時間と風景をめぐってー日常の中の幾つもの時間と異風景との出会いー

日常の中に、幾つもの時間の流れのあることに気付いたのは、定年後の生活の中でであつた。

丁度、太平洋の中に黒潮だの親潮などのような海流が流れているように、我々の日常生活の中には、多様な時間が流れているようなのである。そして、その各々の流れの中では、日常の風景が微妙に違ってくる。我々の命は、時間と空間が密接に結びついている時空連続体の一筋の光の糸のようなものであると頭の中では、理解していたが、そのことが時間の多様な流れと多様な風景として実際に感じられるとは、思ってもみなかった。

特に、はっきりするのは、現役のサラリーマンと接するときである。定年後、現役の会社員と接するとき、彼等を取り巻く時間の早さに巻き込まれそうになる感覚が、エスカレーターに乗る時に感ずる加速度に似ている。そういえば、数年前長女の二人目の出産のとき、2ヶ月近く、我が家に滞在していた5歳の孫は、いつも有り余る時間をもてあましていた。彼女には、大人とは、全く違った時間が流れているようであった。

こんなとき、僕より10歳若い俳人 長谷川櫂の「俳句的生活」という本の中に、日本人は、文化的に三つの暦の時間を生きていると書かれてあった。

すなわち、新月を基準とする太陰暦が西暦604年中国から伝えられたが、それ以前の古代の日本は、満月を基準とする太陰暦を使用しており、明治維新の後明治5年に太陽暦が導入され、この年の12月3日を明治6年の1月1日としたときから新暦が始まった。お盆等の日本の伝統的な行事は、歴史的に仏教の導入と結びついている場合が多く新暦と旧暦の混同や混乱は、現代まで、続いている。古歌を読む場合は、この時間の違いを頭に入れ、古代の時間の流れから風景をみる必要がある。

かくてあの西行の歌ねがわくば、花の下にて我死なんもあの如月の望月の頃」の如月の望月が今の3月末であり、謡曲「竹生島」の中の「頃は弥生の半ばなれば・・」の弥生は、今の4月ということになる。日本の日常には、仏教渡来前の神道と仏教渡来後の中国文明そして明治維新後の西洋文明に代表される三つの時間が流れており、これが多様な四季の変化と相まって豊かな日本文化の土壌を形づくっている。

時間は、社会生活や文化生活の中で多様に流れているだけでなく、肉体的・精神的状況によっても異なる。かくて、幼児から少女、少女から娘、娘から妻、妻から母、母から老婆へと移ることは、均一な時間の中での変化ではなく、異なる時間の流れへの飛び移りのようなものであるのかも知れない。

平社員から主任へ、主任から課長へ、課長から部長へサラリーマンも又社会的な異なる時間の飛び移りをしているわけで、これら多様な時間には、その時間流からの風景が多様に展開していることになる。我々人間は、本質的にタイムトラベラーなのだ。人生を豊かに生きるとは、多様な時間を生きることであるのかも知れない。今日は、借りて来たCDで、アニメの「時をかける少女」を見た。このときは、確かに、50年もタイムスリップして青春の時間の中を泳いでいた。

 神と神話をめぐって

もう、27年ほども前、東京に出張したとき会社のある飯田橋の本屋へぶらりとよった私は、その新刊書のコーナーで、「はじめてのインド哲学」と云う現代新書を手にして、どこか記憶の中にあるような名前に出会った。立川武蔵というその著者の略暦を確認して、数十年前のある夏の日の記憶か゛鮮やかに蘇ってきた。

それは、僕が大学2年の夏のことで、僕は、友人のKと学生会館の一角で、その立川武蔵さんと話し合っていた。大学に入学して、早くもマルキシズムの洗礼を受けていた僕は、入学して一年半の間に、はやくもいっぱしの唯物論者になっていた。高校生時代、倉田百三や西田哲学に惹かれていた僕は、大学に入ると共に、今度は、鮮やかに唯物論者に転向していた。その僕と哲学論争をしていた友人がKで、クリスチャンの家に育ったKは、聖書研究会かなんかを通じて、立川武蔵さんと知り合い、僕を引き合わせたのだった。

彼の真意がどこにあったのかは忘れてしまったが、そのときの話のテーマは、神と宗教についてであった。当時の存在や宗教を真っ向から否定する僕に、彼は、かれが問題にしているのは、神とはなにかではなく「神とは何かを問うている人間とはなにか」という問いかけこそが、哲学又は宗教の課題であるといい。「君は、反宗教的というより非宗教的な人間だね」とポツリと語った。夏の日差しの中で交わされたこの会話は、その後ずっと僕の心の奥に沈殿したままになっていた。

当時彼は、インド哲学を勉強していたといっていたが、その「はじめてのインド哲学」を中で、僕は始めて、彼があれから文学部の大学院に進み、その後アメリカのハーバード大学の大学院へ進み、そこでph.Dの資格をとり、名古屋大学の教授へ経て、国立民族学博物館の教授になっているのを知った。あのマルクス主義と唯物論の全盛時代に、彼は、インド哲学にキチンと照準を合わせ、ヨーガを実践するなど知と体験を通じての努力を続けており、その道が現在まで、続いていることを思って、僕は、目眩にも似たある種の清清しい感動を覚えた。

それは、この二十年間の僕の思索の中心テーマが、仏教や神秘主義と宗教体験をめぐる問題であったことと関係していたせいでもあった。宗教や神話と人間をめぐる問題は、マルクス主義に変わる歴史観を模索する中で、トインビーの歴史の研究を再読したり、エリアーデ等の宗教学に関する研究書を読んでゆく内に、序々に自分の中で明確な形で一つの認識を僕にもたらしつつあった。宗教とは何か、神話とはなにかそしてそれらは人間にとってどんな意味があるのかについて簡単にまとめてみたいとおもう。

人間は、世界を眺めるのに、自分なりに秩序づけて、理解しようとする。この場合、現実の世界は、何の意識もなしに眺めれば、ただ無秩序な現象の集まりにすぎないが、こうした無秩序な世界に秩序をもたらすものが、神や仏の概念であるのかも知れない。つまり

神は、遠近法で描かれた風景画の中の焦点に似ている。つまり、焦点の存在が、その風景に秩序を与え、それに美を与え、人を感動させることになる。

人間は、本質的に無秩序な世界の中にあって、その中を居心地よくするための壮大な知の仕組みをつくり上げて生きている。これらの知の仕組みの焦点となるものが神つまり普遍的な中心となる仮想の存在である。しかし、この仮想的存在は、世界に秩序を与える存在であるので、ある意味では、実在の存在でもある。社会が安定しているときこれらの観念も安定しているが、社会に変動が生ずるとこの観念にも変動が生ずる、ある局面では、観念の変動が現実の変動を誘導する。かくして、トインビーが語るように文明の衰退期には、その文明の象徴としての神の衰退をもたらし、その文明から離反する周辺から新しい価値観が生まれ、これが新たな秩序をもたらすにつれて、その価値観を担う新たな神が

新たな宗教を誕生させる。混沌がおさまり、安定期が訪れるとその秩序を象徴する価値体系が定まり、これがその文明の価値観としてひとつの知的観念体系を成長させる。

つまり、新たな文明や宗教の誕生は、風景の中に新しい焦点を設定する作業に似ている。

人間は、ある方向に行き詰まると別の方向へ歩き出そうとするが、その方向風景には、新しい焦点が必要でありその焦点を定める存在が、予言者であり、教祖であり、思想家であり、詩人であり芸術家、哲学者ではなかろうか。そして、行く手の世界が、新たな焦点

によって美しい風景画のように見え始めたとき民衆はそれらに支持を与え、新しい文明が

成長し始めることになる。                    以  上

 

 ――西行のもののあわれをめぐって――

「この文明は亡びるな・・・」今の社会に関する漠たる予感が突如言葉の形をとって脳裏に浮かんだのは、2005年11月の中国旅行で、香港島の頂から香港の夜景を見たときであった。超高層ビル群のネオンに彩られた夜景それは、莫大なエネルギー消費を伴うあまりに人工的で、きらびやかな光景であった。こうした、感想をもったのは、今回だけではなかった。

1980年代のバブルの絶頂期、土地神話と株価の高騰で、皆がばら色の未来を夢見ていた時期、古くからの友人と東京六本木の居酒屋で一杯飲んで、高層ビル群のネオンサインを眺めて帰途につきながら、「こんなこと続くはずがないね」どちらとも無く語りあったときも、同じような漠たる不安の中にあった。

市場経済化とグローバル化の流れの中で、地球が何億年もかかって蓄積してきた化石燃料の浪費を基盤とする現代文明に、未来がないことは誰の目にも明らかなはずなのに、この現実に対して、効果的な対策は何もなされていない。1974年にローマクラブが「成長の限界」を発表し、人類の危機を訴えてから事態は悪化するばかりである。

数十年先のことなど多くの人達にとっては、関係が無いことで真剣に考える人は、一万人に一人もいない。つまり、民主主義は、将来的な危機に対しては極めて応答が悪い制度といえる。亡びの兆候がはっきりとしていても、個人にこの流れを止めることは出来ない。

この感覚をどう表現するかで、悩んでいたとき、自然と脳裏に浮かんだのは、西行の次の歌であった。「こころなき身にも哀れは知られけり、鴫立つ沢の秋の夕暮れ」そしてその夜夢の中で、突如この歌の意味が、はっきりと分ったと思った。この光景は、沢に一羽立つ鴫が秋の夕暮れを見ている。このこころなき身の鴫は、西行そのものだ。この鴫は、秋の夕暮れを見ている。秋の夕暮れは、一年の終わりの夕暮れであり、これは、多分西行の目からは、貴族文化の亡びの時期で、ほんの短い自分の一生の黄昏を意味している。心を持たぬ鴫が、沢の中に一羽立って、秋の夕暮れを見つめている。あの鴫も哀れを知っている。自分も世間から離脱して一人、王朝文化の亡びの時期に、人生の終末を見つめている。この感情をものの哀れと表現した。僕には、そう思えた。

そして、僕の作った歌「雲去りてふるえる秋の夕暮れに、宵の月影みる人ぞなし」

「脳とこころ「の問題を研究している茂木健一郎「クオリヤ入門」という本を何気なく

書店で、買ったのは、彼が理学部物理科の出身でありながら小林秀雄賞を受賞したという点に興味をもったからであったが、彼に云わせると人間は皆、自分を通してしか世界を見られない。そして個々人は、孤立した存在であるが、歴史的に蓄積して来た文化や言語により自分の中に仮想の世界をつくって生きている。そしてこの言語や文化によって他者と係わるがこのことは時空を超えて他者とも係わることを意味する。このことにより、人間は、孤立しながら孤独ではない。西行の読んだ「もののあわれ」は一千年の時空を超えて僕のこころの中に伝わったといえる。

 

―定年後から始めた謡曲と私―

「定年後に謡曲を習い始めた」と云うと、ほとんどの人が怪訝な表情を示す。その中には、謡曲とは何かについての基本的なことが分らぬ戸惑いもあれば、いまさら謡などに興味をもつことの不可解さに対する戸惑いもある。謡曲とは、能の謡いと台詞の部分を取り出したものである。織田信長が、桶狭間の合戦に出掛けるときに、「敦盛」を謡い舞う場面があるし、結婚式には、高砂の一節が謡われる。では、僕にとっての謡曲とは何か、そこにどんな出会いがあったのか。

もう55年も前、大学1年生のとき、県女の大学祭で、初めて謡いの場面に出会った。はかま姿の女子大生が、扇を前に垂らして端正に座って集団で謡う姿にいたく心を動かされたが、これはその集団の中に高校時代の文学仲間のマドンナ的存在であったT子さんの姿があったせいかも知れない。この文学仲間は、今から思えば、僕を除き比較的恵まれた家庭の子女が多く、高校生ながらクラッシックだけでなくジャズやイタリヤの歌曲に親しみ音楽喫茶やジャズ喫茶に出入りしたりする多分に知的で大人びた個人的な繋がりの連鎖といった緩やかな関係で結ばれていた。大学入学の当初、同人誌「砂漠」を発行していた文学サークルに加わり、大江健三郎や阿部公房といった当時新進の作家についての先輩達の議論を聞きながら、村野四郎の詩人論等が掲載された同人誌に刺激を受けたりしていたが、政治の時代の潮流の中で、こうした文学的な環境から次第に遠ざかることになった。

僕が、再び謡曲と出会うには、長い政治の時代とその後の荘子や仏教、キリスト教神秘主義、トインビー等の文明論等との出会いと格闘の長い道のりが必要であった。思想として生死の問題を考える中で出会ったのが、朝日選書として出版された田代慶一郎の「謡曲を読む」の中にある「文学としての謡曲」の一文であった。謡曲をギリシャ悲劇やシェクスピアの戯曲との対比で捉えたこの一文によって、僕の中には、謡曲への憧れが一気に芽生えた。そして、ここ十数年ばかり前、狂言や能の案内のチラシの中に懐かしい大学時代の文学サークルの仲間であった狂言師の佐藤友彦の名前を見つけ、彼が狂言師の家元の生まれであったのを思い出し、能や狂言の舞台を見に行くようになってから、狂言、能、謡曲が、日常的な身近なものと感じられるようになった。

そして定年の数年前、たまたま泊めてもらった友人の家で、謡いの和紙の教本をはじめて手にとって、伝統の持つ不思議な魅力にとりつかれた。謡曲「隅田川」を聞いて涙が流れ、こんなすごいものが日本にあったかと感動したのが、謡曲を始めたきっかけであったとは、その友人の話である。

そして定年後、ある技術者の集まりで、50年近く謡曲を習って名誉師範の資格を持つ人が、先輩の跡をついで、ある謡曲の会の先生をすることになったとの話を聞いて、早速弟子入りすることにした。月2回の個人レッスンを受けるようになってはや5年目になる。謡い7年、舞3年といわれその半分の時間が過ぎた。30年以上習っている人達に囲まれてようやく10曲ばかりを習い終えた。謡曲は、全部で250曲あまりあり、この調子では、全て習うには、100年かかることになる。近頃は、月一回の謡いのサークルにも加わるようになった。練習のためのツールもテープレコーダー、ICレコーダー、ICウォークマンと進化しつつある。歴史と文化を凝縮した言葉、無駄のない台詞、七五調一句を八個拍子にはめる平のり等の日本語の特徴を生かした拍子法、喜怒哀楽の妙を表す深い音階等、洗練された文化の極としての謡曲の世界は、生者と死者の出会いの世界であり、古今東西、春夏秋冬、森羅万象の多次元の時空を超越した宇宙である。謡うことは、自らが主体となって人間世界を詩的に時空間旅行することである。今になって思えば、この日本文化の最も洗練された感性を共にする人が少ないのが残念でならない。能観賞の後で、その感想を魚に、古酒を酌み交わし、人生と生死をしみじみ語り合えるならそれに勝る楽しみはない。同好の士よ、来たれ。

生の源流をたどって―追憶と姉―

追憶とは、過去の出来事を思い出すことであるが、人は、自分の記憶をどこまで、辿ることが出来るのか。

二年程前、中学の同級生と六十年前に住んでいた田舎の家の跡を尋ねたことがある。かつて自分が住んでいた家と周囲の風景、それをもう一度目にしたかったためであるが、その期待は、完全に裏切られてしまった。家が跡形も無くなっているばかりか地形も木々もまるで異なってしまっていた。目を瞑れば、すぐに思い出す竹薮や柿の木や小道や池までもが無くなっていて当時の面影を残すものは、何も無くなっていた。近くで畑仕事をしている老婦人と話して分かったことは、彼女が、小学校の同級生の兄嫁で、私が小学校に上がったとき、隣家へ嫁にきた人だったということである。今や自分の生い立ちに係わるものは、自分の記憶の中にしか存在しないことを痛切に感じた瞬間であった。

人は、自分がこの世に生きていることを、何時から覚えているのだろうか。女二人、男三人の末っ子として生まれた私の生の初期の記憶は、二人の姉と密接に関連している。生まれて最初の記憶は、下の姉に背負われていた。八歳年上のこの姉は、私をおぶって、家から五十メートル程離れた当時「とらさん」と呼ばれていた人の屋敷の北西の角にある溜め池の横の三叉路で友達と立ち話をしていた。延々と続くおしゃべりが、内容の理解できない私には、たまらなく退屈で、背中で、暴れていた。下の姉が、小学校の五、六年生の頃であるので、私の二,三歳の頃、多分、昭和二十年か二十一年の冬のことである。

次の記憶では、私は、自転車の荷台に摑まって上の姉と林の中を走っていた。風は暖かく、さわやかであり、五月頃と思われる。十二歳年上の姉は、数人の仲間と共にどこかへ行こうとしていた。微かに歌声も聞こえていたような気がする。戦時中、愛知時計の工場が、疎開して近くにあったと聞かされたことがあり、上の姉も一時、そこに通ったことがあるらしい。これは、その当時の記憶で、多分私の三歳頃のことである。

名古屋の港区に住んでいた私の一家は、終戦の年、先祖代々住んでいた春日井の山里に親戚を頼って疎開してきた。六畳と八畳の二間の家に、祖母と母と叔母と子供三人の六人が住んでいた。父は、名古屋の家に残っており、上の姉もここに残っていたためである。私の中には、父の記憶は無い。終戦の少し前、名古屋で病死したためである。四十九歳であった。

疎開して住んだ家は、遠縁の家の馬小屋を改造した建物で、その八畳間の部屋には、天井がなく梁がむき出しになっていた。あるとき、数人の人が現れ、家の横にトタン葺きの建物を増築してくれ、そこに、お勝手場と風呂桶がすえつけられた。勝手場と風呂桶は、立派な食器棚で区切られたが、その食器棚は、名古屋から運んでいたものだった。その食器棚の引き出しの中には、ナイフやフォークやスプーン等料理屋であった名古屋の家の名残が詰まっていた。少し高台にあったその家には、水が無かったため五十メートル程離れた家の湧き水をもらっていた。風呂に入るためには、五十メートル離れたところからバケツで、何回も水を運んでくる必要があった。一、二年した頃、井戸堀の人が二人で現れ家の前に、井戸を掘った。七、八メートルで、水が出て、手押しの水汲みポンプが取り付けられた。水運搬の労働から解放された瞬間であった。

勝手場と反対側には、間口半間程の物置場があったが、その外側に、同じ幅でトタン葺きの鶏小屋も造られた。明治二十三年生まれの祖母は、代々神社の世話をしている神道の家柄の出で、当時珍しく、女子で尋常小学校を卒業しており、読み書きもできる気位の高い人であった。この祖母が、実家に預けてあった畑を返してもらい、そこで農業を始めた。また、家の横の空き地を耕して野菜畑とした。鶏小屋で、鶏を飼い始めたのも祖母であった。

この祖母の引くリヤカーに乗せられて今は、造形大学の敷地となっているこの畑へ出掛け、幼い私は、祖母の働く姿を畑の傍らで眺めていた。母は、父に代わって現金収入を得るために、手袋を編みの内職など様々な仕事をしていて、幼い私には、遠い存在であった。こういったことは、すべて小学校に上がる前の出来事で、家の改造や増築に手を貸してくれたのは、隣村に住む祖母の姉の連れ合いの友平さんだった。

小学校は、部落の中に分校があり、一、二年生までは、この分校で、三年生になると歩いて三十分程かかる岡の上の本校に通うことになっていた。入学式は分校で行われ、祖母が付き添ってくれた。その日の身体検査で、虫歯の無い子が十名おり、その子達が、黒板に10と書いた。私もその一人であった。二年生の学芸会の時の私の台詞は、「今年は、昭和二十七年、いよいよ日本独立の年」というものであった。

中学校は、小学校の本校の隣りにあった。本校に通うようになって間もなくのことである。中学校の学芸会を見学することがあった。何故か、下の姉が、私のところに来て、会場の講堂に案内してくれた。その時演じられたのは、「修善寺物語」の一節で、伊豆に流された源頼家に面の制作を依頼された能面師とその娘の物語で、その能面師が、何度面を打っても、そこに死相が出てしまうため、面を届けることが出来ない。それを責められる父親を見かねて、娘が代わって許しを請う。「お待ち下さい。面は、確かに出来ております。」この娘の役を姉が演じていた。何故か、この場面が、絵画の映像のように記憶に残っている。高校生まで、私の身近にいたのは下の姉であった。上の姉を身近に感ずるようになるのは、私が大学生になってからのことである。

その二人の姉は、もう居ない。下の姉は、母と祖母が亡くなってまもなく、五十三歳で亡くなり、上の姉も私の定年前、六十九歳で亡くなった。しかし、この二人が、私の生の原点とも云える記憶に繋がっているせいか、今でも身近に気配を感ずることがある。

定年の二年程前、東京で単身赴任で働いていた頃、全社的なプロジェクトの責任者をやり、心身共に疲れ、風邪で、一人社宅で寝込んでいたとき、突如二人のことが思い出され、背中を誰かに暖かく支えられている感覚を持ったことがあり、その後、急速に元気になったことがあった。 その時、私は、二人から見守られているかも知れないと、ふと思った。いつか二人の絵を描いてみよう。そしてその眼差しの彼方に、自分の生の源流を描きたい。そう思うようになった。彼女達の最も輝いていた時期を描こうとしたその絵はなかなか完成しなかった。次女がようやく子供を授かってお産ののために帰ってきたとき、二人の姉に安産の願いを託して、その絵を描きあげた。描き始めて7年が経過していた。しかし、この絵は多分これで完成したのではないのかも知れない。自分の生の源流を見つめる作業に終わりがないようにつ。            完

一枚の挿絵に導かれて ―泉鏡花と日本橋― 

もう二十数年も前のことになる。その当持勤めていた会社の北陸支店の近くに飯泉鏡花記念館があることに気がついて、立ち寄ったことがあった。その記念館は、金沢市尾張町にあり、付近には、粋な町並の御茶屋街がある。御茶屋は、芸者遊びして酒を飲む場所であるが、そこへ行ったのは、一度だけで、しかもそのときは、年配の中居さんのお酌で鍋を突いて、酒を飲んだだけなので、詳しく知らない。ただ、天井の低い和室は、何か一つの小宇宙のような趣があり、応時の雰囲気だけは感ずることができた。そんな街の一角に記念館があることを知ったのは、鏡花の小説を読み初めて、彼が金沢出身と知ってからである。

その記念館は、和風の二階屋で、その一階部分が、展示室となっており、鏡花が描いた女性「美しい人」や、「美しい本である鏡花本の装丁をテーマとした第一展示場と鏡花の創作活動やゆかりの品々を紹介した第二展示場と特定のテーマによる企画展を行う第三展示場などから構成されている小規模な家庭的ともいえる施設であった。

鏡花は、本の装丁に凝っていて、かれの小説の挿絵には、鏑木清方,小村雪岱、鰭崎英朋、鈴木華邨等10名以上が関係していが、この第一展示場で僕は、鏡花の本の様々な挿絵を見ることができた。

そこで、僕は一枚の挿絵を目にした。一見何気ない風景を描いたものであるが、何か奇妙な印象を受け、ひきつけられるものがあった。それは透視図法で描かれた冬の雪降る街の風景画で、遠景には、1人の女が描かれていた。ただその女は、背中を見せており、直接その表情は見えない。町並みを描いているが、その女を除いて周囲に人の気配はない。ただ深々と雪がふるばかりである。その絵の題名は、「日本橋に出る女の幽霊」で、鏡花の小説「日本橋」の挿絵として小村雪岱により描かれたものである。泉鏡花の作品の熱心な愛読者であった小村雪岱は、27歳のとき「日本橋」で、始めて泉鏡花の小説の装丁を手がけたが、これはその時の作品である。

第一展示場で、思わずその絵に惹きつけられた僕は、館内を一通り回ってから、また気になって再度その絵を眺めた。その絵を見て突如連想したのは、中学時代に読んだ青春小説「モーヌの大将」の寒空のパリで、人を探して佇むモーヌと街中を徘徊する狂女の世界であった。だが、そうした印象が、どこからくるのか、僕には、分からないまま、記念館を後にした。小村雪岱に「日本橋に出る女の幽霊」を描かすことになった「日本橋」とは

どんな作品なのか。そして「日本橋に出る女の幽霊」とは何か。僕は何故、あの絵に惹かれたのか、それらの疑問は、長い間僕の中で、沈殿したままであった。これ等のことを、全く忘れていたのではない。本屋へ立ち寄るたびに、僕は、無意識に小説「日本橋」を探していたし、泉鏡花の挿絵集が出版されていないかと探し回っていた。その証拠に泉鏡花の単行本や紹介本全集等を買ってきては、その幾つかを手にするようになった。しかし、

泉鏡花の文章は、視覚的な漢字が多い独特な文体で、その読書は、遅々として進まなかった。

泉鏡花の小説の真骨頂とも云える作品は、幻想譚の幻想と怪奇の物語であり、その世界の面白さに関心が集中するなか、その単行本が出版されたのは、1953年のことで、これは久しく絶版となっていたこともあり、小説「日本橋」は、僕の中から忘れられていた。その復刻版が、2010年の春出版され、それを書店の店頭で見つけ、沈殿していた疑問が再び

蘇えり、一気に読むことになった。日本橋は、泉鏡花晩年の作品で、怪奇小説ではなく

日本橋に住む芸姑と客をめぐる愛憎の物語であり、詩人の佐藤春夫は、その解説の中で、「日本橋は、教防日本橋の美的詩誌であると同時に鏡花の恋愛論乃至愛情一般についてのお談義である。」と述べている。僕はこの小説を何度も読み直し、あの「日本橋に出る女の幽霊」の場面がどこであるのかを捜し求めた。しかし、物語の本筋の中に、幽霊は現れてこない。

幽霊の話しは、物語の舞台の背景となる風景の中にでてくる。「~露地の細路駒下駄で~」の唄に示される場所、露地の細路で、寒空の夜に、そこで不幸な死に方をした芸姑の幽霊があるく駒下駄の響きがする、この風景を描いたのではないかというのが、僕の推測である。

しかし、十数年、僕はどうしてあの絵に引かれたのであろうか、泉鏡花の作品は、怪奇幻想譚が多いが、そこでは、日常と非日常が、紙一重に連なっている。日常の明るい日差しが、一転すると闇の世界につながっている。それが、性の不思議さでもあるし、この世の面白さでもある。全くの異界ではなく、日常の一部にふと顔を出す異界の兆し、それは異界への入り口乃至異界と現世の境界に出来た隙間、僕は、ここに惹かれたかも知れない。全たき異界の絵ではなく、普通の風景である日本橋、人通りが多ければ、現世そのものである風景に、ただ1人の女を描くことによってそこに非日常の感じを表現する。僕が感じた奇妙な感覚は、今では、この絵によって描かれた日常と非日常の境界つまり異界への入り口によって引き起こされたもののように思える。        完

 

姉と友人の死の前後

もう15年も前のことである。当時私は。単身赴任で東京で働いていた。単身赴任2年目の11月、姉が心不全で入院との連絡を受け、港区の協立病院を訪れたのが今さらのように思い出される。

看護をしていた養女のN子の話では、則雄はどうしたとさかんに私の名前を呼んでいたとのことで、私が東京から来たことを告げると何か納得し落ち着いた様子を見せるのであった。

付き添いしていれる義兄の話によると心不全の原因は血管の部分閉塞であり、その手術中に血管の破片が飛んで、脳系統の血管に入り込み、それが原因となり、脳梗塞を患っているとのことであった。

僕と面と向かっているときは、別に以前と大きな変化はないように見えたが、付き添いの人たちの意見を聞くと、意識の明暗の変化がかなり激しく、意識が明確なときは普段と変わらないが、意識が混濁してくると感情や欲望が丸出しになるらしく点滴もそのときにははずしたりするので、目が離せないとのことであった。

しかし、入院してまもなく病状が安定したということで、翌2月には退院して自宅療養をすることになり、少しはよくなるのかと期待をもつようになった。自宅療養するようになってから、自宅へ電話を入れるとかなりはっきりした反応であったので安心して見舞いにゆくと、以前と変わらぬように接してくれるので、快方に向かっていると思っていると付き添いの養女や義兄からは実は夜が目が離せないので大変との話であった。

4月に会社の人事異動と組織変更がありこの対応に追われて、2ケ月ぶりに姉を見舞ったのは、5月の初めであった。相変らずやさしく出迎えてくれたが、何か様子がおかしいので尋ねると昨夜誤って乾燥剤を口に入れ、それを除去するため、水でうがいをしたがこれが悪く、化学反応で発熱し、口の中を火傷したとのことであった。

しかし、痛みは多少和らいできたと見え、お経を上げたいということで、仏壇の前に座らせるとまもなくお経を始めた。しかし、どうも以前と様子が違うので横で見ているとまもなく彼女の目は、文字面を必死に追っているがもはや文字は意味のあるものとして理解できていない様子であった。

経文が途切れ途切れとなるので、一緒にお経を上げることになったが、彼女の読経は、もはや経文を読んでいるのではなく、自分の記憶の彼方から経文の断片を引き出してくるのがやっとの状態であることがハッキリとしてきた。

あれほどお経を上げることが好きであった姉が、その好きなお経も満足に上げられなくなっている。もはや彼女の意識は、別の世界に行ってしまっている。この事実を目の前にして思わず涙がこみ上げてきたが隣には、義兄がおり、大の大人が泣くこともままならず、嗚咽を押さえるように姉と観音経の数節を読み上げた。

僕の中からあの心強かった姉が明らかに遠くへ去っていったとの思いが不意に沸き起こってきて止めどもなく涙が流れる思いがした。お経を共に上げた後、姉は少し、恥ずかしげに僕に向かって「ありがとう」といったが、これが僕との別れであることがなんとなく感じられた。僕にとって姉が遠くに去っていったとの思いを強くした翌日僕は東京に帰った。

そして、6月1日(土)外出から帰ると留守電が入っていた。相手は、大学の同窓のS君弁護士の斎藤君の死を知らせる電話であった。彼は、5月26日に死去し既に密葬は終わっているとの話でお別れ会を6月の終わりに計画しているとの話であった。

ちょうど一年程前、理学部の同窓会の席上で、高校の先生をしているSM君から話を聞き半信半疑でメールで問い合わせたら、実は一昨年の12月に胃がんが見つかり、手術で胃を全摘出し、その後一時持ちなおしたが、又再発し、現在は抗癌剤をうちつつ仕事をしているが、まだ多少酒も飲めるので今のうちに一度会いたいとのことであった。

一人で会うには、気後れしたので、TY、SS,TKの三人を誘って斎藤と会い、食事をし、クラブで青春時代の歌を唄った。斎藤とは、その後、浜松の観山寺温泉での同窓会、大学時代のサークルの同窓会と2回に渡って話をする機会があり、それなりに出来ることはやったので悔いはないが心の味方の一人が無くなったとの思いが次第に気持ちを重くしていた。

その一週間後の6月7日(金)名古屋に帰った。再度入院したとの連絡を受け、姉の病状が心配であり、見舞いが必要であると感じたためである。翌日病院につくと姪達が付き添っていた。姉の意識は、ほとんどなく、容態はかなり悪そうであった。昨日の夜の12時頃容態が急に悪くなったが、今は持ち直して安定しているとのことであった。看護を続けていた姪達の疲労の色も濃くなっていたので、その日は、夕方近くまで付き添った。まだ命はあるそんな感じがしていた。

月曜日早朝の「のぞみ」で上京して、出社した。出社してまもなく自宅から電話が入った。すぐに姉の死の連絡と直感した。僕は、翌日からの予定をキャンセルしすぐ名古屋へ引き返した。

11日お通夜、12日葬儀と慌しい時間があっという間にすぎた。13日の名古屋での会議に出席したものの翌日は休暇をとり、7の2回目の法要を終えて、日曜日に東京へ戻った。

斉藤君のお別れ会は、6月27日にあったがどうしても出席できなかった。仕事の遅れもあったが、何より行動する気力が衰えていた。彼を悼むメッセージを送って気持ちの整理をするのが精一杯であった。

体に異変を感じたのは、その後からであった。水晶体出血で眼科にゆき、皮膚の発疹で皮膚科にゆき、そしてひどい風邪で内科にかかった。自分の生命力の衰えを感じさせられる出来事であった。二人の死によって自分の命を支えてくれていた力がなくなったせいかも知れない。人は、皆無数の人の命によって支えられており、その支えの力が弱まったときが「死」を迎えるときかもしれない。そんな考えが脳裏を横切った。7月末、姉の49日の法要があり、僕の体を気遣った姪の一人が「おじさん、体を大事にしてね」と声をかけてくれた。見えない力がそっと自分を支えてくれているのを感じた。  完

京浜東北線の中で「田村隆一」を読む   ―青春の感動をめぐってー   

60年生きてきて、本当に魂を突き動かしたものは、田村隆一の詩だけだった。無論一時的な感動であれば、恋も死もその他の出来事でも何度も味わったが、それらの多くは、年を経るにつれ、忘却の彼方に姿を消していった。その中で「田村隆一」の詩だけは、何年経っても絶えず、若々しく、僕の心に蘇えってくる。田村隆一の詩は、世界であり、宇宙である。

2003年10月の朝、ラッシュアワーの電車の中で、僕は田村隆一の詩を読んでいた。いや正確に云えば、田村隆一の詩を聞いていた。昨晩、僕は田村隆一の詩を朗読し、それをICレコーダーに記録し、それをイヤホンで聞けるようにしたのだった。詩は本質的にリズム的でなければならないとは、40年前に田村隆一の詩に出会ったとき感じたことであった。ラッシュアワーの電車の中で聞く、田村隆一の詩は、眼で読む世界と別の世界に思えた。彼の詩のフレーズの一つ一つが世界の一瞬、一瞬の輝きであり、75年間の田村隆一の全ての視覚映像が言葉のきらめきの中に現れてきた。「眼が肉眼になるには、50年かかる。」と田村隆一は、詠っているが、この言葉の意味が分かるのに、僕は60年かかった。

2003年11月の連休、深夜、僕等は、東海北陸自動車道を車で駆けて、白鳥ICから油坂峠を越え、九頭龍川の上流を目指した。暗闇の中を2時間走って、四方を山に囲まれた渓流の川辺に立ち、迫ってくる冷気に対抗するようにテントを張った。曇り空、漆黒の闇の中で、僕等は、流木を焚き仲間達と酒を酌み交わし、ブリューゲルの絵のように幻想的な時間を過ごした。その日、天候の回復した空には、無数の銀河を湛えた満天の星空が広がっていた。積み上げた流木が真っ赤に燃え上がり、周囲に強烈な熱を放射し始める頃、夜が明け始め、僕は2重にした寝袋の中に入り、獣のように眠りについた。

この体験のほんの一週間前、友人に誘われ、東京サントリーホールの小ホールで、チェロ奏者堤剛のコンサートを聞いていた。「四世紀にわたるチェロ音楽」と銘打った、そのコンサートは、ピアニスト野平一郎のフロデュースによる競演で、作家の中西礼の姿も見かけたこの低音を主体とした音楽会は、いつになく男性が多いとは、一緒にいった友の言葉であった。しかし、僕にとって音楽は、ひとつ秩序と快感をもたらすものであっても、視覚映像に似た世界を開示するものにはならなかった。3回ものアンコールのあった演奏会は、それ自身充実していたにも拘わらず、である。その夜、六本木の居酒屋で麦焼酎をロックで飲み、高層ビル建設によって急激に変貌する都会の小雨に震えるネオンの中を有楽町経由で家路についた。

そして、2003年11月中旬、僕は、出張で金沢にいた。打ち合わせまでの僅かな時間を使って、僕は、泉鏡花記念館を訪れた。明治半ばから創作活動を始め、大正、昭和にかけて多くの作品を残した鏡花は、エドガーアランポーと共に、僕が心惹かれる作家であった。彼の作品には、リズムがあり、それは,詩の世界に類似しているためであった。その記念館には、鏡花の作品の挿絵が展示されており、その中で、僕は恐ろしい一枚の絵をみた。それは、遠近法で描かれた浮世絵風の絵で、冬の日本橋に佇む幽霊を描いたものだった。その冬の寒寒とした風景の彼方に僕は、中学時代読んだ青春小説アランフルニエの「モーヌの大将」の最終場面を連想していた。恋求める主人公が、雪降る木枯らしの中に佇む姿を。そして、突然その場面の中で、シューベルトの歌曲「冬の旅」が思い出された。僕の青春の出発点。自分でも理解できない衝動に突き動かされていた40年前、僕の中で青春の感動がほろ苦く蘇えった。人は、それ自身が、時間旅行機(タイムマシーン)であり、宇宙船であるのかもしれない。そして、詩人「田村隆一」は、このことを知っており、その証が彼の詩ではなかったのか。金沢からの帰る途中の特急「しらさぎ」の中で僕は再び「田村隆一」を聞き、そう思った。                 以 上

詩精神の覚醒・・25歳の旅立ち

詩精神の覚醒急いで歩いてゆく街路の上に、ふと気が付くと濃紺の空が広がっていて、その深く鮮やかな光景を見つめていると、不意に突きあげてくる郷愁のために、我ながらどうしょうもなく打ち震えてしまう瞬間がある。僕自身の中の何者かが、その光景に触発され、沸騰する瞬間である。

それは、つまらぬ感傷であるかも知れない。しかしたとえそうであったとしても、僕はなおかつ、そうしたものの背後にいる何か未知なるものの存在を確信せざるを得ない。

僕の中にそうしたものがあるということ、そしてそれこそがある意味で僕の思想や行動や生活のエキスのようなものであること、そのことに気づき始めてはや一年になる。

それは始め予感としてあった。徐々に一つの終末が訪れ、何かが生まれようとしていた。

僕は、それを必死で追跡した。感情より先に、そのものの到来より先に僕は言葉でそれを捉えようとした。しかし、それは頑強に言葉を拒絶するかに見えた。それはただ予感としてあった。しかし、それは次第に姿を見せ始めた。僕の生活のほんの稀な瞬間にそれは、僕の内面の膜を激しく揺さぶり未知に向かって予告するように胎動した。そんな時、それは、僕自身の膜の薄い場所を突き破って忽然と顔を出し、僕がまだ、凝視しない内にたちまち、膜の背後に退いてしまった。

しかし、とにかく僕は、それを知り始めた。そのものの感触がまだ指先に残っている、その間に、そのものに僕は大急ぎで言葉を与えた。それはある時には、リルケの「死の核」であると思われ、またある時には、「生の原型」であり、またある時には、シューベルトの「冬の旅」であり、加藤周一の「羊の歌」の世界であると思われた。

しかし、そうした言葉は、そのものではなかった。それらは確かにそのものの一部分、一つの現れではあったのだが・・・。

けれども、そうした日常生活の偶然とも云える一つ一つの出来事や出会いや経験が、一つの終局点に向かって、ある一つの世界に向って追い込んでゆきつつあること、そのことを僕は自覚した。僕はそのものの正体が知りたかった。そのものこそ十年近くも僕が無意識の内に求め続けていたものと確信できたからである。

しかし、そのものは、なかなか正体を見せてはくれなかった。それは確かに以前より頻繁に僕の戸口のすぐ近くまで、訪れるようになっていた。しかしそれは僕が抱きしめようとすると素早く去っていった。僕自身の焦りや恋心をからかう少女の如く、それは僕の手の中からするりと逃げ去ってしまうのだ。しかし、その時の香は、確かに僕が求め続けていたものを暗示していた。

冬が訪れ、春が訪れ、僕とそのものの激しい追跡戦の日々が続いた。ある時は、ビルの谷間に、そしてある時は、群青の下の並木の道に、僕はそのものの映像を求め、見えない地図の上を探索し、進軍した。そして夏、僕の心は、疲労で憔悴し、見つめる僕の眼は、砂漠血に充血し、微かに差し伸べる僕の指先は、強烈な光の中で溺死した。僕自身の中で

一つの「死」が進行していた。思惟は、はやいたずらに感性の中で空転し、見つめる思考場の中に砂漠のような終末が広がっていた。

しかし、長い苦闘の結果、自我の膜は、今や極限まで問い詰められ、一つの薄い不透明な膜としてのみ僕の前にあった。僕は、熱つく海辺で確実に死を迎えた。僕の中の予告が終わり、倒れ伏した僕の上には、幾つもの幻影が降りそそいだ・・・。

そして長い眠りの後に、ふと気づくとそのものは、僕の周辺に漂っていた。それは、透明なままで僕の前にあった。

そのもの、それはかって誤って一人の女性の中に求めたもの、最も親しい友の中に求めたもの、学問の世界に求めたもの、そして結局は、それらの中には、見出し得なかったもの、いやそうした特定の対象の中にあると僕が錯覚したもの。

それは、求めるのではなく共有するところに初めて愛や友情が在り得るもの、始原であり、終末であるもの、僕等の生を貫いて、ずっと先まで広がっているもの。

そのものの到来によって突如として世界が変わるものではなく、そのものの到来によって孤絶するものでもなく、そのものの到来によって初めて僕自身が誕生し、僕の中にリルケの死のようなものが芽生えてくるものである。

それは、エゴイズムや自尊心が無意味になるもの、自己嫌悪の破産するもの、醜さを暖かく支えてくれるもの、対立さえも許しあうもの、悲劇さえも美しくし、悲惨にさえも栄光を与えるもの。

あらゆる理論に対して不敗であり、どんな恋人の愛よりもかるかに深いもの、田村隆一の云う

「詩人だけが発見する失われた海を貫通し、

世界の最も寒冷な空気を引き裂き、

世界の最もデリケートな艦隊を海底に沈め

我々の王と我々の感情の都市を支配するもの」

僕自身の今までの一つ一つの体験や経験が、苦しみや歓びが、悲惨や栄光が、彷徨や安住が、そして限りなく続けられる僕達の生の営みが、ある人との出会いが、その時の会話が、街角の光景が、喫茶店「ラムチー」の片隅で飲むコーヒーの胸に満ちてくるまろやかな情感が、そのものの中でその存在意義を明らかにしてくれるもの。

異なる世紀の異なる国々の一つ一つの事件の中、出会いと別離の中、無数の色彩をなす日々の労働の中、真っ暗な恋の中、悲惨な栄光の中、一つの地方のその風土文化の中、世界史の革命や反革命の中、土着したナショナリズムの中、海を越えるインターナショナリズムの中、それらを貫く全ての思想や意識の中、それら一切を貫いて、すべてを一つの流れの中に導くもの。

人々のその経験や年齢、知識や性別を乗り越えて流れるもの。人間である限り、誰もが空気のように呼吸しているもの、それは確かにそんなものである。それは、感情ではなく、ましてや理論ではなく、しかし理論を拒絶するねのでもなく、そのものの存在によって初めて理論が生命を持ちうるもの、それは確かにそんなものである。

そのもの、それは僕の自我の膜を潜り抜けた彼方に草原のように広がっていた。それは澄み切っていて透明であり、太陽のように明るくはないが、高原の夕暮れのように和やかであった。

それは、特定の言葉を拒絶し、すべての言葉を要求した。それは、固定した領土ではなく、一つの流れであり、無限に広がる大洋のようでもあった。

そのものとの出会いによって、僕は生の地平線をみた。そのものとの出会いによって、僕は都会の窓をみた。歴史のすすり泣きを人間の落ちてゆく地平をみた。幾千万の夜と幾億もの生と死を迎え入れた。そのものとの出会いによって僕は、歴史の落陽を見、欧州史の素顔をみた。愛の生まれてくるカオスを知り、不信が芽生える氷結の木枯らしを知った・

そのものとの出会いによって僕は、自我の彼方を見た。そのものとの出会いによって、僕は僕の母を生み、死は僕の生を生んだ。

それは、詩精神というものが僕の中で覚醒した瞬間であった。

(1970年 陽樹第一号「僕にとってロマンチシズムとはなにか」より)

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