- 西欧詩と私
高校時代にランボオやボードレール、マラルメといったフランス象徴主義の詩に魅かれたのは、私だけではなかったようである。永い間、これは、その当時、旭丘文芸部にいた、友人の影響で極めて、限定的な現象であったと思い込んでいた。しかし、ある時、あれっと思わされる出来事があった。それは、明倫山岳会の70周年記念のパーティの席上でのことである。たまたま、同じテーブルに居合わせた一年下の尾崎という男が、高校時代、やはりランボオ等フランス象徴主義の詩に夢中になっていたと語っていた。彼とは、当時それほど親しくなかったこともあり、話はそれ以上に進まなかったが、あの当時僕らの世代の中にある一定の広がりをもって、フランスの象徴詩やシュールリアリズムへの憧れかがあったのは、事実である。
その後、私の関心は、ブレイクやエリオット等に代表されるイギリスの詩やドイツロマン主義に移ってゆき、フランスの詩では、ルイ・アラゴン等わかりやすい詩にしか興味がわかなくなった。しかし、潜在意識の中で、あれは何であったのかという疑問がずっと続いていた。
フランス象徴主義と社会問題との関係を教えてくれたのは、古書展で、見つけた大島博光のランボウ(新日本出版1987年初版)であったが、この本では、ランボーとバリコミュ―ンの関係等象徴詩とフランス社会との関係が詳しく語られていたが、それは、きわめて外面的な史実の記述で、私の疑問に応えるようなものではなかった。
数年前、仲間と飯田市を訪ねたことがあり、そこで英文学者の日夏耿之介の名前を知り、彼の記念館での解説から彼の仕事に興味を持ち、書店で彼の代表的な著作、「サバト恠異帳」(ちくま学芸文庫2003年第一刷発行)を手にいれたが、大正生まれ(1890~1971)の碩学の古今東西の西欧から日本に亘るデモロジー(悪魔学)、オカルティズム(隠秘学)、ウイッチクラフト(魔女 の魔術(呪術))、ミスティシズム(神秘主義)等の知識に圧倒されるばかりで、文学の奥深さを知らされた。
2.渋澤龍彦について
以前から名前だけは、知っている渋澤龍彦に改めて興味を持つようになったのは、日夏耿之介を知った前後の時期である。そのきっかけは、数年前、死を目前にして人は何を考えるのだろうかに興味を持ち、著名な人達の最後の文章を読み散らしたことと関係がある。この時中野幸次等と並んで渋澤龍彦の「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」という最後のエッセイ集を読み、これをきっかけとして彼の「高円丘宮航海記」を読み、次第に澁澤龍彦の世界に興味を抱くようになった。無論澁澤龍彦の名前は、「サド裁判」で知っていたし、彼の翻訳したマルキド・サドの「悪徳の栄え」はすでに高校時代に興味本位で読んだこともあった。しかし、理想主義的であった当時の私には、その世界は到底受け入れることできないものであった。しかし、今の年になってみれば、彼の世界は奥深く驚異に満ちているように思われ、それ以来、古書店で、彼の単庫本を見つけ次第に買い求めるようになり、その数は20冊以上になる。
そんな時、古書店で新たな一冊を見つけたそれが、「悪魔のいる文学史―神秘家と狂詩人―」(昭和57年2月初版)であった。澁澤龍彦(1928年~1987年8月5日)は、31歳で結婚するも9年で死別し、40歳で再婚し、59歳でなくなっているが、これは、1982年つまり彼が54歳の時の作品である。
澁澤龍彦は、苦労人である。終戦直後旧制高校へ進学、二浪して東大文学部に入学するが、肺結核で就職できず、校正と翻訳の傍ら作家活動を行う。サドの「悪徳の栄え」の翻訳で、有罪となり、世間で歪んで受け取られるも、三島由紀夫等に評価され昭和56年には、泉鏡花賞を受賞している。
この「悪魔のいる文学史―神秘家と狂詩人―」は、この本の文庫版のあとがきで作者み自からが語っているように、フランス文学者らしからぬ作者が書いた「純然たるフランス文学についてのエッセイ集」である。この中で彼は、フランス文学史における三つの流れについて述べている。その三つの流れとは、まず、第一にフランスにおける「神秘主義乃至隠秘主義(オカルティズム)の伝統」であり、第二に「19世紀初頭における小ロマン派の運動であり」第三は「19世紀末における象徴詩派の一部過激分子達の動向である」、ここでは、私が西欧思想の中で従来密かに探究してきた、神秘主義、ロマン主義と漠として位置付けのはっきりしていなかったフランス象徴詩運動の関係が、統一的に取り上げられていた。