ある日突然、家に異生物が紛れ込んでくることがある。丁度上の娘が、小学校に通い始めてまもなくで下の娘が幼稚園の頃であったであろうか。その頃は今の土地に、家を建て引っ越してきたばかりであったが、家の北側には、雑草に覆われた荒れた未耕作の土地が広がっていて、そこは、子供達の恰好の遊び場となっていたし、時折向かいの山林からくるつがいの雉を見かけることもあった。その荒地と家の前を通る県道とは、道路で隔てられており、道路と荒地の境界に沿って深い側溝が走っていた。ある日の午後であったであろうか、何か子供達の声がするので、近づいてみるとその側溝に一匹の三毛の子猫が落ち込んでいて、それを子供達が救い出そうとしているところであった。その子猫を取り巻く一団の中に我が家の娘達がいたためか、結局その子猫は、我が家で引き取ることになった。その子猫の名前をどうするかで、家族会議が開かれ、当時テレビアニメに出ていた猫の名前からとった影千代やミッキーやレオ等の候補が上がったが、意見が集約できず、少し長いが、影千代ミッキーレオと名づけられた。この雄猫が、我が家の猫史の始まりであった。
この猫を飼い始めて一、二年程たった頃であろうか、一匹では、寂しかろうと云うことで、妻が近くの動物病院から白の猫を貰ってきた。こちらは、単純なシロと名づけられた。こうして二匹の猫と二人の子供と夫婦の生活が始まった。影千代ミッキーレオ云う長い名前は、やがて省略され、単純にカゲと呼ばれるようになった。この二匹の猫は、全く異なる個性で、雄猫のカゲは、野蛮な自由人、不妊手術を受けた雌猫のシロは、内向的で優雅に見えた。しかし、この優雅さは見かけだけで、動物病院で、育てられていたにも関わらず、下のしつけが出来ておらす、度々布団の上に不始末をする悪弊があり、よく妻を困らせていた。しかも当初の目論見とは異なり、この二匹は、結構、仲が悪かった。
この猫達のため、自由に出入りできるくぐり戸を設置するのは私の仕事で、このくぐり戸の使い方を教えると、二匹は、自由に外部に出入りすることが出来、猫との共生生活は、ようやく軌道に乗った。この二匹と四人の共同生活は、長く続かなかった。シロが前の道路を横断中に車ではねられ、大怪我をしたためである。その頃近所に動物病院に連れてゆくと手術に十万円かかると云う。これは、当時としては大金であったので、手術をあきらめ、安楽死をさせようとしたが、娘達が、お年玉もいらないから命を助けるよう懇願するので、結局10万円で、手術するはめになった。しかし、この努力は、むなしい結果となった。手術の二か月後、元気になったシロは、又交通事故に会い、今度は、あっけなく死んでしまったのである。ほっておくわけにもいかずその遺骸を八事霊園にもってゆき、二千円で焼却してもらった。
このシロが亡くなって間もなくの冬のある日ことであった。家の中に見慣れぬ真っ黒の猫が入り込んで来た。猫用の潜り戸からかってに入ってきたと見える。その猫は、薄汚れた随分不細工な成人の猫であったこともあり、さっそく追い払った。外が寒かったせいもあったと見え、その猫は、その後も数回家への侵入を繰り返したが、その都度追い払った。初めてこの猫を追い払って二か月ばかりたったころであろうか、道路で猫が死んでいるいると近所の人の声がするので、見に行くと、そこで死んでいたのは、まさしくその黒猫であった。この死骸もダンボールに詰め、八事霊園にもっていった。この猫を追い払ったことの後ろめたさのような感情に動かされてのことであった。
猫にまつわる話は、さらに続く。家を建ててまもなくのことであったが、家の前の空き地の雑草に悩まされたので、その持主に電話をして雑草を処理して欲しいと連絡したところなかなか草取りに行けないその代わりその場所を自由に使ってもらっていいとの返事であった。それ以来、そこを野菜畑として利用することになっていた。その土地は、道路側を底辺とする三角形の土地で、その三角形の頂点に、一本のトウカエデの木が立っていた。その木の下には古いトタンが放置されていたが、それは、その土地を利用するようになってもそのままにしてあった。黒猫の死亡事件があって数年たった頃のことである。ある夜の事であるが、夢の中で霧の中から傘をかぶり杖を持ち旅の着物姿の一人の雲水が現れ、枕もとに立って、自分を供養するように促して消えた。目を覚まして不思議なこともあるものだと思った。当時の寝ている頭から、2mメートル程の近距離に隣の空き地の三角形の頂点があり、そこにトウカエデの木が立っていた。目を覚ました翌日、何かあるなら、その周辺かと思い。トウカエデの木の下のトタン板をめくるとそこに一匹の猫の死体を見つけた。この猫の死骸も早速八事霊園に持っていった。

我が家で、天寿を全うしたのは、カゲであった。このカゲは、全く手がかからない自由猫で、恋の季節ともなると何日も家に帰ることなく、雄同士の喧嘩で傷だらけになって帰ってくることもあった。また狙った獲物に対する食欲は激しく、酒の肴の蛸を一切れ銜えた取られたことがあったが、そんな時にも悪びれることもなく、逆に威嚇される始末で、「猫ぼうより皿引け」の格言を思い知らされたこともあった。そんな野性的なところに魅かれたのか小学生だった下の娘が初めての油絵で描いたのがこのカゲであった。何度も塗り重ねられたその黒猫の絵は、博物館で開催された教室の展示会で飾られ、力強いと絵画教室の先生にほめてもらった。
単身赴任のときの油絵を持ってゆき、赴任先の社宅の居間の壁に飾ったが、その絵には、疲れて一人家に帰ったときなんとなく元気づけられた気がした。今から思うと決して上手いとは言えないその絵には娘と猫の二つのパワーが秘められていたためであった。カゲは、晩年ほとんど痴呆状態で下の始末も自分でできなくなっていた。その最後を見届けたのは妻であった。猫は、死期を悟ると人知れず死に場所をもとめ、そこでなくなると云う。カゲもそうした死に方をしたかったほどかもしれないが、死を目前とした彼には、もはやその気力は失せていたようである。それでも、両手、両足を突っ張るようにして一声叫んで、息絶えたと云う。このカゲも私は八事霊園に運んで行った。
不思議なことは、まだ続く、カゲが亡くなって一週間ぐらいたった頃である。玄関で子猫の鳴き声がするので、見てみると一匹の子猫が玄関に佇んでいた。どうも誰かが捨てて行った捨て猫らしい。我が家の猫が死んだことを知った人が密かに置いていったのか、それとも偶然に我が家に紛れ込んで来たのか分からないが、とにかく猫の生活道具は、そのまま残っていたので、家で面倒みることになった。この子猫は、小さくて美人なのでチビ小町と名ずけられやがて省略してチビと呼ばれるようになった。このチビは、不思議なことにやって来た時から、自分でトイレが利用できた。幼くしてしつけられていたに違いないとは、妻の意見であった。このチビは、性格穏やかで、器量よしの猫であったが、狩りの名手でもあり、ときおり、雀や野ネズミを生きたまま銜えて、誇らしげに室内に持つ帰り、物議を醸しだしていた。
このチビが亡くなったのは、私が東京に単身赴任していた時期である。ある夜妻から電話がかかってきた。チビが死んだと云う。どうやら電話の向こうで泣いている様子である。話を聞くと、急に苦しみ出し、病院に連れて行ったが、息を引き取ったとのことで、多分毒物のためかもしれないが、解剖しなくては、死因は特定できないと云う。それをどうするかの相談であった。解剖には、一万数千円かかると云う。病気を治せず、死因の特定に追加の料金を取ろうと云う病院の対応に思わず腹が立った。解剖したとてチビの命が戻る分けではないので、即座に引き取るようにいったが、一度も泣いたのを見たことのない妻の様子に心が痛んだ。妻の話では、チビは、毒殺されたに違いない。それは、多分隣人によるものだ。そういえば、以前、姿が見えなかったので近所を探し回ったが、その時は、近くの畑の横にある農機具倉庫に閉じ込められていたのを鳴き声で見つけて救出したことがあった。畠でフンをしたので、恨まれたせいに違いない。また、独身の隣人がお宅の猫が自分の車の上に載って傷がついたと文句をいったことがあった。毒を盛ったのは、あの畠の持主か独身の隣人に違いない。しかし、こうした話には証拠がなく、結局チビの死因は、分からないまま事件は終わった。チビの遺骸は、妻が八事霊園に運んだとあとで知らされた。
思えば、単身赴任の4年ばかりの間には、様々な事件が勃発した。この間には、姉が亡くなったし、古くからの友人で弁護士の斎藤君も亡くなった。また、自分も、突如眼底出血に見舞われた。米国同時多発テロ9.11事件もあった。このチビの死以降我が家が猫を飼うことは絶えてなかった。
機嫌がいいとニャン・ニャン気に入らないとシャーと云う猫語をあやつる孫娘が、我が家に下宿するようになるのは、その20年後のことであった。大学生活に慣れるまでの1年間ばかり、下宿させてほしいと云う長女の要請で、引き受けたそのニヤンニヤン娘は、その翌年から始まったコロナのせいで、それが少し下火になるまで、結局3年ばかり、家の2階に住み着き、やがて出ていった。夜行型のその娘のおかげか、それまでいたネズミの物音はその後すっかりしなくなった。 了