信天翁(アホウドリ) 

ボードレールの散文詩「パリの憂鬱」に続いて、詩集「悪の華」を読み始めたが、その詩集の献詩と序(読者)に続く、憂鬱と理想編の祝祷に続く二番目の詩が信天翁であった。

この題名には、思い出があった。私は大学に入るとすぐに剣道部と文学サークルに入った。その文学サークルにはすでに先輩達によって創刊されていた「砂漠」と云う雑誌があったが、それとは、別に我々の時代の文芸誌を作ろうという話しになり、その同人誌の名前が信天翁(アホウドリ)であった。しかしその雑誌に私が何かの作品を書いた覚えはまったくない。その雑誌が出来るころ既に私は学生運動の波の中に巻き込まれていて。文学サークルの活動にはあまり顔を出さなくなっていたからである。しかし、最近になって、このわずかなサークルでの出会いが、以外にその後の生活に大きな影響を受けたと思うようになった。

このサークルのメンバーは、ほとんどが文学部の連中で、今から思えば、彼等は、私よりはるかに大人であった。逆に彼等から見れば、あの頃の私は如何にもうぶな田舎少年であった。当時このサークルの先輩達の関心事は、大江健三郎や安部公房等の新進作家群であったが、我々1963年入学の世代は、この先輩達と異なり、安保闘争後の混乱の渦中で自我に目覚めた。

文学サークルは、マイナーなクラブで、同期は、5人程であった。その内の一人は、如何にも利発そうな文学青年風の男で、早くも先輩達に混ざって、盛んに大江健三郎を褒め称えていた。しかし、私とはほとんど共通点がなかったためか、それ以外に全く記憶に残っていない。

私の印象に残ったのは、その他の三人で、私はそのうちの二人に助けられたことがある。その三人とは、K君、H君、S君の三人である。共通していたのは、この三人は、私より一~二歳年上であったことだ。KとSは、一浪であったし、Hは、防衛大学を中退して2年遅れて入学してきた異色の経歴の持ち主であった。KとHは、仏文科で、Sは国文科であった。KとHと私は、下宿していたが、Sは、自宅から通っていた。皆一様に貧乏な時代であったが、Kだけが比較的裕福であった。Sは、ベレー帽をかぶり肘宛のついたブレザーの貧しくもオシャレな画学生といった出で立ちの美男子であり、Hは、心に一途な暗闇を秘めた特攻上がりの青年将校のような小柄で精悍な美男子であった。この二人に比べてKは、眼鏡をかけ、田舎の親父さながらの老成男子と見えた。同人誌信天翁の名称は、このKの提案であったらしい。そしてその名がボードレールの詩からとったものだと知らされたこともかすかに覚えている。

それは、大学2年の頃の話であった。日頃あまり話をする機会の無かったKと何かのきっかけで、恋の悩みや苦しみについて話したことがあった。その当時、恋多き青春の真っただ中にいた私は、その頃出会った女学生達の一挙手一動に翻弄されていた。そんな田舎育ちの私の話を彼は、見守るように黙って聞いてくれたのだった。その時彼が、連れて行ってくれたのが、今池の小さなスナックであり、10席ばかりのカウンターの中には、クラシック音楽をバックに和服の美しくも若いママが微笑みながら一人静かに佇んでいた。客は、僕らの他に二人ばかり、静かに酒を飲んでいた。それは、初めてみる大人の空間であった。そこで、何を話したか、今はさっぱり覚えていないが、その時、しきりに「園まり」の歌う「何も言わないで」の旋律が心に浮かんだことだけを鮮明に覚えている。

そのKが、勝川駅の近くに住んでいると云うのでそのアパートを訪ねたことがあった。その時、何故そこを訪ねたのか、さっぱり覚えていないが、そこで赤子を背負った小柄な女性を女房といって紹介された。彼はその当時同棲しており、しかもその彼女は、法学部の学生で、司法試験の準備中だとのことであった。私は、その時一瞬の内に自分の未熟さを悟った。私が、観念的な恋に悩んでいる世界にいるのに、彼は既に、現実世界の住人であることを思い知らされたのだった。今から思うと彼は確かに、恋の結末を身を持って示し、私を大人の世界の入り口に導いた一人であった。

 私を助けてくれたもう一人は、H君であった。未熟な思想のまま、学生運動に巻き込まれていった私とは異なり、彼には、観念的な正義を寄せ付けぬ人知れぬ思想と決意があったようで、私には、学生運動への見解は異なっていたが、未熟な田舎少年であった私に危うさを感じたのか何かと気を使ってくれた。大学2年の終わり、留年が確定して、奨学金が停止され、どう生活するかの問題解決に迫られていた私に、自分の後任として新聞配達の仕事を紹介してくれたのが、彼であった。彼が、別の仕事に移ったのを機に、僕は、その後釜として、その仕事につく事になった。アパートと朝夕二食付きで給与5000円の条件であったが、無収入となった私にとっては、ありがたかった。

その新聞配達の仕事は、一年続けたが、学部への進級と奨学金の復活を契機に辞め、姉の紹介で、勝川のアパートを借り、兄と共同生活を始めた。しかし、この共同生活は、3か月と続かなかった。不規則な学生生活と家事に一切関心のない私に兄が愛想をつかしたためであった。

家庭教師のアルバイト先を見つけ、奨学金と合わせて、生活の目処がたったので、このアパートを出て、今池の交差点近くの民家の2階の6畳間を借りて下宿することになった。その下宿の近くの壺と云う居酒屋で、H君と再会した。彼は、この店の女主人の娘の家庭教師をしつつアルバイトで店の手伝いをしていた。学部の3、4年の2年間、ここを拠点に生活したが、H君がバイトする鉄板焼きの居酒屋「壺」は、私にとっての息抜きの場でもあった。その居酒屋には、気が強い女主人を慕ってH君の知人達が数多く出入りしており、その中には、仏文科のN教授や居酒屋の親父で元県学連の委員長のT等雑多な人間達がいた。

この時期、私は、ようやく本来の専門である物理学、その中でも量子力学と本格的に取り組んでいた。その量子力学は、この時から60年経ってようやく時代の脚光を浴びる分野となった。そして今から考えれば、それは、タイガー氷壁に、夏服で取り付くような無謀な挑戦であり、当然のこと、その理解は遅々と進まなかった。しかも、これに加えて、原子核物理、固体物理学、熱力学、統計物理学、電磁気学、力学の一般化理論、情報理論等各々の科目をマスターするのに一年以上かかりそうな多数の教科の林の中で、もがき苦しんでいた。 

そんな時、月に数回、勉強に疲れるとここで、ビール一本と焼きそばを注文し、これらの人達の話に耳を傾けるのが私の密やかな楽しみであった。

この今池の生活は、卒業と共に終り、この居酒屋へは、社会人となってからも数回訪れたが、その頃には、H君はいなくなり、店もある日突如としてなくなっていた。風の便りにそこのママが亡くなったと聞いた。

文学サークルで出会ったもう一人は、国文科のS君であった。大学時代にそれ程接点があったと云えなかった彼と出会ったのは、社会人になってから30年程たった頃のことであった。妻が、ウイル愛知かどこかで貰ってきたイベントのパンフの中に微かに記憶のある名前を見つけたのがきっかけである。それは、杁中スケアと云う建物の中の小さな能舞台で行われる狂言の会の公演の案内パンフであったが、そのプログラムの中にSの名前を見つけたのである。大学時代の顔が微かに浮かび、その狂言の会に顔を出したことで、思いがけず再会を果たした。

彼は、明治維新後の混乱の中、尾張藩和泉流を受け継ぎ、その弟子達によって明治24年設立された狂言共同社の会員であった父親の後を継ぎ、大学で司書の職を務めながら狂言師として活動を続けていた。この尾張和泉流狂言の発展を目指して新しい狂言の会「鳳の会」が結成されたのが、平成4(1992)年8月のことで、私が、参加したのは、発足後間もないこの「鳳の会」の2回目か3回目の公演であった。

この会は、名大の卒業生である井上祐一、Sを同人として結成され、名古屋女子大の林和利氏が事務局を務めた会員制の団体で、年3回の定期公演を行っており、公演の後には、合評会と云う観客との交流会もある斬新な会でもあった。私は、東京へ転勤するまでの十年ばかり折に触れ、彼の公演の舞台をみることになったが、彼と話したのは、その初めて参加したこの合評会での席上であった。彼は、私の事をよく覚えていると云いその時、「Kは、蒲郡で、船宿の亭主をしているよ」と教えてくれた。その後の彼の活躍は目を見張るばかりで、息子だけでなく孫も狂言を続けているのに、伝統文化の中に根を下ろしている彼の確かな生きざまに目をみはる思いである。彼を通して知った狂言の世界は、やがて能舞台と謡曲の世界へと私を導くことになった。

今池時代以降ほとんど、交信の無かったH君の名前を発見したのは、私立大学の社会人講座のパンフを見ていた時で、大学の教員名簿の中に仏文学の教授という肩書で彼の名前を見つけた。私と同様仕送りのないまま、バイトをしながらの大学を卒業した彼が、落ち着いた先が、仏文の教師であった。観念的な思想の世界で浮遊していた私と異なり、大学での勉強を自分の職に結び付けた彼の着実な歩みをそこに見た思いであった。

大学時代の文学サークルの仲間とは、杁中でのS君との会話以来絶えてない。しかし、月日が経つほど、あの頃の3人と比較して、如何に当時の自分が幼く、子供であったと痛感せざるを得ない。ボードレールの信天翁の最後の詩句は次で結ばれている。

詩人も哀れ似たりな、この空の王者の鳥と、

時を得て嵐とあそぴ、猟夫が矢玉あざけるも

罵詈満つる俗世の土に下り立てば

仇しやな、巨人の翼、人の世の行路の邪魔よ (堀口大学訳)

Kは、あの当時、既に、信天翁を見る思いで、あの青春期の自分達のことを見ていたが その当時、私は、やがて墜落し、人の世の行路に惑うことも知らず太陽に向かって天翔けるのに夢中であった。                  

日常の隙間より・・・新型コロナ考 

突如として日常のベールが剥がされ、真実が垣間見えることがある。2011年の3.11の時がそうであったし、その前の2001年9月11日の米国同時多発テロの瞬間がそうであった。さらにその前を辿れば、1994年6月27日の松本サリン事件と1995年3月20日の地下鉄サリン事件がそうであった。オーム真理教によるサリン事件は、直接目撃できなかった事件であるが、9.11と3.11は、それが映像として報道されたため、その衝撃も大きかった。9.11の時、私は、単身赴任しており、川口の社宅から東京駅まで、通勤していたが、朝テレビをつけるとそこに、ワールドセンタービルとそこに突っ込む旅客機が写っていた。ニュヨークに立つそのビルは、28歳で米国省エネルギー調査団の一員として訪米した折に、その屋上でその調査団の団長であった芝浦工大学長の藤井正一先生と記念写真をとった場所であった。3.11の時は、自宅で自分の部屋に居て揺れを感じ、それからは、何時間もテレビにくぎ付けになり、津波が田老町の10mの防波堤を軽々と乗り越える映像等、SF映画を見るような非現実感で眺めた。

 目に見えるこの二つの事件に比べて、サリン事件は、不気味な事件であった。その理由は、その原因や動機が全く不明な事件として立ち現れたためである。しかし、この時一人直感的に思った。これは何らかの信念を持つものの仕業であると。大量殺りくは、普通の感覚では、起こりえない。深く正義を信ずるものにしか実行できない。そしてそれは、政党か宗教団体である。その直感は、あの1960年代から70年代の動乱期の自らの政治・思想体験に根差していた。それは死が自分の手中にあり、命がけで生きていた時代を体験したものにしか分からない心の闇と関係していた。

 これら今まで体験してきた事件に比べて、今回のパンデェミックは、全く違った様相の事件であった。それは目に見えないと云う意味では、地下鉄サリン事件と同じであるが、それによる外国のロックダウンの状況や混乱する医療現場の映像という意味では、9.11や3.11事件と同じである。しかし、これら二つの事件と全く異なるのは、この事件が、クルーズ船と云う時空の一点から始まり、それがあたかも次第に濃くなる霧があたり一面を覆ってゆくように世界的規模で、時空を覆っていったことである。

私にとっては、この世界的なパンデミックはそれ程、衝撃的な事件ではなかった。こうした事件は、バイオハザードや猿の惑星等を通してSFの中ですでに経験済みの出来事であったし、古くは、旧約聖書のエジプト記の中で、不信者への神の罰として、不信者達が、無音、無臭の力によって死んでゆく場面も見てきた。

しかし、こうした出来事が社会にいかなる形で衝撃を与えて行くのか、その結末や収束についてビジョンを扱った作品は、少ない。「事実は、小説より奇なり」であるからである。

パンデミックによる世界終末を描いたのは、ドフトエフスキーで、「罪と罰」の最後の方で主人公のラスコーリニコフが熱病に罹りながら、世界が疫病で滅んでゆく夢を見る。このことをどこかの文章で読んで、その内容が気になり、書店で「罪と罰」を立ち読みした。私には、この長編を読み通す気力も時間も残されていないと思われたためである。そこには、世界が疫病に罹り、それにより、人々は、異常に自分が正しいとの信念を持つようになり、多くの人が、それぞれの信念を正しいとすることにより、対立が生じ、互いに殺しあって世界を滅亡させてゆく様相が簡潔に描かれていた。ドフトエフスキーは、世界を破滅させるのは、人間であり、各自の正義の信念こそが、争いの原因と云いたかったのであろうか。

「罪と罰」のテーマは、世界の終末ではないので、ドフトエフスキーはそれ以上の事を語ってはいない。しかし彼は、人間と云うものの根源を見据えていたに違いない。

フランスの歴史人口学者のエマニエル・ドッドは、死亡率からソ連邦の崩壊やトランプ政権の誕生を予測したように、社会変化をもたらすものは、生への渇望と死への恐怖である。 新型コロナ影響下の不安・恐怖と自粛による社会的ストレスは、人々から心のゆとりや寛容さを奪い、社会全体としてのある種の集団ヒステリー症状を生み出す。この中で、このような現状を生み出した犯人探しや事態を招いた責任の擦り付け合いがはじまり、それを利用して、権力奪取をくわだてる政党や団体が暗躍し、各個人・各集団が自らの正義を掲げて対立・抗争を激化させる。まさに「罪と罰」の中でラスコーリニコフが熱病にうなされながら見た夢の世界が繰り広げられている。

新型コロナの恐ろしさは、その感染力や致死率ではなく、不安や恐怖にかられ集団ヒステリー現象に感染してゆく人々の精神状態である。熱はいずれ下がる。その時人々は、熱病にうなされて叫んだ正義や信念等自らの異常行動をすっかり忘れて、虚構の日常世界に戻ってゆくことになるだろう。9.11や3.11の衝撃を忘れ去ったように。

しかし、その後の世界は、以前の世界と同じであろうか。テレビで、1918(大正7)から1919(大正8)世界的に流行したスペイン風邪の番組を見ていて、稲妻のように閃いたことがあった。その時期は、松田家の曽祖父濱次郎とその長男濱三郎が相次いで亡くなったときであり、家長とその跡継ぎを一度に失った松田の家は、その後没落してゆくことになった。家族史を書いていてその死因の記録がないのでその偶然の不幸の連鎖を不審に思っていたが、それがスペイン風邪であれば、すべて辻褄が合う。そうだとすれば、パンデミックは、現在の自分や子供達にまで影響を与える出来事であり、その後の世界をすっかり塗り替えたことに連なる。 日常のふとした出来事が、稲妻のように存在の暗闇を照らすことがある。これは、私にとって云い知れぬ感動と驚愕を覚えた出来事であった。(画像は生成AIで作成した)              了



我が家の霊異記―守られた家

 私は、もともとは、唯物論者で、大学では、理学部で物理学を学んだ科学的な知識を重んずる人間を自負してきた。しかし、私の11歳年上の姉は、シャーマン気質を持つ霊能者を自認しており、彼女は、その能力を歴代神社のお守りする社家と云われる家系の血に由来すると信じていたようで、祖母の姉の「くわ」と云う人もそうした能力を持っていたらしいと語ってくれたことがあった。

彼女がその能力を自覚するようになったのは、私が大学生の頃であるので、30歳前後の頃で、それは彼女が、叔母の影響で仏生護念会という法華経を奉ずる宗教団体の会員になった頃と機を一にする。

法華経は、極めて強い感化力を持つ経で、今も創価学会を中心として数多くの信者を持つ。詩人で童話作家の宮沢賢治もその一人であることは、よく知られている。この中の観音教と云われるのは、その中の観世音菩薩普門品第二十五と云われる部分で、そこでは、この観音の力を念ずれば様々な危害から逃れることが出来ると説かれている。

この観音教は、日蓮が首を切られようとしたとき刀がおれて死刑を逃れることが出来たとか、平家の武人盛久がこの教の功徳で同じく死刑を免れたと謡曲の中で語られるほど古くから有名である。姉は、とりわけ、この観音経が好きであり、死の直前まで、この経を唱えることが、日常の日課になっているほどであった。

 その姉は、ことあるごと、時には心霊写真等を見せて自分の霊的な体験を語ってくれたが、私にとっては、遠い世界の出来事としてさしたる興味の対象ではなかったが、彼女の信ずる内容を否定する気にもならず、彼女もそれ以上に自分の信仰を私に強いることはなかった。

 その姉が、私が家を新築するとき、結界を張り、危害から家を守るようにと家の敷地の四隅に、写経した経と陀羅尼を墨で書いた石を竹筒に入れて埋めることを提案してきたので、彼女と共に私も写経し、陀羅尼を記した石と共に埋めることになった。この時写経したのが、般若心経と観音経であり石に書かれたのが観音菩薩の一文字のサの梵語であった。

 この結界のせいかどうかは、分からないが、我が家の敷地にトラブルが起こるたびに結果的に相手が不幸になり、事態が収束するといったことが起こった。最初の事件は、北側の敷地境界をめぐるトラブルで、家を建てた当時、家の北側は、低地であり、その境界に杭を打って盛土したのが我が家の敷地であったが、土留めが弱く、大雨でそれが傾き始めたので地主に了解を得て、敷地境界線から4mの幅で、自費で埋め立てた。その敷地は、やがてビルの残土で残りを埋められ、そこは立派な畑となり、梅畑となった。 

 事件が起こったのは、それから数年たったころであった。隣の地主が、家の樋が敷地境界線から出ているといってきた。しかし、低地を盛土した土地で、境界線もはっきりしていないし、その後は何も言ってこないので不審に思っていたところ、地主夫婦は、二人とも脳の病で亡くなったと知らされた。

 敷地境界問題が最終的に決着をみたのは、地主の相続人が、物納のため敷地境界を確定するためあらためて測量を実施し、五人の地主が関係する杭の位置を最終的に決めて、合意したあとのことであった。

 この土地はやがて競売にかけられ、我々より10歳以上若い夫婦が持主となり、広い敷地に洋風の家を建て引っ越してきた。

 敷地境界をめぐるトラブルは、南側の敷地でも起こった。当時南側の敷地は、我が家より50cmばかり高く、その土地の土が我が家へ1m以上流れ込んできていた。再三その処理をするよう申し入れたが、埒が明かないのでとうとう自分の側で擁壁工事を行うことにした。

隣の地主は、この時、その擁壁を私の敷地内に収めるように要求してきた。この工事の途中で、この地主の家で、長男が死亡する事故が起こった。工事完了後さすがに気が引けたか、その地主は、工事の費用を半額負担するといってきた。この地主の奥さんが亡くなったのはこの事件の後1年程たった頃であった。

 さらに敷地境界をめぐる事件は続く、建設当時南側の敷地の半分は、三角形の20坪ばかりの空き地に接しており、雑草がひどいので地主にその処理をするように申し入れたが、電話口に出た地主は、そこにゆくのは大変で、対応は出来ないが、そのかわりその土地をかってに使ってもらってよいと云うので、その雑草を刈り取り、そこに新しい土と肥料を入れ、家庭菜園として使うことにした。それから15年程したある日その地主から電話がかかってきてその土地を利用するので、その使用をやめて欲しいといってきた。そして数カ月した夏の暑い日に、地主がやってきて草刈りする姿を見つけたが、その後姿を見かけないので、電話すると電話口に出た娘さんの話で、その地主が既に亡くなっていたことを知った。それは私が姿を見た数か月後のことであったと云う。

その20坪ばかりの土地が売りに出されていることを知ったのは、その数か月後のことであった。ある不動産会社が、その土地に家を建てる計画で、図面付きで広告を流したところ2400万円で購入する人間が現れたとのことで、不動産屋の女社長が挨拶にやってきて、全貌が判明した。

 その計画では、建物を敷地境界ギリギリに建て、我が家の南側の半分以上が日陰になることになっていた。色々やり取りがあったが、結果的には、敷地の原寸が狭く、南側の日陰部分は、当初計画の半分になることで、ツウバイ工法の薄幅の住宅が出来上がり、それを購入した二人の小学生の男の子を持つ夫婦が引っ越してきた。しかし2年程したある日、子供二人を連れて奥さんが突如として出て行った。離婚したとのことであった。

その後、その家には、職人の旦那が一人で住んでいたが、2年程たったある日、今度は、女の子二人をつれた太った女の人が、この家に引っ越してきた。再婚したらしい。この新しい夫婦は、やがて、家の改造をはじめ、数か月後に軒下に赤提灯が下げられた。居酒屋を始めたのである。そしてあろうことか、深夜まで、カラオケの音が、枕元に響くようになり、妻が苦情を云っても聞いてくれないと云うので、  さすがに11時以降はカラオケを中止してくれるように申し入れこの願いは聞いてくれた。

 こんな事件があって1年程経過した頃、12月の末、突如として、隣の家族が消えてしまった。そして2か月程した頃、警察官がやってきて隣の住人のことを訪ねてきた。その時初めて分かったことであったが、隣の奥さんが運転するバイクに旦那を乗せ、赤信号の交差点に突っ込み交通事故を起こしたとの話であった。前年の12月慌ただしく荷物をまとめ出て行ったとの妻の話を伝えると。旦那とは云え、赤信号で、交通事故を起こせば、本人が障害罪に問われるので、急いで姿を隠しただろうとのことであった。

 その家が、売りに出されていることを知ったのは、警官がきてから半年程たったころであった。菓子折りを携えたばあさんが、その家を買ったといって我が家にやってきた。そのばあさんは、その敷地に隣接する駐車場の地主であった。このばあさんは、この家は人に貸すつもりはないと云って去っていった。しかし、2年程して、その家を借りたと云って金髪の小柄な外人がコンビニで買ったビールと菓子を携えてやってきた。聞けばオーストラリアの出で、日本の中学校でネイティブ英語を教える教師と名乗った。この外人は、大家から、家を自由に改造してよいむと云われたといい、何かしら、家の中を改造し始めた。多分居酒屋をもとに戻す工事をしたのだろう。半年程たった頃、その彼は、小学校の高学年と思しき子供をつれた南米出(ベネゼイラと云っていた)のやせ形の女性と同棲を始めた。そしてさらに半年経った頃、家から煙が出ているので、玄関で呼び出すとその女のひとが慌てて、押し入れを開くとバックから煙が出ている。慌てて水をかけて火をけしたが、中に入っていた花火がバックを入れた衝撃で発火したのだと云う。隣の火事を未然に防いだ事件であった。まもなくこのカップルは、忽然と姿を消した。

 次の住人がやってきたのは、それから半年たった頃で、今度は、相生山住宅に住んでいる一家がやってきた。この家族は、夫婦と成人した子供数人の家族であったが、この家族が生活し始めてまもなく家のリニューアルをするので、色々迷惑をかけると云って挨拶にゆくと愛想のよい小柄の奥さんが出てきた。駐車場付にもかかわらず安いので借りたといい、安いわけには何かあるのではないかと夫婦で話あっているとのことであるので、この家の経緯をざっとはなしてやった。この一家がやってきて2年程たった頃やたらに建築屋がやってきて、壁の塗装をやり直したりしたり、我が家との境界の木造の塀が朽ちてきたりしてその補修工事を行っていたが、ある日突然この一家が引っ越していった。奥さんに訳を聴くと雨漏りがひどくどうしても直らないし、手を加えるなら値上げすると云うので、出てゆくことにしたとの話であった。

 この一家が出て行った頃、敷地境界に生えていた邪魔な立木を一本切り取ったが、それから一カ月もたたない内に、突如として菓子折りをもった建築屋がやってきた。聞けば建物を取り壊すとのことであった。彼の話では、この家を買ったばあさんは既に亡くなり、この家は、横浜に住む娘さんが相続し、その娘さんが、トラブル続きの建物の管理に困り、跡地を駐車場にしたいとのことであった。そして1か月もたたない内に建物は撤去され、そこに駐車場が出現した。この工事の時、敷地境界に設置したブロックと塀は残しておいて欲しいと申し入れ、その要求は受け入れられた。南側は、明るくなり家の環境は一新した。

 今となっては、最後に立木を切ったのが、悔やまれるが、日当たりがよくなったせいか切った立木の株から新芽が勢いよく吹き出しコロナ下でもう1mにまで育った。またかって隣に家が建つとき、やむを得ず切った夏蜜柑の木から目覚めたように新芽が伸び出した。

 以前南側の半分の敷地境界線でもめた地主が施設で亡くなり、東京在住の一人残された息子が土地を相続したと挨拶に来たのは、コロナ2年目の1月のことで、彼は、境界に生えていた雑木をすべてきり去ってくれた。

 数十年振りに我が家の周囲は、静かになった。この地に来てから45年経過を振り返ってみると、我が家に危害をもたらそうとする人々から自分が守られてきたのは、あの結界のためであったような気がするが、信ずるか信じないかはあなた次第ということで、筆をおきたい。 了                                  

                             

 生死と天人五衰

何か大切なものにまだ出会っていないのではないか。そんな気がしたのは、佐賀出身で明治維新後三十四歳で頭角を現し、新政府で日本の司法制度を確立し、司法卿(法務大臣)で参事にまでのぼりつめ、征韓論をめぐって、大久保利通等と対立し、西郷隆盛と共に下野し、明治七年の佐賀の乱で敗れて四十一歳で梟首刑となる江藤新平の生涯を描いた司馬遼太郎の「歳月」という小説を読んでからである。それは、維新後の革命政権を舞台とし、時の勢に翻弄され時代を生きた個人の目を通した歴史物語で、文庫本で七百頁ものその本を五日程で読了した後思わず湧き上がってきた感情であった。

その本を見つけたのは、平田町の交差点近くの古書センターで、月一回開かれる「古書展」の三冊100円のコーナーの中からであった。この古書展では、一千冊あまりの書籍が投げ売りされるため、愛書家にとっては、宝の山と出会う貴重な機会と思われる。

この古書展で、三島由紀夫の最後の長編小説「豊穣の海」を見つけたのは、司馬遼太郎の「歳月」を見つけた一か月後の古書展でのことである。「豊穣の海」は、全4巻からなり、第一巻が「春の雪」第二巻が「奔馬」第三巻が「暁の寺」第四巻が「天人五衰」であるが僕が見つけたのは、第三巻の「暁の寺」と第四巻の「天人五衰」の二冊で、いずれも昭和46年に発行され黒字の装丁された箱に納められた新潮の初版本であった。これ等は、一冊100円のコーナーに無造作に置かれていた。紙は古くなっていたが、読まれた形跡はなかった。値段が安いのは、四巻揃っていないためかあるいは「三島由紀夫」そのものがもはや顧みられない作家となってしまったのか。一冊六百グラムもある本を二冊持つ煩わしさもある。数分の迷いの後、購入を決めた。その理由は、三島由紀夫にとって最後となったこの作品の中に、彼が人生の最後にみた風景と死生観が書かれているに違いないと確信したからであった。

我々は、同じ世界に生きていることを当然のこととしているが、年を経るに従って、人は各々全く違う宇宙や風景の中で生きているという思いに囚われるようになった。

 その宇宙や風景を単的に示すものとしては、絵画や詩があるが、作家にとっては小説でしかない。七十を過ぎた僕にとって、今関心があるのは、死を間時かに控えた人生の終わりに人はどんな風景を見ていたかであるが、絵画や詩に比べて小説は大部な媒体であるため時間と集中力を要するし、目も疲れる。このため、小説類は、極めて限定することにしている。この観点で、この十年間で読んだのは、埴谷雄高の「死霊」ぐらいで、もう他はないと思っていたが、この本を手にして、三島由紀夫が最後にどんな世界と風景の中で死んだのか無性に知りたくなった。

 三島由紀夫(本名平岡 公威)は、一九二五年生まれ、学習院高等科を首席で卒業、昭和天皇から恩賜の銀時計を拝受。東大在学中、一九四五年二月に兵役検査を受けるも気管支炎で不合格となる。東大法学部後 一時大蔵省事務官になるがすぐに退職し作家生活に入る。十代から、文藝に親しみ、戦前から川端康成と交友があった。一九四九年「仮面の告白」で作家としての地位確立、代表作「潮騒」「金閣寺」等多数。千九百五十八年日本画家・杉山寧の長女・瑤子と結婚。一男一女をもうける。

一九七〇年(昭和四五年)十一月、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)を訪れて東部方面総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、その約五分後に割腹自殺を遂げた。享年四十五歳。

 三島由紀夫が、割腹自殺したのは、僕の就職後間もない70年安保の真っ只中の時期で、新聞に取り上げられたが、「不可解」の一言に尽きる事件だった。その当時三島由紀夫については、「右翼作家」のイメージが強く、一切関心がなかった。その三島由紀夫に少し興味が湧いたのは、テレビのある旅の番組で、三島由紀夫のファンと云う女優の常盤貴子が、紀行文集『アポロの杯』の中一節に触れたのをみて、彼の文学の中に若い女性を動かす感性があると気づかされてからである。その三島由紀夫の最晩年(と云ってもたかが45歳でしかないが)の作品を読めば、その当時の彼の宇宙と風景が見えて彼の不可解な行動の謎に迫れるかもしれない。それが「豊穣の海」を読んでみる気になった理由であった。

「暁の寺」は、タイ、バンコックの大理石寺院と王宮を主な舞台とする四十代の主人公と幼い姫をめぐる物語であり、「天人五衰」は、70代の主人公と10代の少年をめぐる生の頂点と死滅をテーマとした物語で、いずれも輪廻転生をテーマとしている。その始まりは、第一巻の恋愛をテーマとする「春の雪」であり、それが、第二巻の青年期の政治運動をテーマとする「奔馬」でこれが、輪廻転生の最初の展開に引き継がれる。つまり、「豊穣の海」は、輪廻転生をテーマとして四つの巻が起承転結で結ばれた物語と云える。第四巻の「天人五衰」の完成の11月25日の日付が、彼の割腹自殺した日付となっているのは、まさしくこの作品の最後の風景が彼の人生の最後の風景であることを物語っている。

司馬遼太郎の歴史小説「歳月」が、歴史上の個人の眼を通した「歴史」であるならば、三島由紀夫の「豊穣の海」は、彼の眼を通した「世界」と云えるかもしれない。1923年生まれの司馬遼太郎は、1925年生まれの三島由紀夫と同じ世代でありながら全く異なる空間に生きたかに見える。それが僕には、住んでいる世界の時間方向の違いではないかと思える。

物理学者のホーキングは、「最新宇宙論」の中で、普通の時間とは垂直な方向を持つ虚時間を仮定すれば、特異点を考えない無境界の時空を考えることが出来き、空から有の宇宙の誕生が説明可能だと述べているが、司馬遼太郎が「実時間の宇宙」を感じていたのに対して三島由紀夫は、「虚時間の宇宙」を感じていたことにはならないだろうか。虚時間の宇宙では、時間は、球面上の空間のように円環的である。実時間からみれば、虚時間はその一瞬間であり、虚偽間から見れば、実時間がその一瞬間ということになる。一般の科学は(従って歴史学も)実時間の中にあるが、芸術は、虚時間の中にある。虚時間の中では、現在、過去、未来がすべて実時間の一瞬の中に現れる。

 臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師の話に次のようなものがある。若いとき唐の天才禅僧厳頭の話として、『厳頭が法難を避けて世を韜晦して俗形となって渡し守をしていたが、盗賊に首を切られ「痛いっ」と大声を発して死んだ、その叫び声が数里も聞こえた。」という話を聞き、それほど禅僧でも、盗賊の難を転ずることが出来ないなら禅学道にどんな意味があるのかとの疑問をもった。しかし、その後修行に勢を出し、ある晩、暁に達し、折から遠くの鐘の音が「ゴーン」と響いた。その微かな音が耳に入ったとたんに、徹底して煩悩の塵が落ち、ちょうど耳のあたりで大鐘を打つたように聞こえ、白隠 豁然として大悟して叫んだ「やれやれ。厳頭和尚は豆息災であったわやい。厳頭和尚は豆息災であったわやい。」という話である。臨済禅では、「見性」体験が重視されるが、この話は、その例として有名である。この話は、「芸術」における「美」や「永遠性」との出会いに似ている。

 三島由紀夫は、実時間の現実の世界を虚時間の芸術世界で塗りつくそうとしたが、それは、実時間の中の本の一瞬間に戻ることで、それは、1945年の8月15日の敗戦の年の夏の陽光の世界であったのかもしれない。虚時間を生きた三島由紀夫は、45歳で死んだが、実時間を生きた司馬遼太郎は、三島由紀夫の死後26年生き、73歳で亡くなっている。

                                       

青春自然派歌人と老成荒地派詩人

―若山牧水と加島祥造をめぐって―

大岡信の若山牧水

コロナ下で2年近く中止になっていた古書展が再開されたのは、2021年の10月の末だった。古書展での私の目当ては、主に詩集、SF、怪奇物や宗教書である。全集物は、かさばるし画集類は、今から見れば印刷が悪い。また、科学技術関係書は、古典を除き中身が古い。

この時、2時間ばかり、会場を見て歩き、5冊程の本を買って帰ったが、その中の詩の関連の一冊が大岡信の若山牧水論であり、もう一冊が、加島祥造の詩集である。

大岡の本は、若山牧水―流浪する魂の歌:大岡信:中央文庫:昭和56年9月10日発行で、当時の定価240円であり、これが200円で売り出されていた。大岡信は、1931年生まれの詩人で2017年86歳で亡くなっている。昭和56年は、1981年であり、この本は、彼が50歳の時に書かれた本である。解説は、歌人、評論家で国文学者の佐々木幸綱(1938年~)が書いている。/

その国木田独歩についても以前古書展で、関連本を入手した記憶があった。本棚の片隅見つけたその本は、清水書院が明治、大正、昭和の近代文学の代表的作家の生涯と作品を平明に解説した全38冊の内の一冊で昭和41年10月30日発行16巻目の本で、当時の定価250円であった。これは100円で入手した記憶がある。この本は児童文学作家文芸で評論家の福田清人が、その研究室に出入りしていた本田浩に書かせ、監修した作品であった。

 若山牧水は、中学の終わり頃から高校にかけて私が影響を受けた歌人であるが、この本を読みながら、この頃影響を受けたもう一人の詩人・小説家の国木田独歩のことを思い出した。

 この2冊の本を今回あらためて読み直して、あらためて自分のこの二人の作家との出会いを振り返ることになった。

中学時代教科書に載っていた独歩の作品「武蔵野」の美文に魅かれて、彼の作品を読んだが、その中に散文と共に「山林に自由存す」との詩に出会い、それが山や山林等自然に対するあこがれを駆り立てられたものであった。この独歩との出会いは、すぐに若山牧水の紀行文と歌への共感となり、高校への入学と共に私を山岳部に導くことになった。

その当時その牧水と独歩自身の人物像や作品の背景に興味があったわけではない。その当時は、彼等の作品そのものに魅かれていたためである。

しかし、独歩や牧水が歌った自然への憧れに魅かれて入った高校の山岳部は、そうした世界とは、およそ無縁な体育会系の運動部であり、私は、全く異なる世界へ迷い込むことになった。若さの柔軟性のためかそれは、それで、楽しくなった。しかしその部活動は、2年生の初夏のロッククライミング中の滑落事故で、一年足らずで退部することになってしまった。けれど、この一年足らずの山岳部生活の中で、鈴鹿山系の山々や中央アルプスの駒ヶ岳、穂高連峰の山行等貴重な体験することになったが、滑落事故のため、左手を怪我し、その後遺症が握力の低下となって、左手が大切な役割を果たす運動分野での能力開花の可能性を閉ざすことにもなった。

独歩と牧水は、こうした青春の出来事を通して現在の自分のありようにまで影響を及ぼしている。それは、明治の時代の近代的自我の誕生が大自然を前に引き起こした驚愕と感動

の律動、それが思春期に目覚める私の自我と共振した出来事であった。

「ああ山林に自由存す・・・・」と詠 こった独歩と「幾山川声去り行かば・・・」と歌った牧水とはいかなる人であったのか、現在の視点で確認しておきたくなった。

国木田独歩の生きたのは、1871年(明治4年)8月30日~1908年(明治41年)6月23日の37年間であり、牧水は、1885年(明治18年)8月24日~1928年(昭和3年)9月17日の43年間で、二人の年齢差は14歳であるが、この二人には幾つもの共通点がある。

その一つは、二人共短命であったことである。また、二人は、独歩は、千葉銚子の生まれ、牧水は、宮崎県臼杵郡東郷村(現日向市)の生まれであるが、共に上京し、独歩は、東京専門学校(後の早稲田大学)の英語普通科に入学しているし、牧水も早稲田大学文学部英文学科に入学している。共に主として新聞や雑誌の発行や編集等と文筆業で生活しており、教師や新聞社等の勤務経験をもつが長続きせず、ほとんど文筆や編集、揮毫や選歌等で、生計を立てていて、貧しい生活であった点、また20代前半で結ばれることのない熱烈な恋愛体験をもつが、その後の結婚で、よき伴侶に巡り合っていること等である。

独歩は、神奈川県茅ケ崎で亡くなっているし、牧水は、静岡県沼津市で亡くなっている。牧水は、独歩の武蔵野等の影響を強く受けているが、独歩が短命であったため、直接的な交流はない。独歩には、一男二女があり、牧水は、二男、二女に恵まれている。

7年程前のことである。大学時代の友人達と山口市を訪れたとき、聖ザビエル講会堂の近くの亀山公園を散策したが、その時、牧水の「ああ山林に自由存す・・」の詩碑を見つけ奇異に感じたが、独歩が、父親の転勤で、山口市で、青春時代を送ったことがあることを知り、得心した覚えがある。今回大岡信の「若山牧水」を読んで、彼が沼津の千本松原の保護活動

をしたこと。彼が石川啄木の寂しい臨終に立ち会ったただ一人の友人で、病弱な啄木夫人に代わって通夜から葬儀の一切の手配をしていたこと。北原白秋の親友で荻原朔太郎とも親しかったことを改めて知った。旅と自然を愛し続けた牧水の生涯、妻貴志子は、「汝が夫は家におくな、旅にあらば、命光ると人の言へども」の句を残している。牧水は、晩年幸せだったと思う。

独歩も牧水も短い生涯であったが、その中でも、膨大な詩、散文、小説、歌を残している。

それらの作品の大部分をまだ読んでいない気がする。しかし、その世界は、近代日本の青春の目覚めの書として、高齢化の日本に活力を与えてくれるかもしれない。そういえば2021年、歌人の俵万智が、「牧水の恋」と云う本を出版していた。

古書展で入手したもう一冊は、加島祥造詩集は、思想社の現代詩文庫の中の一冊で2003年4月15日発行定価1165円のもので、これが500円で売りだされていた。軽い気持で、当面積読する気でいたが、彼が東京府立第三商業学校での田村隆一の同級生で、荒地派のグループに所属していたと知り、俄然と興味が湧いてきた。彼は5年ばかり荒地に詩を発表していたが、早稲田の文学部英文科を卒業するとフルブライト奨学金で、米国シアトルのワシントン大学に留学、帰国して信州大学、横浜国大、後には、青山学院女子短大等で英米文学を教える。

1973年50歳の時信州伊那谷の駒ケ根市大徳原に山小屋をつくると15年のブランクの後作詞をはじめる。60歳の時妻子と湧かれて伊那谷に移り住み、1990年67歳の時駒ケ根市中沢に家を建て、終の棲家とし、伊那谷の仙人と称され、2015年12月25日ここで亡くなる。

同級の田村隆一は1999年76歳で亡くなっている。この詩集は田村の死から4年後に出されている。田村の最後の詩集1999年は、死の直前の1998年に出版されその最後の「蟻」と云う詩の中で人間社会を蟻と対比させ、「さようなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの 人間の世紀末 1999」と詠ってこの世を去った。

彼の詩には、最後までどこか軽妙な悲哀と静なロマンがあった。都会でウイスキーを毒を啜るようにして飲み、空想の翼を広げて世界を鳶のように眺めた田村隆一に対して、荒地派の生き残りとなって92歳まで生き加島祥造は、どんな詩を書いているのか、興味をもって読み進んだ。この詩集を出した時、彼は80歳であり、そこに掲載された詩の書かれた時期は、私の定年後に重なる。

田村は、詩によって人間の宿命から逃れようとして空を飛びまわったが、加島は、人間

の愛憎から逃れるために山林に戻ってきて、植物や動物、生き物達の世界に身をゆだねようとした。

自然の中には、人間世界とは別の時間が流れている。加島は、若くして勤務した信州大学時代にそのことに気が付いたに違いない。そのことが人間世界に疲れたとき、加島を伊那谷へと導いたに違いない。

定年後本格的に絵をはじめ、スケッチ旅行に行くようになり、2、3時間同じ風景を見続けていると光の陰影の変化で、時間の推移を知ることが出来る。 時計で管理される時間とは、別の時間のありように驚かされたものだ。そうした芽で周囲を眺めると自然が己のリズムで時を刻んでいることを至るところで感ずることが出来る。

加島が、伊那谷で見つけたのは、そうした世界であったに違いない。その一方で文明人である我々は、人間社会という別の時間のリズムに支配され生きている。社会が生み出すリズムと時間。女王蜂を頂点とする組織された階級社会、そのスローガンは「帝国主義」、田村は人間社会を「蟻」の世界になぞらえ、我々に提示して去っていった。

 空から眺めるか、地面の上で感ずるのか、あるいは、その両者か、二人の荒地派の詩人

の晩年は、私を新たな詩空間に導いてくれそうな気がする。   了

コロナ後の世界と文学の可能性 ー今年の芥川賞受賞作品等を読んでー 

 今回のパンデミックの発生から2年近くになろうとしている。時間差を置いて各国で繰り返す感染者数の増減が津波のように繰り返されることは、当初からある程度予想していた。しかし、予想外であったのは、こうした事態に対する人間と社会の反応である。感染症と云う医学の一分野の問題に生死の問題と社会の反応が関係し、その解釈をめぐる意見の噴出と対立が、メデアの報道の在り方や政府の対応や社会システムにまで及んで混沌状態を生み出した。

 ドフトエフスキーの「罪と罰」の中で主人公は、パッデミックで世界が滅ぶ夢をみる。そこでは、様々な意見が出るが、解決策を見出せず、やがていたるところで人々が互いに殺し合いをはじめ、世界が崩壊してゆく。

 そこまでは行かないにしても、この閉塞的環境の中で、若い人達は、何を考え、コロナ後の世界をどのようにイメージしているのだろうか。ふと、こんな疑問に取りつかれ、書店で思わず手にしたのが「ポストコロナのSF―日本SF作家クラブ編―」:2021年4月10日発行:早川文庫JAで、ここには31歳から61歳までの19人の現役作家の作品が、網羅されている。

 この本の横で見つけたのが早川文庫SFの「折りたたみ北京―現代中国SFアンソロジー」:ケン・リユウ編:2019年10月10日発行:早川文庫である。この本は、パンデミック前の作品群であるが、ここには、7人の作家13作品と中国SFに関するエッセイ3篇が掲載されている。この他編者のケン・リユウか゜序文を書いており、翻訳者の一立原透那氏が解説を書いている。編者のケン・リュウは、45歳の著名なSF作家で、中国生まれの米国在住者。取り上げられているのは、53歳の一人を除けば37歳から41歳の40前後の作家達である。監視社会へと急速に進みつつある中国の現役作家達は、どんな感性で世界を見ているのか。このことに興味を持って読んでみることにした。

 それまでSFトム云えば欧米作家のものと日本では、小松左京等我々同じ年代の作家群の作品しか知らなかった私にとってこの二冊の本は、全く新しい出逢いであった。科学技術が急速に発展し、空想が現実に追い抜かれる時代に、SF作家達は、どう立ち向かっているのだろうか。これも興味あるテーマであった。

結論から言えば、量子重力理論や量子もつれ、量子コンピユータと云った先端科学の描く壮大な宇宙観から見れば、現代SFは、これ等の成果を十分取り入れているとは言えない。1970年代のスタートレックが描いたタブレットは、ipadやスマホで既に実現してしまったし、ハインラインの「夏の扉」で描かれた掃除ロボットや設計CADも既に実現してしまった。あの頃のSFは、確実に40~50年以上先を見通していた。AIにおけるディープのラニングや遺伝子工学におけるキャスパー9等知のブケイクスルーが達成された現代科学の先へと想像の翼を広げた作品群への期待はかなえられなかった。

こんなことを考えて書店を散策しているとき、文藝春秋9月号に、芥川賞発表受賞二作全文発表のタイトルを見つけ、ふと文学をやる若い作家達は、現代社会や今回のパンデミックをどのように捉えているのだろうかと気になったので、買い求めることにした。その文藝春秋の横に、オール讀物の9月・10月合併号がおいてあり、そのタイトルに直木賞発表の文字が見えた。そう云えば随分永い間、現代作家の作品を読んだことがない。これも次いでに買い求めて読んでみることにした。

あまり、期待せずに芥川賞受賞作「貝に続く場所にて」を読む。作者は、石沢麻衣。41歳の女性。舞台は、コロナ下のドイツのゲッチンゲン、主人公は、2011年の震災を経験した東北出身でゲッチンゲン大学の美術史の博士課程に通う女学生。その日常と交友関係を描いた作品。大した事件や物語があるわけではないが、日常の出来事一つ一つの感じ方捉え方に奥行きがある。そうした感性とどこかで出会ったことがあった。森有正の「経験」ゃ「ノートルダムの畔」や加藤周一の「羊の歌」を読んだときの感覚に似ている。異文化の中で、言語が研ぎ澄まされ、現実が記憶と時間の集積と重なり見えてくる。意識を単に外界の反映としてとらえるのではなく、外部の刺激と内部の記憶や欲望等の感覚の総合しとして捉え、そこから言葉を紡いでゆく。こうした視点は、SF作品にはない。感心した。もう一つの受賞作品   「彼岸花が咲く島」は、台湾出身の31歳の女性の作品であるが。これは、ある意味の異言語交流を交えた現代版ユ―トピア小説であるが、それほど面白くはなかった。

 この勢いで、直木賞の二作品を読む。佐藤究の「テスカトリポカ」澤田瞳子の「星落ちてなお」佐藤究は、既に江戸川乱歩賞等数々の賞を持つ44歳のベテラン作家、テスカトリポカは、アステカ神話の神の名、メキシコの少女が裏社会を渡り歩き日本の裏社会で生活する物語。澤田瞳子も44歳で数々の受賞歴を持つベテラン作家。「星落ちてなお」は、天才画家河鍋暁斎の娘を描いた作品。共に長編であり、雑誌には、その一部しか掲載されていない。文字通り、小説であり、物語性に力点が置かれている。澤田瞳子は、澤田ふじ子の娘とは、読み終わってから知った。中学時代、人間社会とはいかなるものかを知る意味で小説は面白かった。しかし。世の中を色々見て来た現在に至ると物語性だけでは、物足りない。しかし、自分が小説を書く身になれば、これ等の作品に興味が湧くかもしれない。だが、コロナ後の世界を垣間見たいという要求には、あまり答えてもらえなかった。パンデミックとこれに立ち向かう人類との格闘の現場が、小説の舞台に上ってくるには、まだ、まだ先のことかもしれない。但し、石沢麻衣の「貝に続く場所にて」は、2011年3月11日の東日本大震災と新型コロナと云うパンダミックという二つの出来事をどう受け止めるのかと云う日本人の感性と思想に初めて取り組んだ作品であり、そこにコロナ後の世界への一筋の光をみたように思った。科学技術万能の現在、文学も満更すてたものではないと思うことが出来た。                    完

私の文学散歩道 ―小林秀雄のモオツァルトをめぐってー  

 小林秀雄が、モオツアルトを書いていたのは、僕が生まれる前後の出来事であったと最近知って少し驚いた。彼は1902年生まれであるので、終戦当時は、43歳になっていたはずである。しかしそんなに年上であったにもかかわらず、僕は彼がもっと若い人だと思い込んでいた。

 その理由は、彼を知ったのがランボーの詩の翻訳家としてであったせいで、その後友人との会話の中で、彼が大阪の道頓堀をうろついていた若き日に「突如としてモオツアルトのト短調シンホニイの有名なテーマが頭の中でなり、そのとき衝撃的な感動を覚え、急いで近くの百貨店でレコードを聴いたが、もはや感動は還ってこなかった」と書いているとの話が、印象に残っているためである。

 この話をしてくれた友人は、当時早稲田の仏文科の学生であり、その友人とは、高校時代一夏高蔵寺の禅寺で受験勉強のため生活を共にしたことがあった。東京在住の彼を訪ねたのは、大学生活を半ばすぎた頃であった。何かの理由で上京した僕は、約束もないまま彼が入り浸りであった荻窪駅近くのミニオンとい音楽喫茶を訪ねた。僕としては、彼の日常生活の舞台を覗いてみようという単純な動機であったが、果たして彼がそこに居たのには、驚かされた。その彼が、その頃盛んにモオツァルトの音楽を聴いており、そのことが手紙の中に書かれていた。その彼の影響もあってその頃から僕もモオツァルトの音楽を聴くようになった。

 しかし、小林秀雄についてそれほど興味があったわけではなかった。しかし、小林秀雄がト短調シンホニイの有名なテーマが頭の中でなったという異常な体験だけは、深く心に残った。この話を再び記憶の底から呼び戻したのは、全く別の僕自身の体験であった。

 1993年営業がらみで企画された「欧州における鉄道の復興と再開発」の視察団の一員として、フランス、スイス、ドイツ、イギリスの4か国を訪れる機会を得、西欧文明の中心地帯を2週間にわたり旅する機会を得た。この旅の途中でスイスのチューリッヒへ立ち寄ったとき、視察団で一緒になった東芝の和田さんという人と親しくなったが、その彼から今チューリッヒの美術館でルーベンス展をやっているので、一緒に見ないかと誘われた。

 彼はほとんどが技術屋の視察団の中での文化的な趣味が合った貴重な存在であったこともあり、喜んで行動を共にした。自由な時間は、3時間ばかりであったが、中華料理の簡単な昼食を済ませ、みやげ展でスイスのアーミイナイフを買って、1時間ばかりでルーベンスの絵を見たあと、まだ15分ばかり時間があると云い聖マリアンヌ教会シャガールのステンドグラスがあるので、それを見ようと誘われ、急いで教会の中に入った。その時素晴らしく美しいステンドグラスをみて言葉で表現しようのない感動を覚えた。その感動を忘れないようにと大急ぎで、それを写したシオリを買って帰ったが、その時の感動を思い出すことはできなかった。この時、あの小林秀雄の話を思い出した。

 僕が再び小林秀雄を読んでみようという気になったのは、たまたま古書展でフランス文学者で作家の渋澤龍彦の「悪魔のいる文学史」という本を見つけ、フランスロマン主義とシュールリアリズムの等フランス文学の中でのランボーとその後の思想的潮流の概要を知り、 ようやく、ドイツロマン主義とフランスロマン主義を含めたヨーロッパ文化の底流を統一的に理解するようになったことと関係しており、さらに、ロシアの思想家ニコライ・アレクサンドロヴッイチ・ペルジャエフが「マルクス主義と宗教」という本の中で、マルクス主義は、人間を社会的構成部品とみていて、それ自身が一つの宇宙であるとの視点に欠け、人間における精神的原理の否定、人間の人格と自由を否定すると指摘しているのに触発されたためである。

 ペルジャエフは、当初マルクス主義者であったが、後にマルクス主義が、プロレタリアートを新たな選民とする救世主願望(メシア主義)に基づく科学的装いを持つある種の宗教であることを指摘したため、ロシア革命後に国外追放にあっている。社会主義革命の成功と崩壊を思想的にまとめてみようとする過程で、ペルジャエフの指摘に刺激されてあらためて自分を振り返ってみる気になった。

 元来理系で唯物論者であった僕は、自然の内に人間を外部から見る見方にならされていて、人間を一つの宇宙としてみる発想にあまり注意を払ってこなかった。何よりも興味の対象が宇宙論等外界にあったためである。しかし、人間を一つの宇宙として考えることに焦点を当てたら何が見えてくるのか。これこそがドイツロマン主義やフランスロマン主義の思想潮流が求め続けたものではないかと思いいたったとき、その観点から小林秀雄を捉えられるのではないかと思い至り、あらためて小林秀雄の書いたものを読んでみることにした。

 今回あらためて新潮文庫の「モーツァルト・無常ということ」を読み直してみた。と云うより初めて最後まで読んでみた。彼が、ここで問題にしていたのは、二つの事である。その一つが、音楽や絵画、文学等の作品が我々に与える感動とは何かということであり、今一つは、そうした作品を生み出す天才のエネルギーの源泉・創造性の秘密についてである。この二つの問題について天才的なモーツァルトの作品と凡人モオツアルトの生活の乖離の謎を中心に自分の体験を交えて考えた芸術についての思索の覚書、これが「モーツァルト」の中身であった。

 小林秀雄が青春期を迎えた時代は、ヨーロッパの近代の科学主義・合理主義が第一次世界大戦を生み出したことにより大きく揺らぎ、その反動として非合理主義が、ダダイズム・シュールリアリズムとして新たな潮流を形成しつつある時代であった。この時代では、人間とは何かが思想上の大きな問題として問われた時代でもある。つまり人間を外部から科学的に眺めるのではなく、その内部の宇宙に分け入って理解することこれが問題であった。ランボー、ニィーチェ、ドフトエフスキー、ワーグナー、ボードレール、ゲーテ、モーツァルト、ベートーベン、モネ、ゴッボ等、この時代は、こうしたテーマをめぐる素材には、事欠かない。この課題にアクセスするために、小林秀雄は、ほとんど政治的動向には、関心がなかったようであった。戦後「賢い奴は、反省するがよい。僕は馬鹿だから反省しない」と語ったと云われているが、これは、実感であったであろう。戦前・戦後を通して思想が変わらなかった人の一人に柳宗悦がいるが、小林秀雄もそうした人間の一人である。

 戦前・戦後で自らを変えなかった男に白州次郎がいるが、その彼の息子のところへ長女明子が嫁いだのも必然性のあることであったかもしれない。ところで小林秀雄は、無神論のように見えるが、彼の奥さんは、光の家の信者であったし、彼の妹の高見沢洵子は、クリスチャンであった。もっともこれは、漫画家長谷川町子が「のらくろ」の作者である夫河水泡(本名高見澤 仲太郎)に弟子入りした関係で、その長谷川町子がクリスチャンであり、一緒に教会に通っていた影響であったらしい。

 東大の仏文科にいた頃の中原中也と小林秀雄の関係や長谷川泰子との三角関係の事を詳しく知ったのは、山口県を旅したとき、中原中也の名前を至るところで見かけたことと関係がある。2010年(平成22年)の9月初め山口大学で、空気調和・衛生工学会の大会があり、その大会に参加するため、山口市の湯田温泉に2泊した。この時、大会の合間に市内の瑠璃光寺と少し離れた長門峡でスケッチをしたが、この長門峡の橋のたもとに中原中也の詩碑が立っていた。また、この時、湯田温泉の中に中原中也記念館があったが、この時は、訪れる時間を作れなかった。この2010年には、もう一度その約二か月後10月末に湯田温泉を訪れる機会があった。大学時代の知人達と山口から津和野、萩、そして湯田温泉から厳島神社をめぐる旅に誘われ、この時、中原中也記念館を訪ねることが出来た。

 湯田温泉が戦災を免れたこともあって、生家跡に建てられ、2004年にリニューアルそれた近代的な建物には、極めて豊富な資料が展示されていた。この中で、長谷川泰子の「中原中也との愛」(角川文庫2010年1月第5版)を買い求め、旅の途中で読んだ。小林秀雄が、長谷川泰子と同棲したのは、1925年11月から1928年4月(26歳)までの在学中のことである。その直後1929年改造の評論懸賞で「様々な意匠」で第二席を取る。ちなみにこの時の一席は、宮本顕治の「敗北の文学」であったことは、有名な話である。しかし、これ以降評論家としての地位が固まりその5年後の1934年(32歳)に時森喜代美と結婚している。

 小林秀雄が、晩年ベルグソンに興味を持ち続けていたことは、有名であるが、それは多分フロイド、ユング、ヤスパース等が指摘した、自我、、超自我、エスと云う人間の無意識領域で鼓動する生命の鼓動とその稲妻のような現出であるラプトウス(夢中、熱狂、自我喪失)と人間の創造活動の関係を哲学的・科学的に明確にしたかったためではなかろうか。

 ベルグソンは、無意識の底に蠢く生命の原初的な動きとその方向を「生命のはずみ」としてとらえていたようである。小林秀雄が生きた時代は、アインシュタインの相対性理論量子力学といった古典的な世界観を破壊する物理理論や宇宙観が誕生しつつあったが、彼は、これらの動きには、全く無関心のように見える。小林秀雄と湯川秀樹との対談を読んでいて感ずるのは、人間を内部から理解しようとする文学と外部から見ようとする科学の統合の難しさである。これを乗り越えるのが、哲学であるかもしれない。

 ベルグソンは、生命とは何か、人間とは何かを理解するため絶えず先端科学の動向に目を向け、それを自らの思想や世界観に取り入れようとしていたことを考えると科学的視点無しでベルグソンを理解するには限界があるように思う。小林秀雄が晩年突き当たった壁もこんなところにあったのかもしれない。

 小林秀雄も中原中也も裕福な家庭に育ち、食うことに追われる同時代の圧倒的多数とは異なった環境下であったため、第一次世界大戦後の時代の思想的課題を敏感に感じ反応する青春を送ることが出来た。彼らの青春の問題意識は、我々の青春と重なる。しかし、決して裕福とは云えない我々が同じような青春を経験できるまでには、40年もの歳月が必要であった。

今我々は、彼らが捜し求めたものをさらに奥まで極める条件にあるかもしれない。

 小林秀雄の「モーツァルト」に導かれ、ラプトウス精神病と創造性を扱った医師で精神病理学者渡辺哲夫の「創造の星―天才の人類史」2018年講談社選書を読み、人間の合理的意識なるものは、その下に隠されている無意識の世界の超自我やさらにその奥底で蠢く生命体としての無意識の生衝動(エス)云った不合理の大海に浮かぶ小舟のようなものでしかないとあらため整理できた。渡辺哲夫は、彼の手になる関連図書「フロイドとベルグソン」の中でフロイドの云う無意識の世界とベルグソンの云う生命体の生衝動である「生命のはずみ」との関係を扱っていると思われるが、まだその書籍は手元にない。だが、このコロナ下の時間の中で、小林秀雄が僕にとってより身近で理解しやすい存在になったことは事実である。

                                   了

フランスロマン主義とシュールリアリズムーその2

3.フランスロマン主義とドイツロマン主義

3.1フランス文学運動の三つの流れ

19世紀以後のフランスの大きな文学運動は、大きく次の三つに代表される (各定義はwikipediaによる)

象徴主義(サンボリスム;フランス語: symbolisme)とは、自然主義や高踏派運動への反動として1870年頃のフランスとベルギーに起きた文学運動および芸術運動である。1886年に「象徴主義宣言」« Le Symbolism  »を発表した詩人ジャン・モレアスが、「抽象的な観念とそれを表現するべきイージュの間にこれらの詩が打ち立てようと望む類比関係を指し示そうとして」提案した。

ダダイズム(仏: Dadaïsme)は、1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動のことで、ダダイズムダダ主義あるいは単にダダとも呼ばれる。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とする・

シュールリアリズム(超現実主義) (仏: surréalisme)は、理性の支配をしりぞけ、夢や幻想など非合理な潜在意識の世界を表現することによって、人間の全的解放をめざす20世紀の芸術運動。ダダイズムを継承しつつ、フロイドの精神分析の影響下に1924年発刊されたブルトンの「シュールレアリズム宣言」に始まる。画家のダリ・キリコ・エルンスト、詩人のアラゴン・エリュアール・滝口修三らが有名。

これらの流れる背景は何であるのか、これが私の問題意識であった。澁澤龍彦のこの本は、私のこうした問題意識にピッタリと照準を合わせたような本であった。

3.2西欧思想の土壌

西欧の思想を理解するためには、その古層を見る必要があると常々考えてきた。西欧思想は、二重の支配的思想の支配とそれへの反発の歴史とみることができる。その支配的思想とはすなわちローマ時代から近代にいたるまでのキリスト教的世界観とフランス革命以降の啓蒙主義的理性主義的世界観である。その両者の共通点は、明快さと論理性〈アポロン的世界〉のように思える。

キリスト教的世界観は、ローマ時代にそれ以前にあった自然のアニミズム的世界観を征服し、それらを表の舞台から駆逐したが、そのことへの反発は、地下に潜って、錬金術等ヨーロッパ神秘主義としてヨーロッパの裏の思想の底流として生き続け、やがてそれは、古代のギリシャ思想と結びつき、ルネッサンスの人間中心思想や近代科学を誕生させることとなった。

 3.3フランス革命の衝撃とロマン主義運動

近代科学のもたらした合理的精神は、フランス革命をもたらし従来の封建的社会や意識を破壊し、やがて近代合理主義としてキリスト教世界を突き崩してゆく。

フランスを中心とする啓蒙主義は、ナポレオン戦争を通して、ドイツ、ポーランド、ロシアへと全ヨーロッパを巻き込んでゆく。一方キリスト教的世界観の弱体化は、それまで抑圧されてきた神秘主義の勃興を促すともに、啓蒙主義の限界と負の側面に光を当てる動きももたらす。特に、フランスと絶えず対峙してきたドイツにおいて、それはドイツロマン主義として開花するが、啓蒙思想の本家のフランスでは、それらは、公然たる思想的な動きとして開花することなく、社会の片隅に追いやられることになった。この動きが、フランス革命後の社会的な混乱の中で目を覚まし、文学運動として表面化してきたのが、フランス象徴詩からダダイズムそしてシュールリアリズムの流れではなかろうか。フランス革命以降のフランス社会の変動をざっと見てみると次のようになる。

1789年フランス革命の勃発とブルボン王朝の崩壊第一共和政の開始

1804年第一共和政の崩壊とナポレオンによる第一帝政の開始

1814年第一帝政の崩壊とブルボン王政の復活

1830年7月革命によるブルボン王政の崩壊とオルレアン家による7月王政の成立

1848年2月革命による7月王政の崩壊と第二共和政の成立

1851年ナポレオン三世によるクーデタによる第二共和政の崩壊と第二帝政の成立

1870年普仏戦争によるナポレオン三世の敗北と第二帝政の崩壊とバリコミューンの失敗と第三共和政の誕生

1945年第二次世界大戦の終了と第四共和政の誕生

1958年ドゴール内閣の誕生と第五共和国憲法の制定と第五共和政の発足

ロマン主義運動とはもともと、論理に対して非合理なものを、知性に対して無意識的なものを、歴史に対して神話又は伝説を、日常的なものに対してを、に対してを、それぞれ称揚する精神の運動に他ならない(澁澤龍彦)」この運動は、合理主義の代表者としてのナポレオンに対するアンチテーゼとしてドイツを中心として沸き起こってきたため、フランスではドイツの猿真似的なものでしかなかったとみなされてきたが、フランス革命以降の何度にもわたる政権交代や混乱の中で、ドイツとは別の形でその流れが形成されていったようで、それが、象徴詩運動からダダイズム、シュールリアリズムの流れの底流となっていったということらしい。

-震災後の思想と私- 

2011年の震災から今年で7年経とうとしている。あの直後。私は何を感じていただろうか。そのとき感じた文章を読み返してみた。震災の記憶は遠くなりつつあるが、僕のこの気持ちは、まったく変らない。

あれから一年経った。あのとき、信じられない光景を前に、この事態をどう受け止めたらよいのか必死に考えていた。「およそ観るべきものは見、聞くべきものは聞き、知るべきことは知り、味わうべきは味わった」と思いはじめたときだった。水彩画の世界が突如として水墨画の世界に変わったような衝撃であった。その衝撃の感覚は、最愛の肉親や友を亡くしたときに似て、はじめは、それほどのダメージを感じなかったが数ヶ月経つ内に、ずっしりした心の痛みとして心の底に沈殿していった。僕の中での、何かがが変化した。そうした中で、名古屋学生の会の50周記念が行われたが、心から喜べなかった。自分だけが、陰画の世界に住んでいる感覚をうまく表現できなかつた。沈黙を守る以外になかった。あの出来事を皆は、どんな風に、受け止めたのであろうか。僕の感性が異常であったのかもしれない。

原発事故で東電批判が充満しているが、直後の東電の知り合いからは、定年直前の技術者が事故の現場で、命がけで働いているとの情報も入ってきた。技術者としての自分が、あのような現場にいたら、どんな気持ちであの事故に立ち向かっているのだろうかと思うと人ごとは思えなかった。災害の真っ只中にいたとしたら自分はどうしたのだろうか、そのなかで何を考えどう行動したのだろうか。災害の中でこそ、人間のすべてが試される。あの災害に対応できる思想とは、何か。その問いかけが、頭の中を駆け巡っていた。

あの出来事で、所属しているNPOが計画していた行事がすべて影響を受けた。予定されていた国際シンポジウムは、急遽震災をどう受け止め、復興に繋げるかの緊急集会に模様替えされた。

そのとき、技術者としての僕には、技術の分野では、設計基準とは何か、安全性とは何かが問われていると思った。武谷三男の安全性の問題に対するアプローチを手掛りにこの基本概念について考えを整理して発表した。それは、これから混迷を深めると予想される科学・技術をめぐる議論に備えるためでもあった。だが、こうした僕の問題意識に、共感してくれたのは、清華大学の若き準教授のみであった。僕は、自分の感性を伝えきれない自分に苛立ちを感ずるようになっていた。

問題の本質は、自然に比しての人間のひ弱さであり、世界の不安定さと不条理であり、あまりに、無自覚にエネルギー依存している人間と文明のあり方なのだ。だが、こうした本質的な問題は、覆い隠されたまま、人々の怒りは、原発事故を起こした東電や政府の対応等目の見える事象にのみに集中しているように思える。それが私には、思想的逃避に思えてしかたがない。これは、日本人の中で、何かが滅びつつある兆候ではないのか。そう感じた。

古の日本人は、自分を偽ることなく、悲しみに直面していたように思う。定年後、ふとしたきっかけから謡曲を習うようになったのは, 謡曲を習っていた仏文科出の友人がら、「墨田川」を聞いて、「こんなすごいものがあると感動した」という話を聞いたことがあり、そうした感動に自分も接してみたいと思ったこともあった。謡い7年、舞3年と云われて、個人教授を受けるようになって数年たった頃、知り合いとなった87歳の婦人に謡曲の謡のサークルに誘われ参加するようになり、数年経った頃、「墨田川」を謡う機会に恵まれた。

そのときのことである。シテ(主人公)役のベテランの先輩の声が、物語の中心にきたとき、思わず涙声になるのを目の当たりにした。「思わず感情が昂揚してしまった」ためであった。「墨田川」は、極めてシンプルな物語で、都から人さらいにあった子供の跡を追って東国までやってきた母親が墨田川まで、やってくるとその堤に人々が集まっているのでその理由を尋ねると、そこで、法要が行われるとのこと。何の法要かと尋ねると、人商人に連れられた幼子がここで病気になり捨てられたのを近所の人が哀れに思い保護したが、介抱も空しく亡くなった。今日がその命日であり、法要はそのためだという。その幼子の名を尋ね、それがまさしく我が子であることを知って嘆き悲しむという物語である。物語は、人々の読経の声の中に我が子の声を聞くところで終わる。

この単純な物語が何故、踊や芝居の題材となり、人々の心をとらえるのか。僕は1000年も前の物語が、人を動かすことに驚いた。そこには、悲しみを人のせいにするのではなく、悲しみそのものの純粋な表出があり、それに心が感応するためと思えた。つまり悲しみそのものに感能する能力が、人間にあり、それこそが、文化や思想の根本をつくるものではないのか、そしてそれこそが日本文化の基底となっているものではないか。

1000年も前の時代、自分の力では何とも出来ない巨大な力を前に、直面した人々の体験や悲しみを乗り越えるために生み出したのが、悲しみの純粋な表出を基本とする能であり、謡いであったように思われる。非力な人々は、悲しみへの感応を通して、よみがえり、不安定で、不条理な世界に対峙していったのでは無かろうか。こうした心のあり方、悲しみに対する感能力が、近代の合理主義や豊かさの中で、減退しつつあるのではないか。「日本人の中で、何かが滅びつつある兆候」と思われる事態とは、このことと関係している気がする。

巨大な自然、不安定な自然を前にしたときの人間のひ弱さ、はかなさ、文明とは絶えざる自然との緊張関係の上にのみ成立するものであること。このことを思い知らされたのが今回の震災と原発事故であった。そして、それは、我々の住んでいる日常世界のすぐ裏に非日常の不安定で不条理な世界があることを意味し、あたかも災害が予測可能であり、人間知が全てを制御出来、世界が日常世界からのみ成り立つかの論調は、この真実から目を背けるもののように思える。

今回のような災害は、地震だけでなく、宇宙の彼方から突如として訪れる小惑星の衝突や銀河系や太陽系の非線形な挙動からも起こりうる。人類の知や現代の文明は、こうした自然の不安定な挙動に対応するに十分な力をもっているわけではない。人類は、まだ未熟であり、成長の過程にある。そしてその人類の知を育てる,には不安定で不条理な世界と絶えず対峙する緊張感が必要である。この緊張感を喪失し、安全・安心を当然のこととするところに退廃が生まれる。絶対安全を要求する反原発派も絶対安全をいう原発推進派もこの意味では、同罪である。

あの日のほんの半年前、民主党の事業仕分けで、国交省の100年に一度の洪水を対象としたスーパー堤防の工事中止に喝采を送ったマスメデヤや国民が、手のひらを返したように1000年に一度の災害に備えよと意見を変えるのを目の当たりにすると。この国の思想の退廃を思わざるを得ない。一年経った今もマスメディアヤの主要な論調や多くの国民の意識は、願いさえすれば、安全や平和は、得られて当然のこととし、その責任を科学や技術に押し付けているように思える。しかし、こうした意識に衝撃を与えたのが、今回の震災であつたはずである。

新型ウィルスに怯え、地震に怯え、放射能に怯える姿は、豆腐が健康よいと聞けば、豆腐を買いに走り、納豆が良いと聞けば、それを買いに走る浅薄なメディヤとそれに翻弄される国民の姿そのままである。1000年前の人達が、地獄と亡霊に怯えたように現在の人々は、地震と放射能に怯えている。しかし、1000年の人々が不安定で不条理な世界を直視していたのに比べて、我々はどうだろうか。まだ、平和と安全の幻想を夢見てはいないか。

我々は、もう平和な時代に戻れない。我々の住んでいる世界の本質的な不安定さ、不条理さ、不安全さへの自覚なくして、これからの世界を語ることは出来ないはずである。逃避することなく、冷静に現実に対峙し、この世界を生きるための新たな思想が求められている。それは、現代の文明を支えている宇宙論や科学・技術等の現状と限界の正しい理解の上にしかない。

挑戦を受けるSFと将来―神鯨を読んで―

今世紀に入ってからの急激な科学・技術の発展が、過去のSFの多くの前提やテーマを陳腐化させつつある中で、かたどおりのテーマや物語では、満足できなくなってきた。しかし、こうした状況の中でも、はっとさせられ、未来社会の新たな様相を垣間見せてくれる作品もある。

 古書展の三冊100円コーナーで見つけた「神鯨」という昭和53年出版のこの本は、まさしく、宝石のように輝くこうした作品の一つである。

1974年バランタイン・ブックスより刊行されたトーマス・J・バスラーの「GODWHALE;神鯨」である。著者のT・J・バスは、1931年生まれで、ベトナム戦争にも従事したことのある医大卒の病理学の科学者で、この作品は、彼が43歳の時の作品である。彼は、この作品の後、科学研究活動が忙しく、作品を発表していないようである。

神鯨の時代背景は、今から数千年後の地球、その中で生きる変貌した諸人類、及び各種サイボーグや創造生物達の物語で。その扱うテーマは、性・タブー・宗教・神話・探検・ 植民・生物学・環境・コンピユーター・サイバネテックス・技術・工芸・ロボット・アンドロイド・サイボーグ・都市・海洋等、タイムトラベル等時空を除く殆どのSFのテーマが

取り上げられている。特に訳者の日夏響が解説で述べている「人間を腐敗性物質として捉える作者の生態学的視点」が、生物としての人間を感傷なく自由に捉えてるところが、時代の制約を乗り越えるかかる作品を生み出したと思わずにいられない。

訳者日夏 響は、1942年生れで、横浜国立大学史学科を中退した女性翻訳家で、オカルト本、SF、幻想文学を翻訳した。 その翻訳の数は多くいが、その人物像は、はっきりしない。

2012年の「終末期の赤い地球」電子版には、日夏響の著作権の継承者を探している旨が、記載されているので、この頃70歳前後で亡くなっていると思われる。訳者あとがきから見識がうかがえるが、一度は話が聞きたかった人である。苗字が本名ならば、あの日夏耿之介の関係者かもしれない。