ジョージ・オーウェル「1984年」をめぐって      

―偶然出会った四冊の本が導くジョージ・オーウェルの心と世界―  

ジョージ・オーウェルの名前が僕の記憶から蘇ってきたのは、数年前古書店で一冊の本を見つけたことがきっかけだった。「カタロニア賛歌」という題字に魅かれてふと取り上げた本は、装丁がしっかりしていて、箱に収められていた古びた本であった。

それは、独裁政権下を描いたデストピア小説で、SFとしてあまり気持のよい作品ではなかった。そのジョージ・オーウェルとカタロニアとの出会いは、私の違和感をもたらしたが、それがざっとみてスペイン戦争との関連の本であることがわかると200円ばかりのその本を躊躇なく購入した。

新型コロナの流行をきっかけに中国社会で進む監視技術が話題になる中で、その延長上でジョージ・オーウェルの作品「1984」の名前がメディアに上るようになってきて、今一度

この小説を読んでみようと思い、蔵書をひっくり返したが、見当たらなかった。そうなると

おかしなもので、ますます読みたくなる。とうとう探すのをあきらめ新本を買い求めることに栄のジュンク堂にでかけた。そのとき、全く偶然に岩波新書の新刊本の中に川端康雄

ジョージ・オーウェル―人間らしさへの賛歌」を見つけた。その本を手にしたとき、そうだ僕が潜在的に求めていたのは、オーウェルが何者であったのかを知りたかったのだと直感的に思った。

 その日、早川書房「1984年」(2020年6月43刷)第とこの岩波新書の「ジョージ・オーウェル」(2020年7月発行)の二冊を買い求めて帰った。

僕は、数十年前に「1984年」を一度読んでいたが、その時は、著者に全く関心がなかった。

しかし、このとき何故か、この人物に猛烈に興味が湧いてきた。このため、まず手にしたのは、岩波新書の方で、これを一気に読んだ。そして彼が、英国のエリート校出でありながら

若き日スペイン戦争に義勇兵の一員として、参加した民主的社会主義者であったことを知った。

 ジョージ・オーウェルは、1903年大英帝国の下級貴族の家に生まれる。奨学金を得て、エリート高校に進学した彼は、卒業後軍人となり、当時英国の植民地であったビルマ(現在のミャンマー)に警察官僚として赴任する。そこでみた、植民地の現状に違和感を覚えた彼は、5年後の1927年24歳の時、安定した職を投げ打って作家の道を進み、1937年34歳の時、新婚の妻とともに国際義勇兵の一員としてスペイン戦線で戦い、大怪我を負いながら一命をとりとめる。ここで見た革命の夢と現実、この時の体験をまとめたものが1938年発行の「カタロニア賛歌」であり、その体験をもとにして書かれたのが1944年脱稿の「動物農場」であり、1948年脱稿の「1984年」である。この2年後1950年結核のためロンドンで死亡。47歳であった。

 スペイン戦争については、1985年3月26日の朝日新聞に掲載された法政大学教授 川成 洋氏の「スペインで戦死した無名の日本人ジャック白井の足跡たどって」と称する一文を読みひどく感動したことがあった。この文は、サンフランシスコの隣の町オークランドで開催されたスペイン戦争に参加した米国の国際旅団「リンカーン大隊」の生き残りの集まりを記事にしたものであるが、その隊長だったミルトン・ウルフの「われわれは、未熟な反ファシストだった。今でも同じだ」の言葉に象徴される思想の継続性に当時中間管理職として仕事に追われていた身に、新鮮な驚きを覚えたためであった。

 ジョージ・オーウェルの思想は、このスペイン戦争の体験が中核となっていた。彼はこの反フランコの人民戦線の戦いの中で、当時人民戦線を支援していたソビエト共産党のスターリニズムのトロッキーの影響を受けた人々に対する云われのない迫害や裏切りを目の当たりにするのである。「カタロニア賛歌」こま時のオーウェルの体験を綴ったものであり、この体験をベースとして彼は、社会主義の衣を纏うスターリンの独裁体制への批判を強めてゆき、その延長戦上に書かれた小説が1944年に完成した「動物農場」であり、1949年に発表それた「1984年」である。この小説が出版された翌年の1950年オーウェルは亡くなる。岩波新書の「ジョージ・オーウェル」と早川書房の「1984年」を読み終えてから同じく早川書房の「動物農場」も買い求め、これも一気に読んだ。

 オーウェルのこの二冊の小説の出版には、当時大きな困難が伴うが、それが反ファッシズムで戦った仲間としてのスターリンの社会主義国家ソビエト連邦に対する西欧左翼世論の暗黙の圧力があったためであった。しかし、まもなく、冷戦の時代の到来とともに、この本は反共プロパガンダの書物として取り上げられたこともあって、その後ジョージ・オーウェルの名前は、左翼メディアからも正当な評価がないままに、放置されてきた。そしてようやくこの本が見直されるのは、1991年のソ連邦崩壊後のことである。

 今回あらためて、この二冊の本を読み返してみて、彼の社会主義独裁体制への痛烈な批判が、スターリンという個人的な枠組みを乗り越えた普遍的な視点からなされたものであることがよくわかる。

 ここで描かれた世界は、中国の文化大革命や韓国の文在寅左翼独裁政権で、今行われている歴史の偽造や、無知な若年者や民衆をプロパガンダで洗脳し、まともな思想や知性の言論を圧殺する風景そのままであり、まさしく当時オーウェルが感じていたことであり、当時彼が遥か先の未来まで見通していたことを示している。

 2020年の新型コロナのパンデミックや米国の大統領選挙は、民衆と云うものが如何にメディアや政権のプロパガンダで洗脳・誘導され易いかを事実を冷静な目でみることが如何に難しいか如実に示した。オーウェルの「動物農場」「1984年」は、極めて、今日的な問題を扱っている。その意味で今こそ多くの国民が読むべき本である。

フランスロマン主義とシュールリアリズム-その1

  1. 西欧詩と私

高校時代にランボオやボードレール、マラルメといったフランス象徴主義の詩に魅かれたのは、私だけではなかったようである。永い間、これは、その当時、旭丘文芸部にいた、友人の影響で極めて、限定的な現象であったと思い込んでいた。しかし、ある時、あれっと思わされる出来事があった。それは、明倫山岳会の70周年記念のパーティの席上でのことである。たまたま、同じテーブルに居合わせた一年下の尾崎という男が、高校時代、やはりランボオ等フランス象徴主義の詩に夢中になっていたと語っていた。彼とは、当時それほど親しくなかったこともあり、話はそれ以上に進まなかったが、あの当時僕らの世代の中にある一定の広がりをもって、フランスの象徴詩やシュールリアリズムへの憧れかがあったのは、事実である。

 その後、私の関心は、ブレイクやエリオット等に代表されるイギリスの詩やドイツロマン主義に移ってゆき、フランスの詩では、ルイ・アラゴン等わかりやすい詩にしか興味がわかなくなった。しかし、潜在意識の中で、あれは何であったのかという疑問がずっと続いていた。 

フランス象徴主義と社会問題との関係を教えてくれたのは、古書展で、見つけた大島博光のランボウ(新日本出版1987年初版)であったが、この本では、ランボーとバリコミュ―ンの関係等象徴詩とフランス社会との関係が詳しく語られていたが、それは、きわめて外面的な史実の記述で、私の疑問に応えるようなものではなかった。

 数年前、仲間と飯田市を訪ねたことがあり、そこで英文学者の日夏耿之介の名前を知り、彼の記念館での解説から彼の仕事に興味を持ち、書店で彼の代表的な著作、「サバト恠異帳」(ちくま学芸文庫2003年第一刷発行)を手にいれたが、大正生まれ(1890~1971)の碩学の古今東西の西欧から日本に亘るデモロジー(悪魔学)、オカルティズム(隠秘学)、ウイッチクラフト(魔女 の魔術(呪術))、ミスティシズム(神秘主義)等の知識に圧倒されるばかりで、文学の奥深さを知らされた。

2.渋澤龍彦について

以前から名前だけは、知っている渋澤龍彦に改めて興味を持つようになったのは、日夏耿之介を知った前後の時期である。そのきっかけは、数年前、死を目前にして人は何を考えるのだろうかに興味を持ち、著名な人達の最後の文章を読み散らしたことと関係がある。この時中野幸次等と並んで渋澤龍彦の「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」という最後のエッセイ集を読み、これをきっかけとして彼の「高円丘宮航海記」を読み、次第に澁澤龍彦の世界に興味を抱くようになった。無論澁澤龍彦の名前は、「サド裁判」で知っていたし、彼の翻訳したマルキド・サドの「悪徳の栄え」はすでに高校時代に興味本位で読んだこともあった。しかし、理想主義的であった当時の私には、その世界は到底受け入れることできないものであった。しかし、今の年になってみれば、彼の世界は奥深く驚異に満ちているように思われ、それ以来、古書店で、彼の単庫本を見つけ次第に買い求めるようになり、その数は20冊以上になる。

そんな時、古書店で新たな一冊を見つけたそれが、「悪魔のいる文学史―神秘家と狂詩人―」(昭和57年2月初版)であった。澁澤龍彦(1928年~1987年8月5日)は、31歳で結婚するも9年で死別し、40歳で再婚し、59歳でなくなっているが、これは、1982年つまり彼が54歳の時の作品である。

 澁澤龍彦は、苦労人である。終戦直後旧制高校へ進学、二浪して東大文学部に入学するが、肺結核で就職できず、校正と翻訳の傍ら作家活動を行う。サドの「悪徳の栄え」の翻訳で、有罪となり、世間で歪んで受け取られるも、三島由紀夫等に評価され昭和56年には、泉鏡花賞を受賞している。

 この「悪魔のいる文学史―神秘家と狂詩人―」は、この本の文庫版のあとがきで作者み自からが語っているように、フランス文学者らしからぬ作者が書いた「純然たるフランス文学についてのエッセイ集」である。この中で彼は、フランス文学史における三つの流れについて述べている。その三つの流れとは、まず、第一にフランスにおける「神秘主義乃至隠秘主義(オカルティズム)の伝統」であり、第二に「19世紀初頭における小ロマン派の運動であり」第三は「19世紀末における象徴詩派の一部過激分子達の動向である」、ここでは、私が西欧思想の中で従来密かに探究してきた、神秘主義、ロマン主義と漠として位置付けのはっきりしていなかったフランス象徴詩運動の関係が、統一的に取り上げられていた。

空海が見えてきた

空海について興味を抱くようになってもう何年経つだろう。20年近くにはなる。

空海に魅かれたのは、密教なるものが、理解しがたかったたてめであった。それは、とりもなおさず、原始仏教から大乗仏教までの流れに比べ、大乗仏教から密教への流れが理解し難たかったということと関連している。

原始仏教に呪術的な影は感じられない、それが、その普及と共に呪術的要素を加えてゆく、大乗仏教の代表的な教えは、法華経であるが、この法華経には、その観音経の中に既に呪術的要素が既に含まれている。それは、仏教がその時代の社会的要請に応えるための思想的変貌でもあった。

個人的な哲学思想から社会的思想への変貌は、その基礎を釈迦という歴史的実在をより普遍的価値の中に位置づけ、世界観・宇宙観として発展させることを意味していた。その普遍的価値として誕生したのが宇宙的秩序の中心としての毘盧遮那仏つまり大日如来信仰である。下記は、真言密教誕生前後の日本の時代区分である。

仏教伝来 538年

飛鳥時代 592年(崇峻天皇5年)-710年(和銅3年)

奈良時代710年(和銅3年)-794年(延暦13年)

平安時代 (794年延暦13年) – 1185年(文治元年)

空海は、774年(宝亀5年) -835年 (承和2年)

密教の源流には、大日経と金剛頂教の二つの教がある。この内大日経(大毘盧遮那成仏神変加持経)は、600年代、インドで成立し、東インド生まれの善無畏(637~735)が中国にもたらし724年漢語に翻訳され、金剛頂教『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経(大教王経)』は、『600年代の半ばから後半南インドのアマラバティで成立し、西インド生まれの金剛智(671~741)とその弟子不空(705~774)が漢語に翻訳し、中国に伝えた。

この二つの経は、唐の玄宗皇帝(685~762)の治世下の中国で広まる。空海は玄宗皇帝の亡くなった12年後に生まれている。

大日経は、大毘盧遮那如来(大日如来)が自由自在に活動し説法する様を描いた経典。教理は第1章で,他は実践行の象徴的説明である。この中で、護摩(ごま),曼荼羅(まんだら),印相(いんぞう)などの秘密の実践が詳述されている。

金剛頂教は、大日如来が釈迦に対して、自らの悟りの内容を明らかにし、その実践法を説いている。悟りの内容が金剛界曼荼羅であり、実践法としては五相成身観(ごそうじょうしんかん)という瞑想法が説かれている。『金剛頂経』は単数の経典ではなく、新古いくつかの同系統の経典の総称である。このうち初期の成立で、かつ内容的にも後の『金剛頂経』の方向を決定した、初会(しょえ)の『金剛頂経』が、アマラバティの成立と考えられている。理趣経は、この一部である。

真言密教では、この世界宇宙を救済論的に慈悲の働いている側面(胎藏界)と哲学的認識論的に智慧の働いている側面(金剛界)の二面からとらえる。その胎蔵界について大日経が、金剛界については金剛頂経がその生々とした実相を詳しく説いている。胎蔵界および金剛界の両界の曼荼羅はこれら両経の説くところを視覚的に絵画表現したものである。

空海は、当時部分的にしか伝わってきていなかった、密教を日本に本格的にもたらしただけでなく、大日経的世界と金剛頂経的世界を統合して真言密教として完成させた。

ところで、密教とは何か、一つには、大日如来という宇宙生命体の創造による仏教的世界観の完成であり、今一つは、それとの一体化への具体的手法・修法の確立であり、その結果として得られる心の平安と現実世界での利益と云うことである。

心の平安と現実世界での利益は、呪術と限りなく繋がっている。仏教の社会的広がりは、それによる現世的利益への期待を膨らませ、そこに焦点と社会的関心が集まっていったのは、当時の科学的知識や民衆の知的水準を考えれば必然のことであった。

ところで、空海は、呪術的効果を本当に信じていたのだろうか。空海には、もっと冷静な視点があったに違いない。修法は、何よりも人々を安定させまとめ上げ団結させる手法であり、この点に関して国家維持や統一の思想としての役割もあった。人々を対象とすることは、救済論仏教としての性格も合わせ持つ。

空海は、死の2年半程前、高野山金剛峰寺の金堂と諸仏の完成した翌年832年そこで初めて「万燈万華の法会」営むが、その願文は次の言葉で始められている。「黒暗は、生死の源、遍明は、円寂の本なり」とまた秘蔵宝艦には、「生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで生の終わりに昏し」とある。「暗い」は周りに何があるのか見えなくなるほどに物理的にくらい状態を指し、「昏い」は光が弱くなるものの、何も見えなくなるほどくらくはない。

我々は、全くの無から生じるが、生命と知恵の力で光明の下で生き、やがて生命の火が消えるように死を迎える。

「万燈万華の法会」では、暗闇に一万もの灯明と一万もの華(花)を供えて法会が行われたと云われる。空海は、原生林に囲まれた漆黒の闇の中に浮かび上がる一万もの灯明とそれに映える華花という具体的な映像を通して、仏法の役割を示したかったに違いない。

「空海の生涯」由良弥生 2019年2月20日王様文庫 三笠書房を手にして、思わず引き込まれてしまった。ポイントは、空海が虚空蔵菩薩求聞持法

を教えられた沙門に作者が善道尼という尼僧をあて、この尼僧との関係を一筋の糸として人間空海の生涯をまとめ上げた点である。女性の出現により、人間空海がよりリアリテイをもって描かれることになった。

以前空海の世界に迫ろうと「空海の詩」安部竜樹2002年6月30日(株)春秋社を手にしたが、あまりに難解で、その世界に触れる感覚がなかたが、今回、密教の世界を少しまとめることで、もっと触れることが出来そうな気がした。

それにしても、密教の影響は大きい。臨済宗のお寺で頂いた経本の中に消災呪と大悲円満無礙神呪と云う大日経系統の陀羅尼(真言)が含まれているのに気ずいた。陀羅尼(真言)を祈りの言葉とすれば、呪術と祈りは、表裏一体のものであるのかも知れない。空海にとって願文は、祈りよりももっと

力強い宣言文又は決意表明文と云うべきものであったような気がする。いずれにせよ、これからは空海を楽しみたい。 完

 

禅と良寛をめぐって

もう、30年以上にもなる。43歳で運転免許をとった数ヶ月後の頃、大學時代の友人から、河口にある別荘で、有志による同窓会を開催するので、参加しないかという誘いがあり、中央道を走って、大月インターから富士の樹海の中のその山荘まで、車で出掛けたことがあった。

早朝の中央道を走っていたとき、ふとラジオに耳をやるとNHKの番組で、臨済宗の中興の祖と云われる白隠禅師の話をしていた。それが、禅との出会いのきっかけとなり、それ以降、禅に関する書物を読み漁り、気かつけば、自分で座禅をするようになっていた。

まもなく、バブルの絶頂期を向かえた頃、唐津順三の「良寛」(ちくま文庫1989年発行)の本に出会い、たちまち、良寛の漢詩とその世界に魅了されてしまった。良寛の漢詩を全て、読みたいと云う気持が、次第にたかまって押さえがたく思われたとき、今年3月で取り壊される中日ビルの3階の書店で、渡辺秀英の「良寛詩集」( 木耳社1994年増訂5刷発行)を見つけた。

以来この本は、私のもっとも大切にしている本の一冊となり、今も手元にある。それまで、良寛は、和歌と書で知っていたが、それに劣らず、多くの漢詩を残しており、その詩の多くは、良寛の心象世界を、的確に表現しているように思われた。その一端は、唐津も絶賛する次の詩の中に表れている。

瀟条 三間の屋     瀟条 三間の屋

終日無人観       終日人の観るし

独座間窓下         独座す、間窓の下

唯聞落葉頻         唯聞く、落ち葉の頻りなるを

喧騒たるバブルの最中、良寛の漢詩を読み、その世界に触れることは、当時の私にとって、心の慰みであり、自分のこころが最終的に落ち着く場所を得た思いがした。

良寛は、40歳から、59歳まで、国上山の五合庵に住み、59歳から69歳まで、乙子神社境内の草庵に住み、69歳から三島郡島崎の木村元右衛門方の草庵に移り、74歳で死ぬまで、その草庵で過ごす。良寛の漢詩の多くは、五合庵時代に書かれている。

良寛が、若き貞心尼と出会い恋(?)をするのは、木村元右衛門方の草庵に移つた直後の69歳のときであり、このとき貞心尼は、29歳と云われている。

僕の詩的抒情史  ――詩・言語・宇宙ー

五年程前、家のリニューアルをしたときのことである。二人の娘が嫁いで出て行った後には、彼女等のそれまでの生活の足跡が各所に残されていて、その整理が問題となった。その中に、数多くの教科書や参考書、辞書の類があった。これ等を思い切って捨てることにしたが、まだ使えると思われるものは、残すことにした。特に、辞書類の一部は、自分の古いものと交換し。また、図鑑もまだ使えると判断した。

 しかし、教科書や参考書は、もはや不要のものと思われ、その多くを処分した。しかし、その中にどうしても、捨てがたいものがあり、その一つが高校時代の漢文の教科書であった。その教科書の中に、杜甫や李白、韓愈の詩と共に蘇軾の名文「前赤壁賦」を見つけ思わず胸が熱くなった。「壬)の秋、七月既望、蘇子客と舟を泛べて赤壁の下に遊ぶ。」で始まるこの名文は、今でもその半分を諳んじることが出来る程好きな文であったことを思い出したが、後半が思い出せなく、それが心に残り、いつか読み返そうと残すことにした。

 最近になって三国志の「赤壁の戦い」をテーマとした映画「レッドウルフ」を見ていて蘇軾の名文「前赤壁賦」を思い出し、あらため読み直し、それと共に、青春時代に詩や名文と出会った頃の思いが鮮明に蘇ってきた。

 僕は、高校時代、山岳部に入部したが、その動機は、当時愛読していた国木田独歩や若山牧水の詩に歌われる自然に魅かれたからであり、とくに独歩の「武蔵野」は暗誦するまでも好きであった。詩や名文へのこうした憧れは、中学時代にテニス部とともに合唱部に所属していたことや、放送室に出入りしてクラッシック音楽を聴いたことと関係している。中学・高校は、受験勉強に追われたが、国語の中に出ていた北原白秋の「落葉松の林」等の抒情詩には、心弾むものがあった。漢詩には、高校時代に初めて出会ったが、五言律詩や七音律詩のリズムやそれを基調とする名文に心をふるわせた。特に、漢文の先生は、詩吟の名人でもあり、講義の時、幾つかの詩を皆の前で朗朗と吟じて、我々を感動させた。その中でも「岐山悲愁の風更けて、陣雲暗し五丈原、零露の文は繁くして・・・・」で始まる土井晩翠の三国史の諸葛孔明の死を詠った長詩「星落秋風五丈原」の詩吟は圧巻であった。

 大学生になって、すぐ文学サークルに入った。文学サークルでの活動は、一年にも満たない期間で、数回の読書会に参加したことと文学を語れる友人を得た程度であったが、西欧の詩や現代詩に接するきっかけとなった。特に、現代詩についての決定的な出会いは、大学の文学サークルで一篇の詩と評論に出会ったことである。当時このサークルでは、「不毛の地名大に芸術の花を咲かせよう」のスローガンを掲げて「砂漠」という同人誌を発行していたが、その中に石井守さんの詩が掲載されていた。別れを詠った詩であり、同じ号に収録されていた村野四郎と現代詩に関する評論あった。そこで読んだ詩の書き出しは、次の詩句で始まっていた。

風景の中を木枯らしが吹き抜けるように

今こころの中から

すべての風景が消え去ってゆくのであった

さようなら、傷口がまだレモンのように匂っている間に

僕等は右と左に分かれよう

今は、心が貨幣のように固い時代なのだから

その声は沈黙の中へ

沈黙は都会の騒音の中に掻き消える

  ・・・・・・

五十二年前に出会ったこの詩はさらに続くが。当時の自分の生きている状況と生に対する新しい抒情に目覚めさせてくれたものとして終生忘れられぬものとなった。また、その時目にした村野四郎に関する評論もその内容を思い出すことは出来ないが、その詩が、哲学的な存在論をベースとした絵画的・イメージ的なものであり、それが、今まで慣れ親しんできた音楽的なリズムを主体とする抒情詩と全く異質なことにショックを受けたことは、はっきりと覚えている。その一つ槍投げという詩

 

あなたの狙ふのは何です

新しい原始の人よ

ふるえながら光は飛んだ

その方向で

突然おそろしい喚きごゑ

ごらん

背中に槍をたてられ

一瞬にげようと蹌くもの

しかし それも

ぢきに静かになる    (村野四郎体操詩集より)

 

 こうした詩の世界への導きとなったのは、創元社のポエムライブラリの四と六として発行された「西洋の詩を読む人に」と「現代詩はどう歩んできたか」(昭和三十一年発行)の二冊の本であり、西欧詩と現代詩への探索が始まった。

特に、中学からの友人の一人が早稲田の仏文科へ進んで、その影響もあって、ボールドレール、ヴアレリー、ランボーやマラルメ等のフランス関連の詩に接するようになったが、ゲーテやバイロン、リルケ等のドイツ関連詩にも魅かれていた。シュールリアリズム関連のフランスの詩は、訳語の問題もあり、フランス語を学んでいなかった僕には難解で、やがて興味は、エリュアールやアラゴン等の分かり易い左翼詩人に向かった。ドイツ詩は、ドイツ浪漫主義の詩から、ブレヒト等に向かったが、リルケの「マルテの手記」と「ドウイノの悲歌」に出会って終わり,アメリカでは、ポーからホイットマン、オーディンの詩と出会い、スペインでは、ロルカの詩に惹かれた。イギリスでは、ワーズワースの抒情詩に接したが、英文学の梅津先生の影響で、ブレイクの詩に興味をもった。ロシアの詩としては、手元に創元社版の「レールモントフ抒情詩集」(昭和二十七年発行)しかない。

日本の現代詩については、すぐに荒地派グル―プの詩に辿りつく、荒地派は、一九四七年~一九四八年にかけて刊行された現代詩の同人誌「荒地」に属した詩人達で、その中には、鮎川信夫北村太郎、中桐雅夫、加島祥造、三好豊一郎、黒田三郎、高野喜久雄田村隆一、野田理一、吉本隆明等がいる。「荒地」の名前は、第一次世界大戦後、T・Sエリオットが著した詩集「The Waste Land(一九二二)」による。

彼等は戦前のモダニズム詩やシュルレアリスム詩に影響を受けながらも、ヴァレリーらの西洋の大戦間詩人にも通暁していて、戦争での文明的変容の中で批判的に詩法を問い直し、独自のスタイルを確立してゆく。一九六十年代には、「荒地」は廃刊されていたが、その詩は、まだ時代の空気で呼吸していた。僕は、この荒地派の詩人達の詩集を読む中で田村隆一の詩と出会う。彼の詩の意味は、分からなかったが、言葉のリズムと言葉のイメージの融合が、僕の心と共鳴し、生きることの感動を呼び起こしてくれ、恋にも似た情感を感ずることができた。それ以来、数十年間、彼のあらゆる作品を読み続けている。その田村隆一は、詩集「一九九九年」の中で、「さようなら、遺伝子と電子工学だけを残した人間の世紀末」と詠い一九九八年八月七五才で亡くなった。その一〇月に現代詩手帳が田村隆一の特集号を出し、僕は、これによってその死の様子を知った。僕にとっては、一度会って肉声を聞きたいと思う数少ない人の一人であっただけに残念であった。

 荒地派の詩は、詩と言葉と存在の関係について考えるきっかけともなった。言葉には、論理的な側面とイメージ又は感情的な非論理的側面がある。このことは、大学時代から問題意識としてもっていた。社会人として技術の世界に入ってからは、論理的な側面としての言語と格闘することになる。設計と建築現場を経験した後、上京し配属された技術開発室という部署での仕事の一つは、内外の技術文書を調査し、その時点の技術的指針を設計基準や技術レポートの形でまとめることであったが、ここでは、情報伝達のツールとしての言語の扱いかたが問題になり、修飾語の掛かり方や接続詞の用い方を徹底的に学ぶことになった。また、英語の論文を日本語に翻訳する中で、その困難さが、その内容の理解より日本語で表現することにあることも痛感した。これらの技術文書の執筆経験の中で、基本的用語ほどその概念を明確にしないと論理展開が出来ないことも学んだ。

 非論理的側面として言葉の代表は、詩であるが、それが宇宙や世界認識と密接に関係しているのを痛感したのは、良寛の漢詩に出会ってからである。その一つ

     蕭条三間屋       蕭条三間の屋

     終日人無観       終日人の観る無し

     独座閒窓下       独座す閒窓の下

     只聞落葉頻       只聞く、落葉の頻りなるを

この漢詩では、漢字の形で絵画的イメージを表し 、意味で音楽を奏で、合わせて心の宇宙を表すように感じた。この視点から良寛詩集(渡辺秀英;木耳社:一九九四・三・一〇増訂五刷)を読み、その勢いで、一休宗純 狂雲集(柳田聖山訳:中央公論社二〇〇一・四・一〇発行)、空海の詩(阿部竜樹:(株)春秋社を読む。その中の一つ

 後夜に仏法僧鳥を聞く

閑林独座草堂暁   閑林の草堂に独り座り暁を迎える

三宝之声聞一鳥   三宝の声を一鳥に聞く

一鳥有声人有心   鳥の声とわが心が響きあい

声心雲水倶了了   声と心、雲と水が暁に融ける

 

言葉が、論理や感情だけでなく一つの宇宙に連なっていると感じるようになった。空海の声字実相義は、言葉と宇宙の関係を詩の形で表現したものであるが、そこにいわく。

 五大皆有響  五大(地、水、火、風、空)に皆響きあり

 十界具言語  十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人等)に言語を具す

  六塵悉文字  六塵(色、声、香、味、触、法)は悉く文字なり

 法身是実相  法身(大日如来)は、実相なり

 

 二〇一〇年、東京駅の八重洲口側にあるブックセンターに立ち寄ったとき、ちくま学芸文庫のコーナーで、言語に関する一冊の本に出会った。それが「言葉とはなにか」(丸山圭三郎:筑摩書房:二〇一〇・六・一〇第三刷)であった。なにげなく手に取ったその本には、今までの言語に対する僕の疑問を一挙に解消してくれる内容が書かれていた。言葉(ラング)は、一般に信じられているように「物や概念の呼び名」ではなく、人間に備わっている言語化能力(ランガージュ)により、混沌とした未分化の世界を切り取った結果であり、どのように切り取るかにより、個別の言語が誕生する。言葉の切り取り方が異なれば、当然言語ごとに連合関係もなってくる。ある地域での切り取り方は、その地域での特有の言語と文化を発生させ、それが民族を形成する。この基本的なヒントを僕は、大学時代に与えられていた。英文学の講義の中で、梅津先生は、リップという言葉は、日本語では、唇と訳されるが、リップと唇は、同じ領域を示していなくて、リップは、唇より広い範囲を表すので、英語では、リップに髭がある等の表現が成り立つ。このように異なる言語は必ずしも一対一の対応が成り立つものではないと説明されていた。そして、大学時代、物理学の本と格闘した結果、本は、順に読めば理解できるとは限らす、一通り最後まで、読むことにより、初めの一頁が理解できる場合が多いことを学んでいたが、一つの言語は他の言語との連合の中でその役割や定義を明確にすることを考えれば極めて当然のことであった。

 言葉は、そのままでは混沌でしかない世界に秩序をもたらすものであるなら、言葉は世界そのものであり、「始めに言葉ありき」の意味が明らかになる。丸山圭三郎の「言葉とはなにか」は、スイスの言語哲学者のソシュール(一八五七~ 一九一三)の言語論を発展させたものであり、その思想は、「言葉・狂気・エロス」(丸山圭三郎 (株)講談社二〇〇七 .一〇.一〇第一刷)「ソシュールを読む」(丸山圭三郎 (株)講談社 二〇一二.七.一〇第一刷)でその詳細を知ることが出来る。僕が、これ等の書物を手にしたとき、丸山圭三郎は一九九三年に六〇才で既に亡くなっていた。この本にもっと早く、大学生の時に出会っていたら、僕の勉強法はその影響を受け、僕の人生は、もっと違ったものになっていたかもしれない。完                      

 

挑戦を受けるSFと将来―神鯨を読んで―

今世紀に入ってからの急激な科学・技術の発展が、過去のSFの多くの前提やテーマを陳腐化させつつある中で、かたどおりのテーマや物語では、満足できなくなってきた。しかし、こうした状況の中でも、はっとさせられ、未来社会の新たな様相を垣間見せてくれる作品もある。

 古書展の三冊100円コーナーで見つけた「神鯨」という昭和53年出版のこの本は、まさしく、宝石のように輝くこうした作品の一つである。

1974年バランタイン・ブックスより刊行されたトーマス・J・バスラーの「GODWHALE;神鯨」である。著者のT・J・バスは、1931年生まれで、ベトナム戦争にも従事したことのある医大卒の病理学の科学者で、この作品は、彼が43歳の時の作品である。彼は、この作品の後、科学研究活動が忙しく、作品を発表していないようである。

神鯨の時代背景は、今から数千年後の地球、その中で生きる変貌した諸人類、及び各種サイボーグや創造生物達の物語で。その扱うテーマは、性・タブー・宗教・神話・探検・ 植民・生物学・環境・コンピユーター・サイバネテックス・技術・工芸・ロボット・アンドロイド・サイボーグ・都市・海洋等、タイムトラベル等時空を除く殆どのSFのテーマが

取り上げられている。特に訳者の日夏響が解説で述べている「人間を腐敗性物質として捉える作者の生態学的視点」が、生物としての人間を感傷なく自由に捉えてるところが、時代の制約を乗り越えるかかる作品を生み出したと思わずにいられない。

訳者日夏 響は、1942年生れで、横浜国立大学史学科を中退した女性翻訳家で、オカルト本、SF、幻想文学を翻訳した。 その翻訳の数は多くいが、その人物像は、はっきりしない。

2012年の「終末期の赤い地球」電子版には、日夏響の著作権の継承者を探している旨が、記載されているので、この頃70歳前後で亡くなっていると思われる。訳者あとがきから見識がうかがえるが、一度は話が聞きたかった人である。苗字が本名ならば、あの日夏耿之介の関係者かもしれない。

 神と神話をめぐって

もう、27年ほども前、東京に出張したとき会社のある飯田橋の本屋へぶらりとよった私は、その新刊書のコーナーで、「はじめてのインド哲学」と云う現代新書を手にして、どこか記憶の中にあるような名前に出会った。立川武蔵というその著者の略暦を確認して、数十年前のある夏の日の記憶か゛鮮やかに蘇ってきた。

それは、僕が大学2年の夏のことで、僕は、友人のKと学生会館の一角で、その立川武蔵さんと話し合っていた。大学に入学して、早くもマルキシズムの洗礼を受けていた僕は、入学して一年半の間に、はやくもいっぱしの唯物論者になっていた。高校生時代、倉田百三や西田哲学に惹かれていた僕は、大学に入ると共に、今度は、鮮やかに唯物論者に転向していた。その僕と哲学論争をしていた友人がKで、クリスチャンの家に育ったKは、聖書研究会かなんかを通じて、立川武蔵さんと知り合い、僕を引き合わせたのだった。

彼の真意がどこにあったのかは忘れてしまったが、そのときの話のテーマは、神と宗教についてであった。当時の存在や宗教を真っ向から否定する僕に、彼は、かれが問題にしているのは、神とはなにかではなく「神とは何かを問うている人間とはなにか」という問いかけこそが、哲学又は宗教の課題であるといい。「君は、反宗教的というより非宗教的な人間だね」とポツリと語った。夏の日差しの中で交わされたこの会話は、その後ずっと僕の心の奥に沈殿したままになっていた。

当時彼は、インド哲学を勉強していたといっていたが、その「はじめてのインド哲学」を中で、僕は始めて、彼があれから文学部の大学院に進み、その後アメリカのハーバード大学の大学院へ進み、そこでph.Dの資格をとり、名古屋大学の教授へ経て、国立民族学博物館の教授になっているのを知った。あのマルクス主義と唯物論の全盛時代に、彼は、インド哲学にキチンと照準を合わせ、ヨーガを実践するなど知と体験を通じての努力を続けており、その道が現在まで、続いていることを思って、僕は、目眩にも似たある種の清清しい感動を覚えた。

それは、この二十年間の僕の思索の中心テーマが、仏教や神秘主義と宗教体験をめぐる問題であったことと関係していたせいでもあった。宗教や神話と人間をめぐる問題は、マルクス主義に変わる歴史観を模索する中で、トインビーの歴史の研究を再読したり、エリアーデ等の宗教学に関する研究書を読んでゆく内に、序々に自分の中で明確な形で一つの認識を僕にもたらしつつあった。宗教とは何か、神話とはなにかそしてそれらは人間にとってどんな意味があるのかについて簡単にまとめてみたいとおもう。

人間は、世界を眺めるのに、自分なりに秩序づけて、理解しようとする。この場合、現実の世界は、何の意識もなしに眺めれば、ただ無秩序な現象の集まりにすぎないが、こうした無秩序な世界に秩序をもたらすものが、神や仏の概念であるのかも知れない。つまり

神は、遠近法で描かれた風景画の中の焦点に似ている。つまり、焦点の存在が、その風景に秩序を与え、それに美を与え、人を感動させることになる。

人間は、本質的に無秩序な世界の中にあって、その中を居心地よくするための壮大な知の仕組みをつくり上げて生きている。これらの知の仕組みの焦点となるものが神つまり普遍的な中心となる仮想の存在である。しかし、この仮想的存在は、世界に秩序を与える存在であるので、ある意味では、実在の存在でもある。社会が安定しているときこれらの観念も安定しているが、社会に変動が生ずるとこの観念にも変動が生ずる、ある局面では、観念の変動が現実の変動を誘導する。かくして、トインビーが語るように文明の衰退期には、その文明の象徴としての神の衰退をもたらし、その文明から離反する周辺から新しい価値観が生まれ、これが新たな秩序をもたらすにつれて、その価値観を担う新たな神が

新たな宗教を誕生させる。混沌がおさまり、安定期が訪れるとその秩序を象徴する価値体系が定まり、これがその文明の価値観としてひとつの知的観念体系を成長させる。

つまり、新たな文明や宗教の誕生は、風景の中に新しい焦点を設定する作業に似ている。

人間は、ある方向に行き詰まると別の方向へ歩き出そうとするが、その方向風景には、新しい焦点が必要でありその焦点を定める存在が、予言者であり、教祖であり、思想家であり、詩人であり芸術家、哲学者ではなかろうか。そして、行く手の世界が、新たな焦点

によって美しい風景画のように見え始めたとき民衆はそれらに支持を与え、新しい文明が

成長し始めることになる。                    以  上

 

――忘れられなない手帳の記録・・スペイン戦争と思想をめぐって――

もう30数年も前のことになるが一つの新聞記事についていたく感動し、その感想を手帳に書きとめたことがある。この手帳は、引越しや整理のたびごとに捨てようとしたが、この中に書いたその感想を読み返すたびに、そのときの感動がよみがえりどうしても捨てられなかった。その手帳は、最後には、表紙とその感想文だけとなり、今手元にある。記事に感動した私は、その著者に向けて手紙を出す気持ちで、その感想を書いた。以下はその内容である。

スペイン戦争について

1985年3月26日

拝啓 法政大学教授 川成 洋様

1985年3月26日(火)付けの朝日新聞にあなたが発表された「スペインで戦死した無名の日本人ジャック白井の足跡たどって」と称する一文を読み貴重なる御研究に思わず感動しました。この一文の中で、何よりも私を感動させたのは、50年近くを経てもなお且つ若き日の思想を持ち続けて集まってきた元義勇兵達の存在とその持続せる思想の輝きです。ここに焦点を合わせて貴重な取材結果を発表されたあなたの視点に心から敬意を表するものであります。一人の人間が一つの基本的な観点、それは、リンカーン大隊の隊長だったミルトン・ウルフの「われわれは、未熟な反ファシストだった。今でも同じだ」の言葉に集約されるが、このような観点を貫くことあるいは貫ける思想を持つ事の困難さと素晴らしさに心から感動すると共に、この50年間の歴史の中に美しく光を掲げ続ける一群の人達がいたことを知り、これらの人達と同じ時代に生きた一時期を持てたことを心から喜ぶものであります。

私の中のスペイン戦争は、頭の中の歴史のひとコマでしかありませんでした。しかし、あなたの報道に接し、それらの歴史が、50年の時空を超えて突如私の日常生活に訪れたような衝撃を受けました。今私の中には、これらの人々のことが、その言葉が、思想が、帰還後のその生活と戦いが想像され、1日でも早く、これらの人々の真実に接したい思いで一杯です。2月24日、サンフランシスコの隣の町オークランドで上映されたドキュメンタリー映画「果敢なる闘争」とはどんな映画であったでしょうか。

そして50年の歳月を経てもなお、連帯を感じさせるリンカーン大隊の仲間とそれを結びつける思想とは、何だったのでしょうか。その思想の根本には、今日の我々が失いつつあり、しかも失ってはならない熱いものがあるように思えてしかたがありません。サラリーマンとしての仕事に毎日追われる経済大国日本の中で、一見平和な生活を送っている41歳の私も20年前には、「未熟な反ファシスト」でありました。そしてこの私とて「今でも同じ」です。しかし、残念ながら集まるべき仲間はいず、一人の孤独な「未熟な反ファシスト」にしかすぎません。しかし、あなたの一文によって、遠く離れた世代の中に同じ仲間をみつけ、心から励ましを受けた次第です。無名の日本人ジャック白井のことに関する探索を続けられ、貴重な研究結果を発表して下さるよう心からお願い申しあげます。

敬具

()ジャック白井(1900年?-1937年7月11日)は、スペイン内戦において人民戦線・共和国側の国際旅

団に志願入隊して参戦、戦死した日本人義勇兵。北海道函館市出身。生まれてすぐに両親に捨てられ、孤児院で育ったということだが、その前半生は謎に包まれている。

詳細『スペイン戦争―ジャック白井と国際旅団』 朝日選書 川成 洋

 

 

T・Sエリオットと荒地をめぐって ―感動の源流を訪ねてー

もう45年も前のことになるが、一篇の詩に衝撃を受けたことがある。それは。次の詩句

から始まる全体で78行の詩であった。

   その声は、遠いところからきた

   その声は、非常に遠いところからきた

   あらゆる囁きよりもひくく

    あらゆる叫喚よりもたかく

    歴史の水深よりさらにふかい・・・・・・

  当時、私の視覚から入り、脳内で反響し、啓示的な刺激を与えて、魂を貫通していった田村隆一の「三つの声」というこの詩は、昭和30年の荒地詩集1955(荒地出版社)に収録された田村32歳のときの作品である。

   私が、田村隆一という詩人の名前を知るようになったのは大學へ入って間もない昭和38年頃であり、田村は、その頃既に、40歳になっていた。

  この詩との出会い以降、田村隆一の一連の詩を繰り返し読み、そのたび毎に、詩意識の再生と覚醒の刺激を受けてきた。田村の詩は、私にとって、精神のある種の栄養剤のようなものであったかも知れない。田村の詩や試論を読む過程で、戦後詩の中心的グループである荒地派を知りこれを中心とする現代詩に興味をもつことになった。

  そのとき、戦後詩と現代詩の風景のはるか源流には、T・Sエリオットとその詩「荒地」のあることを知った。だが、たまたま、文学関係の友人に仏文科関係が多かったこともあって大学時代の会話の中心は、ランボーやボードレール、ヴァレリー、ヴェルレーヌなどのフランスの象徴詩であり、「荒地」とT・Sエリオットは、不思議と話題とならかった。1998年田村隆一が亡くなり、現代詩手帳がその追悼特集を組んだ。私は、その特集号をようやく栄の書店で手にいれ、地下街の喫茶店「コンパル」の片隅で目を通しながら1人彼の死を悼んだ。

 田村隆一の最期の詩集は、「1999年」であり、その中で、彼は「さようなら、遺伝子と電子工学だけを残した世紀末1999」と詩っていた。彼は、20世紀を自分の生の時代と一致させ、それを高らかに詠ってこの世を去った。

田村隆一の死を契機に彼の詩集や彼のエッセイや詩論及びこれに関連する詩や評論を読む中で、現代詩の出発点ともなったT・Sエリオットと彼の作品「荒地」そのものを直接読んでみたいと思うようになった。長編詩「荒地」は、次の有名な詩句からはじまる。

   4月は、残酷極まる月だ

   リラの花を死んだ土から生み出し

   追憶に欲情をかきまぜたり

  春の雨で、鈍重な草根をふるい起こすのだ

  T・Sエリオット「荒地」第一部「埋葬」より(西脇順三郎訳)

    しかし、不思議なことに、ランボーやヴェルレーヌ、ボードレール等の詩やエリオット以降のオーデン等の詩集は、夥しく出版されているがT・Sエリオットの詩集としてまとまった詩集は、あまり出版されていない。とくに英語の原詩と翻訳を同時に参照できるものは、なかなか見当たらなかった。

  エリオットと荒地の現代詩における意味を全体として論じものは、昭和30年代に出版されていたがその多くは既に絶版となっていてなかなか手に入らなかった。その中の一冊現代英米作家研究業書「エリオット研究」深瀬基寛編 英宝社(昭和30年12月初版)を古本屋で見つけたのはこの8月のことで、同じ時期にT・Sエリオットの「荒地とゲロンチョン」福田陸太郎(1916年~2006年)と森山泰男(1930年~)の注・訳をみつけた。こちらの方は、2008年5月発行の新装第8刷であったが、これも初版は、1967年4月となっていた。この2冊を読んで、おぼろげながらT・Sエリオットと「荒地」の輪郭が見えてきた。

  田村隆一の詩のタイトル「三つの声」は、T・Sエリオットの講演「詩の三つの声」から着想したものと理解した。T・Sエリオットの三つの声は、声の詩劇論の関連で述べたもので第一の声は、詩人が自らに語る声、第二の声は、聴衆を意識して語る声、そして第三の声は、詩劇表現における詩人の声であるという。詩劇における詩人の声は、日常性の中から普遍的な精神の高みを目指す声とも言うべきもののようで、日本の能や謡曲は、エリオットのいう詩劇に相当するように感じる。いずれにせよ、若き田村隆一は、T・Sエリオットの講演「詩の三つの声」を読み、その内容に触発されて「三つの声」を作詩したのは確かなことと思われる。

  エリオットの文献を捜し求める内にエリオットの研究には、その後数々の人々が携わり、様々な解釈や評論がなされているが、エリオットがキリスト教への宗教色を強める中で、「荒地」程の衝撃を与えなくなっていったように感じた。エリオットは、様々な研究者により解剖され、分析されてきたが、解剖し、分解したものには、もはや我々の感性を変革する力はない。やはり「荒地」は、あの戦後の風景の中でこそ生きており、T・Sエリオットと「荒地」を新鮮な再生のメッセージとして受け取った若き田村隆一が、その詩意識の方向とその発見の感動を言葉としてあらわしたのが「三つの声」であったような気がする。

  エリオットの「荒地」を読んだ後で、田村隆一や荒地グループの詩人達の詩や評論への見方や感じ方は、どのように変わってくるのか、そしてそのことは、21世紀の詩の可能性についてどんな展望を与えてくれるのか、これが、これからの問題である。感動の源流を訪ねることは、自分自身を再発見することであるのかも知れない。

                                  完

 

 

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芸術は、一瞬の内に永遠をみるものです。

我々は、宇宙の中では、ほんの一瞬の間の存在でしかない。それ故、永遠なるものは、我々の憧れであり、永遠なるものとの出会いとそれとの合一は、我々にとっての喜びであり、感動であり癒しであり、救いでもある。このため、芸術は、宗教や思想とも密接に関係してきた

科学や技術や歴史は、実時間の流れの中の知的営みであるが、芸術は、実時間の一点から時間軸とは直角方向につまり、虚時間の先に永遠を見ようとする営みと云える。

ここは、この永遠の探求の課題について映像を中心とした美術、言葉を中心とした文学、音を中心とした音楽の三つの観点から考える、特定の宗教、政党、思想集団とは、一切関係しないサイトです。

画像は、ドイツ浪漫主義の画家 Caspar  David  Friedrich(1774~1840年) の1818年から1820年の作品 Woman  before The Rising Sun です。永遠なるものを見たいとのドイツ浪漫主義の強い衝動を感ずる作品で、永遠の探求というこのページの趣旨を示します。