定年後から始めた謡曲と私

「定年後に謡曲を習い始めた」と云うと、ほとんどの人が怪訝な表情を示す。その中には、謡曲とは何かについての基本的なことが分らぬ戸惑いもあれば、いまさら謡などに興味をもつことの不可解さに対する戸惑いもある。謡曲とは、能の謡いと台詞の部分を取り出したものである。織田信長が、桶狭間の合戦に出掛けるときに、「敦盛」を謡い舞う場面があるし、結婚式には、高砂の一節が謡われる。では、僕にとっての謡曲とは何か、そこにどんな出会いがあったのか。

もう55年も前、大学1年生のとき、県女の大学祭で、初めて謡いの場面に出会った。はかま姿の女子大生が、扇を前に垂らして端正に座って集団で謡う姿にいたく心を動かされたが、これはその集団の中に高校時代の文学仲間のマドンナ的存在であったT子さんの姿があったせいかも知れない。この文学仲間は、今から思えば、僕を除き比較的恵まれた家庭の子女が多く、高校生ながらクラッシックだけでなくジャズやイタリヤの歌曲に親しみ音楽喫茶やジャズ喫茶に出入りしたりする多分に知的で大人びた個人的な繋がりの連鎖といった緩やかな関係で結ばれていた。大学入学の当初、同人誌「砂漠」を発行していた文学サークルに加わり、大江健三郎や阿部公房といった当時新進の作家についての先輩達の議論を聞きながら、村野四郎の詩人論等が掲載された同人誌に刺激を受けたりしていたが、政治の時代の潮流の中で、こうした文学的な環境から次第に遠ざかることになった。

僕が、再び謡曲と出会うには、長い政治の時代とその後の荘子や仏教、キリスト教神秘主義、トインビー等の文明論等との出会いと格闘の長い道のりが必要であった。思想として生死の問題を考える中で出会ったのが、朝日選書として出版された田代慶一郎の「謡曲を読む」の中にある「文学としての謡曲」の一文であった。謡曲をギリシャ悲劇やシェクスピアの戯曲との対比で捉えたこの一文によって、僕の中には、謡曲への憧れが一気に芽生えた。そして、ここ十数年ばかり前、狂言や能の案内のチラシの中に懐かしい大学時代の文学サークルの仲間であった狂言師の佐藤友彦の名前を見つけ、彼が狂言師の家元の生まれであったのを思い出し、能や狂言の舞台を見に行くようになってから、狂言、能、謡曲が、日常的な身近なものと感じられるようになった。

そして定年の数年前、たまたま泊めてもらった友人の家で、謡いの和紙の教本をはじめて手にとって、伝統の持つ不思議な魅力にとりつかれた。謡曲「隅田川」を聞いて涙が流れ、こんなすごいものが日本にあったかと感動したのが、謡曲を始めたきっかけであったとは、その友人の話である。

そして定年後、ある技術者の集まりで、50年近く謡曲を習って名誉師範の資格を持つ人が、先輩の跡をついで、ある謡曲の会の先生をすることになったとの話を聞いて、早速弟子入りすることにした。月2回の個人レッスンを受けるようになり、30年以上習っている人達に囲まれてようやく10曲ばかりを習い終えた。謡い7年、舞3年といわれた、その時間の7年が過ぎた頃、師匠の健康上の理由で、この会は無くなり、これに代わって月一回の謡いのサークルにも加わるようになり、さらに7年が経過しようとしている。一回5曲を年12回で、合計年60曲を謡うことになった。

謡曲は、全部で250曲あまりであるが、あまり詠われない曲もあり、今までその約60%の150曲程に接したことになる。ただ月5曲は、結構キツイノルマで、その多くがかなり未消化のままであることには間違いない。それでもようやく、譜面を見ながらどんな曲でも挑戦できるようにはなった。

近頃は、練習のためのツールもテープレコーダー、ICレコーダー、ICウォークマンと進化しつつある。歴史と文化を凝縮した言葉、無駄のない台詞、七五調一句を八個拍子にはめる平のり等の日本語の特徴を生かした拍子法、喜怒哀楽の妙を表す深い音階等、洗練された文化の極としての謡曲の世界は、生者と死者の出会いの世界であり、古今東西、春夏秋冬、森羅万象の多次元の時空を超越した宇宙である。謡うことは、自らが主体となって人間世界を詩的に時空間旅行することである。今になって思えば、この日本文化の最も洗練された感性を共にする人が少子高齢化の流の中で、どんどん少なくなっているのが残念でならない。能観賞の後で、その感想を魚に、古酒を酌み交わし、人生と生死をしみじみ語り合えるならそれに勝る楽しみはない。同好の士よ、来たれ。

―定年後から始めた謡曲と私―

「定年後に謡曲を習い始めた」と云うと、ほとんどの人が怪訝な表情を示す。その中には、謡曲とは何かについての基本的なことが分らぬ戸惑いもあれば、いまさら謡などに興味をもつことの不可解さに対する戸惑いもある。謡曲とは、能の謡いと台詞の部分を取り出したものである。織田信長が、桶狭間の合戦に出掛けるときに、「敦盛」を謡い舞う場面があるし、結婚式には、高砂の一節が謡われる。では、僕にとっての謡曲とは何か、そこにどんな出会いがあったのか。

もう55年も前、大学1年生のとき、県女の大学祭で、初めて謡いの場面に出会った。はかま姿の女子大生が、扇を前に垂らして端正に座って集団で謡う姿にいたく心を動かされたが、これはその集団の中に高校時代の文学仲間のマドンナ的存在であったT子さんの姿があったせいかも知れない。この文学仲間は、今から思えば、僕を除き比較的恵まれた家庭の子女が多く、高校生ながらクラッシックだけでなくジャズやイタリヤの歌曲に親しみ音楽喫茶やジャズ喫茶に出入りしたりする多分に知的で大人びた個人的な繋がりの連鎖といった緩やかな関係で結ばれていた。大学入学の当初、同人誌「砂漠」を発行していた文学サークルに加わり、大江健三郎や阿部公房といった当時新進の作家についての先輩達の議論を聞きながら、村野四郎の詩人論等が掲載された同人誌に刺激を受けたりしていたが、政治の時代の潮流の中で、こうした文学的な環境から次第に遠ざかることになった。

僕が、再び謡曲と出会うには、長い政治の時代とその後の荘子や仏教、キリスト教神秘主義、トインビー等の文明論等との出会いと格闘の長い道のりが必要であった。思想として生死の問題を考える中で出会ったのが、朝日選書として出版された田代慶一郎の「謡曲を読む」の中にある「文学としての謡曲」の一文であった。謡曲をギリシャ悲劇やシェクスピアの戯曲との対比で捉えたこの一文によって、僕の中には、謡曲への憧れが一気に芽生えた。そして、ここ十数年ばかり前、狂言や能の案内のチラシの中に懐かしい大学時代の文学サークルの仲間であった狂言師の佐藤友彦の名前を見つけ、彼が狂言師の家元の生まれであったのを思い出し、能や狂言の舞台を見に行くようになってから、狂言、能、謡曲が、日常的な身近なものと感じられるようになった。

そして定年の数年前、たまたま泊めてもらった友人の家で、謡いの和紙の教本をはじめて手にとって、伝統の持つ不思議な魅力にとりつかれた。謡曲「隅田川」を聞いて涙が流れ、こんなすごいものが日本にあったかと感動したのが、謡曲を始めたきっかけであったとは、その友人の話である。

そして定年後、ある技術者の集まりで、50年近く謡曲を習って名誉師範の資格を持つ人が、先輩の跡をついで、ある謡曲の会の先生をすることになったとの話を聞いて、早速弟子入りすることにした。月2回の個人レッスンを受けるようになってはや5年目になる。謡い7年、舞3年といわれその半分の時間が過ぎた。30年以上習っている人達に囲まれてようやく10曲ばかりを習い終えた。謡曲は、全部で250曲あまりあり、この調子では、全て習うには、100年かかることになる。近頃は、月一回の謡いのサークルにも加わるようになった。練習のためのツールもテープレコーダー、ICレコーダー、ICウォークマンと進化しつつある。歴史と文化を凝縮した言葉、無駄のない台詞、七五調一句を八個拍子にはめる平のり等の日本語の特徴を生かした拍子法、喜怒哀楽の妙を表す深い音階等、洗練された文化の極としての謡曲の世界は、生者と死者の出会いの世界であり、古今東西、春夏秋冬、森羅万象の多次元の時空を超越した宇宙である。謡うことは、自らが主体となって人間世界を詩的に時空間旅行することである。今になって思えば、この日本文化の最も洗練された感性を共にする人が少ないのが残念でならない。能観賞の後で、その感想を魚に、古酒を酌み交わし、人生と生死をしみじみ語り合えるならそれに勝る楽しみはない。同好の士よ、来たれ。