をすっかり忘れて、虚構の日常世界に戻ってゆくことになるだろう。9.11や3.11の衝撃を忘れ去ったように。

しかし、その後の世界は、以前の世界と同じであろうか。テレビで、1918(大正7)から1919(大正8)世界的に流行したスペイン風邪の番組を見ていて、稲妻のように閃いたことがあった。その時期は、松田家の曽祖父濱次郎とその長男濱三郎が相次いで亡くなったときであり、家長とその跡継ぎを一度に失った松田の家は、その後没落してゆくことになった。家族史を書いていてその死因の記録がないのでその偶然の不幸の連鎖を不審に思っていたが、それがスペイン風邪であれば、すべて辻褄が合う。そうだとすれば、パンデミックは、現在の自分や子供達にまで影響を与える出来事であり、その後の世界をすっかり塗り替えたことに連なる。 日常のふとした出来事が、稲妻のように存在の暗闇を照らすことがある。これは、私にとって云い知れぬ感動と驚愕を覚えた出来事であった。(画像は生成AIで作成した)              了