トランプ後の世界ートランプ政権は破滅か希望かー

はじめに

トランプ政権の関税政策が世界を震撼させている。メディアや数多くの識者がこの現象を取り上げ論評している。そしてその8割がこれを否定的に、2割が少し容認的に取り上げている。しかし、どれも現象論的な論評に留まっているように思われる。そこで自分なりに、感じていることをまとめてみることにする。

トランプの意図とグローバリズムの終焉

トランプがやろうとしていることは、ソ連邦崩壊以後アメリカが作り推し進めて来た世界システムと体制の変革である。これは、一般に(白の)グローバリズムと云う概念で一括できる。それは、自由貿易と市場主義を民主主義のオブラートで包んだ概念である。このグローバリズムは、これは、開かれた自由貿易体制と世界の単一の市場化により世界的な分業システムと効率的な生産システムを構築し、地球規模の経済成長を達成しようとする思想である。これは、社会主義に代わる資本主義の勝利の結果もたらされ、その主役は米国であった。しかし、この文明モデルは、当初からその限界が指摘されていた。それが1975年のローマクラブの成長の限界レポートである。そしてそれへの政策的対応が1992年のブラジルの環境サミットであった。

しかし、ソ連邦崩壊後35年経ってみたとき、このグローバリズムのシステムは、明らかな欠陥と限界を露呈するようになった。その欠陥と限界は、気候変動に対する歯止めの失敗であり、国内外の格差の拡大であり、科学技術と文化のアンバランスないびつな文明社会の誕生である。しかし、この間の経済成長のもたらした恩恵があまりにも大きかったため、世界の大勢は、この路線を肯定するに至っている。

グローバリズムの功罪

 問題の根本は、本来狭い地域領域の気候、生態系特性に適合して調和的永続的に営まれるべき生物種としての人間の生存活動が、破壊的な衝撃に直面していることであり、その原因が、各地域の自然、民族、文化、文明の成熟度を無視した急速な単一市場化であり、科学技術や製品の無差別的展開であった。

 すなわち、先進国で開発された近代的生産システムは、容易に開発途上国へ移植可能となった。安い労働力の国への近代的生産システムの移植は、先進国の産業構造を金融・管理中心に変え、生産現場の空洞化をもたらす。一方、移植された開発途上国では、移植された生産設備ともたらされた情報による生産物が富の象徴とされ、その地域の自然や風土に適合した技術の確立は放棄されることになった。

 先進国では、金融・管理の少数の支配者の富の独占が進み、国内の製造業は衰退し、消費産業が勃興することになる。一方開発途上国では、その地域、地域の文化・自然・風土に根を下ろした科学・技術は、育たず。伝統的社会構造は、崩壊してゆく。このような構造変化は、多かれ少なかれ世界的規模で進行している。

 グローバリズムは、世界的視点での生産の効率化を推進する仕組みであるが、それは世界の富を享受できる個人・組織にとっての効率化・最適化であり、ローカルに生活する個人・組織にとっての効率化・最適化ではない。20世紀のグローバル化は、西欧先進国にとっての生産の効率化・最適化であったが、それは裏側から見れば他地域の植民地化によるの自然の収奪であり、労働の奴隷化であり、植民地主義と呼ばれた。現代のグローバリズムは、かつてのプランテーションに替えて分業と云う名のプランテーション的生産の世界的システムの構築であるが、これは、開発途上国の低賃金労働とこの地域の自然環境破壊をもたらしかねない移植産業に支えられている。

資本主義と市場経済

近代ヨーロッパに起源を持つ資本主義・市場主義は、キリスト教的個人主義とピューリタン的倫理観を基礎としており、そこに自由、平等、博愛といった社会的規範意識の成長とともに成熟してきた。市場経済が有益に働くためには、その根底に暗黙の共存意識、すなわち社会常識の存在、ルールの設定、他者の尊重、すなわち法制度の確立、契約の履行と尊重、発明者の権利保護等の様々な規範とそれらを保証する宗教的権威や政治権力の確立等が必要である。

 これ等の規範意識と制度の無き、市場経済社会は、弱肉強食社会となりかねない。グローバル経済は、企画・設計と生産現場と消費生活を分離し、そのことによって因果関係を見えにくくするため、フィードバックが働きにくいシステムと云える。

市場経済は、自由な活動と競争原理により、社会を効果的に発展させる仕組みであるが、それを有効に働かせるには、人間の欲望を制御するための様々な工夫が必要であり、それには、文化的成熟とルール確立のための時間が必要である。

 ソ連邦崩壊後のこの35年間は、世界的に市場経済が急速に普及した期間であったが、その欠陥を露呈してきた期間でもあった。

すなわち、中国では、文化大革命で、儒教・仏教等の文化的遺産を破壊しつくしたため、その結果の社会主義市場経済は、弱肉強食市場経済と共産党による一党独裁監視社会を出現させてしまった。

ロシアは、文化的未成熟社会のまま、社会主義独裁体制から市場経済に移行したが、少数の特権階級(オリガルヒ)とそれに担がれたプーチンの帝政的専制政治社会を出現させた。

米国では、金融による経済支配と市場の開放により、国内産業の衰退が進む一方で、イノベーションは、活発化し、あらたな情報産業は、勃興したが、貧富の格差は、増大し、製造業は壊滅的打撃をうけ、産業の歪構造化と社会の不安定化をもたらした。

 ロシアは、以前として大国であるが、それは地下資源と核兵器と宇宙産業だけの歪な国家であり、国民を豊かにするビジョンなき大国である。

 中国は、市場経済導入により急速な近代化をなしたが、それは、国内の低賃金労働者に支えられた製造業による世界市場覇権主義社会であり、ブラックグローバリズムとも云いえるその思想は、周回遅れの新帝国主義社会をもたらし、アメリカ並びに西欧のホワイトグローバリズムとの衝突で行き詰まりをみせている。

 この間、世界は、大きく経済成長したが、人口増と地球環境問題に対して有効な対策を実施できなかった。持続可能な開発は、幻想で失敗に終わった。つまり自由貿易と市場主義に訣別する時代がやってきた。

歴史の転換と今後

今までの歴史をみると大きく35~45年周期で変化している。すなわち

第一次世界大戦(1914年から1918年)

第二次世界大戦(1939年から1949年)

ソ連邦の崩壊(1989~1991年)

第二次トランプ政権の誕生(2025年~2029年)

今年は、ソ連邦崩壊から約35年であり、市場経済と自由貿易体制が世界的に拡大してから35年経つ、この間は、米国一強の国連時代であったと云える。

これからの10年間は、このクローバリズが終焉を迎え、新たな秩序形成の時代となるだろう。理想的な世界は貿易と市場を規制し、各国が自国に根を下ろした文化、技術、科学により、独自の自立型産業経済システムを構築することになるが、それには時間がかかるだろう。

 次の時代は、グローバリズムへの反動として保護主義的な国家と規制的な国家が主体の世界が出現すると思われるが、それらが形を見せるのにこれから10年程かかるだろう。

そしてそれからさらに30年たった2065年には、再び自由への渇望が芽生え、新な開放的社会が出現するだろう。そしてこの頃になれば、自由な社会にあこがれる人達は、地球外惑星や天体に新世界をもとめて旅立つことになる。この時人類の幼年期は終わるのかも知れない。(了)

老教授の最終講義 ときたま13号掲載

それを思い出したのは、脳科学関係の本のまとめをしている時であった。2000年の正月あけに一本の電話がかかってきた。その数年前、研究の自由を求めて名古屋大学教授職を投げうち、東京理科大へ転職した変わりものと云われた辻本教授からだった。それが、元東大建築学科の斎藤節教授の最終講義への参加の呼びかけであった。そのきっかけとなったのは、私が彼に送った年賀状代わりの一本のメールだったらしい、その内容は、よく覚えていないが、当時私は、人事異動で会社の新しい環境対策部門へ移ることになっており、その挨拶をかねて、これからは、加速度的に進む地球温暖化と人類の知の進歩のせめぎ合いの時代になる等のことを書いた記憶がある。その内容を読んで老教授の講義に興味があるのではと連絡したとの話で、私にその資格があるだろかの問いかけに、松田さんは、当時の建築学の先生の研究室に出入りしていたし、先生もよくご存じであるので問題ないとのことであった。そんな分けで、その老元教授の最終講義に出席することになった。

私が赤門のある東大の古い建物内の建築学科の研究室に2年近く出入りするようになったのは、オイルショック後の昭和49年(1974年)頃のことであるが、それには、いきさつがある。その前年の昭和47年から昭和48年にかけては、大阪の千日デパート火災、熊本の大洋デパート火災が相次いで起こり、この火災で多くの人が犠牲になったが、その原因が、空調用のダクトを介した下層階からの煙の伝搬であった。その当時、これ等のダクトの防火壁画貫通部には、温度ヒューズで作動して通路を閉鎖する防火ダンパーを設置することになっていたが、その技術基準が曖昧であった。そのため、その技術基準を告示で定めるための告示原案作成委員会が建設省配下に設置されることになり、その委員会の委員に設備学会の理事であった上司が就任したため、私もその手助けの為その委員会の仕事に加わることになった。その委員会は、建設省の役人の他、東京消防庁、建築設計大手の日建設計、東京大学建築学科の代表者から構成されており、その委員の下の実務担当としてワーキンググループが組織され、私もその一員として働くことになった。その仕事は、広く諸外国の技術基準を調査することと国内に出回る当時の防火ダンパーの性能を調べることであった。その性能試練の一部を東大の斎藤妍が担うことになり、私もそこで、試験装置の製作や測定を手伝うことになった。

 防災関係の仕事は、それだけでは終わらなかった。千日デパート火災や大洋デパート火災では、下層階で発生した煙が問題となり、この煙の対策として、防排煙技術が大きなテーマとなり、建物に火災時の排煙設備の設置が義務づけられることになったが、火災の性状や煙の挙動がよく分かっていなかったため、その技術基準の確立が求められていた。こちらの方面にも同じようなメンバーによる委員会が設置されたが、こちらには、火災学会の権威であった東京理科大の教授とそのグループも加わった。この一連の過程では、実際の現場での煙の伝搬現象と煙制御のための排煙設備容量が問題となり、この現場として廃棄予定の米軍王子病院と富国生命ビルが選ばれ、その実験を東大の斎藤研が担うことになり、そのリーダーが、当時大学院生であった辻本氏であり、私も彼を補佐する役割として実験に取り組んだ。

 委員会は、月1回から2回開かれ、その一週間前には、委員長の教授に資料を送り目を通してもらう必要があるが、これが大変であった。当時国立大学の教授は、授業時間以外は、各種委員会活動で、午前の会、午後の会、夜の会で詰まっており、連絡がつき話が出来るのは、朝8時15分から30分間と決まっておりそれ以外は、連絡もつかない程であった。この防災プロジェクトの論文で卒業した辻本氏と再会したのは、彼が卒業後名古屋大学建築学科の助手として赴任してきたときで、その時私も名古屋に戻ってきていて、大学の実験施設の設計や製作への協力等て、継続的な交流があった。斎藤先生の最終講義に誘われたとき、私が研究室に出入りしてからすでに25年近く経っており、先生も80歳を超えた年齢になっていた。

 最終講義の会場は、東京神保町にある学士会館の1階の会議室で行われた。12畳程の小さな会議室で、受講は、私と辻本夫妻他に先生の教え子で研究室の卒業生4~5名の8名程だった。講義のタイトルは、自然と人類―われらはいま、何をなすべきかーであり、講義のレジメが容易されており、表紙の他、講義の全体を表した目次1枚と7枚の図表から成り立っていた。表紙の下には、「地球環境問題が論じられ、危機感を持っている。建築環境工学を名乗っている立場上意見をまとめてみたものである」と書かれており、環境問題の原因は人口増であり、それを減らすのが正しいが、それが出来ないなら新しい技術の発明以外にない。と書かれていた。添付図表は、100N年を単位とした人類図表、生態系のバランス図表、太陽光・風力関係図表の他、脳に関する図表が3枚添付されていた。

講義は、極めてのまじめなもので、午後1時から始まった先生の話は、午後3時まで休憩無しの2時間  に亘った。其の後10分ばかりのコーヒーブレイクの後、1時間ばかり、辻本教授の奥さんからヨーロッパにおけるカテドール建築の歴史がスライドで紹介された。

講義の後は、夕食会で、会場は新宿のイタリア料理店であった。そこには、最終講義には参加できなかった卒業生経ち15名ばかりが集まっていて。なごやかな歓談の内にワインが進んだ。何人もの人達と名刺交換したが、名の知られた会社の人達ばかりであった。酔いが回ると心配なので、早めに会場を後にしたが、横浜の新幹線ホームでの間違はあったが、なんとか無事に名古屋に帰りついた、

老教授のレジメに3枚もの脳に関する図表が添付されていた理由と気持ちは、今の私には理解できる。当時老教授は、これはいずれ本にして出版したいと語っていたが、その願いはかなわず、その3年程後に亡くなった。 学士会館は、旧帝大出の学士会が中心となり関東大震災の後に建てられた建物であるが、建築後100年も経た建物で老朽化したため、再開発のため2024年12月28日で閉館し取り壊された。(了)

東京流れ者記—ときたま12号掲載

古い日記類を整理していたら、原稿用紙に書かれた文章が出てきた。いつかどこかで発表する気があったのかも全く覚えがない。ただこれを書いたのは、その内容から30歳の頃であることに間違いはない。読み返して興味深かったので紹介することにした。

「僕が東京に出てきて二年と数か月になる。東京は乱雑な都市だ。名古屋が平面的に乱雑であるなら、東京は立体的にも乱雑である。名古屋が乱雑であると云っても、そこにはまだ皆が共通している平面があった。皆が同じように縛り付けられ、抜け出そうともがいている平面があった。共通に抵抗しょうとしているもの、それは文化の不毛さであったかも知れない。しかし、東京の乱雑さは、その平面すら存在しないところにある。人々はしゃにむに立体的な空間の中に放り込まれ、部屋の中の微粒子のようにぶつかり合い蠢いている。無論この微粒子同士には、接触もあり、「コンニチワ!」ぐらいの言葉は掛け合うが、それだけのことで、まためいめいが勝手の方向に飛んで行ってしまい、たがいにその行く先が一体どこであるかさっぱり分からない。時折微粒子達が密集している場所に直面して、これがこの都市の壁かとも思うが、その微粒子達の群れの中に入り込んで観察してみると、その背後にまた、相変わらず乱雑な世界が広がっていると云う具合だ。

地方から上京しー東京の人々のほとんどはそうであるがー一番戸惑うのは、東京のこうした乱雑さであると云える。僕もその一員であるこれ等の東京への流れ者達は、もはやかつての地方でそうであったような個体や液体の中の粒子ではなく気体の中の粒子のように勝手な方向に乱れ飛んでいる。これ等の粒子たちの唯一の方向感覚は、結局のところそれらの出生地でしかないような気がする。

 僕は名古屋から出て来た。だからいつも物事を名古屋との比較で考えてしまう。東京と云う都市は、名古屋、金沢、四日市等と云う一つの都市のイメージで考えるのは無理なことだと思うようになった。東京を無理にこうした単一の都市のイメージに結び付けようとするなら、名古屋、岐阜、四日市、豊橋、京都、小牧等を一つに集めたものと考えるべきであろう。いずれにせよ、この都市の実体を一つの名称で代表しようとするところに問題がありそうである。これは、距離的にもそうであるし、文化的にもそうである。

かくゆう僕もこの東京の目黒区と云う比較的緑に恵まれた地方都市に住んでいて銀座と云う中心都市に通勤している会社員であり、丁度豊橋あたりから名古屋に通っている会社員と考えるとぴったりくる。そして会社でもサークルでも、みなそれぞれ全く異なる都市のメンバーが集まっているというのが僕の東京のイメージだ。だから生活も文化もまるで異なる異星人同士が会話していることになる。こうなると一切の会話が難しいようにも思われるがそうでもない。多少でも会話ができるのはこの都市の中の乱雑さもある一つの閉空間の中の出来事であると自覚できる人間達である。しかしこの各々もこの閉空間の具体的な形については、大きく異なっており、あるものは、これを正方形だといい、ある者は楕円であると云いあるものは、球だといい、また別のものは、そうではなくもっと複雑で、俺にはよく分からないと云う。

この乱雑な空間の境界に接し、その具体的な形を見極めること、これこそが僕の課題の一つでもあったはずであるが、この課題は、まだ達成されたとはいいがたい。ただ自分の仕事の専門的な分野の極限られた一点で、僕はこの閉空間の境界と思しきものに接し、その接点を通して目をわずかでも海外に向け、この境界を内と外から確認しつつある。とにかくじっとしていても浮遊し続けるだけであり、その中で老化してゆくのが目に見えている以上一つ一つの分野で何かを求め、乱雑な閉空間の一点一点を発見することによってしかこの都市の全体像―本質―は浮かび上がってこない。(了)」

この文章を書いた後3年程で、僕は名古屋に戻った。東京の5年間で、何かが変わった。僕が、転勤で配属されたのは、できたばかりの技術開発室というところで、そこは、会社の情報センターといった部署であった。そこには、その当時としては、珍しく大卒ばかりの10人に満たないところであったが、皆国立大学の工学系の人達で、構成されていた。会社がなりわいとしていた建築設備は、戦後の復興期に米国からの技術導入と高度成長下で、急成長した分野で、その工学的知識の大半を米国の協会や学会に依存しており、技術開発といってもその大半は、米国の情報を入手することであった。しかし僕が赴任した当時は、そうした技術導入の流れが一段落し、日本独自の研究が始まりつつある段階であった。組織がまだ立ち上がったばかりであることもあり、ここでの仕事はかなり自由であり、メインの仕事は自分でテーマを設定し、そのテーマのレポートを年一本提出するという大学の大学院のような雰囲気であった。しかし、組織の存在が知られるにつれ社内外から様々な仕事が持ち込まれるようになり、それへの対応にも追われるようになった。それらの仕事の中には、大型現場への技術支援や官公庁の法律制定のための技術委員会への参加。大学の先生が立ち上げた研究会への参加やオイルショツクで倒産した企業の再生のための製品開発まで多岐にわたった。こうした課題には、教科書がないものが多く、内外の文献を参考に自分で考えざるを得なかったが、教科書がないということは誰も正解を知らないということで、結果だけが問題であった。5年間こうした体験をすると狭い分野であるが世界や日本の現状が分かるようになり、二次元人間が三次元の存在になったように随分生きるのが楽になってきた。

この手記を書いた3年後に僕は再び名古屋に戻ってきた。そしてその20年後僕は再び東京へ転勤となり、単身赴任で定年まで5年間東京で過ごし、名古屋に戻ってきた。そして今東京は一つの都市として僕の心の中にあるし、僕自身は、今度は、四次元の存在になろうとしてもがいている。

訪問者 —-ときたま11号掲載

 我が家は県道沿いにあるせいで、頼みもしない様々な訪問者がよく訪れる。そのあるものは、宗教団体の勧誘であったり、政党の署名活動であったり。飛び込みのセールスであったりする。また、思いがけないことで、助けを求められたりもする。しかし、時として思いがけなく動物の訪問を受けることがある。そのはじめは、次女がまだ幼稚園にあがる少し前のある朝のこと、新聞を取るために、玄関ドアを開けると玄関のたたきの上に一匹の蟇蛙がチョコンと座っている。これには驚いたが、目が合い、とっさに追いはらう仕草をするとそれは、すぐ付近の草叢に姿を消した。すぐに次女を呼び、蟇蛙がお嫁に貰いたいとやって来たぞと云うと娘は、なんとも嫌な表情のまま黙っている。悪い冗談を言ったと反省した。

 最初の飼い猫の影千代が亡くなって間もなく家の玄関を訪れたのは、まだ生まれて数か月の白と黒のぶちの子猫であり、この猫は結局チビ小町と名づけ家で飼うことになり、これが我が家の最後の飼い猫となった。この猫を見送ってから20年以上経つが、この時以来、猫との関係を極力断ってきた。それには年のせいで猫の世話や生死にかかわりたくなくなったことが大きいし、10年程前のリニューアルの時に、自由に出入出来る猫用の出入り口を取り壊したことも関係している。

 しかし、そんな年寄の気持ちなど関せずと猫達はやってくる。最初はそのことにあまり気が付かなかったが、ある時、家の裏で大きな音がするので、何事かと覗いてみると一匹の野良猫が、外に出してある生ごみのゴミ箱の中に頭を突っ込んで藻掻いている、コラと大声を上げると身をひるがえして一目散に逃げていった。大柄の野良猫らしき三毛猫であった。其の後ゴミ箱はひっくり返されぬ用固定した。それ以後、注意してみているとこの猫らしき野良猫がどうやら、我が家の周辺を生活圏内にしているようでその姿をちょくちょく見かけるようになった。そしてどうもときたま家のベランダで日光浴もしているようなのである。しかし最後の飼い猫以後は、猫との関係を断つようにしたので、見かけたら追い払うようにしていた。しかし、そんな気持ちを知ってか、猫の方もいったんバッと逃げるものの敷地境界線近くまで逃げると一端立ち止まり、私の気持ちを推し量るようにじっとこちらを見つめる。こんなことがたびたびおこるようになった。そして、その野良猫は、ついに5月の連休に遊びにやって来た7歳の孫娘にも目撃されるまでになった。

 そして6月のはじめ事件が起こった。夕方、野良猫が死にそうな様子ベランダの横に倒れ込んでいると妻が云う。おそるおそる見てみると確かに瀕死の様子である。近づくと警戒の表情を浮かべ、動かそうとすると逆らってベランダの下に逃げ込もうとするが、たいして抵抗できず、簡単に動かされてしまう。見るからに、たいそう弱っている。死にかかっているといってもよいくらいだ。ほっておく分けにもいかないので、とのあえず皿に牛乳を注いで口元近くに持ってゆくと一瞬躊躇し、ジッと此方の目を見つめると敵意の無いことをみとめたのかすぐに舐め始めた。飢えで動けないのかも知れない。咄嗟にそう判断し、キャットフードを買いに近くのVドラッグに走った。三缶セットの一つをあけ、皿にもり、もう一つの皿に牛乳を注ぎ猫のもとに行くと驚くことに猫が2mばかり移動していた。最初の牛乳が効いたかもしれない。そこで、キャットブードと牛乳を与えるとキャットブードを数口食べ、牛乳を懸命に飲んでてる。これで様子を見ることにした。このとき、猫が横たわっていたのは、軒下のコンクリートの上であった。夜になり、雨も多少パラついてきたので、このままでは、身が持たないだろうと段ボールの寝床でも用意しようと見にいったらいつの間にか居なくなっていた。

 家の近くの草叢にでも入り死んでいるかも知れない。そう思い翌朝丹念に家の周りを調べたが、姿は見当たらなかった。あんなに弱り、這うこともままならなかったのによく立ち去ったものだ。それにしても野良猫との不思議な関係であった。弱った猫の訴えるような眼差しに、思わず救助行動をした自分とその行動を受け入れた猫との間には、生死の境における言葉にならない対話があったような気がした。

 あの猫には、自分が動けるようになる。それ以上の助けを求める気はさらさら無かったような気がしてならない。私がした行為は、生き物としての最低限のことであったが、あの猫は、一瞬だけ自分の生死を未知の存在である私の善意にゆだね、その場を生きる伸びることを選んだ、それは猫にとっての猫生最大の出来事だったに違いない。

 あの猫は、その後姿を見せない、その理由は分からないが、その後どこかの林の片隅で静かに終末を迎えたかも知れないし、以外と飼い猫であったりして、もう遊び癖を止めてどこかの家の片隅で静かに余生を楽しんでいるかも知れない。しかし、出来ることならもう一度、元気な姿を見せ、あの時を振り返るようにじっとこちらを見つめて欲しい。了

我が家の猫史 

ある日突然、家に異生物が紛れ込んでくることがある。丁度上の娘が、小学校に通い始めてまもなくで下の娘が幼稚園の頃であったであろうか。その頃は今の土地に、家を建て引っ越してきたばかりであったが、家の北側には、雑草に覆われた荒れた未耕作の土地が広がっていて、そこは、子供達の恰好の遊び場となっていたし、時折向かいの山林からくるつがいの雉を見かけることもあった。その荒地と家の前を通る県道とは、道路で隔てられており、道路と荒地の境界に沿って深い側溝が走っていた。ある日の午後であったであろうか、何か子供達の声がするので、近づいてみるとその側溝に一匹の三毛の子猫が落ち込んでいて、それを子供達が救い出そうとしているところであった。その子猫を取り巻く一団の中に我が家の娘達がいたためか、結局その子猫は、我が家で引き取ることになった。その子猫の名前をどうするかで、家族会議が開かれ、当時テレビアニメに出ていた猫の名前からとった影千代やミッキーやレオ等の候補が上がったが、意見が集約できず、少し長いが、影千代ミッキーレオと名づけられた。この雄猫が、我が家の猫史の始まりであった。

この猫を飼い始めて一、二年程たった頃であろうか、一匹では、寂しかろうと云うことで、妻が近くの動物病院から白の猫を貰ってきた。こちらは、単純なシロと名づけられた。こうして二匹の猫と二人の子供と夫婦の生活が始まった。影千代ミッキーレオ云う長い名前は、やがて省略され、単純にカゲと呼ばれるようになった。この二匹の猫は、全く異なる個性で、雄猫のカゲは、野蛮な自由人、不妊手術を受けた雌猫のシロは、内向的で優雅に見えた。しかし、この優雅さは見かけだけで、動物病院で、育てられていたにも関わらず、下のしつけが出来ておらす、度々布団の上に不始末をする悪弊があり、よく妻を困らせていた。しかも当初の目論見とは異なり、この二匹は、結構、仲が悪かった。

この猫達のため、自由に出入りできるくぐり戸を設置するのは私の仕事で、このくぐり戸の使い方を教えると、二匹は、自由に外部に出入りすることが出来、猫との共生生活は、ようやく軌道に乗った。この二匹と四人の共同生活は、長く続かなかった。シロが前の道路を横断中に車ではねられ、大怪我をしたためである。その頃近所に動物病院に連れてゆくと手術に十万円かかると云う。これは、当時としては大金であったので、手術をあきらめ、安楽死をさせようとしたが、娘達が、お年玉もいらないから命を助けるよう懇願するので、結局10万円で、手術するはめになった。しかし、この努力は、むなしい結果となった。手術の二か月後、元気になったシロは、又交通事故に会い、今度は、あっけなく死んでしまったのである。ほっておくわけにもいかずその遺骸を八事霊園にもってゆき、二千円で焼却してもらった。

 このシロが亡くなって間もなくの冬のある日ことであった。家の中に見慣れぬ真っ黒の猫が入り込んで来た。猫用の潜り戸からかってに入ってきたと見える。その猫は、薄汚れた随分不細工な成人の猫であったこともあり、さっそく追い払った。外が寒かったせいもあったと見え、その猫は、その後も数回家への侵入を繰り返したが、その都度追い払った。初めてこの猫を追い払って二か月ばかりたったころであろうか、道路で猫が死んでいるいると近所の人の声がするので、見に行くと、そこで死んでいたのは、まさしくその黒猫であった。この死骸もダンボールに詰め、八事霊園にもっていった。この猫を追い払ったことの後ろめたさのような感情に動かされてのことであった。

 猫にまつわる話は、さらに続く。家を建ててまもなくのことであったが、家の前の空き地の雑草に悩まされたので、その持主に電話をして雑草を処理して欲しいと連絡したところなかなか草取りに行けないその代わりその場所を自由に使ってもらっていいとの返事であった。それ以来、そこを野菜畑として利用することになっていた。その土地は、道路側を底辺とする三角形の土地で、その三角形の頂点に、一本のトウカエデの木が立っていた。その木の下には古いトタンが放置されていたが、それは、その土地を利用するようになってもそのままにしてあった。黒猫の死亡事件があって数年たった頃のことである。ある夜の事であるが、夢の中で霧の中から傘をかぶり杖を持ち旅の着物姿の一人の雲水が現れ、枕もとに立って、自分を供養するように促して消えた。目を覚まして不思議なこともあるものだと思った。当時の寝ている頭から、2mメートル程の近距離に隣の空き地の三角形の頂点があり、そこにトウカエデの木が立っていた。目を覚ました翌日、何かあるなら、その周辺かと思い。トウカエデの木の下のトタン板をめくるとそこに一匹の猫の死体を見つけた。この猫の死骸も早速八事霊園に持っていった。

我が家で、天寿を全うしたのは、カゲであった。このカゲは、全く手がかからない自由猫で、恋の季節ともなると何日も家に帰ることなく、雄同士の喧嘩で傷だらけになって帰ってくることもあった。また狙った獲物に対する食欲は激しく、酒の肴の蛸を一切れ銜えた取られたことがあったが、そんな時にも悪びれることもなく、逆に威嚇される始末で、「猫ぼうより皿引け」の格言を思い知らされたこともあった。そんな野性的なところに魅かれたのか小学生だった下の娘が初めての油絵で描いたのがこのカゲであった。何度も塗り重ねられたその黒猫の絵は、博物館で開催された教室の展示会で飾られ、力強いと絵画教室の先生にほめてもらった。

単身赴任のときの油絵を持ってゆき、赴任先の社宅の居間の壁に飾ったが、その絵には、疲れて一人家に帰ったときなんとなく元気づけられた気がした。今から思うと決して上手いとは言えないその絵には娘と猫の二つのパワーが秘められていたためであった。カゲは、晩年ほとんど痴呆状態で下の始末も自分でできなくなっていた。その最後を見届けたのは妻であった。猫は、死期を悟ると人知れず死に場所をもとめ、そこでなくなると云う。カゲもそうした死に方をしたかったほどかもしれないが、死を目前とした彼には、もはやその気力は失せていたようである。それでも、両手、両足を突っ張るようにして一声叫んで、息絶えたと云う。このカゲも私は八事霊園に運んで行った。

不思議なことは、まだ続く、カゲが亡くなって一週間ぐらいたった頃である。玄関で子猫の鳴き声がするので、見てみると一匹の子猫が玄関に佇んでいた。どうも誰かが捨てて行った捨て猫らしい。我が家の猫が死んだことを知った人が密かに置いていったのか、それとも偶然に我が家に紛れ込んで来たのか分からないが、とにかく猫の生活道具は、そのまま残っていたので、家で面倒みることになった。この子猫は、小さくて美人なのでチビ小町と名ずけられやがて省略してチビと呼ばれるようになった。このチビは、不思議なことにやって来た時から、自分でトイレが利用できた。幼くしてしつけられていたに違いないとは、妻の意見であった。このチビは、性格穏やかで、器量よしの猫であったが、狩りの名手でもあり、ときおり、雀や野ネズミを生きたまま銜えて、誇らしげに室内に持つ帰り、物議を醸しだしていた。

このチビが亡くなったのは、私が東京に単身赴任していた時期である。ある夜妻から電話がかかってきた。チビが死んだと云う。どうやら電話の向こうで泣いている様子である。話を聞くと、急に苦しみ出し、病院に連れて行ったが、息を引き取ったとのことで、多分毒物のためかもしれないが、解剖しなくては、死因は特定できないと云う。それをどうするかの相談であった。解剖には、一万数千円かかると云う。病気を治せず、死因の特定に追加の料金を取ろうと云う病院の対応に思わず腹が立った。解剖したとてチビの命が戻る分けではないので、即座に引き取るようにいったが、一度も泣いたのを見たことのない妻の様子に心が痛んだ。妻の話では、チビは、毒殺されたに違いない。それは、多分隣人によるものだ。そういえば、以前、姿が見えなかったので近所を探し回ったが、その時は、近くの畑の横にある農機具倉庫に閉じ込められていたのを鳴き声で見つけて救出したことがあった。畠でフンをしたので、恨まれたせいに違いない。また、独身の隣人がお宅の猫が自分の車の上に載って傷がついたと文句をいったことがあった。毒を盛ったのは、あの畠の持主か独身の隣人に違いない。しかし、こうした話には証拠がなく、結局チビの死因は、分からないまま事件は終わった。チビの遺骸は、妻が八事霊園に運んだとあとで知らされた。

  思えば、単身赴任の4年ばかりの間には、様々な事件が勃発した。この間には、姉が亡くなったし、古くからの友人で弁護士の斎藤君も亡くなった。また、自分も、突如眼底出血に見舞われた。米国同時多発テロ9.11事件もあった。このチビの死以降我が家が猫を飼うことは絶えてなかった。

 機嫌がいいとニャン・ニャン気に入らないとシャーと云う猫語をあやつる孫娘が、我が家に下宿するようになるのは、その20年後のことであった。大学生活に慣れるまでの1年間ばかり、下宿させてほしいと云う長女の要請で、引き受けたそのニヤンニヤン娘は、その翌年から始まったコロナのせいで、それが少し下火になるまで、結局3年ばかり、家の2階に住み着き、やがて出ていった。夜行型のその娘のおかげか、それまでいたネズミの物音はその後すっかりしなくなった。 了



日常の隙間より・・・新型コロナ考 

突如として日常のベールが剥がされ、真実が垣間見えることがある。2011年の3.11の時がそうであったし、その前の2001年9月11日の米国同時多発テロの瞬間がそうであった。さらにその前を辿れば、1994年6月27日の松本サリン事件と1995年3月20日の地下鉄サリン事件がそうであった。オーム真理教によるサリン事件は、直接目撃できなかった事件であるが、9.11と3.11は、それが映像として報道されたため、その衝撃も大きかった。9.11の時、私は、単身赴任しており、川口の社宅から東京駅まで、通勤していたが、朝テレビをつけるとそこに、ワールドセンタービルとそこに突っ込む旅客機が写っていた。ニュヨークに立つそのビルは、28歳で米国省エネルギー調査団の一員として訪米した折に、その屋上でその調査団の団長であった芝浦工大学長の藤井正一先生と記念写真をとった場所であった。3.11の時は、自宅で自分の部屋に居て揺れを感じ、それからは、何時間もテレビにくぎ付けになり、津波が田老町の10mの防波堤を軽々と乗り越える映像等、SF映画を見るような非現実感で眺めた。

 目に見えるこの二つの事件に比べて、サリン事件は、不気味な事件であった。その理由は、その原因や動機が全く不明な事件として立ち現れたためである。しかし、この時一人直感的に思った。これは何らかの信念を持つものの仕業であると。大量殺りくは、普通の感覚では、起こりえない。深く正義を信ずるものにしか実行できない。そしてそれは、政党か宗教団体である。その直感は、あの1960年代から70年代の動乱期の自らの政治・思想体験に根差していた。それは死が自分の手中にあり、命がけで生きていた時代を体験したものにしか分からない心の闇と関係していた。

 これら今まで体験してきた事件に比べて、今回のパンデェミックは、全く違った様相の事件であった。それは目に見えないと云う意味では、地下鉄サリン事件と同じであるが、それによる外国のロックダウンの状況や混乱する医療現場の映像という意味では、9.11や3.11事件と同じである。しかし、これら二つの事件と全く異なるのは、この事件が、クルーズ船と云う時空の一点から始まり、それがあたかも次第に濃くなる霧があたり一面を覆ってゆくように世界的規模で、時空を覆っていったことである。

私にとっては、この世界的なパンデミックはそれ程、衝撃的な事件ではなかった。こうした事件は、バイオハザードや猿の惑星等を通してSFの中ですでに経験済みの出来事であったし、古くは、旧約聖書のエジプト記の中で、不信者への神の罰として、不信者達が、無音、無臭の力によって死んでゆく場面も見てきた。

しかし、こうした出来事が社会にいかなる形で衝撃を与えて行くのか、その結末や収束についてビジョンを扱った作品は、少ない。「事実は、小説より奇なり」であるからである。

パンデミックによる世界終末を描いたのは、ドフトエフスキーで、「罪と罰」の最後の方で主人公のラスコーリニコフが熱病に罹りながら、世界が疫病で滅んでゆく夢を見る。このことをどこかの文章で読んで、その内容が気になり、書店で「罪と罰」を立ち読みした。私には、この長編を読み通す気力も時間も残されていないと思われたためである。そこには、世界が疫病に罹り、それにより、人々は、異常に自分が正しいとの信念を持つようになり、多くの人が、それぞれの信念を正しいとすることにより、対立が生じ、互いに殺しあって世界を滅亡させてゆく様相が簡潔に描かれていた。ドフトエフスキーは、世界を破滅させるのは、人間であり、各自の正義の信念こそが、争いの原因と云いたかったのであろうか。

「罪と罰」のテーマは、世界の終末ではないので、ドフトエフスキーはそれ以上の事を語ってはいない。しかし彼は、人間と云うものの根源を見据えていたに違いない。

フランスの歴史人口学者のエマニエル・ドッドは、死亡率からソ連邦の崩壊やトランプ政権の誕生を予測したように、社会変化をもたらすものは、生への渇望と死への恐怖である。 新型コロナ影響下の不安・恐怖と自粛による社会的ストレスは、人々から心のゆとりや寛容さを奪い、社会全体としてのある種の集団ヒステリー症状を生み出す。この中で、このような現状を生み出した犯人探しや事態を招いた責任の擦り付け合いがはじまり、それを利用して、権力奪取をくわだてる政党や団体が暗躍し、各個人・各集団が自らの正義を掲げて対立・抗争を激化させる。まさに「罪と罰」の中でラスコーリニコフが熱病にうなされながら見た夢の世界が繰り広げられている。

新型コロナの恐ろしさは、その感染力や致死率ではなく、不安や恐怖にかられ集団ヒステリー現象に感染してゆく人々の精神状態である。熱はいずれ下がる。その時人々は、熱病にうなされて叫んだ正義や信念等自らの異常行動をすっかり忘れて、虚構の日常世界に戻ってゆくことになるだろう。9.11や3.11の衝撃を忘れ去ったように。

しかし、その後の世界は、以前の世界と同じであろうか。テレビで、1918(大正7)から1919(大正8)世界的に流行したスペイン風邪の番組を見ていて、稲妻のように閃いたことがあった。その時期は、松田家の曽祖父濱次郎とその長男濱三郎が相次いで亡くなったときであり、家長とその跡継ぎを一度に失った松田の家は、その後没落してゆくことになった。家族史を書いていてその死因の記録がないのでその偶然の不幸の連鎖を不審に思っていたが、それがスペイン風邪であれば、すべて辻褄が合う。そうだとすれば、パンデミックは、現在の自分や子供達にまで影響を与える出来事であり、その後の世界をすっかり塗り替えたことに連なる。 日常のふとした出来事が、稲妻のように存在の暗闇を照らすことがある。これは、私にとって云い知れぬ感動と驚愕を覚えた出来事であった。(画像は生成AIで作成した)              了



コロナの時は

コロナのときは

コロナの時は、家の修理をしてすごした

雨樋を付け替えたり、洗面台を修理したり

トイレを取り換えたりした。

巣箱を作って蜜柑の樹にかけたりもした。

40年過かって朽ちかけた

四季桜を伐採したりした

その木片を使って

幼稚な観音像を彫ったりもした

桜の切り株は、

恨めしそうな表情を見せていたが

その根元にあざみの種が飛んできて

供物の花のように咲き乱れると

桜の切り株は、穏やかな表情になった。

コロナの直前に隣の家が取り壊され

家の一部が丸見えになった

垣根代わりに緑のネットを張り

目隠しにはゴーヤと朝顔で植えたりしが

それは初夏から秋だけ仮の囲いでしかない

隣家があると思わず切ってしまった立木

その株からは、新しい芽が出て来たが

その芽はなかなか伸びてこない

しかし、不思議なことに

知らぬ間に桐の幼木が芽を出し

アッと云う間に育って

家の目隠しとなった。

そう云えば、不思議なことはまだある。

例年になくツツジの花が多く咲き、

その花の間から、隣家が立つとき

なくなく伐採した夏蜜柑の樹が

再び芽を出し育ってきている。

コロナの年は、あじさいの花も例年になく

多くの花をつけた

そして驚くことにその花の間からも

夏蜜柑の幼木が顔を出した

これらは30年前隣家が立つとき

要請されて、実を結ぶ前に伐採し、

枯れ薬で、枯らした木が

再び蘇ってきたのだ

日が当たるということは

こんなにも神秘な力を

与えてくれるものなだ

30年前唯一残った

夏蜜柑の樹は、コロナの

時に百数十個の実をつけた

その処理に困った私は

それを都会に住む知人達に

送り届けた。

その夏蜜柑の樹は

今年は、10個ばかりの

特大の実をつけただけで

休眠している。

桜の切り株の根元には

また新しい草花が住みついている。

コロナのときは

植物達が生き生きしている

そういえば

家と道路の境界に住み着いた

ニラも例年になく、多くの

白い花を咲かせていた。

だが、鳥の巣箱は空っぽのままだ。

2024年青春への旅 

75歳になった時、25歳からの50年間に考えたことを科学・技術、思想、文学、自分史の4つの冊子にまとめて、友人達に配布したあと、次の冊子のテーマを「日常の隙間から」と云うタイトルで、日々考えたことをまとめてみようと思っていた。この構想は漠たるものであり、いわば、人生の余技のように考えていた。もともと短命一族で、男で80歳を超えたものがいない家系なので、75歳を超えて生きることは想定していなかった。しかし、その年はアッと云う間に過ぎていった。

そんな中、死を間じかに迎えた人間は、何を考えるのだろうかに興味を覚えて、手に取ったのが、古書展で見つけた山田風太郎の「人間臨終図鑑」であった。しかしこれは第三者が見た臨終の模様を集めたもので、本人が死を目前にして書いたものではなかった。死を目前にした本人が書いたものでは、渋澤龍彦の最後のエッセイ集「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」があり、これは、彼の死1987年8月5日の4か月前の1987年の文学会4月号に掲載されたものだった。しかし、この内容は、もはや病院での出来事を語ったもので死についての論考的要素はなかった。

其の後、西部暹の「保守の遺言」等、死を目前にした思想家の作品も読んだが、死生観に資する内容は三島由紀夫の「豊穣の海」以上のものではなかった。あの小林秀雄にしても、最後の著作「本居宣長」以降の晩年に何を考えたのかは、定かではない。その他にも色々調べたり、読んだりして分かったことは80歳を超えた老人が実際に何を考えて生きているのかについての記述は極めて少ないということであった。そして、それは80歳近くになると気力や思考力が衰え、自らの体験をまとめて、文章にすることが、困難になると云う単純な事実を示していた。

しかし、最近は、人生100年と云われる時代である。100歳まで生きるとすれば、80歳からでも後20年もある。その間、人はどう生きたらよいのだろうか。定年後、様々な集まりに参加するようになったが、知らぬ間に高齢化が進み、気が付けば老人ばかりである。大学時代からの友人達との話題も、病気と健康、グルメと旅行ばかりで、新しい発見がなく面白味がない。日本は、超高齢者社会に突入しつつあるが、残念ながらその高齢社会をどう生きるかの手本は、極めて少ない。手本がない以上自らが作り上げてゆくしかない。この老人達の対局に幼子達がいるが、その存在が逆に道を示してくれるかも知れないと知らされた出来事があった。

 数年前の8月の末、4歳になったばかりの孫を庭に連れだし、生えていた風船かずらの実を与えた。その子が実をつかんだとき、その殻が破れ、中から小さな実が出て来た。それにその子がおお!と驚きの感動の声を上げた。

 また、ある時、庭にしゃがみこんで、熱心に何かみているので、覗いてみるとそこに小さな蟻が数匹うごめいていた。その小さな生き物をその子は、驚きの目でみていたのである。

 さらに、近く公園に行ったとき、突然立ち止まり、シーと唇に指をあてるので何かと耳を澄ますと遠くで微かに小鳥の声がしていた。都会育ちのその子には、小鳥の微かな声が、極めて神秘的な音に思えたらしい。

 4歳児にとっては、この世が驚きと感動に満ちた世界であったのである。世界は驚きに満ちている。だからタゴールは「幼子達は、希望と云う火を掲げてこの世に生まれてくる」と詠ったに違いない。我々は、宝の山に住みながら、そのことに気づく感性をなくしているのではないかと反省した出来事であった

70歳前後の頃ふとしたことをきっかけに丸田町の交差点近くにある古本屋の協同組合の事務所で、開催される古書展に参加するようになった。その古書展は、組合傘下の書店が月に1回共同して古本の即売をする催しで、そこでは、ありとあらゆるジャンルの古書が山積みなって格安で販売されていた。

 そこには、一般の書店には展示されていない数十年前に出版され、それ故もう絶版となってしまっているような本も数多く展示されていて、そこで数時間過ごすと思いもかけないような本に出合うことが出来た。しかもその多くは、新品同様のものばかりなのである。

 ここで10冊ばかりを2000円以内で購入するのが私の密やかな楽しみとなった。世界にはまだ宝の山が眠っていると思えた。そしてそのことは、今も私に希望の知的波動をおくり続けている。

。75歳までに自分より目上の親族をすべて見送ってようやく自分の世俗の懸案事項を解決出来たと思った。60年前、物理学を学ぶため理学部に入学し、学部で、量子力学と核物理学と統計物理学に取り組んでいた。卒業こそすれ、ここで学んだことを生かすことなく、全く無関係の建築設備の会社に進み、定年まで勤めることになった。未消化に終わった物理学への未練はそのまま、企業人としての人生の底流にずっとうずき続けており、夢の中で、別の人生を見続けていた。その夢のしがらみから解放されたと思ったのは、定年後NPOで、大学関係者と研究活動をともにするようになってからであった。大学での勉強は所詮、哲学や文学と同じく雲の上の学問であったと割り切れるようになったためである。

しかし75歳を過ぎてまもなく、この気持ちを覆すような事件が訪ずれた。量子コンピュータの出現である。60年前自分が取り組んでいた学問が時代の脚光を浴びて歴史の舞台に登場してきたのである。これは、衝撃的な事件であった。僕はあの当時何か重要なことを見落としていたのではないかとの疑念がうまれてきた。それは、60年前の時間に僕を引き戻し、あのフランスの早世の作家アラン・フルリエが、その青春小説「モーヌの大将」で試みたように青春期の出来事の謎解きへと向かわせることになった。そして、それは、僕にとって60年前に戻って自分の別の道の可能性を探ることつまり青春期を再構築することでもある。

法華経の内容が取り入れられたその座禅和讃の冒頭は、「衆生本来仏なり、水と氷のごとくにて水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし、衆生近きを知らずして、遠く求むる儚さよ、例えば水の中に居て、喝を叫ぶが如くなり、長者の家の子となりて貧里に迷うに異ならず。」で始まっている。つまり、我々は、宝の山に住みながら、そのことに気づかずにいるとの指摘である。

近くの臨済宗の寺の本堂で、第二、第四の日曜日の早朝行われる座禅会に参加するようになって15年程経つ。この座禅会は、15分の座禅を三回行い、その後で、読経と礼拝を行って終了となる。そのときの経は、般若心経と白隠禅師座禅和讃と四弘誓願文である。つまり曹洞宗であれば、修証義となるところが、臨済宗であるため白隠禅師座禅和讃となっている。

2024年80歳の年に、僕はまた青春を取り戻す旅に出るつもりだ。ゆっくり休むのはこの旅から帰ってからで十分だ。人生はまだ長い。(了)

2024年1月同人誌「ときたま」8号掲載(挿絵は、AIによる)

AIで絵を描いてみました。(Bing Image Creator)

入力条件(日本語と英語)

聖なる森の絵

巨木がある夜の森、奥に月の光が降り注ぎ広場があり、数匹の鹿が見える。巨木の枝には

フクロウと鷹の姿、巨木の基に猫を抱いた少女が佇む。木木の暗い隙間から無数の

目が光っている。

Painting of the Sacred Forest

There is a forest at night with huge trees, a plaza with moonlight in the back, and several deer. On the branches of giant trees

An owl and a hawk stand at the base of a huge tree with a cat in her arms. Countless from the dark gaps of wood and wood

Eyes glowing.

花詩集とあざみの花―日常の隙間よりー

 古本市で、偶然手にした本であった。詩集が古本市に出てくることは少ない。思わず手に取ってパラパラとページをめくっていて、気になる出だしの詩句に出会った。

 とつぜんの出逢いであった

 通りすがりにお前をみたのは

 こんな都会の塀のきわに

 どくだみがひっそりと

 咲いているなんて

 余りにも思いがけない出逢いに

 私は立ち止まり

 感動してじっと見つめる

 ・・・・・・

 十薬(どくだみ)云うタイトルの詩の一節である。

(十薬とは、十の薬効があることからつけられたドクダミ

の別名である。)

この一連のフレーズに何か心魅かれて、購入して帰る。

 作者は、名古屋市在住の太田もと子(大正12年(1923年)生)とある。御存命ならば御年98歳。 詩集は著者69歳の時、1992年近代付箋芸社より第1刷発行となっている。

薬(どくだみ)の詩は続く

 お前も私に何かを語りかけているようだが

 お前の心を受け止めかねて

 私の心はうろたえる

 本来ならお前は

 郊外の林の下陰とか

 湿地などに群生するはずなのに

 こんな都会の塀のきわに生えて

 可憐な花を咲かすいじらしさ

 都会にいても

 めぐる季節を忘れずに咲く

 律義などくだみよ

 清純なまでに白い小さな花びら

 杳く 平安時代のへいし帽のように

 天を向いて 毅然として咲く見事さ

 六月の雨に濡れて咲くお前は

 詩にもなりそうだ

 この詩に出会ってから、少し草花に対する見方が変わり、家の片隅に咲くドクダミの花に気づいて、スケッチしてみた。我が家へは知らぬ内に侵入し、夏蜜柑の樹の下、冥加の群落の傍に遠慮勝ちに小さな群落をつくっていた。

 6月のことである。コロナ下で伐採した四季桜の残った株の横に、その木を弔うかの如く雑草が根づいているのに気付いた。抜こうと思ってよく見るとそれは、あざみであった。

 この時、花詩集の詩一フレーズが思い出され、手折るのを止め、そっと見守ることにした。詩集の詩句に歌われたどくだみでぱないが、どこからか飛んできて庭の小さな片隅にしっかりと根を張ろうとしているあざみが、ふといとおしくなったためである。

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そのあざみは、伐採された桜に残されたすべての命を吸い取るように力強く数本の大きな幹に枝分かれし、次々と蕾を膨らまし、やがて数十もの花を次々と開花させ、数知れぬ種を実らせた。

7月の半ば、さすがに鬱陶しくなり、一本を残して、取り除いた。

その頃までには、既に花達は、多くの実を結んで、その一部は、遠くに旅立っていったようであった。

 最後の一本が倒れこんだのは、8月オリンピックが閉会式を迎えた日であった。一度は立ち直った。しかし、翌日の強風で、再び倒れたのであろう。数日後、その茎は、真ん中から切り取られていた。洗濯に出た妻が、取り除いた後のように見えた。

 私は、そこに手折り投げ捨てられたあざみの花を知り除き、残った茎を根から掘り起こして、きれいに取り除いた。多くの実をつけて生を全うした花に未練はなかった。

 ただ、以前思い立ち描いたどくだみの花のスケッチの次のページにあざみの花のスケッチを付け加えた。

花詩集の作者は、あざみについて次のように語っている

 五分咲きのあざみよ

 このままお前は

 大人になることを拒否して

 そんなに 全身に刺をつけたのですか

僕の庭に咲いたあざみは、多くの花を咲かせ、その花ごとに無数の実を結んで、そしてお盆の訪れとともに刈り取られた。

四季桜の命は、あざみの花の実となり、8月の雲の下世界一杯に広がっていった。

2021年8月11日(水)