AIで絵を描いてみました。(Bing Image Creator)

入力条件(日本語と英語)

聖なる森の絵

巨木がある夜の森、奥に月の光が降り注ぎ広場があり、数匹の鹿が見える。巨木の枝には

フクロウと鷹の姿、巨木の基に猫を抱いた少女が佇む。木木の暗い隙間から無数の

目が光っている。

Painting of the Sacred Forest

There is a forest at night with huge trees, a plaza with moonlight in the back, and several deer. On the branches of giant trees

An owl and a hawk stand at the base of a huge tree with a cat in her arms. Countless from the dark gaps of wood and wood

Eyes glowing.

一冊の本

書棚にあった一冊の本

紙の箱に収まった

立派な製本の本

55年振りに目を通した

本の名は

サイバネティツクス

ノーバート・ウイナー著

1948年出版の書

手にしたのは、

その第二版の翻訳本

1973年の発行

人工知能について

考えていて

思い出し、取り出したものだ

何故こんな本が手元にありうるのか

すっかり忘れていた

それが数日たって思い出された

大学を卒業して5年

理学から工学へ

工学から建設現場へ

環境が激変する中で、

僕は、自分の現在と

自分の原点を結ぶものを

必死に探しもとめていた

この本は、その頃の

自分の形見なのだ

理学、物理学と現場を

繋ぐ手がかりを必死

もとめていた自分の姿なのだ

科学と工学繋ぐものがそこにある

僕の直観は間違っていなかった

だだ、工学の知識の乏しかった

当時の私には

難しかった

その本は序文だけ読んで

捨て置かれていた

壁と格闘し敗れた

記録でもある

あの頃の自分が

いとおしく思えた

タイムマシンに乗って

助けてやりたいと思った

飛翔

僕らは突然飛翔したくなる

日常生活の中で

突然現れた霧の中

湘南の浜辺におしよせる

春風や

銀座のビルの陰で

襲われる驟雨の中で

そして友に会いたいと思う

しかし地図となる友はもういない

僕は孤独だ

僕等はどこへ行けば良いのか

僕は人口知能チャットGPTに尋ねる

しばらくの沈黙の後

人工知能はおもむろに答える

どこにゆきたいのですかと

時は迫ってきている

人生は起承転結ではない

人生は序破急だ

ゆっくりとはじまり

突然局面が展開する

そして時間の流れが

徐々に速くなる

交響曲の最終章は

加速度的だ、そして

知のシンギュラリテイのような

特異点が現れる

僕が目覚めるのは

その地平の果てだ

 生死と天人五衰

何か大切なものにまだ出会っていないのではないか。そんな気がしたのは、佐賀出身で明治維新後三十四歳で頭角を現し、新政府で日本の司法制度を確立し、司法卿(法務大臣)で参事にまでのぼりつめ、征韓論をめぐって、大久保利通等と対立し、西郷隆盛と共に下野し、明治七年の佐賀の乱で敗れて四十一歳で梟首刑となる江藤新平の生涯を描いた司馬遼太郎の「歳月」という小説を読んでからである。それは、維新後の革命政権を舞台とし、時の勢に翻弄され時代を生きた個人の目を通した歴史物語で、文庫本で七百頁ものその本を五日程で読了した後思わず湧き上がってきた感情であった。

その本を見つけたのは、平田町の交差点近くの古書センターで、月一回開かれる「古書展」の三冊100円のコーナーの中からであった。この古書展では、一千冊あまりの書籍が投げ売りされるため、愛書家にとっては、宝の山と出会う貴重な機会と思われる。

この古書展で、三島由紀夫の最後の長編小説「豊穣の海」を見つけたのは、司馬遼太郎の「歳月」を見つけた一か月後の古書展でのことである。「豊穣の海」は、全4巻からなり、第一巻が「春の雪」第二巻が「奔馬」第三巻が「暁の寺」第四巻が「天人五衰」であるが僕が見つけたのは、第三巻の「暁の寺」と第四巻の「天人五衰」の二冊で、いずれも昭和46年に発行され黒字の装丁された箱に納められた新潮の初版本であった。これ等は、一冊100円のコーナーに無造作に置かれていた。紙は古くなっていたが、読まれた形跡はなかった。値段が安いのは、四巻揃っていないためかあるいは「三島由紀夫」そのものがもはや顧みられない作家となってしまったのか。一冊六百グラムもある本を二冊持つ煩わしさもある。数分の迷いの後、購入を決めた。その理由は、三島由紀夫にとって最後となったこの作品の中に、彼が人生の最後にみた風景と死生観が書かれているに違いないと確信したからであった。

我々は、同じ世界に生きていることを当然のこととしているが、年を経るに従って、人は各々全く違う宇宙や風景の中で生きているという思いに囚われるようになった。

 その宇宙や風景を単的に示すものとしては、絵画や詩があるが、作家にとっては小説でしかない。七十を過ぎた僕にとって、今関心があるのは、死を間時かに控えた人生の終わりに人はどんな風景を見ていたかであるが、絵画や詩に比べて小説は大部な媒体であるため時間と集中力を要するし、目も疲れる。このため、小説類は、極めて限定することにしている。この観点で、この十年間で読んだのは、埴谷雄高の「死霊」ぐらいで、もう他はないと思っていたが、この本を手にして、三島由紀夫が最後にどんな世界と風景の中で死んだのか無性に知りたくなった。

 三島由紀夫(本名平岡 公威)は、一九二五年生まれ、学習院高等科を首席で卒業、昭和天皇から恩賜の銀時計を拝受。東大在学中、一九四五年二月に兵役検査を受けるも気管支炎で不合格となる。東大法学部後 一時大蔵省事務官になるがすぐに退職し作家生活に入る。十代から、文藝に親しみ、戦前から川端康成と交友があった。一九四九年「仮面の告白」で作家としての地位確立、代表作「潮騒」「金閣寺」等多数。千九百五十八年日本画家・杉山寧の長女・瑤子と結婚。一男一女をもうける。

一九七〇年(昭和四五年)十一月、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)を訪れて東部方面総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、その約五分後に割腹自殺を遂げた。享年四十五歳。

 三島由紀夫が、割腹自殺したのは、僕の就職後間もない70年安保の真っ只中の時期で、新聞に取り上げられたが、「不可解」の一言に尽きる事件だった。その当時三島由紀夫については、「右翼作家」のイメージが強く、一切関心がなかった。その三島由紀夫に少し興味が湧いたのは、テレビのある旅の番組で、三島由紀夫のファンと云う女優の常盤貴子が、紀行文集『アポロの杯』の中一節に触れたのをみて、彼の文学の中に若い女性を動かす感性があると気づかされてからである。その三島由紀夫の最晩年(と云ってもたかが45歳でしかないが)の作品を読めば、その当時の彼の宇宙と風景が見えて彼の不可解な行動の謎に迫れるかもしれない。それが「豊穣の海」を読んでみる気になった理由であった。

「暁の寺」は、タイ、バンコックの大理石寺院と王宮を主な舞台とする四十代の主人公と幼い姫をめぐる物語であり、「天人五衰」は、70代の主人公と10代の少年をめぐる生の頂点と死滅をテーマとした物語で、いずれも輪廻転生をテーマとしている。その始まりは、第一巻の恋愛をテーマとする「春の雪」であり、それが、第二巻の青年期の政治運動をテーマとする「奔馬」でこれが、輪廻転生の最初の展開に引き継がれる。つまり、「豊穣の海」は、輪廻転生をテーマとして四つの巻が起承転結で結ばれた物語と云える。第四巻の「天人五衰」の完成の11月25日の日付が、彼の割腹自殺した日付となっているのは、まさしくこの作品の最後の風景が彼の人生の最後の風景であることを物語っている。

司馬遼太郎の歴史小説「歳月」が、歴史上の個人の眼を通した「歴史」であるならば、三島由紀夫の「豊穣の海」は、彼の眼を通した「世界」と云えるかもしれない。1923年生まれの司馬遼太郎は、1925年生まれの三島由紀夫と同じ世代でありながら全く異なる空間に生きたかに見える。それが僕には、住んでいる世界の時間方向の違いではないかと思える。

物理学者のホーキングは、「最新宇宙論」の中で、普通の時間とは垂直な方向を持つ虚時間を仮定すれば、特異点を考えない無境界の時空を考えることが出来き、空から有の宇宙の誕生が説明可能だと述べているが、司馬遼太郎が「実時間の宇宙」を感じていたのに対して三島由紀夫は、「虚時間の宇宙」を感じていたことにはならないだろうか。虚時間の宇宙では、時間は、球面上の空間のように円環的である。実時間からみれば、虚時間はその一瞬間であり、虚偽間から見れば、実時間がその一瞬間ということになる。一般の科学は(従って歴史学も)実時間の中にあるが、芸術は、虚時間の中にある。虚時間の中では、現在、過去、未来がすべて実時間の一瞬の中に現れる。

 臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師の話に次のようなものがある。若いとき唐の天才禅僧厳頭の話として、『厳頭が法難を避けて世を韜晦して俗形となって渡し守をしていたが、盗賊に首を切られ「痛いっ」と大声を発して死んだ、その叫び声が数里も聞こえた。」という話を聞き、それほど禅僧でも、盗賊の難を転ずることが出来ないなら禅学道にどんな意味があるのかとの疑問をもった。しかし、その後修行に勢を出し、ある晩、暁に達し、折から遠くの鐘の音が「ゴーン」と響いた。その微かな音が耳に入ったとたんに、徹底して煩悩の塵が落ち、ちょうど耳のあたりで大鐘を打つたように聞こえ、白隠 豁然として大悟して叫んだ「やれやれ。厳頭和尚は豆息災であったわやい。厳頭和尚は豆息災であったわやい。」という話である。臨済禅では、「見性」体験が重視されるが、この話は、その例として有名である。この話は、「芸術」における「美」や「永遠性」との出会いに似ている。

 三島由紀夫は、実時間の現実の世界を虚時間の芸術世界で塗りつくそうとしたが、それは、実時間の中の本の一瞬間に戻ることで、それは、1945年の8月15日の敗戦の年の夏の陽光の世界であったのかもしれない。虚時間を生きた三島由紀夫は、45歳で死んだが、実時間を生きた司馬遼太郎は、三島由紀夫の死後26年生き、73歳で亡くなっている。

                                       

青春自然派歌人と老成荒地派詩人

―若山牧水と加島祥造をめぐって―

大岡信の若山牧水

コロナ下で2年近く中止になっていた古書展が再開されたのは、2021年の10月の末だった。古書展での私の目当ては、主に詩集、SF、怪奇物や宗教書である。全集物は、かさばるし画集類は、今から見れば印刷が悪い。また、科学技術関係書は、古典を除き中身が古い。

この時、2時間ばかり、会場を見て歩き、5冊程の本を買って帰ったが、その中の詩の関連の一冊が大岡信の若山牧水論であり、もう一冊が、加島祥造の詩集である。

大岡の本は、若山牧水―流浪する魂の歌:大岡信:中央文庫:昭和56年9月10日発行で、当時の定価240円であり、これが200円で売り出されていた。大岡信は、1931年生まれの詩人で2017年86歳で亡くなっている。昭和56年は、1981年であり、この本は、彼が50歳の時に書かれた本である。解説は、歌人、評論家で国文学者の佐々木幸綱(1938年~)が書いている。/

その国木田独歩についても以前古書展で、関連本を入手した記憶があった。本棚の片隅見つけたその本は、清水書院が明治、大正、昭和の近代文学の代表的作家の生涯と作品を平明に解説した全38冊の内の一冊で昭和41年10月30日発行16巻目の本で、当時の定価250円であった。これは100円で入手した記憶がある。この本は児童文学作家文芸で評論家の福田清人が、その研究室に出入りしていた本田浩に書かせ、監修した作品であった。

 若山牧水は、中学の終わり頃から高校にかけて私が影響を受けた歌人であるが、この本を読みながら、この頃影響を受けたもう一人の詩人・小説家の国木田独歩のことを思い出した。

 この2冊の本を今回あらためて読み直して、あらためて自分のこの二人の作家との出会いを振り返ることになった。

中学時代教科書に載っていた独歩の作品「武蔵野」の美文に魅かれて、彼の作品を読んだが、その中に散文と共に「山林に自由存す」との詩に出会い、それが山や山林等自然に対するあこがれを駆り立てられたものであった。この独歩との出会いは、すぐに若山牧水の紀行文と歌への共感となり、高校への入学と共に私を山岳部に導くことになった。

その当時その牧水と独歩自身の人物像や作品の背景に興味があったわけではない。その当時は、彼等の作品そのものに魅かれていたためである。

しかし、独歩や牧水が歌った自然への憧れに魅かれて入った高校の山岳部は、そうした世界とは、およそ無縁な体育会系の運動部であり、私は、全く異なる世界へ迷い込むことになった。若さの柔軟性のためかそれは、それで、楽しくなった。しかしその部活動は、2年生の初夏のロッククライミング中の滑落事故で、一年足らずで退部することになってしまった。けれど、この一年足らずの山岳部生活の中で、鈴鹿山系の山々や中央アルプスの駒ヶ岳、穂高連峰の山行等貴重な体験することになったが、滑落事故のため、左手を怪我し、その後遺症が握力の低下となって、左手が大切な役割を果たす運動分野での能力開花の可能性を閉ざすことにもなった。

独歩と牧水は、こうした青春の出来事を通して現在の自分のありようにまで影響を及ぼしている。それは、明治の時代の近代的自我の誕生が大自然を前に引き起こした驚愕と感動

の律動、それが思春期に目覚める私の自我と共振した出来事であった。

「ああ山林に自由存す・・・・」と詠 こった独歩と「幾山川声去り行かば・・・」と歌った牧水とはいかなる人であったのか、現在の視点で確認しておきたくなった。

国木田独歩の生きたのは、1871年(明治4年)8月30日~1908年(明治41年)6月23日の37年間であり、牧水は、1885年(明治18年)8月24日~1928年(昭和3年)9月17日の43年間で、二人の年齢差は14歳であるが、この二人には幾つもの共通点がある。

その一つは、二人共短命であったことである。また、二人は、独歩は、千葉銚子の生まれ、牧水は、宮崎県臼杵郡東郷村(現日向市)の生まれであるが、共に上京し、独歩は、東京専門学校(後の早稲田大学)の英語普通科に入学しているし、牧水も早稲田大学文学部英文学科に入学している。共に主として新聞や雑誌の発行や編集等と文筆業で生活しており、教師や新聞社等の勤務経験をもつが長続きせず、ほとんど文筆や編集、揮毫や選歌等で、生計を立てていて、貧しい生活であった点、また20代前半で結ばれることのない熱烈な恋愛体験をもつが、その後の結婚で、よき伴侶に巡り合っていること等である。

独歩は、神奈川県茅ケ崎で亡くなっているし、牧水は、静岡県沼津市で亡くなっている。牧水は、独歩の武蔵野等の影響を強く受けているが、独歩が短命であったため、直接的な交流はない。独歩には、一男二女があり、牧水は、二男、二女に恵まれている。

7年程前のことである。大学時代の友人達と山口市を訪れたとき、聖ザビエル講会堂の近くの亀山公園を散策したが、その時、牧水の「ああ山林に自由存す・・」の詩碑を見つけ奇異に感じたが、独歩が、父親の転勤で、山口市で、青春時代を送ったことがあることを知り、得心した覚えがある。今回大岡信の「若山牧水」を読んで、彼が沼津の千本松原の保護活動

をしたこと。彼が石川啄木の寂しい臨終に立ち会ったただ一人の友人で、病弱な啄木夫人に代わって通夜から葬儀の一切の手配をしていたこと。北原白秋の親友で荻原朔太郎とも親しかったことを改めて知った。旅と自然を愛し続けた牧水の生涯、妻貴志子は、「汝が夫は家におくな、旅にあらば、命光ると人の言へども」の句を残している。牧水は、晩年幸せだったと思う。

独歩も牧水も短い生涯であったが、その中でも、膨大な詩、散文、小説、歌を残している。

それらの作品の大部分をまだ読んでいない気がする。しかし、その世界は、近代日本の青春の目覚めの書として、高齢化の日本に活力を与えてくれるかもしれない。そういえば2021年、歌人の俵万智が、「牧水の恋」と云う本を出版していた。

古書展で入手したもう一冊は、加島祥造詩集は、思想社の現代詩文庫の中の一冊で2003年4月15日発行定価1165円のもので、これが500円で売りだされていた。軽い気持で、当面積読する気でいたが、彼が東京府立第三商業学校での田村隆一の同級生で、荒地派のグループに所属していたと知り、俄然と興味が湧いてきた。彼は5年ばかり荒地に詩を発表していたが、早稲田の文学部英文科を卒業するとフルブライト奨学金で、米国シアトルのワシントン大学に留学、帰国して信州大学、横浜国大、後には、青山学院女子短大等で英米文学を教える。

1973年50歳の時信州伊那谷の駒ケ根市大徳原に山小屋をつくると15年のブランクの後作詞をはじめる。60歳の時妻子と湧かれて伊那谷に移り住み、1990年67歳の時駒ケ根市中沢に家を建て、終の棲家とし、伊那谷の仙人と称され、2015年12月25日ここで亡くなる。

同級の田村隆一は1999年76歳で亡くなっている。この詩集は田村の死から4年後に出されている。田村の最後の詩集1999年は、死の直前の1998年に出版されその最後の「蟻」と云う詩の中で人間社会を蟻と対比させ、「さようなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの 人間の世紀末 1999」と詠ってこの世を去った。

彼の詩には、最後までどこか軽妙な悲哀と静なロマンがあった。都会でウイスキーを毒を啜るようにして飲み、空想の翼を広げて世界を鳶のように眺めた田村隆一に対して、荒地派の生き残りとなって92歳まで生き加島祥造は、どんな詩を書いているのか、興味をもって読み進んだ。この詩集を出した時、彼は80歳であり、そこに掲載された詩の書かれた時期は、私の定年後に重なる。

田村は、詩によって人間の宿命から逃れようとして空を飛びまわったが、加島は、人間

の愛憎から逃れるために山林に戻ってきて、植物や動物、生き物達の世界に身をゆだねようとした。

自然の中には、人間世界とは別の時間が流れている。加島は、若くして勤務した信州大学時代にそのことに気が付いたに違いない。そのことが人間世界に疲れたとき、加島を伊那谷へと導いたに違いない。

定年後本格的に絵をはじめ、スケッチ旅行に行くようになり、2、3時間同じ風景を見続けていると光の陰影の変化で、時間の推移を知ることが出来る。 時計で管理される時間とは、別の時間のありように驚かされたものだ。そうした芽で周囲を眺めると自然が己のリズムで時を刻んでいることを至るところで感ずることが出来る。

加島が、伊那谷で見つけたのは、そうした世界であったに違いない。その一方で文明人である我々は、人間社会という別の時間のリズムに支配され生きている。社会が生み出すリズムと時間。女王蜂を頂点とする組織された階級社会、そのスローガンは「帝国主義」、田村は人間社会を「蟻」の世界になぞらえ、我々に提示して去っていった。

 空から眺めるか、地面の上で感ずるのか、あるいは、その両者か、二人の荒地派の詩人

の晩年は、私を新たな詩空間に導いてくれそうな気がする。   了

コロナ後の世界と文学の可能性 ー今年の芥川賞受賞作品等を読んでー 

 今回のパンデミックの発生から2年近くになろうとしている。時間差を置いて各国で繰り返す感染者数の増減が津波のように繰り返されることは、当初からある程度予想していた。しかし、予想外であったのは、こうした事態に対する人間と社会の反応である。感染症と云う医学の一分野の問題に生死の問題と社会の反応が関係し、その解釈をめぐる意見の噴出と対立が、メデアの報道の在り方や政府の対応や社会システムにまで及んで混沌状態を生み出した。

 ドフトエフスキーの「罪と罰」の中で主人公は、パッデミックで世界が滅ぶ夢をみる。そこでは、様々な意見が出るが、解決策を見出せず、やがていたるところで人々が互いに殺し合いをはじめ、世界が崩壊してゆく。

 そこまでは行かないにしても、この閉塞的環境の中で、若い人達は、何を考え、コロナ後の世界をどのようにイメージしているのだろうか。ふと、こんな疑問に取りつかれ、書店で思わず手にしたのが「ポストコロナのSF―日本SF作家クラブ編―」:2021年4月10日発行:早川文庫JAで、ここには31歳から61歳までの19人の現役作家の作品が、網羅されている。

 この本の横で見つけたのが早川文庫SFの「折りたたみ北京―現代中国SFアンソロジー」:ケン・リユウ編:2019年10月10日発行:早川文庫である。この本は、パンデミック前の作品群であるが、ここには、7人の作家13作品と中国SFに関するエッセイ3篇が掲載されている。この他編者のケン・リユウか゜序文を書いており、翻訳者の一立原透那氏が解説を書いている。編者のケン・リュウは、45歳の著名なSF作家で、中国生まれの米国在住者。取り上げられているのは、53歳の一人を除けば37歳から41歳の40前後の作家達である。監視社会へと急速に進みつつある中国の現役作家達は、どんな感性で世界を見ているのか。このことに興味を持って読んでみることにした。

 それまでSFトム云えば欧米作家のものと日本では、小松左京等我々同じ年代の作家群の作品しか知らなかった私にとってこの二冊の本は、全く新しい出逢いであった。科学技術が急速に発展し、空想が現実に追い抜かれる時代に、SF作家達は、どう立ち向かっているのだろうか。これも興味あるテーマであった。

結論から言えば、量子重力理論や量子もつれ、量子コンピユータと云った先端科学の描く壮大な宇宙観から見れば、現代SFは、これ等の成果を十分取り入れているとは言えない。1970年代のスタートレックが描いたタブレットは、ipadやスマホで既に実現してしまったし、ハインラインの「夏の扉」で描かれた掃除ロボットや設計CADも既に実現してしまった。あの頃のSFは、確実に40~50年以上先を見通していた。AIにおけるディープのラニングや遺伝子工学におけるキャスパー9等知のブケイクスルーが達成された現代科学の先へと想像の翼を広げた作品群への期待はかなえられなかった。

こんなことを考えて書店を散策しているとき、文藝春秋9月号に、芥川賞発表受賞二作全文発表のタイトルを見つけ、ふと文学をやる若い作家達は、現代社会や今回のパンデミックをどのように捉えているのだろうかと気になったので、買い求めることにした。その文藝春秋の横に、オール讀物の9月・10月合併号がおいてあり、そのタイトルに直木賞発表の文字が見えた。そう云えば随分永い間、現代作家の作品を読んだことがない。これも次いでに買い求めて読んでみることにした。

あまり、期待せずに芥川賞受賞作「貝に続く場所にて」を読む。作者は、石沢麻衣。41歳の女性。舞台は、コロナ下のドイツのゲッチンゲン、主人公は、2011年の震災を経験した東北出身でゲッチンゲン大学の美術史の博士課程に通う女学生。その日常と交友関係を描いた作品。大した事件や物語があるわけではないが、日常の出来事一つ一つの感じ方捉え方に奥行きがある。そうした感性とどこかで出会ったことがあった。森有正の「経験」ゃ「ノートルダムの畔」や加藤周一の「羊の歌」を読んだときの感覚に似ている。異文化の中で、言語が研ぎ澄まされ、現実が記憶と時間の集積と重なり見えてくる。意識を単に外界の反映としてとらえるのではなく、外部の刺激と内部の記憶や欲望等の感覚の総合しとして捉え、そこから言葉を紡いでゆく。こうした視点は、SF作品にはない。感心した。もう一つの受賞作品   「彼岸花が咲く島」は、台湾出身の31歳の女性の作品であるが。これは、ある意味の異言語交流を交えた現代版ユ―トピア小説であるが、それほど面白くはなかった。

 この勢いで、直木賞の二作品を読む。佐藤究の「テスカトリポカ」澤田瞳子の「星落ちてなお」佐藤究は、既に江戸川乱歩賞等数々の賞を持つ44歳のベテラン作家、テスカトリポカは、アステカ神話の神の名、メキシコの少女が裏社会を渡り歩き日本の裏社会で生活する物語。澤田瞳子も44歳で数々の受賞歴を持つベテラン作家。「星落ちてなお」は、天才画家河鍋暁斎の娘を描いた作品。共に長編であり、雑誌には、その一部しか掲載されていない。文字通り、小説であり、物語性に力点が置かれている。澤田瞳子は、澤田ふじ子の娘とは、読み終わってから知った。中学時代、人間社会とはいかなるものかを知る意味で小説は面白かった。しかし。世の中を色々見て来た現在に至ると物語性だけでは、物足りない。しかし、自分が小説を書く身になれば、これ等の作品に興味が湧くかもしれない。だが、コロナ後の世界を垣間見たいという要求には、あまり答えてもらえなかった。パンデミックとこれに立ち向かう人類との格闘の現場が、小説の舞台に上ってくるには、まだ、まだ先のことかもしれない。但し、石沢麻衣の「貝に続く場所にて」は、2011年3月11日の東日本大震災と新型コロナと云うパンダミックという二つの出来事をどう受け止めるのかと云う日本人の感性と思想に初めて取り組んだ作品であり、そこにコロナ後の世界への一筋の光をみたように思った。科学技術万能の現在、文学も満更すてたものではないと思うことが出来た。                    完

花詩集とあざみの花―日常の隙間よりー

 古本市で、偶然手にした本であった。詩集が古本市に出てくることは少ない。思わず手に取ってパラパラとページをめくっていて、気になる出だしの詩句に出会った。

 とつぜんの出逢いであった

 通りすがりにお前をみたのは

 こんな都会の塀のきわに

 どくだみがひっそりと

 咲いているなんて

 余りにも思いがけない出逢いに

 私は立ち止まり

 感動してじっと見つめる

 ・・・・・・

 十薬(どくだみ)云うタイトルの詩の一節である。

(十薬とは、十の薬効があることからつけられたドクダミ

の別名である。)

この一連のフレーズに何か心魅かれて、購入して帰る。

 作者は、名古屋市在住の太田もと子(大正12年(1923年)生)とある。御存命ならば御年98歳。 詩集は著者69歳の時、1992年近代付箋芸社より第1刷発行となっている。

薬(どくだみ)の詩は続く

 お前も私に何かを語りかけているようだが

 お前の心を受け止めかねて

 私の心はうろたえる

 本来ならお前は

 郊外の林の下陰とか

 湿地などに群生するはずなのに

 こんな都会の塀のきわに生えて

 可憐な花を咲かすいじらしさ

 都会にいても

 めぐる季節を忘れずに咲く

 律義などくだみよ

 清純なまでに白い小さな花びら

 杳く 平安時代のへいし帽のように

 天を向いて 毅然として咲く見事さ

 六月の雨に濡れて咲くお前は

 詩にもなりそうだ

 この詩に出会ってから、少し草花に対する見方が変わり、家の片隅に咲くドクダミの花に気づいて、スケッチしてみた。我が家へは知らぬ内に侵入し、夏蜜柑の樹の下、冥加の群落の傍に遠慮勝ちに小さな群落をつくっていた。

 6月のことである。コロナ下で伐採した四季桜の残った株の横に、その木を弔うかの如く雑草が根づいているのに気付いた。抜こうと思ってよく見るとそれは、あざみであった。

 この時、花詩集の詩一フレーズが思い出され、手折るのを止め、そっと見守ることにした。詩集の詩句に歌われたどくだみでぱないが、どこからか飛んできて庭の小さな片隅にしっかりと根を張ろうとしているあざみが、ふといとおしくなったためである。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

そのあざみは、伐採された桜に残されたすべての命を吸い取るように力強く数本の大きな幹に枝分かれし、次々と蕾を膨らまし、やがて数十もの花を次々と開花させ、数知れぬ種を実らせた。

7月の半ば、さすがに鬱陶しくなり、一本を残して、取り除いた。

その頃までには、既に花達は、多くの実を結んで、その一部は、遠くに旅立っていったようであった。

 最後の一本が倒れこんだのは、8月オリンピックが閉会式を迎えた日であった。一度は立ち直った。しかし、翌日の強風で、再び倒れたのであろう。数日後、その茎は、真ん中から切り取られていた。洗濯に出た妻が、取り除いた後のように見えた。

 私は、そこに手折り投げ捨てられたあざみの花を知り除き、残った茎を根から掘り起こして、きれいに取り除いた。多くの実をつけて生を全うした花に未練はなかった。

 ただ、以前思い立ち描いたどくだみの花のスケッチの次のページにあざみの花のスケッチを付け加えた。

花詩集の作者は、あざみについて次のように語っている

 五分咲きのあざみよ

 このままお前は

 大人になることを拒否して

 そんなに 全身に刺をつけたのですか

僕の庭に咲いたあざみは、多くの花を咲かせ、その花ごとに無数の実を結んで、そしてお盆の訪れとともに刈り取られた。

四季桜の命は、あざみの花の実となり、8月の雲の下世界一杯に広がっていった。

2021年8月11日(水)

ジョージ・オーウェル「1984年」をめぐって      

―偶然出会った四冊の本が導くジョージ・オーウェルの心と世界―  

ジョージ・オーウェルの名前が僕の記憶から蘇ってきたのは、数年前古書店で一冊の本を見つけたことがきっかけだった。「カタロニア賛歌」という題字に魅かれてふと取り上げた本は、装丁がしっかりしていて、箱に収められていた古びた本であった。

それは、独裁政権下を描いたデストピア小説で、SFとしてあまり気持のよい作品ではなかった。そのジョージ・オーウェルとカタロニアとの出会いは、私の違和感をもたらしたが、それがざっとみてスペイン戦争との関連の本であることがわかると200円ばかりのその本を躊躇なく購入した。

新型コロナの流行をきっかけに中国社会で進む監視技術が話題になる中で、その延長上でジョージ・オーウェルの作品「1984」の名前がメディアに上るようになってきて、今一度

この小説を読んでみようと思い、蔵書をひっくり返したが、見当たらなかった。そうなると

おかしなもので、ますます読みたくなる。とうとう探すのをあきらめ新本を買い求めることに栄のジュンク堂にでかけた。そのとき、全く偶然に岩波新書の新刊本の中に川端康雄

ジョージ・オーウェル―人間らしさへの賛歌」を見つけた。その本を手にしたとき、そうだ僕が潜在的に求めていたのは、オーウェルが何者であったのかを知りたかったのだと直感的に思った。

 その日、早川書房「1984年」(2020年6月43刷)第とこの岩波新書の「ジョージ・オーウェル」(2020年7月発行)の二冊を買い求めて帰った。

僕は、数十年前に「1984年」を一度読んでいたが、その時は、著者に全く関心がなかった。

しかし、このとき何故か、この人物に猛烈に興味が湧いてきた。このため、まず手にしたのは、岩波新書の方で、これを一気に読んだ。そして彼が、英国のエリート校出でありながら

若き日スペイン戦争に義勇兵の一員として、参加した民主的社会主義者であったことを知った。

 ジョージ・オーウェルは、1903年大英帝国の下級貴族の家に生まれる。奨学金を得て、エリート高校に進学した彼は、卒業後軍人となり、当時英国の植民地であったビルマ(現在のミャンマー)に警察官僚として赴任する。そこでみた、植民地の現状に違和感を覚えた彼は、5年後の1927年24歳の時、安定した職を投げ打って作家の道を進み、1937年34歳の時、新婚の妻とともに国際義勇兵の一員としてスペイン戦線で戦い、大怪我を負いながら一命をとりとめる。ここで見た革命の夢と現実、この時の体験をまとめたものが1938年発行の「カタロニア賛歌」であり、その体験をもとにして書かれたのが1944年脱稿の「動物農場」であり、1948年脱稿の「1984年」である。この2年後1950年結核のためロンドンで死亡。47歳であった。

 スペイン戦争については、1985年3月26日の朝日新聞に掲載された法政大学教授 川成 洋氏の「スペインで戦死した無名の日本人ジャック白井の足跡たどって」と称する一文を読みひどく感動したことがあった。この文は、サンフランシスコの隣の町オークランドで開催されたスペイン戦争に参加した米国の国際旅団「リンカーン大隊」の生き残りの集まりを記事にしたものであるが、その隊長だったミルトン・ウルフの「われわれは、未熟な反ファシストだった。今でも同じだ」の言葉に象徴される思想の継続性に当時中間管理職として仕事に追われていた身に、新鮮な驚きを覚えたためであった。

 ジョージ・オーウェルの思想は、このスペイン戦争の体験が中核となっていた。彼はこの反フランコの人民戦線の戦いの中で、当時人民戦線を支援していたソビエト共産党のスターリニズムのトロッキーの影響を受けた人々に対する云われのない迫害や裏切りを目の当たりにするのである。「カタロニア賛歌」こま時のオーウェルの体験を綴ったものであり、この体験をベースとして彼は、社会主義の衣を纏うスターリンの独裁体制への批判を強めてゆき、その延長戦上に書かれた小説が1944年に完成した「動物農場」であり、1949年に発表それた「1984年」である。この小説が出版された翌年の1950年オーウェルは亡くなる。岩波新書の「ジョージ・オーウェル」と早川書房の「1984年」を読み終えてから同じく早川書房の「動物農場」も買い求め、これも一気に読んだ。

 オーウェルのこの二冊の小説の出版には、当時大きな困難が伴うが、それが反ファッシズムで戦った仲間としてのスターリンの社会主義国家ソビエト連邦に対する西欧左翼世論の暗黙の圧力があったためであった。しかし、まもなく、冷戦の時代の到来とともに、この本は反共プロパガンダの書物として取り上げられたこともあって、その後ジョージ・オーウェルの名前は、左翼メディアからも正当な評価がないままに、放置されてきた。そしてようやくこの本が見直されるのは、1991年のソ連邦崩壊後のことである。

 今回あらためて、この二冊の本を読み返してみて、彼の社会主義独裁体制への痛烈な批判が、スターリンという個人的な枠組みを乗り越えた普遍的な視点からなされたものであることがよくわかる。

 ここで描かれた世界は、中国の文化大革命や韓国の文在寅左翼独裁政権で、今行われている歴史の偽造や、無知な若年者や民衆をプロパガンダで洗脳し、まともな思想や知性の言論を圧殺する風景そのままであり、まさしく当時オーウェルが感じていたことであり、当時彼が遥か先の未来まで見通していたことを示している。

 2020年の新型コロナのパンデミックや米国の大統領選挙は、民衆と云うものが如何にメディアや政権のプロパガンダで洗脳・誘導され易いかを事実を冷静な目でみることが如何に難しいか如実に示した。オーウェルの「動物農場」「1984年」は、極めて、今日的な問題を扱っている。その意味で今こそ多くの国民が読むべき本である。

日常の背後に・・・3.11を経験して・・・

 壁紙を剥がすとそこに

無表情な壁が広がっているように

日常を剥がすとそこに

不条理な世界が広がっている

われらが日々経験する

正義や感動等の彩られた風景

それらは投影された幻のような

ものにすぎないのか

 

 三月十一日

僕らは、不条理が津波となって

押し寄せてくるのを見た。

あらゆる価値を飲みこんでゆく

虚無 の波動

それは数十年に亘るオームの逃亡犯に

出頭を促すほどの衝撃でもあった。

 

 あの日僕らは

怒れる神の啓示を観たのかもしれないし、

死者達のメッセージを聞いたのかもしれない

我々は、あまりに見えるものの 世界を信じ過ぎた

 あの時以来

不条理を塗りつぶすべき

幾多の言葉やスローガンが

叫ばれたが

その言葉の隙間から

絶えず不条理の表情が覘いてくる

 僕らはもう過去の世界には戻れない

その壁を突き抜けるものはなにか

不条理を突き破るものはなにか

・・・・・・・・・・

 それは死者達の眼差

滅びることのない頂きからの言葉

薄明の彼方から眼差しこそが

不条理を消し去ってゆく

・・・・・・・・

  そうだ

僕等の祖先達が

絶えず心に抱き続け

幾百年も耐え続けた視線こそが

今の僕等に必要なものだ

 僕等は、あまりに白日に慣れ過ぎた

彩の世界に慣れ過ぎた

 僕はこれから

薄明の世界に身を置こうと思う

不条理を乗り越えるために

不条理を乗り越えるために