老教授の最終講義 ときたま13号掲載

それを思い出したのは、脳科学関係の本のまとめをしている時であった。2000年の正月あけに一本の電話がかかってきた。その数年前、研究の自由を求めて名古屋大学教授職を投げうち、東京理科大へ転職した変わりものと云われた辻本教授からだった。それが、元東大建築学科の斎藤節教授の最終講義への参加の呼びかけであった。そのきっかけとなったのは、私が彼に送った年賀状代わりの一本のメールだったらしい、その内容は、よく覚えていないが、当時私は、人事異動で会社の新しい環境対策部門へ移ることになっており、その挨拶をかねて、これからは、加速度的に進む地球温暖化と人類の知の進歩のせめぎ合いの時代になる等のことを書いた記憶がある。その内容を読んで老教授の講義に興味があるのではと連絡したとの話で、私にその資格があるだろかの問いかけに、松田さんは、当時の建築学の先生の研究室に出入りしていたし、先生もよくご存じであるので問題ないとのことであった。そんな分けで、その老元教授の最終講義に出席することになった。

私が赤門のある東大の古い建物内の建築学科の研究室に2年近く出入りするようになったのは、オイルショック後の昭和49年(1974年)頃のことであるが、それには、いきさつがある。その前年の昭和47年から昭和48年にかけては、大阪の千日デパート火災、熊本の大洋デパート火災が相次いで起こり、この火災で多くの人が犠牲になったが、その原因が、空調用のダクトを介した下層階からの煙の伝搬であった。その当時、これ等のダクトの防火壁画貫通部には、温度ヒューズで作動して通路を閉鎖する防火ダンパーを設置することになっていたが、その技術基準が曖昧であった。そのため、その技術基準を告示で定めるための告示原案作成委員会が建設省配下に設置されることになり、その委員会の委員に設備学会の理事であった上司が就任したため、私もその手助けの為その委員会の仕事に加わることになった。その委員会は、建設省の役人の他、東京消防庁、建築設計大手の日建設計、東京大学建築学科の代表者から構成されており、その委員の下の実務担当としてワーキンググループが組織され、私もその一員として働くことになった。その仕事は、広く諸外国の技術基準を調査することと国内に出回る当時の防火ダンパーの性能を調べることであった。その性能試練の一部を東大の斎藤妍が担うことになり、私もそこで、試験装置の製作や測定を手伝うことになった。

 防災関係の仕事は、それだけでは終わらなかった。千日デパート火災や大洋デパート火災では、下層階で発生した煙が問題となり、この煙の対策として、防排煙技術が大きなテーマとなり、建物に火災時の排煙設備の設置が義務づけられることになったが、火災の性状や煙の挙動がよく分かっていなかったため、その技術基準の確立が求められていた。こちらの方面にも同じようなメンバーによる委員会が設置されたが、こちらには、火災学会の権威であった東京理科大の教授とそのグループも加わった。この一連の過程では、実際の現場での煙の伝搬現象と煙制御のための排煙設備容量が問題となり、この現場として廃棄予定の米軍王子病院と富国生命ビルが選ばれ、その実験を東大の斎藤研が担うことになり、そのリーダーが、当時大学院生であった辻本氏であり、私も彼を補佐する役割として実験に取り組んだ。

 委員会は、月1回から2回開かれ、その一週間前には、委員長の教授に資料を送り目を通してもらう必要があるが、これが大変であった。当時国立大学の教授は、授業時間以外は、各種委員会活動で、午前の会、午後の会、夜の会で詰まっており、連絡がつき話が出来るのは、朝8時15分から30分間と決まっておりそれ以外は、連絡もつかない程であった。この防災プロジェクトの論文で卒業した辻本氏と再会したのは、彼が卒業後名古屋大学建築学科の助手として赴任してきたときで、その時私も名古屋に戻ってきていて、大学の実験施設の設計や製作への協力等て、継続的な交流があった。斎藤先生の最終講義に誘われたとき、私が研究室に出入りしてからすでに25年近く経っており、先生も80歳を超えた年齢になっていた。

 最終講義の会場は、東京神保町にある学士会館の1階の会議室で行われた。12畳程の小さな会議室で、受講は、私と辻本夫妻他に先生の教え子で研究室の卒業生4~5名の8名程だった。講義のタイトルは、自然と人類―われらはいま、何をなすべきかーであり、講義のレジメが容易されており、表紙の他、講義の全体を表した目次1枚と7枚の図表から成り立っていた。表紙の下には、「地球環境問題が論じられ、危機感を持っている。建築環境工学を名乗っている立場上意見をまとめてみたものである」と書かれており、環境問題の原因は人口増であり、それを減らすのが正しいが、それが出来ないなら新しい技術の発明以外にない。と書かれていた。添付図表は、100N年を単位とした人類図表、生態系のバランス図表、太陽光・風力関係図表の他、脳に関する図表が3枚添付されていた。

講義は、極めてのまじめなもので、午後1時から始まった先生の話は、午後3時まで休憩無しの2時間  に亘った。其の後10分ばかりのコーヒーブレイクの後、1時間ばかり、辻本教授の奥さんからヨーロッパにおけるカテドール建築の歴史がスライドで紹介された。

講義の後は、夕食会で、会場は新宿のイタリア料理店であった。そこには、最終講義には参加できなかった卒業生経ち15名ばかりが集まっていて。なごやかな歓談の内にワインが進んだ。何人もの人達と名刺交換したが、名の知られた会社の人達ばかりであった。酔いが回ると心配なので、早めに会場を後にしたが、横浜の新幹線ホームでの間違はあったが、なんとか無事に名古屋に帰りついた、

老教授のレジメに3枚もの脳に関する図表が添付されていた理由と気持ちは、今の私には理解できる。当時老教授は、これはいずれ本にして出版したいと語っていたが、その願いはかなわず、その3年程後に亡くなった。 学士会館は、旧帝大出の学士会が中心となり関東大震災の後に建てられた建物であるが、建築後100年も経た建物で老朽化したため、再開発のため2024年12月28日で閉館し取り壊された。(了)