姉と友人の死の前後

もう15年も前のことである。当時私は。単身赴任で東京で働いていた。単身赴任2年目の11月、姉が心不全で入院との連絡を受け、港区の協立病院を訪れたのが今さらのように思い出される。

看護をしていた養女のN子の話では、則雄はどうしたとさかんに私の名前を呼んでいたとのことで、私が東京から来たことを告げると何か納得し落ち着いた様子を見せるのであった。

付き添いしていれる義兄の話によると心不全の原因は血管の部分閉塞であり、その手術中に血管の破片が飛んで、脳系統の血管に入り込み、それが原因となり、脳梗塞を患っているとのことであった。

僕と面と向かっているときは、別に以前と大きな変化はないように見えたが、付き添いの人たちの意見を聞くと、意識の明暗の変化がかなり激しく、意識が明確なときは普段と変わらないが、意識が混濁してくると感情や欲望が丸出しになるらしく点滴もそのときにははずしたりするので、目が離せないとのことであった。

しかし、入院してまもなく病状が安定したということで、翌2月には退院して自宅療養をすることになり、少しはよくなるのかと期待をもつようになった。自宅療養するようになってから、自宅へ電話を入れるとかなりはっきりした反応であったので安心して見舞いにゆくと、以前と変わらぬように接してくれるので、快方に向かっていると思っていると付き添いの養女や義兄からは実は夜が目が離せないので大変との話であった。

4月に会社の人事異動と組織変更がありこの対応に追われて、2ケ月ぶりに姉を見舞ったのは、5月の初めであった。相変らずやさしく出迎えてくれたが、何か様子がおかしいので尋ねると昨夜誤って乾燥剤を口に入れ、それを除去するため、水でうがいをしたがこれが悪く、化学反応で発熱し、口の中を火傷したとのことであった。

しかし、痛みは多少和らいできたと見え、お経を上げたいということで、仏壇の前に座らせるとまもなくお経を始めた。しかし、どうも以前と様子が違うので横で見ているとまもなく彼女の目は、文字面を必死に追っているがもはや文字は意味のあるものとして理解できていない様子であった。

経文が途切れ途切れとなるので、一緒にお経を上げることになったが、彼女の読経は、もはや経文を読んでいるのではなく、自分の記憶の彼方から経文の断片を引き出してくるのがやっとの状態であることがハッキリとしてきた。

あれほどお経を上げることが好きであった姉が、その好きなお経も満足に上げられなくなっている。もはや彼女の意識は、別の世界に行ってしまっている。この事実を目の前にして思わず涙がこみ上げてきたが隣には、義兄がおり、大の大人が泣くこともままならず、嗚咽を押さえるように姉と観音経の数節を読み上げた。

僕の中からあの心強かった姉が明らかに遠くへ去っていったとの思いが不意に沸き起こってきて止めどもなく涙が流れる思いがした。お経を共に上げた後、姉は少し、恥ずかしげに僕に向かって「ありがとう」といったが、これが僕との別れであることがなんとなく感じられた。僕にとって姉が遠くに去っていったとの思いを強くした翌日僕は東京に帰った。

そして、6月1日(土)外出から帰ると留守電が入っていた。相手は、大学の同窓のS君弁護士の斎藤君の死を知らせる電話であった。彼は、5月26日に死去し既に密葬は終わっているとの話でお別れ会を6月の終わりに計画しているとの話であった。

ちょうど一年程前、理学部の同窓会の席上で、高校の先生をしているSM君から話を聞き半信半疑でメールで問い合わせたら、実は一昨年の12月に胃がんが見つかり、手術で胃を全摘出し、その後一時持ちなおしたが、又再発し、現在は抗癌剤をうちつつ仕事をしているが、まだ多少酒も飲めるので今のうちに一度会いたいとのことであった。

一人で会うには、気後れしたので、TY、SS,TKの三人を誘って斎藤と会い、食事をし、クラブで青春時代の歌を唄った。斎藤とは、その後、浜松の観山寺温泉での同窓会、大学時代のサークルの同窓会と2回に渡って話をする機会があり、それなりに出来ることはやったので悔いはないが心の味方の一人が無くなったとの思いが次第に気持ちを重くしていた。

その一週間後の6月7日(金)名古屋に帰った。再度入院したとの連絡を受け、姉の病状が心配であり、見舞いが必要であると感じたためである。翌日病院につくと姪達が付き添っていた。姉の意識は、ほとんどなく、容態はかなり悪そうであった。昨日の夜の12時頃容態が急に悪くなったが、今は持ち直して安定しているとのことであった。看護を続けていた姪達の疲労の色も濃くなっていたので、その日は、夕方近くまで付き添った。まだ命はあるそんな感じがしていた。

月曜日早朝の「のぞみ」で上京して、出社した。出社してまもなく自宅から電話が入った。すぐに姉の死の連絡と直感した。僕は、翌日からの予定をキャンセルしすぐ名古屋へ引き返した。

11日お通夜、12日葬儀と慌しい時間があっという間にすぎた。13日の名古屋での会議に出席したものの翌日は休暇をとり、7の2回目の法要を終えて、日曜日に東京へ戻った。

斉藤君のお別れ会は、6月27日にあったがどうしても出席できなかった。仕事の遅れもあったが、何より行動する気力が衰えていた。彼を悼むメッセージを送って気持ちの整理をするのが精一杯であった。

体に異変を感じたのは、その後からであった。水晶体出血で眼科にゆき、皮膚の発疹で皮膚科にゆき、そしてひどい風邪で内科にかかった。自分の生命力の衰えを感じさせられる出来事であった。二人の死によって自分の命を支えてくれていた力がなくなったせいかも知れない。人は、皆無数の人の命によって支えられており、その支えの力が弱まったときが「死」を迎えるときかもしれない。そんな考えが脳裏を横切った。7月末、姉の49日の法要があり、僕の体を気遣った姪の一人が「おじさん、体を大事にしてね」と声をかけてくれた。見えない力がそっと自分を支えてくれているのを感じた。  完