五年程前、家のリニューアルをしたときのことである。二人の娘が嫁いで出て行った後には、彼女等のそれまでの生活の足跡が各所に残されていて、その整理が問題となった。その中に、数多くの教科書や参考書、辞書の類があった。これ等を思い切って捨てることにしたが、まだ使えると思われるものは、残すことにした。特に、辞書類の一部は、自分の古いものと交換し。また、図鑑もまだ使えると判断した。
しかし、教科書や参考書は、もはや不要のものと思われ、その多くを処分した。しかし、その中にどうしても、捨てがたいものがあり、その一つが高校時代の漢文の教科書であった。その教科書の中に、杜甫や李白、韓愈の詩と共に蘇軾の名文「前赤壁賦」を見つけ思わず胸が熱くなった。「壬)の秋、七月既望、蘇子客と舟を泛べて赤壁の下に遊ぶ。」で始まるこの名文は、今でもその半分を諳んじることが出来る程好きな文であったことを思い出したが、後半が思い出せなく、それが心に残り、いつか読み返そうと残すことにした。
最近になって三国志の「赤壁の戦い」をテーマとした映画「レッドウルフ」を見ていて蘇軾の名文「前赤壁賦」を思い出し、あらため読み直し、それと共に、青春時代に詩や名文と出会った頃の思いが鮮明に蘇ってきた。
僕は、高校時代、山岳部に入部したが、その動機は、当時愛読していた国木田独歩や若山牧水の詩に歌われる自然に魅かれたからであり、とくに独歩の「武蔵野」は暗誦するまでも好きであった。詩や名文へのこうした憧れは、中学時代にテニス部とともに合唱部に所属していたことや、放送室に出入りしてクラッシック音楽を聴いたことと関係している。中学・高校は、受験勉強に追われたが、国語の中に出ていた北原白秋の「落葉松の林」等の抒情詩には、心弾むものがあった。漢詩には、高校時代に初めて出会ったが、五言律詩や七音律詩のリズムやそれを基調とする名文に心をふるわせた。特に、漢文の先生は、詩吟の名人でもあり、講義の時、幾つかの詩を皆の前で朗朗と吟じて、我々を感動させた。その中でも「岐山悲愁の風更けて、陣雲暗し五丈原、零露の文は繁くして・・・・」で始まる土井晩翠の三国史の諸葛孔明の死を詠った長詩「星落秋風五丈原」の詩吟は圧巻であった。
大学生になって、すぐ文学サークルに入った。文学サークルでの活動は、一年にも満たない期間で、数回の読書会に参加したことと文学を語れる友人を得た程度であったが、西欧の詩や現代詩に接するきっかけとなった。特に、現代詩についての決定的な出会いは、大学の文学サークルで一篇の詩と評論に出会ったことである。当時このサークルでは、「不毛の地名大に芸術の花を咲かせよう」のスローガンを掲げて「砂漠」という同人誌を発行していたが、その中に石井守さんの詩が掲載されていた。別れを詠った詩であり、同じ号に収録されていた村野四郎と現代詩に関する評論あった。そこで読んだ詩の書き出しは、次の詩句で始まっていた。
風景の中を木枯らしが吹き抜けるように
今こころの中から
すべての風景が消え去ってゆくのであった
さようなら、傷口がまだレモンのように匂っている間に
僕等は右と左に分かれよう
今は、心が貨幣のように固い時代なのだから
その声は沈黙の中へ
沈黙は都会の騒音の中に掻き消える
・・・・・・
五十二年前に出会ったこの詩はさらに続くが。当時の自分の生きている状況と生に対する新しい抒情に目覚めさせてくれたものとして終生忘れられぬものとなった。また、その時目にした村野四郎に関する評論もその内容を思い出すことは出来ないが、その詩が、哲学的な存在論をベースとした絵画的・イメージ的なものであり、それが、今まで慣れ親しんできた音楽的なリズムを主体とする抒情詩と全く異質なことにショックを受けたことは、はっきりと覚えている。その一つ槍投げという詩
あなたの狙ふのは何です
新しい原始の人よ
ふるえながら光は飛んだ
その方向で
突然おそろしい喚きごゑ
ごらん
背中に槍をたてられ
一瞬にげようと蹌くもの
しかし それも
ぢきに静かになる (村野四郎体操詩集より)
こうした詩の世界への導きとなったのは、創元社のポエムライブラリの四と六として発行された「西洋の詩を読む人に」と「現代詩はどう歩んできたか」(昭和三十一年発行)の二冊の本であり、西欧詩と現代詩への探索が始まった。
特に、中学からの友人の一人が早稲田の仏文科へ進んで、その影響もあって、ボールドレール、ヴアレリー、ランボーやマラルメ等のフランス関連の詩に接するようになったが、ゲーテやバイロン、リルケ等のドイツ関連詩にも魅かれていた。シュールリアリズム関連のフランスの詩は、訳語の問題もあり、フランス語を学んでいなかった僕には難解で、やがて興味は、エリュアールやアラゴン等の分かり易い左翼詩人に向かった。ドイツ詩は、ドイツ浪漫主義の詩から、ブレヒト等に向かったが、リルケの「マルテの手記」と「ドウイノの悲歌」に出会って終わり,アメリカでは、ポーからホイットマン、オーディンの詩と出会い、スペインでは、ロルカの詩に惹かれた。イギリスでは、ワーズワースの抒情詩に接したが、英文学の梅津先生の影響で、ブレイクの詩に興味をもった。ロシアの詩としては、手元に創元社版の「レールモントフ抒情詩集」(昭和二十七年発行)しかない。
日本の現代詩については、すぐに荒地派グル―プの詩に辿りつく、荒地派は、一九四七年~一九四八年にかけて刊行された現代詩の同人誌「荒地」に属した詩人達で、その中には、鮎川信夫、北村太郎、中桐雅夫、加島祥造、三好豊一郎、黒田三郎、高野喜久雄、田村隆一、野田理一、吉本隆明等がいる。「荒地」の名前は、第一次世界大戦後、T・Sエリオットが著した詩集「The Waste Land(一九二二)」による。
彼等は戦前のモダニズム詩やシュルレアリスム詩に影響を受けながらも、ヴァレリーらの西洋の大戦間詩人にも通暁していて、戦争での文明的変容の中で批判的に詩法を問い直し、独自のスタイルを確立してゆく。一九六十年代には、「荒地」は廃刊されていたが、その詩は、まだ時代の空気で呼吸していた。僕は、この荒地派の詩人達の詩集を読む中で田村隆一の詩と出会う。彼の詩の意味は、分からなかったが、言葉のリズムと言葉のイメージの融合が、僕の心と共鳴し、生きることの感動を呼び起こしてくれ、恋にも似た情感を感ずることができた。それ以来、数十年間、彼のあらゆる作品を読み続けている。その田村隆一は、詩集「一九九九年」の中で、「さようなら、遺伝子と電子工学だけを残した人間の世紀末」と詠い一九九八年八月七五才で亡くなった。その一〇月に現代詩手帳が田村隆一の特集号を出し、僕は、これによってその死の様子を知った。僕にとっては、一度会って肉声を聞きたいと思う数少ない人の一人であっただけに残念であった。
荒地派の詩は、詩と言葉と存在の関係について考えるきっかけともなった。言葉には、論理的な側面とイメージ又は感情的な非論理的側面がある。このことは、大学時代から問題意識としてもっていた。社会人として技術の世界に入ってからは、論理的な側面としての言語と格闘することになる。設計と建築現場を経験した後、上京し配属された技術開発室という部署での仕事の一つは、内外の技術文書を調査し、その時点の技術的指針を設計基準や技術レポートの形でまとめることであったが、ここでは、情報伝達のツールとしての言語の扱いかたが問題になり、修飾語の掛かり方や接続詞の用い方を徹底的に学ぶことになった。また、英語の論文を日本語に翻訳する中で、その困難さが、その内容の理解より日本語で表現することにあることも痛感した。これらの技術文書の執筆経験の中で、基本的用語ほどその概念を明確にしないと論理展開が出来ないことも学んだ。
非論理的側面として言葉の代表は、詩であるが、それが宇宙や世界認識と密接に関係しているのを痛感したのは、良寛の漢詩に出会ってからである。その一つ
蕭条三間屋 蕭条三間の屋
終日人無観 終日人の観る無し
独座閒窓下 独座す閒窓の下
只聞落葉頻 只聞く、落葉の頻りなるを
この漢詩では、漢字の形で絵画的イメージを表し 、意味で音楽を奏で、合わせて心の宇宙を表すように感じた。この視点から良寛詩集(渡辺秀英;木耳社:一九九四・三・一〇増訂五刷)を読み、その勢いで、一休宗純 狂雲集(柳田聖山訳:中央公論社二〇〇一・四・一〇発行)、空海の詩(阿部竜樹:(株)春秋社を読む。その中の一つ
後夜に仏法僧鳥を聞く
閑林独座草堂暁 閑林の草堂に独り座り暁を迎える
三宝之声聞一鳥 三宝の声を一鳥に聞く
一鳥有声人有心 鳥の声とわが心が響きあい
声心雲水倶了了 声と心、雲と水が暁に融ける
言葉が、論理や感情だけでなく一つの宇宙に連なっていると感じるようになった。空海の声字実相義は、言葉と宇宙の関係を詩の形で表現したものであるが、そこにいわく。
五大皆有響 五大(地、水、火、風、空)に皆響きあり
十界具言語 十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人等)に言語を具す
六塵悉文字 六塵(色、声、香、味、触、法)は悉く文字なり
法身是実相 法身(大日如来)は、実相なり
二〇一〇年、東京駅の八重洲口側にあるブックセンターに立ち寄ったとき、ちくま学芸文庫のコーナーで、言語に関する一冊の本に出会った。それが「言葉とはなにか」(丸山圭三郎:筑摩書房:二〇一〇・六・一〇第三刷)であった。なにげなく手に取ったその本には、今までの言語に対する僕の疑問を一挙に解消してくれる内容が書かれていた。言葉(ラング)は、一般に信じられているように「物や概念の呼び名」ではなく、人間に備わっている言語化能力(ランガージュ)により、混沌とした未分化の世界を切り取った結果であり、どのように切り取るかにより、個別の言語が誕生する。言葉の切り取り方が異なれば、当然言語ごとに連合関係もなってくる。ある地域での切り取り方は、その地域での特有の言語と文化を発生させ、それが民族を形成する。この基本的なヒントを僕は、大学時代に与えられていた。英文学の講義の中で、梅津先生は、リップという言葉は、日本語では、唇と訳されるが、リップと唇は、同じ領域を示していなくて、リップは、唇より広い範囲を表すので、英語では、リップに髭がある等の表現が成り立つ。このように異なる言語は必ずしも一対一の対応が成り立つものではないと説明されていた。そして、大学時代、物理学の本と格闘した結果、本は、順に読めば理解できるとは限らす、一通り最後まで、読むことにより、初めの一頁が理解できる場合が多いことを学んでいたが、一つの言語は他の言語との連合の中でその役割や定義を明確にすることを考えれば極めて当然のことであった。
言葉は、そのままでは混沌でしかない世界に秩序をもたらすものであるなら、言葉は世界そのものであり、「始めに言葉ありき」の意味が明らかになる。丸山圭三郎の「言葉とはなにか」は、スイスの言語哲学者のソシュール(一八五七~ 一九一三)の言語論を発展させたものであり、その思想は、「言葉・狂気・エロス」(丸山圭三郎 (株)講談社二〇〇七 .一〇.一〇第一刷)「ソシュールを読む」(丸山圭三郎 (株)講談社 二〇一二.七.一〇第一刷)でその詳細を知ることが出来る。僕が、これ等の書物を手にしたとき、丸山圭三郎は一九九三年に六〇才で既に亡くなっていた。この本にもっと早く、大学生の時に出会っていたら、僕の勉強法はその影響を受け、僕の人生は、もっと違ったものになっていたかもしれない。完