東京流れ者記—ときたま12号掲載

古い日記類を整理していたら、原稿用紙に書かれた文章が出てきた。いつかどこかで発表する気があったのかも全く覚えがない。ただこれを書いたのは、その内容から30歳の頃であることに間違いはない。読み返して興味深かったので紹介することにした。

「僕が東京に出てきて二年と数か月になる。東京は乱雑な都市だ。名古屋が平面的に乱雑であるなら、東京は立体的にも乱雑である。名古屋が乱雑であると云っても、そこにはまだ皆が共通している平面があった。皆が同じように縛り付けられ、抜け出そうともがいている平面があった。共通に抵抗しょうとしているもの、それは文化の不毛さであったかも知れない。しかし、東京の乱雑さは、その平面すら存在しないところにある。人々はしゃにむに立体的な空間の中に放り込まれ、部屋の中の微粒子のようにぶつかり合い蠢いている。無論この微粒子同士には、接触もあり、「コンニチワ!」ぐらいの言葉は掛け合うが、それだけのことで、まためいめいが勝手の方向に飛んで行ってしまい、たがいにその行く先が一体どこであるかさっぱり分からない。時折微粒子達が密集している場所に直面して、これがこの都市の壁かとも思うが、その微粒子達の群れの中に入り込んで観察してみると、その背後にまた、相変わらず乱雑な世界が広がっていると云う具合だ。

地方から上京しー東京の人々のほとんどはそうであるがー一番戸惑うのは、東京のこうした乱雑さであると云える。僕もその一員であるこれ等の東京への流れ者達は、もはやかつての地方でそうであったような個体や液体の中の粒子ではなく気体の中の粒子のように勝手な方向に乱れ飛んでいる。これ等の粒子たちの唯一の方向感覚は、結局のところそれらの出生地でしかないような気がする。

 僕は名古屋から出て来た。だからいつも物事を名古屋との比較で考えてしまう。東京と云う都市は、名古屋、金沢、四日市等と云う一つの都市のイメージで考えるのは無理なことだと思うようになった。東京を無理にこうした単一の都市のイメージに結び付けようとするなら、名古屋、岐阜、四日市、豊橋、京都、小牧等を一つに集めたものと考えるべきであろう。いずれにせよ、この都市の実体を一つの名称で代表しようとするところに問題がありそうである。これは、距離的にもそうであるし、文化的にもそうである。

かくゆう僕もこの東京の目黒区と云う比較的緑に恵まれた地方都市に住んでいて銀座と云う中心都市に通勤している会社員であり、丁度豊橋あたりから名古屋に通っている会社員と考えるとぴったりくる。そして会社でもサークルでも、みなそれぞれ全く異なる都市のメンバーが集まっているというのが僕の東京のイメージだ。だから生活も文化もまるで異なる異星人同士が会話していることになる。こうなると一切の会話が難しいようにも思われるがそうでもない。多少でも会話ができるのはこの都市の中の乱雑さもある一つの閉空間の中の出来事であると自覚できる人間達である。しかしこの各々もこの閉空間の具体的な形については、大きく異なっており、あるものは、これを正方形だといい、ある者は楕円であると云いあるものは、球だといい、また別のものは、そうではなくもっと複雑で、俺にはよく分からないと云う。

この乱雑な空間の境界に接し、その具体的な形を見極めること、これこそが僕の課題の一つでもあったはずであるが、この課題は、まだ達成されたとはいいがたい。ただ自分の仕事の専門的な分野の極限られた一点で、僕はこの閉空間の境界と思しきものに接し、その接点を通して目をわずかでも海外に向け、この境界を内と外から確認しつつある。とにかくじっとしていても浮遊し続けるだけであり、その中で老化してゆくのが目に見えている以上一つ一つの分野で何かを求め、乱雑な閉空間の一点一点を発見することによってしかこの都市の全体像―本質―は浮かび上がってこない。(了)」

この文章を書いた後3年程で、僕は名古屋に戻った。東京の5年間で、何かが変わった。僕が、転勤で配属されたのは、できたばかりの技術開発室というところで、そこは、会社の情報センターといった部署であった。そこには、その当時としては、珍しく大卒ばかりの10人に満たないところであったが、皆国立大学の工学系の人達で、構成されていた。会社がなりわいとしていた建築設備は、戦後の復興期に米国からの技術導入と高度成長下で、急成長した分野で、その工学的知識の大半を米国の協会や学会に依存しており、技術開発といってもその大半は、米国の情報を入手することであった。しかし僕が赴任した当時は、そうした技術導入の流れが一段落し、日本独自の研究が始まりつつある段階であった。組織がまだ立ち上がったばかりであることもあり、ここでの仕事はかなり自由であり、メインの仕事は自分でテーマを設定し、そのテーマのレポートを年一本提出するという大学の大学院のような雰囲気であった。しかし、組織の存在が知られるにつれ社内外から様々な仕事が持ち込まれるようになり、それへの対応にも追われるようになった。それらの仕事の中には、大型現場への技術支援や官公庁の法律制定のための技術委員会への参加。大学の先生が立ち上げた研究会への参加やオイルショツクで倒産した企業の再生のための製品開発まで多岐にわたった。こうした課題には、教科書がないものが多く、内外の文献を参考に自分で考えざるを得なかったが、教科書がないということは誰も正解を知らないということで、結果だけが問題であった。5年間こうした体験をすると狭い分野であるが世界や日本の現状が分かるようになり、二次元人間が三次元の存在になったように随分生きるのが楽になってきた。

この手記を書いた3年後に僕は再び名古屋に戻ってきた。そしてその20年後僕は再び東京へ転勤となり、単身赴任で定年まで5年間東京で過ごし、名古屋に戻ってきた。そして今東京は一つの都市として僕の心の中にあるし、僕自身は、今度は、四次元の存在になろうとしてもがいている。

訪問者 —-ときたま11号掲載

 我が家は県道沿いにあるせいで、頼みもしない様々な訪問者がよく訪れる。そのあるものは、宗教団体の勧誘であったり、政党の署名活動であったり。飛び込みのセールスであったりする。また、思いがけないことで、助けを求められたりもする。しかし、時として思いがけなく動物の訪問を受けることがある。そのはじめは、次女がまだ幼稚園にあがる少し前のある朝のこと、新聞を取るために、玄関ドアを開けると玄関のたたきの上に一匹の蟇蛙がチョコンと座っている。これには驚いたが、目が合い、とっさに追いはらう仕草をするとそれは、すぐ付近の草叢に姿を消した。すぐに次女を呼び、蟇蛙がお嫁に貰いたいとやって来たぞと云うと娘は、なんとも嫌な表情のまま黙っている。悪い冗談を言ったと反省した。

 最初の飼い猫の影千代が亡くなって間もなく家の玄関を訪れたのは、まだ生まれて数か月の白と黒のぶちの子猫であり、この猫は結局チビ小町と名づけ家で飼うことになり、これが我が家の最後の飼い猫となった。この猫を見送ってから20年以上経つが、この時以来、猫との関係を極力断ってきた。それには年のせいで猫の世話や生死にかかわりたくなくなったことが大きいし、10年程前のリニューアルの時に、自由に出入出来る猫用の出入り口を取り壊したことも関係している。

 しかし、そんな年寄の気持ちなど関せずと猫達はやってくる。最初はそのことにあまり気が付かなかったが、ある時、家の裏で大きな音がするので、何事かと覗いてみると一匹の野良猫が、外に出してある生ごみのゴミ箱の中に頭を突っ込んで藻掻いている、コラと大声を上げると身をひるがえして一目散に逃げていった。大柄の野良猫らしき三毛猫であった。其の後ゴミ箱はひっくり返されぬ用固定した。それ以後、注意してみているとこの猫らしき野良猫がどうやら、我が家の周辺を生活圏内にしているようでその姿をちょくちょく見かけるようになった。そしてどうもときたま家のベランダで日光浴もしているようなのである。しかし最後の飼い猫以後は、猫との関係を断つようにしたので、見かけたら追い払うようにしていた。しかし、そんな気持ちを知ってか、猫の方もいったんバッと逃げるものの敷地境界線近くまで逃げると一端立ち止まり、私の気持ちを推し量るようにじっとこちらを見つめる。こんなことがたびたびおこるようになった。そして、その野良猫は、ついに5月の連休に遊びにやって来た7歳の孫娘にも目撃されるまでになった。

 そして6月のはじめ事件が起こった。夕方、野良猫が死にそうな様子ベランダの横に倒れ込んでいると妻が云う。おそるおそる見てみると確かに瀕死の様子である。近づくと警戒の表情を浮かべ、動かそうとすると逆らってベランダの下に逃げ込もうとするが、たいして抵抗できず、簡単に動かされてしまう。見るからに、たいそう弱っている。死にかかっているといってもよいくらいだ。ほっておく分けにもいかないので、とのあえず皿に牛乳を注いで口元近くに持ってゆくと一瞬躊躇し、ジッと此方の目を見つめると敵意の無いことをみとめたのかすぐに舐め始めた。飢えで動けないのかも知れない。咄嗟にそう判断し、キャットフードを買いに近くのVドラッグに走った。三缶セットの一つをあけ、皿にもり、もう一つの皿に牛乳を注ぎ猫のもとに行くと驚くことに猫が2mばかり移動していた。最初の牛乳が効いたかもしれない。そこで、キャットブードと牛乳を与えるとキャットブードを数口食べ、牛乳を懸命に飲んでてる。これで様子を見ることにした。このとき、猫が横たわっていたのは、軒下のコンクリートの上であった。夜になり、雨も多少パラついてきたので、このままでは、身が持たないだろうと段ボールの寝床でも用意しようと見にいったらいつの間にか居なくなっていた。

 家の近くの草叢にでも入り死んでいるかも知れない。そう思い翌朝丹念に家の周りを調べたが、姿は見当たらなかった。あんなに弱り、這うこともままならなかったのによく立ち去ったものだ。それにしても野良猫との不思議な関係であった。弱った猫の訴えるような眼差しに、思わず救助行動をした自分とその行動を受け入れた猫との間には、生死の境における言葉にならない対話があったような気がした。

 あの猫には、自分が動けるようになる。それ以上の助けを求める気はさらさら無かったような気がしてならない。私がした行為は、生き物としての最低限のことであったが、あの猫は、一瞬だけ自分の生死を未知の存在である私の善意にゆだね、その場を生きる伸びることを選んだ、それは猫にとっての猫生最大の出来事だったに違いない。

 あの猫は、その後姿を見せない、その理由は分からないが、その後どこかの林の片隅で静かに終末を迎えたかも知れないし、以外と飼い猫であったりして、もう遊び癖を止めてどこかの家の片隅で静かに余生を楽しんでいるかも知れない。しかし、出来ることならもう一度、元気な姿を見せ、あの時を振り返るようにじっとこちらを見つめて欲しい。了