我が家の霊異記―守られた家

 私は、もともとは、唯物論者で、大学では、理学部で物理学を学んだ科学的な知識を重んずる人間を自負してきた。しかし、私の11歳年上の姉は、シャーマン気質を持つ霊能者を自認しており、彼女は、その能力を歴代神社のお守りする社家と云われる家系の血に由来すると信じていたようで、祖母の姉の「くわ」と云う人もそうした能力を持っていたらしいと語ってくれたことがあった。

彼女がその能力を自覚するようになったのは、私が大学生の頃であるので、30歳前後の頃で、それは彼女が、叔母の影響で仏生護念会という法華経を奉ずる宗教団体の会員になった頃と機を一にする。

法華経は、極めて強い感化力を持つ経で、今も創価学会を中心として数多くの信者を持つ。詩人で童話作家の宮沢賢治もその一人であることは、よく知られている。この中の観音教と云われるのは、その中の観世音菩薩普門品第二十五と云われる部分で、そこでは、この観音の力を念ずれば様々な危害から逃れることが出来ると説かれている。

この観音教は、日蓮が首を切られようとしたとき刀がおれて死刑を逃れることが出来たとか、平家の武人盛久がこの教の功徳で同じく死刑を免れたと謡曲の中で語られるほど古くから有名である。姉は、とりわけ、この観音経が好きであり、死の直前まで、この経を唱えることが、日常の日課になっているほどであった。

 その姉は、ことあるごと、時には心霊写真等を見せて自分の霊的な体験を語ってくれたが、私にとっては、遠い世界の出来事としてさしたる興味の対象ではなかったが、彼女の信ずる内容を否定する気にもならず、彼女もそれ以上に自分の信仰を私に強いることはなかった。

 その姉が、私が家を新築するとき、結界を張り、危害から家を守るようにと家の敷地の四隅に、写経した経と陀羅尼を墨で書いた石を竹筒に入れて埋めることを提案してきたので、彼女と共に私も写経し、陀羅尼を記した石と共に埋めることになった。この時写経したのが、般若心経と観音経であり石に書かれたのが観音菩薩の一文字のサの梵語であった。

 この結界のせいかどうかは、分からないが、我が家の敷地にトラブルが起こるたびに結果的に相手が不幸になり、事態が収束するといったことが起こった。最初の事件は、北側の敷地境界をめぐるトラブルで、家を建てた当時、家の北側は、低地であり、その境界に杭を打って盛土したのが我が家の敷地であったが、土留めが弱く、大雨でそれが傾き始めたので地主に了解を得て、敷地境界線から4mの幅で、自費で埋め立てた。その敷地は、やがてビルの残土で残りを埋められ、そこは立派な畑となり、梅畑となった。 

 事件が起こったのは、それから数年たったころであった。隣の地主が、家の樋が敷地境界線から出ているといってきた。しかし、低地を盛土した土地で、境界線もはっきりしていないし、その後は何も言ってこないので不審に思っていたところ、地主夫婦は、二人とも脳の病で亡くなったと知らされた。

 敷地境界問題が最終的に決着をみたのは、地主の相続人が、物納のため敷地境界を確定するためあらためて測量を実施し、五人の地主が関係する杭の位置を最終的に決めて、合意したあとのことであった。

 この土地はやがて競売にかけられ、我々より10歳以上若い夫婦が持主となり、広い敷地に洋風の家を建て引っ越してきた。

 敷地境界をめぐるトラブルは、南側の敷地でも起こった。当時南側の敷地は、我が家より50cmばかり高く、その土地の土が我が家へ1m以上流れ込んできていた。再三その処理をするよう申し入れたが、埒が明かないのでとうとう自分の側で擁壁工事を行うことにした。

隣の地主は、この時、その擁壁を私の敷地内に収めるように要求してきた。この工事の途中で、この地主の家で、長男が死亡する事故が起こった。工事完了後さすがに気が引けたか、その地主は、工事の費用を半額負担するといってきた。この地主の奥さんが亡くなったのはこの事件の後1年程たった頃であった。

 さらに敷地境界をめぐる事件は続く、建設当時南側の敷地の半分は、三角形の20坪ばかりの空き地に接しており、雑草がひどいので地主にその処理をするように申し入れたが、電話口に出た地主は、そこにゆくのは大変で、対応は出来ないが、そのかわりその土地をかってに使ってもらってよいと云うので、その雑草を刈り取り、そこに新しい土と肥料を入れ、家庭菜園として使うことにした。それから15年程したある日その地主から電話がかかってきてその土地を利用するので、その使用をやめて欲しいといってきた。そして数カ月した夏の暑い日に、地主がやってきて草刈りする姿を見つけたが、その後姿を見かけないので、電話すると電話口に出た娘さんの話で、その地主が既に亡くなっていたことを知った。それは私が姿を見た数か月後のことであったと云う。

その20坪ばかりの土地が売りに出されていることを知ったのは、その数か月後のことであった。ある不動産会社が、その土地に家を建てる計画で、図面付きで広告を流したところ2400万円で購入する人間が現れたとのことで、不動産屋の女社長が挨拶にやってきて、全貌が判明した。

 その計画では、建物を敷地境界ギリギリに建て、我が家の南側の半分以上が日陰になることになっていた。色々やり取りがあったが、結果的には、敷地の原寸が狭く、南側の日陰部分は、当初計画の半分になることで、ツウバイ工法の薄幅の住宅が出来上がり、それを購入した二人の小学生の男の子を持つ夫婦が引っ越してきた。しかし2年程したある日、子供二人を連れて奥さんが突如として出て行った。離婚したとのことであった。

その後、その家には、職人の旦那が一人で住んでいたが、2年程たったある日、今度は、女の子二人をつれた太った女の人が、この家に引っ越してきた。再婚したらしい。この新しい夫婦は、やがて、家の改造をはじめ、数か月後に軒下に赤提灯が下げられた。居酒屋を始めたのである。そしてあろうことか、深夜まで、カラオケの音が、枕元に響くようになり、妻が苦情を云っても聞いてくれないと云うので、  さすがに11時以降はカラオケを中止してくれるように申し入れこの願いは聞いてくれた。

 こんな事件があって1年程経過した頃、12月の末、突如として、隣の家族が消えてしまった。そして2か月程した頃、警察官がやってきて隣の住人のことを訪ねてきた。その時初めて分かったことであったが、隣の奥さんが運転するバイクに旦那を乗せ、赤信号の交差点に突っ込み交通事故を起こしたとの話であった。前年の12月慌ただしく荷物をまとめ出て行ったとの妻の話を伝えると。旦那とは云え、赤信号で、交通事故を起こせば、本人が障害罪に問われるので、急いで姿を隠しただろうとのことであった。

 その家が、売りに出されていることを知ったのは、警官がきてから半年程たったころであった。菓子折りを携えたばあさんが、その家を買ったといって我が家にやってきた。そのばあさんは、その敷地に隣接する駐車場の地主であった。このばあさんは、この家は人に貸すつもりはないと云って去っていった。しかし、2年程して、その家を借りたと云って金髪の小柄な外人がコンビニで買ったビールと菓子を携えてやってきた。聞けばオーストラリアの出で、日本の中学校でネイティブ英語を教える教師と名乗った。この外人は、大家から、家を自由に改造してよいむと云われたといい、何かしら、家の中を改造し始めた。多分居酒屋をもとに戻す工事をしたのだろう。半年程たった頃、その彼は、小学校の高学年と思しき子供をつれた南米出(ベネゼイラと云っていた)のやせ形の女性と同棲を始めた。そしてさらに半年経った頃、家から煙が出ているので、玄関で呼び出すとその女のひとが慌てて、押し入れを開くとバックから煙が出ている。慌てて水をかけて火をけしたが、中に入っていた花火がバックを入れた衝撃で発火したのだと云う。隣の火事を未然に防いだ事件であった。まもなくこのカップルは、忽然と姿を消した。

 次の住人がやってきたのは、それから半年たった頃で、今度は、相生山住宅に住んでいる一家がやってきた。この家族は、夫婦と成人した子供数人の家族であったが、この家族が生活し始めてまもなく家のリニューアルをするので、色々迷惑をかけると云って挨拶にゆくと愛想のよい小柄の奥さんが出てきた。駐車場付にもかかわらず安いので借りたといい、安いわけには何かあるのではないかと夫婦で話あっているとのことであるので、この家の経緯をざっとはなしてやった。この一家がやってきて2年程たった頃やたらに建築屋がやってきて、壁の塗装をやり直したりしたり、我が家との境界の木造の塀が朽ちてきたりしてその補修工事を行っていたが、ある日突然この一家が引っ越していった。奥さんに訳を聴くと雨漏りがひどくどうしても直らないし、手を加えるなら値上げすると云うので、出てゆくことにしたとの話であった。

 この一家が出て行った頃、敷地境界に生えていた邪魔な立木を一本切り取ったが、それから一カ月もたたない内に、突如として菓子折りをもった建築屋がやってきた。聞けば建物を取り壊すとのことであった。彼の話では、この家を買ったばあさんは既に亡くなり、この家は、横浜に住む娘さんが相続し、その娘さんが、トラブル続きの建物の管理に困り、跡地を駐車場にしたいとのことであった。そして1か月もたたない内に建物は撤去され、そこに駐車場が出現した。この工事の時、敷地境界に設置したブロックと塀は残しておいて欲しいと申し入れ、その要求は受け入れられた。南側は、明るくなり家の環境は一新した。

 今となっては、最後に立木を切ったのが、悔やまれるが、日当たりがよくなったせいか切った立木の株から新芽が勢いよく吹き出しコロナ下でもう1mにまで育った。またかって隣に家が建つとき、やむを得ず切った夏蜜柑の木から目覚めたように新芽が伸び出した。

 以前南側の半分の敷地境界線でもめた地主が施設で亡くなり、東京在住の一人残された息子が土地を相続したと挨拶に来たのは、コロナ2年目の1月のことで、彼は、境界に生えていた雑木をすべてきり去ってくれた。

 数十年振りに我が家の周囲は、静かになった。この地に来てから45年経過を振り返ってみると、我が家に危害をもたらそうとする人々から自分が守られてきたのは、あの結界のためであったような気がするが、信ずるか信じないかはあなた次第ということで、筆をおきたい。 了                                  

                             

甲烏賊

その話しを僕は友人のMから聞いた。上野の駅から歩いて十分程の蕎麦屋での話しである。「日本人に生まれてよかったと思うことは多々あるが、蕎麦屋で酒を飲むときこそ、まさにそう感じる最高の幸せの瞬間だ。う」と書いたのは、芝浦工大教授の古川修氏であるがその楽しみを理解してくれる数少ない友人が、幼馴染のM君であった。ここ数年会っていなかったが、年明けて、彼が上京してきて、以前一度行ったことのある蕎麦屋へ行き、昼間の酒でも飲もうといことになり、蕎麦屋で、一息ついたとき、その話が出てきた。

「実は、昨年の十一月のことなのだが、本当に驚かされる経験をした。」と神妙な表情で語り始めた。彼の話は、次のようなものであった。定年後の彼は、数年前から、知人に誘われて、チヌ(黒鯛)のイカダ釣りをしている。イカダ釣りは、海の上に浮かべたイカダの上でする魚釣りであり、イカダは、五メートル四方の広さで、屋根付きで、机やトイレもある。釣り人は船宿の船頭に、朝そこまで船で送ってもらい、夕方迎えに来てもらうシステムになっている。その日も仲間と共に早朝まだ暗い五時名古屋を立ち、釣り場の志摩半島の鵜方浜についたのは、午前七時三十分過ぎであった。無論途中で、いつものように、魚のエサやコマセの団子の材料、当日一日の飲み物と食料を仕入れてのことである。11月の半ばの平日は、釣り客も少なく、自由に場所とりが出来たので、比較的風の影響の少ない場所のイカダを選び、そこに運んでもらった。その日は、中潮で、午前八時頃と午後七時頃が満潮であり、着いた直後と潮目が変る干潮の前後の午後2時頃が魚の動きが活発となる釣りのチャンスとなるはずであった。

チヌ釣りは、忍耐の要る魚釣りで、魚の活性が強いときには、エサ取りと称する本命以外の魚に妨害され、本当のチヌが釣れるチャンスは、ほんの一二度のことである。チヌ釣りでは、そのチャンスのために黙々とエサをとり代える作業続ける。チヌが本命であるが、時期により、鯵がつれたり、キスがつれたりする場合があり、その日の都合により、こうした獲物狙いに軌道修正することもある。

その日は、魚の活性が弱く、アタリも少なく午前中数匹の鯵を釣上げただけで、帰りの船が迎えにくる午後四時まで、あと一時間となった頃である。大きな曳きがあり、サオを上げるとドーンと重い手ごたえがあった。期待をもって引き上げると奇妙な形の烏賊がかかっていた。それが、甲烏賊であった。コウイカ(英: Cuttlefish、甲イカ)は(イカ、タコ、オウムガイが属する)頭足綱の、コウイカ目の海洋生物で、体内に殻(イカの骨)があり、これが甲羅のようであるため、こう呼ばれている。

甲烏賊を釣上げているとき、もう一本のサオが動いたので、近くのSさんにそのサオを上げてくれるように頼んだのだが、結果的には、隣りのサオは、甲烏賊のかかったサオと糸が絡まっていただけであった。期せずして、Sさんは、M君が釣上げた甲烏賊を目の前にみることになった。Sさんが、目の前の甲烏賊に手をかけ、つかもうとした瞬間。「ヒャー」Sさんが素っ頓狂な声を上げた。その烏賊が、シューと海水を吹き出し、それに続いて真っ黒な墨を吐いたのである。烏賊は、イカダの上に投げ出され、逃げようともがく。Mはそれを押さえ込もうとするが、ヌルヌルした体のせいでなかなか押さえ込めない。イカと格闘したのは、ほんの数秒間であったが、その間、イカは、墨を吐き続けて、イカダの上を黒く汚し続けた。

ようやく取り押さえて、網篭に入れてからもイカは墨を吐き続けていた。その後も釣りは続いたが、その後は、たいしたアタリもなく、その日の釣りは、これでほぼ終わりとなった。午後四時に迎えの船がきて、船着場について、そこで獲物を分けることになり、Mは、氷を譲ってもらって、その上にイカを乗せた。そのときイカはかなり弱っており、身動きすらしなかった。船宿で支払いを済ませて、そこを出たのは、午後五時で、既に周りは薄暗かった。それから途中に二度の休憩をして、その一つで夕食をすませ、家についたときには、午後九時を過ぎていた。

釣った獲物は、その日の内に捌いておくのが、原則であるので、台所にクーラーを持ち込み、開いてみて「あっ」と驚いた。一瞬何が起こったかわからなかった。クーラーボックスの中が、真っ黒になっていたのである。それは、膨大なイカの墨であった。甲烏賊は、クーラーボックスに入れられてから、全生命をかけて墨を吐き続けたのであった。それは、不条理な死を迎えることに対する怒りの突出であり、抗議の叫びのように思われた。しかし、既に甲イカは、冷たく硬直して完全に死んでいた。その時、死というものを肉感的に理解できた気がした。この感覚は、どこかで経験したことがある。咄嗟にそう思った。

蕎麦屋の酒では、まずは、板わさ、焼き味噌やたたき海苔などの簡単な酒の肴で、最初の一本を飲み、その後、出汁巻き玉子や天ヌキや鴨焼きなどで、もう一本の酒を飲む。最初の一本が終わり、注文した出汁巻き玉子と天ヌキが出されたのを機に二本目の銚子を注文すると彼の話しは、続いた。

それは、その年の三月末のことで、癌の末期でホスピスに入院していた舅を見舞ったときのことである。その病室で、舅が無意識に手を虚空に差し出すのを見て、一瞬彼の死に対する抗議の叫びを聞いたように思った。その舅は、その二年ほど前に、舌癌と診断されたが、それまで、病気にかかったこともなく九十年を過ごしてきた彼には、それは全く不条理に感じられることで、受け入れがたいことであった。検査入院の一週間の病院の拘束が、彼には耐え難いことであり、「こんなところにいては、病気になってしまう」といい続け、舌癌と診断されたときも、その事実は、受け入れがたいものであった。彼は、病院へ行けば、医者が簡単に直してくれるべきであると確信していて、そのような期待に答えてくれない医者にいらだっていた。いよいよ治療の話しとなり、手術か放射線治療か抗がん剤治療かの選択を迫られる事態となっても飲み薬程度で治ることを望んで、憤りを周囲にぶっつけていた。医者もそんな彼をなだめあぐねていた。

結局通院で放射線治療をおこなうことになり、自分で、汽車にのり、歩いて病院にゆき、治療を続けた。その治療も限界となり、抗癌剤や痛み止めを使用するようになっても彼の病院嫌いは止まず、入院を余儀なくされてからも、帰宅申請をして、家に帰りたがり、あるときは、無断で病院を抜け出し、大目玉をくらったこともあった。その彼が、死の半年前、最後の旅行に行きたいといい、二泊三日の北海道旅行に付き合ったことがあった。この旅行の途中、彼は、有珠山の見学で、駐車場から火口までの約1・八.キロを元気に往復したほどである。

その彼が、病院に入院するようになったのは、それから二ヶ月半ばかりたった正月早々のことである。自宅での痛み治療が限界にきたのと便秘に耐えかねてのことであった。癌の進行は、阻止できていたが、そのままの状態で、次第に体力は無くなっていった。事態が改善しないままに、病院を移るように云われ、最終的には、ホスピスに移った。癌のせいで口臭がひどくなり、便秘のため食欲はなくなったが、当初は、意識はしっかりしており、トイレも自分でゆくことが出来た。もともと耳が遠かったので、会話は不自由であったが、死の一ヶ月程前からは、しゃべることも次第に分かりづらくなった。しかし、意識は比較的はっきりしていた。寝たきりになったのは、死を前にした一週間だけであった。ホスピスに入院し死を覚悟するようになってからも、感覚的に死は、彼にとって、不条理なこと、受け入れがたいことであり、そのこと対する憤りや怒りの気持ちがあり、その感情をイカが墨を吐くように周囲に発散し続けていたように思う。

リルケは、「マルテの手記」の中で、侍従職であった祖父ブリッゲの「放埓無体に暴れまわる死」について語っているが、この甲イカの死には、それに劣らぬものを感じた。今まで何度も死に立ち会う経験をしたが、このような死は、初めて経験した。

Mは、二本目の銚子を空にしつつそう語った。僕は、クーラーボックスの中にあふれる墨と甲イカの怒りを思うと恐怖を感じた。「ところで、その甲イカをどうした。」僕はおそるおそる聞いてみた。「無論頂いたさ」Mはサラリと云ってから次のように言葉を継いだ。イカの墨の量は多く、クーラーボックスの中を何度も洗った。このイカをどうすべきか一瞬考えたが、おいしく頂くことが、イカの供養になると即座に思った。甲イカは、その日の内に刺身にしたが、さすがにその日食べるのはやめ、翌日一人で食べた。甲イカの怒りは、釣上げた自分が、その責任において受け止めるべきと思ったからだ。

蕎麦屋の酒の締めくくりは、そば切りで終わる。注文した三本目の銚子に手をつけ、注文したそば切りを食べながら、話しは、EUの金融危機などの経済社会問題へと移っていった。やがて、彼は、新幹線の発車時刻が近づいてきたといい、店を出で、上野駅で別れた。

帰りの電車の中で、僕は、目の前一杯に広がる墨の海を思った。         完  (2012年7月まきば7号より)

 

忘れえぬ人々 

 国木田独歩の作品「忘れ得ぬ人々」というのがある。これは、人生で出会った人々の内、特別に深い関係はないが、何故か印象にのこり、数十年経っても忘れられない人のことである。そして、そのとおりの人が私にもある。

   もう、40年近くも前のことである。当時私は、結婚して、神奈川県の川崎市の中原区というところに住んでおり、歩いて15分程の元住吉の駅から相互乗り入れのある東横線・地下鉄日比谷線で銀座にある勤務先に通っていた。28歳で、結婚したときそれと同時に移り住んだのは、同じく東横線の学芸大學駅から歩いて10分程のマンションであった。

  学芸大學駅は、東京都の目黒区に所属した高級住宅街を擁した駅で、そのマンションも閑静な住宅街の一 角にあり、その環境も申し分なかった。唯一の の欠点は、狭いことで、単身者を想定した1LDKであったことである。新婚当初はそれでもよかったが、子供が生まれるとその狭さは、耐え難くなり、とうとう直属の上司に願い出て、単身赴任で、大阪から移ってきた別の上司といれ替わってもらうことになった。この別の上司の住んでいたのが元住吉のマンションで、ここは、2LDKであった。通勤時間も長くなり、周囲の環境もわるくなるが、背に腹は変えられなかった。

   元住吉に引越して、間もない夏の日のことである。暑い盛の昼間の頃のことである。私は、地下鉄日比谷線に乗って家に帰る途中のことであった。今から思と普通の通勤であれば、夕方しか乗らない電車なので、休日出勤かなんかで、早く帰宅したものと思う。

  列車が、祐天寺の駅に到着したときのことである。子供連れの女性が、列車に乗り込んできた。その人は、赤ん坊を背負い、5歳ばかりの女の子の手を引いて、荷物も持っていた。赤ん坊との移動で、いつも大変な思いをしていた私は、思わず立って、席を譲った。

 彼女は、かるく会釈をして、子供と荷物をその席に乗せた。それだけのことである。

   それだけのことであれば、多分なんの記憶も残らなかったことと思う。しかし、列車が、自由が丘の駅につき、彼女が列車から降りるときのことである。出口近くに立っていた私の方をしっかりと見据えて、彼女は、僕に「今日は困っていたところを助けていただいて本当に嬉しかった。ありがとう御座いました。」とお礼をいったのである。

   そのとき、私は、初めて、彼女の顔をみたが20代後半の理知的な顔立ちの女性であった。その率直さに、私は、ドギマギするばありであったが、その時の真剣なまなざしが印象的であった。彼女達が降り、再び列車が動きはじめてからもしばらくの間、僕には、なにが起こったのかよくわからなかった。ただ、なんとなく嬉しくも恥ずかしい感覚だけが残った。

   元住吉から通勤していた同じその頃のことである。夏の夜、午後8時を過ぎた頃のことだったと思うが、銀座から地下鉄日比谷線にのり、東横線に入って間もなく、突如として、空が曇り、雨が降り出し、電車が元住吉の駅に着く頃には、本格的な雨になっていた。

   駅の改札口を出たところで、傘もなく呆然と立ち尽くしていたときのことである。突如若い男性が、声を掛けて来た。「お困りでしょう。この傘をお持ち下さい。」そう云って、雨傘を差し出してくれたのは、自分より数才若い、20台後半と見える背の高い青年であった。

   突然の申し出に私が戸惑っていると。「私は、大丈夫です。妻と一緒に帰りますから。」そう云って、彼が向けた視線の先には、小柄な若い女性が、笑顔で、こちらの方を見ていた。そのとき、その後。どんなやりとりがあったか、はっきりと覚えていないが、傘を返す必要がないと私に告げるとその若い夫婦は、寄り添って一本の傘に入り、暗闇の中へ消えていった。私は、実際に起こったことが信じられなく茫然と彼等を見送りながら、次第に心が暖かくなってゆくのを感じた。

   たったこれだけのことでる。しかし、結婚と共、移った知り合いの少ない東京で、都会というものが、自由である反面、個々人が、孤立して生きている空間として考えていた私にとって、全く見ず知らずの人達と偶然に通わしたこの二つの出来事は、衝撃的であった。

  その衝撃の意味は、今だによく分らないが、その時以来「人間もまんざら捨てたものではない。」そう思えるようになったような気がする。               完     (2010年9月まきば1号)

竹さんの奇妙な話

竹さんの奇妙な話

人は、あまり他人に話せない奇妙な体験をすることがある。これらの体験は、どんな人にもあると思うが、多くの場合、それを奇妙と感じないように知らぬふりして見過ごすか又は、あまりに奇妙なので、まじめに話すと人から笑われるので、個人の中に、秘密裡に止め置かれていることになる。六十数年生きているとこんな話は、一つや二つではない。この話も、その一つである。

「銀座の地下鉄の駅の出口についたのですが、ここからどう行けばよいのでしょう」「地下鉄の出口といっても、銀座の地下鉄の出口は、二十三箇所あるので、どこの出口かが問題です。出口を出てなにが見えるが教えてください。」これが、中途入社で、大阪の神戸支店から転勤してきた「竹さん」と私の始めての会話であった。当時私は、東京駅の東側を新橋に向かって走る外堀通り沿いの、有楽町駅とは反対側を、東側に一本入った東銀座の場末のアーニービルという古びたビルの2階の技術本部というところに勤務していた。

名古屋支店に勤務して五年目、結婚式を半年後に控えた十月頃、上司に呼ばれ、「今度本社に技術開発室というのが設けられることになった。ついては、そこに行って欲しい君が嫌でも行って欲しい。」とのことであり、有無を言わせぬ話であった。多分、入社五年目で、あまり戦力となっておらず、大卒が、珍しい時代でもあったので選ばれたのだろう。新設された、技術開発室は、室長と課長その他三名、合計五名の小規模な組織で、僕を入れてもたった六名の組織であった。その組織が、一年経って技術本部として再編・拡充されることになり、その流れで、竹さんも転勤してきたのであった。

竹さんは、商船大学で、機関科を卒業し、一等機関士として七年間も船に乗っていた異色の経歴の持ち主で、外洋勤務で、殆んどの時間を海上で過す船乗りの生活に飽き、当時の僕等の四倍もの俸給を投げ捨て、結婚を機に船を下り、中途で入社してきたとのことであった。僕より一つ年上であったが、酒好きで、気さくであり、同じ転勤続ということでたちまち仲良くなった。

竹さんは、当初から元住吉のマンションの一室の会社の借り入れ社宅に入っていた。一年程して私もこのマンションの四階に引越してからは、一階と四階とで、階は異なったが、家族ぐるみの付き合いをするようになった。竹さんは、酒がめっぽう強く、まず、酔っ払って乱れるようなことはなかった。僕らは、家が近くということで、よく酒を飲んだ。有楽町の駅の高架下の赤提灯で、いつも千円会費ということで飲んでいた。

竹さんは、普段は、穏やかに笑って皆の意見を聞くことが多く決して乱れない。しかし、時計が、午後十一時時近くなり、目が据わってくると妙に凄みのある表情になることがある。聞けば、拳法部に所属しており、後輩のトラブルに巻き込まれ、ヤクザとわたりあったこともあると話していた。その話が、まんざら嘘でもないと感じたのは、酔っ払った帰り道、なにかのついでに、コンクリートの塀を拳で打って、凹ませたのを目撃してからである。

元住吉に移って、一年経った頃、いつものように、居酒屋で、酒を飲み出したときのことである。普段、有楽町で、飲むときは、他の同僚と四~五名の場合が多いが、このときは、二人きりであった。またこの頃、酒好きの我々は、有楽町で飲み過ぎ過ぎ、タクシーで帰り、飲み代の数倍の料金を払って後で後悔した経験から、ときたま、元住吉の駅から家に帰る途中の焼鳥屋で一杯やることがあった。

この話も多分その時のことである。乾杯をして間もなく、竹さんが、何時になく真剣な眼差しで、「今まで、この話は、他の人にしたことはないが、奇妙な体験をしたことがある。これは、本当の話なんだ」と云って、次のような話をしてくれた。

彼が、後輩のトラブルに巻き込まれて、ヤクザと渡り合った結果、警察沙汰になり、休学させたれた時期、寮を離れて、ひと夏、試験勉強のため、海辺のある家の2階に下宿したとことがある。その時の話だという。

ある夜、重く寝苦しいので、ふと、目を覚まして、暗闇の中をよく見ると一人の子供が、体の上に乗っているのに気づいた。あわてて起きて、電気をつけた途端、その姿は、忽然と消えた。その時は、何かの錯覚であろうと思うことにしたが、翌日も同じことが起こった。これは、元来、亡霊や霊魂など頭から信じていない彼としては、全く理解できない出来事であった。こんな夜が二三日続いたが、気が弱いせいと思われるのがしゃくで、誰にも話せなかったという。

とうとう、彼は、これが何者なのか、はっきりさせるため、今度現れたら、捕まえようと固く決心し夜を待った。そして、その子供は、また現れた。その機会を狙っていた彼は、起きざまに、子供の足をつかもうとした。「それでどうした」と私が尋ねると、彼は、「がばっと捕まえた。」と云い。一呼吸おいて、「捕まえたのを確信して起き上がって電気をつけてみたら、捕まえたのは、自分の腕であった。」と云い、しかし、その夜以降は、その子供は、現れなくなった。

その下宿を引き払うとき、宿の人にその話をすると「やはり出たんですか。以前この浜で、溺れた男の子がいて、そのせいか、以前にもそんな話があった」とのことであった。その時、そんな話が、あれば、最初に話しをするべきだと憤激した覚えがあると話し、自分は、決して臆病な人間では、ないと思うが、どう思うかと質問された。

科学的に考えれば、寮生活という集団生活から離れた潜在的な不安感がなせるわざとも思えるが、宿の人の話との整合性がとれない。何かの現象があったことは、事実である。また、彼が、嘘を云っているとも思われない。その当時生きていた私の姉は、自分で霊媒体質だと云い、私が大学生であった頃から、自らの体験した奇妙な話をよくしてくれ、あるときには、数枚の心霊写真も見せてくれた。

当時唯物論者であった私は、自分の直接体験でないこうした話には、あまり関心がなかった。しかし、この姉が、私に嘘をいう理由もないので、多分本人が何かを体験したのは、事実であろうと思っていた。このため、竹さんの話もそれは、事実であろうとあっさり認めた。そのせいかこの話題は、その後私と竹さんとの間で、二度と話されることはなかった。それから数年して、私は、名古屋に帰り、たけさんも、生まれ故郷の熊本に帰っていった。姉以外から聞いたこの話は、深く印象に残った。竹さんとは、遠く離れているが、その後も付き合いが続いている。     完                      (2010年11月 まきば2号掲載)