日常の背後に・・・3.11を経験して・・・

 壁紙を剥がすとそこに

無表情な壁が広がっているように

日常を剥がすとそこに

不条理な世界が広がっている

われらが日々経験する

正義や感動等の彩られた風景

それらは投影された幻のような

ものにすぎないのか

 

 三月十一日

僕らは、不条理が津波となって

押し寄せてくるのを見た。

あらゆる価値を飲みこんでゆく

虚無 の波動

それは数十年に亘るオームの逃亡犯に

出頭を促すほどの衝撃でもあった。

 

 あの日僕らは

怒れる神の啓示を観たのかもしれないし、

死者達のメッセージを聞いたのかもしれない

我々は、あまりに見えるものの 世界を信じ過ぎた

 あの時以来

不条理を塗りつぶすべき

幾多の言葉やスローガンが

叫ばれたが

その言葉の隙間から

絶えず不条理の表情が覘いてくる

 僕らはもう過去の世界には戻れない

その壁を突き抜けるものはなにか

不条理を突き破るものはなにか

・・・・・・・・・・

 それは死者達の眼差

滅びることのない頂きからの言葉

薄明の彼方から眼差しこそが

不条理を消し去ってゆく

・・・・・・・・

  そうだ

僕等の祖先達が

絶えず心に抱き続け

幾百年も耐え続けた視線こそが

今の僕等に必要なものだ

 僕等は、あまりに白日に慣れ過ぎた

彩の世界に慣れ過ぎた

 僕はこれから

薄明の世界に身を置こうと思う

不条理を乗り越えるために

不条理を乗り越えるために

私の文学散歩道 ―小林秀雄のモオツァルトをめぐってー  

 小林秀雄が、モオツアルトを書いていたのは、僕が生まれる前後の出来事であったと最近知って少し驚いた。彼は1902年生まれであるので、終戦当時は、43歳になっていたはずである。しかしそんなに年上であったにもかかわらず、僕は彼がもっと若い人だと思い込んでいた。

 その理由は、彼を知ったのがランボーの詩の翻訳家としてであったせいで、その後友人との会話の中で、彼が大阪の道頓堀をうろついていた若き日に「突如としてモオツアルトのト短調シンホニイの有名なテーマが頭の中でなり、そのとき衝撃的な感動を覚え、急いで近くの百貨店でレコードを聴いたが、もはや感動は還ってこなかった」と書いているとの話が、印象に残っているためである。

 この話をしてくれた友人は、当時早稲田の仏文科の学生であり、その友人とは、高校時代一夏高蔵寺の禅寺で受験勉強のため生活を共にしたことがあった。東京在住の彼を訪ねたのは、大学生活を半ばすぎた頃であった。何かの理由で上京した僕は、約束もないまま彼が入り浸りであった荻窪駅近くのミニオンとい音楽喫茶を訪ねた。僕としては、彼の日常生活の舞台を覗いてみようという単純な動機であったが、果たして彼がそこに居たのには、驚かされた。その彼が、その頃盛んにモオツァルトの音楽を聴いており、そのことが手紙の中に書かれていた。その彼の影響もあってその頃から僕もモオツァルトの音楽を聴くようになった。

 しかし、小林秀雄についてそれほど興味があったわけではなかった。しかし、小林秀雄がト短調シンホニイの有名なテーマが頭の中でなったという異常な体験だけは、深く心に残った。この話を再び記憶の底から呼び戻したのは、全く別の僕自身の体験であった。

 1993年営業がらみで企画された「欧州における鉄道の復興と再開発」の視察団の一員として、フランス、スイス、ドイツ、イギリスの4か国を訪れる機会を得、西欧文明の中心地帯を2週間にわたり旅する機会を得た。この旅の途中でスイスのチューリッヒへ立ち寄ったとき、視察団で一緒になった東芝の和田さんという人と親しくなったが、その彼から今チューリッヒの美術館でルーベンス展をやっているので、一緒に見ないかと誘われた。

 彼はほとんどが技術屋の視察団の中での文化的な趣味が合った貴重な存在であったこともあり、喜んで行動を共にした。自由な時間は、3時間ばかりであったが、中華料理の簡単な昼食を済ませ、みやげ展でスイスのアーミイナイフを買って、1時間ばかりでルーベンスの絵を見たあと、まだ15分ばかり時間があると云い聖マリアンヌ教会シャガールのステンドグラスがあるので、それを見ようと誘われ、急いで教会の中に入った。その時素晴らしく美しいステンドグラスをみて言葉で表現しようのない感動を覚えた。その感動を忘れないようにと大急ぎで、それを写したシオリを買って帰ったが、その時の感動を思い出すことはできなかった。この時、あの小林秀雄の話を思い出した。

 僕が再び小林秀雄を読んでみようという気になったのは、たまたま古書展でフランス文学者で作家の渋澤龍彦の「悪魔のいる文学史」という本を見つけ、フランスロマン主義とシュールリアリズムの等フランス文学の中でのランボーとその後の思想的潮流の概要を知り、 ようやく、ドイツロマン主義とフランスロマン主義を含めたヨーロッパ文化の底流を統一的に理解するようになったことと関係しており、さらに、ロシアの思想家ニコライ・アレクサンドロヴッイチ・ペルジャエフが「マルクス主義と宗教」という本の中で、マルクス主義は、人間を社会的構成部品とみていて、それ自身が一つの宇宙であるとの視点に欠け、人間における精神的原理の否定、人間の人格と自由を否定すると指摘しているのに触発されたためである。

 ペルジャエフは、当初マルクス主義者であったが、後にマルクス主義が、プロレタリアートを新たな選民とする救世主願望(メシア主義)に基づく科学的装いを持つある種の宗教であることを指摘したため、ロシア革命後に国外追放にあっている。社会主義革命の成功と崩壊を思想的にまとめてみようとする過程で、ペルジャエフの指摘に刺激されてあらためて自分を振り返ってみる気になった。

 元来理系で唯物論者であった僕は、自然の内に人間を外部から見る見方にならされていて、人間を一つの宇宙としてみる発想にあまり注意を払ってこなかった。何よりも興味の対象が宇宙論等外界にあったためである。しかし、人間を一つの宇宙として考えることに焦点を当てたら何が見えてくるのか。これこそがドイツロマン主義やフランスロマン主義の思想潮流が求め続けたものではないかと思いいたったとき、その観点から小林秀雄を捉えられるのではないかと思い至り、あらためて小林秀雄の書いたものを読んでみることにした。

 今回あらためて新潮文庫の「モーツァルト・無常ということ」を読み直してみた。と云うより初めて最後まで読んでみた。彼が、ここで問題にしていたのは、二つの事である。その一つが、音楽や絵画、文学等の作品が我々に与える感動とは何かということであり、今一つは、そうした作品を生み出す天才のエネルギーの源泉・創造性の秘密についてである。この二つの問題について天才的なモーツァルトの作品と凡人モオツアルトの生活の乖離の謎を中心に自分の体験を交えて考えた芸術についての思索の覚書、これが「モーツァルト」の中身であった。

 小林秀雄が青春期を迎えた時代は、ヨーロッパの近代の科学主義・合理主義が第一次世界大戦を生み出したことにより大きく揺らぎ、その反動として非合理主義が、ダダイズム・シュールリアリズムとして新たな潮流を形成しつつある時代であった。この時代では、人間とは何かが思想上の大きな問題として問われた時代でもある。つまり人間を外部から科学的に眺めるのではなく、その内部の宇宙に分け入って理解することこれが問題であった。ランボー、ニィーチェ、ドフトエフスキー、ワーグナー、ボードレール、ゲーテ、モーツァルト、ベートーベン、モネ、ゴッボ等、この時代は、こうしたテーマをめぐる素材には、事欠かない。この課題にアクセスするために、小林秀雄は、ほとんど政治的動向には、関心がなかったようであった。戦後「賢い奴は、反省するがよい。僕は馬鹿だから反省しない」と語ったと云われているが、これは、実感であったであろう。戦前・戦後を通して思想が変わらなかった人の一人に柳宗悦がいるが、小林秀雄もそうした人間の一人である。

 戦前・戦後で自らを変えなかった男に白州次郎がいるが、その彼の息子のところへ長女明子が嫁いだのも必然性のあることであったかもしれない。ところで小林秀雄は、無神論のように見えるが、彼の奥さんは、光の家の信者であったし、彼の妹の高見沢洵子は、クリスチャンであった。もっともこれは、漫画家長谷川町子が「のらくろ」の作者である夫河水泡(本名高見澤 仲太郎)に弟子入りした関係で、その長谷川町子がクリスチャンであり、一緒に教会に通っていた影響であったらしい。

 東大の仏文科にいた頃の中原中也と小林秀雄の関係や長谷川泰子との三角関係の事を詳しく知ったのは、山口県を旅したとき、中原中也の名前を至るところで見かけたことと関係がある。2010年(平成22年)の9月初め山口大学で、空気調和・衛生工学会の大会があり、その大会に参加するため、山口市の湯田温泉に2泊した。この時、大会の合間に市内の瑠璃光寺と少し離れた長門峡でスケッチをしたが、この長門峡の橋のたもとに中原中也の詩碑が立っていた。また、この時、湯田温泉の中に中原中也記念館があったが、この時は、訪れる時間を作れなかった。この2010年には、もう一度その約二か月後10月末に湯田温泉を訪れる機会があった。大学時代の知人達と山口から津和野、萩、そして湯田温泉から厳島神社をめぐる旅に誘われ、この時、中原中也記念館を訪ねることが出来た。

 湯田温泉が戦災を免れたこともあって、生家跡に建てられ、2004年にリニューアルそれた近代的な建物には、極めて豊富な資料が展示されていた。この中で、長谷川泰子の「中原中也との愛」(角川文庫2010年1月第5版)を買い求め、旅の途中で読んだ。小林秀雄が、長谷川泰子と同棲したのは、1925年11月から1928年4月(26歳)までの在学中のことである。その直後1929年改造の評論懸賞で「様々な意匠」で第二席を取る。ちなみにこの時の一席は、宮本顕治の「敗北の文学」であったことは、有名な話である。しかし、これ以降評論家としての地位が固まりその5年後の1934年(32歳)に時森喜代美と結婚している。

 小林秀雄が、晩年ベルグソンに興味を持ち続けていたことは、有名であるが、それは多分フロイド、ユング、ヤスパース等が指摘した、自我、、超自我、エスと云う人間の無意識領域で鼓動する生命の鼓動とその稲妻のような現出であるラプトウス(夢中、熱狂、自我喪失)と人間の創造活動の関係を哲学的・科学的に明確にしたかったためではなかろうか。

 ベルグソンは、無意識の底に蠢く生命の原初的な動きとその方向を「生命のはずみ」としてとらえていたようである。小林秀雄が生きた時代は、アインシュタインの相対性理論量子力学といった古典的な世界観を破壊する物理理論や宇宙観が誕生しつつあったが、彼は、これらの動きには、全く無関心のように見える。小林秀雄と湯川秀樹との対談を読んでいて感ずるのは、人間を内部から理解しようとする文学と外部から見ようとする科学の統合の難しさである。これを乗り越えるのが、哲学であるかもしれない。

 ベルグソンは、生命とは何か、人間とは何かを理解するため絶えず先端科学の動向に目を向け、それを自らの思想や世界観に取り入れようとしていたことを考えると科学的視点無しでベルグソンを理解するには限界があるように思う。小林秀雄が晩年突き当たった壁もこんなところにあったのかもしれない。

 小林秀雄も中原中也も裕福な家庭に育ち、食うことに追われる同時代の圧倒的多数とは異なった環境下であったため、第一次世界大戦後の時代の思想的課題を敏感に感じ反応する青春を送ることが出来た。彼らの青春の問題意識は、我々の青春と重なる。しかし、決して裕福とは云えない我々が同じような青春を経験できるまでには、40年もの歳月が必要であった。

今我々は、彼らが捜し求めたものをさらに奥まで極める条件にあるかもしれない。

 小林秀雄の「モーツァルト」に導かれ、ラプトウス精神病と創造性を扱った医師で精神病理学者渡辺哲夫の「創造の星―天才の人類史」2018年講談社選書を読み、人間の合理的意識なるものは、その下に隠されている無意識の世界の超自我やさらにその奥底で蠢く生命体としての無意識の生衝動(エス)云った不合理の大海に浮かぶ小舟のようなものでしかないとあらため整理できた。渡辺哲夫は、彼の手になる関連図書「フロイドとベルグソン」の中でフロイドの云う無意識の世界とベルグソンの云う生命体の生衝動である「生命のはずみ」との関係を扱っていると思われるが、まだその書籍は手元にない。だが、このコロナ下の時間の中で、小林秀雄が僕にとってより身近で理解しやすい存在になったことは事実である。

                                   了

フランスロマン主義とシュールリアリズムーその2

3.フランスロマン主義とドイツロマン主義

3.1フランス文学運動の三つの流れ

19世紀以後のフランスの大きな文学運動は、大きく次の三つに代表される (各定義はwikipediaによる)

象徴主義(サンボリスム;フランス語: symbolisme)とは、自然主義や高踏派運動への反動として1870年頃のフランスとベルギーに起きた文学運動および芸術運動である。1886年に「象徴主義宣言」« Le Symbolism  »を発表した詩人ジャン・モレアスが、「抽象的な観念とそれを表現するべきイージュの間にこれらの詩が打ち立てようと望む類比関係を指し示そうとして」提案した。

ダダイズム(仏: Dadaïsme)は、1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動のことで、ダダイズムダダ主義あるいは単にダダとも呼ばれる。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とする・

シュールリアリズム(超現実主義) (仏: surréalisme)は、理性の支配をしりぞけ、夢や幻想など非合理な潜在意識の世界を表現することによって、人間の全的解放をめざす20世紀の芸術運動。ダダイズムを継承しつつ、フロイドの精神分析の影響下に1924年発刊されたブルトンの「シュールレアリズム宣言」に始まる。画家のダリ・キリコ・エルンスト、詩人のアラゴン・エリュアール・滝口修三らが有名。

これらの流れる背景は何であるのか、これが私の問題意識であった。澁澤龍彦のこの本は、私のこうした問題意識にピッタリと照準を合わせたような本であった。

3.2西欧思想の土壌

西欧の思想を理解するためには、その古層を見る必要があると常々考えてきた。西欧思想は、二重の支配的思想の支配とそれへの反発の歴史とみることができる。その支配的思想とはすなわちローマ時代から近代にいたるまでのキリスト教的世界観とフランス革命以降の啓蒙主義的理性主義的世界観である。その両者の共通点は、明快さと論理性〈アポロン的世界〉のように思える。

キリスト教的世界観は、ローマ時代にそれ以前にあった自然のアニミズム的世界観を征服し、それらを表の舞台から駆逐したが、そのことへの反発は、地下に潜って、錬金術等ヨーロッパ神秘主義としてヨーロッパの裏の思想の底流として生き続け、やがてそれは、古代のギリシャ思想と結びつき、ルネッサンスの人間中心思想や近代科学を誕生させることとなった。

 3.3フランス革命の衝撃とロマン主義運動

近代科学のもたらした合理的精神は、フランス革命をもたらし従来の封建的社会や意識を破壊し、やがて近代合理主義としてキリスト教世界を突き崩してゆく。

フランスを中心とする啓蒙主義は、ナポレオン戦争を通して、ドイツ、ポーランド、ロシアへと全ヨーロッパを巻き込んでゆく。一方キリスト教的世界観の弱体化は、それまで抑圧されてきた神秘主義の勃興を促すともに、啓蒙主義の限界と負の側面に光を当てる動きももたらす。特に、フランスと絶えず対峙してきたドイツにおいて、それはドイツロマン主義として開花するが、啓蒙思想の本家のフランスでは、それらは、公然たる思想的な動きとして開花することなく、社会の片隅に追いやられることになった。この動きが、フランス革命後の社会的な混乱の中で目を覚まし、文学運動として表面化してきたのが、フランス象徴詩からダダイズムそしてシュールリアリズムの流れではなかろうか。フランス革命以降のフランス社会の変動をざっと見てみると次のようになる。

1789年フランス革命の勃発とブルボン王朝の崩壊第一共和政の開始

1804年第一共和政の崩壊とナポレオンによる第一帝政の開始

1814年第一帝政の崩壊とブルボン王政の復活

1830年7月革命によるブルボン王政の崩壊とオルレアン家による7月王政の成立

1848年2月革命による7月王政の崩壊と第二共和政の成立

1851年ナポレオン三世によるクーデタによる第二共和政の崩壊と第二帝政の成立

1870年普仏戦争によるナポレオン三世の敗北と第二帝政の崩壊とバリコミューンの失敗と第三共和政の誕生

1945年第二次世界大戦の終了と第四共和政の誕生

1958年ドゴール内閣の誕生と第五共和国憲法の制定と第五共和政の発足

ロマン主義運動とはもともと、論理に対して非合理なものを、知性に対して無意識的なものを、歴史に対して神話又は伝説を、日常的なものに対してを、に対してを、それぞれ称揚する精神の運動に他ならない(澁澤龍彦)」この運動は、合理主義の代表者としてのナポレオンに対するアンチテーゼとしてドイツを中心として沸き起こってきたため、フランスではドイツの猿真似的なものでしかなかったとみなされてきたが、フランス革命以降の何度にもわたる政権交代や混乱の中で、ドイツとは別の形でその流れが形成されていったようで、それが、象徴詩運動からダダイズム、シュールリアリズムの流れの底流となっていったということらしい。

太宰治と津軽をめぐって

太宰治は、1948年6月13日に39歳で亡くなったが、今年は、それから70年経つ。今から14年程前の2004年、友人達と白神山地を訪れたとき、偶然太宰の生家を訪れたが、その感想を、「はらっぱ」という大学時代の仲間との会報に乗せたことがある。これは、その時の文章である。

7月27日、白神山地のブナ林散策の帰途、津軽半島を北上して竜飛岬に到つたが、その途中で、太宰治の記念館である斜陽館を訪ねた。先を急ぐ僕に、「ここまできたら見るものを見なくては」とのたまう女性陣に押されての訪問であったが。400坪もの太宰の生家を復元した屋敷の中を歩き、渺茫たる津軽平野をレンターカーで旅する間に、この北端の陸奥で、権力の象徴とも云える名家に多人数の兄弟の末の方の子として生まれた太宰を思って、久振りに胸の高まるのを感じた。その胸の高まりは、津軽半島を一周して青森駅に着き、青森空港から名古屋空港に到着し、家に落ち着いてから益々大きく感じられた。自分たちが旅した津軽地方とその印象が、作家太宰治(本名津島修司)の中でどのように感じられ、それが現在の自分とどのように繋がっているのか、それを確認したい要求が、ますます強くなった。

そういえば、太宰は、津軽という作品を残しているが、それは、昭和19年太宰が36歳の時、生まれ故郷の津軽を3週間がかりで旅した記録的な作品である。昭和19年は、私が生まれた年であり、それは丁度60年前のことである。記念館の中の陳列物の多くに津島美知子寄贈の札が掛っていたが、それが太宰の奥さんの名前であること作家の津島裕子が、次女の里子であることを始めて知った。一度作品「津軽」を読んで見たい。僕の中で、その気持ちが次第に押さえがたくなり、とうとう作品を手にしたのは、8月の9日久振りに出かけた栄地下の書店でのことだった。太宰の「津軽」の中には、私達が目にした北端の町々に関する記述が、その歴史と風土、それと太宰の少年期の思い出、旅で出会った知人達との会合・会話と共に示されていた。

少し自虐的でユーモアのセンスに満ちたこの作品の後には、作家亀井勝一郎が、その評の中で、これは太宰の前期と後期を繋ぐ作品で、太宰の精神が健全な時期の作品と絶賛していた。

36歳の彼の文章は、わかりやすい文体の割には難しい漢字や言葉が各所に出ており、旧制弘前高校から東大文科へ進んだ秀才の片鱗を感じさせ、彼の読書量と知識の豊かさを感じた。60歳の自分なら、彼と同じ程度の文章は書けるかも知れないが、この漢字表現には、脱帽せざるを得ない。36歳と60歳が同じ程度であるということは、つまり、彼は、いや彼も含めた、正岡子規、尾崎紅葉、国木田独歩、斉藤緑雨、長塚節、芥川龍之介など30代で亡くなった作家達は、我々より人生を6割も圧縮して生きていたのかも知れぬ。

「津軽」の中の彼の感覚や印象を自分の印象と対比させながら、僕はふとこんなことを考えていた。作品「津軽」は、彼が幼いときに育ててもらった「たけ」という乳母に出会うため北端の港町小泊を訪ねた場面で終わっている。

小泊は、豊かにカーブする日本海側の海岸線を北上した最後の港町で、この後、道は右に回り、竜飛岬まで舗装された山道が連なっていたが、無論太宰が旅した頃は、この竜飛に至る道路はなく、小泊は、北辺の行き止まりの港町であり、このことは、その後の太宰の生を象徴していた。

この繊細な少年の神経を持った作家は、これを書いてから3年後、玉川で入水自殺して亡くなる。彼が求め続けた「愛」と自分の現実との亀裂の中で生への衝動を見失ったためかも知れない。

そういえば17年前、長男・長女で結婚した古くから友人がガソリンを被って焼身自殺したことがあった。その彼は、早稲田の文学サークルに所属し、学生当時、太宰治についての一文が当時の文芸誌に掲載され、賞金を貰ったと僕に語ったことがあった。

かれが、自殺した当時、僕には彼の行動が全く内的に理解できなかった。夫婦間と親子間の愛憎の結果と理由ははっきりしていたが、高校教師で、分別も十分あったはずの彼の自殺に至るまでの絶望感がまるで想像できなかった。その思いは、いまだに変わらないが、太宰の「津軽」の中にその謎に迫る微かな足跡を見た思いがした。「津軽」を読み終えて、久振りに青春に戻った充実感があった。こんなきっかけをつくってくれたのは、Tさんの御主人の企画と無心でレンターカーを運転してくれたM君、そして、見るところは見なくてはと、強引に斜陽館見学に誘ってくれた、T、K、Eさんのおかげと感謝している。                                                                                                                                                         以 上

-震災後の思想と私- 

2011年の震災から今年で7年経とうとしている。あの直後。私は何を感じていただろうか。そのとき感じた文章を読み返してみた。震災の記憶は遠くなりつつあるが、僕のこの気持ちは、まったく変らない。

あれから一年経った。あのとき、信じられない光景を前に、この事態をどう受け止めたらよいのか必死に考えていた。「およそ観るべきものは見、聞くべきものは聞き、知るべきことは知り、味わうべきは味わった」と思いはじめたときだった。水彩画の世界が突如として水墨画の世界に変わったような衝撃であった。その衝撃の感覚は、最愛の肉親や友を亡くしたときに似て、はじめは、それほどのダメージを感じなかったが数ヶ月経つ内に、ずっしりした心の痛みとして心の底に沈殿していった。僕の中での、何かがが変化した。そうした中で、名古屋学生の会の50周記念が行われたが、心から喜べなかった。自分だけが、陰画の世界に住んでいる感覚をうまく表現できなかつた。沈黙を守る以外になかった。あの出来事を皆は、どんな風に、受け止めたのであろうか。僕の感性が異常であったのかもしれない。

原発事故で東電批判が充満しているが、直後の東電の知り合いからは、定年直前の技術者が事故の現場で、命がけで働いているとの情報も入ってきた。技術者としての自分が、あのような現場にいたら、どんな気持ちであの事故に立ち向かっているのだろうかと思うと人ごとは思えなかった。災害の真っ只中にいたとしたら自分はどうしたのだろうか、そのなかで何を考えどう行動したのだろうか。災害の中でこそ、人間のすべてが試される。あの災害に対応できる思想とは、何か。その問いかけが、頭の中を駆け巡っていた。

あの出来事で、所属しているNPOが計画していた行事がすべて影響を受けた。予定されていた国際シンポジウムは、急遽震災をどう受け止め、復興に繋げるかの緊急集会に模様替えされた。

そのとき、技術者としての僕には、技術の分野では、設計基準とは何か、安全性とは何かが問われていると思った。武谷三男の安全性の問題に対するアプローチを手掛りにこの基本概念について考えを整理して発表した。それは、これから混迷を深めると予想される科学・技術をめぐる議論に備えるためでもあった。だが、こうした僕の問題意識に、共感してくれたのは、清華大学の若き準教授のみであった。僕は、自分の感性を伝えきれない自分に苛立ちを感ずるようになっていた。

問題の本質は、自然に比しての人間のひ弱さであり、世界の不安定さと不条理であり、あまりに、無自覚にエネルギー依存している人間と文明のあり方なのだ。だが、こうした本質的な問題は、覆い隠されたまま、人々の怒りは、原発事故を起こした東電や政府の対応等目の見える事象にのみに集中しているように思える。それが私には、思想的逃避に思えてしかたがない。これは、日本人の中で、何かが滅びつつある兆候ではないのか。そう感じた。

古の日本人は、自分を偽ることなく、悲しみに直面していたように思う。定年後、ふとしたきっかけから謡曲を習うようになったのは, 謡曲を習っていた仏文科出の友人がら、「墨田川」を聞いて、「こんなすごいものがあると感動した」という話を聞いたことがあり、そうした感動に自分も接してみたいと思ったこともあった。謡い7年、舞3年と云われて、個人教授を受けるようになって数年たった頃、知り合いとなった87歳の婦人に謡曲の謡のサークルに誘われ参加するようになり、数年経った頃、「墨田川」を謡う機会に恵まれた。

そのときのことである。シテ(主人公)役のベテランの先輩の声が、物語の中心にきたとき、思わず涙声になるのを目の当たりにした。「思わず感情が昂揚してしまった」ためであった。「墨田川」は、極めてシンプルな物語で、都から人さらいにあった子供の跡を追って東国までやってきた母親が墨田川まで、やってくるとその堤に人々が集まっているのでその理由を尋ねると、そこで、法要が行われるとのこと。何の法要かと尋ねると、人商人に連れられた幼子がここで病気になり捨てられたのを近所の人が哀れに思い保護したが、介抱も空しく亡くなった。今日がその命日であり、法要はそのためだという。その幼子の名を尋ね、それがまさしく我が子であることを知って嘆き悲しむという物語である。物語は、人々の読経の声の中に我が子の声を聞くところで終わる。

この単純な物語が何故、踊や芝居の題材となり、人々の心をとらえるのか。僕は1000年も前の物語が、人を動かすことに驚いた。そこには、悲しみを人のせいにするのではなく、悲しみそのものの純粋な表出があり、それに心が感応するためと思えた。つまり悲しみそのものに感能する能力が、人間にあり、それこそが、文化や思想の根本をつくるものではないのか、そしてそれこそが日本文化の基底となっているものではないか。

1000年も前の時代、自分の力では何とも出来ない巨大な力を前に、直面した人々の体験や悲しみを乗り越えるために生み出したのが、悲しみの純粋な表出を基本とする能であり、謡いであったように思われる。非力な人々は、悲しみへの感応を通して、よみがえり、不安定で、不条理な世界に対峙していったのでは無かろうか。こうした心のあり方、悲しみに対する感能力が、近代の合理主義や豊かさの中で、減退しつつあるのではないか。「日本人の中で、何かが滅びつつある兆候」と思われる事態とは、このことと関係している気がする。

巨大な自然、不安定な自然を前にしたときの人間のひ弱さ、はかなさ、文明とは絶えざる自然との緊張関係の上にのみ成立するものであること。このことを思い知らされたのが今回の震災と原発事故であった。そして、それは、我々の住んでいる日常世界のすぐ裏に非日常の不安定で不条理な世界があることを意味し、あたかも災害が予測可能であり、人間知が全てを制御出来、世界が日常世界からのみ成り立つかの論調は、この真実から目を背けるもののように思える。

今回のような災害は、地震だけでなく、宇宙の彼方から突如として訪れる小惑星の衝突や銀河系や太陽系の非線形な挙動からも起こりうる。人類の知や現代の文明は、こうした自然の不安定な挙動に対応するに十分な力をもっているわけではない。人類は、まだ未熟であり、成長の過程にある。そしてその人類の知を育てる,には不安定で不条理な世界と絶えず対峙する緊張感が必要である。この緊張感を喪失し、安全・安心を当然のこととするところに退廃が生まれる。絶対安全を要求する反原発派も絶対安全をいう原発推進派もこの意味では、同罪である。

あの日のほんの半年前、民主党の事業仕分けで、国交省の100年に一度の洪水を対象としたスーパー堤防の工事中止に喝采を送ったマスメデヤや国民が、手のひらを返したように1000年に一度の災害に備えよと意見を変えるのを目の当たりにすると。この国の思想の退廃を思わざるを得ない。一年経った今もマスメディアヤの主要な論調や多くの国民の意識は、願いさえすれば、安全や平和は、得られて当然のこととし、その責任を科学や技術に押し付けているように思える。しかし、こうした意識に衝撃を与えたのが、今回の震災であつたはずである。

新型ウィルスに怯え、地震に怯え、放射能に怯える姿は、豆腐が健康よいと聞けば、豆腐を買いに走り、納豆が良いと聞けば、それを買いに走る浅薄なメディヤとそれに翻弄される国民の姿そのままである。1000年前の人達が、地獄と亡霊に怯えたように現在の人々は、地震と放射能に怯えている。しかし、1000年の人々が不安定で不条理な世界を直視していたのに比べて、我々はどうだろうか。まだ、平和と安全の幻想を夢見てはいないか。

我々は、もう平和な時代に戻れない。我々の住んでいる世界の本質的な不安定さ、不条理さ、不安全さへの自覚なくして、これからの世界を語ることは出来ないはずである。逃避することなく、冷静に現実に対峙し、この世界を生きるための新たな思想が求められている。それは、現代の文明を支えている宇宙論や科学・技術等の現状と限界の正しい理解の上にしかない。

挑戦を受けるSFと将来―神鯨を読んで―

今世紀に入ってからの急激な科学・技術の発展が、過去のSFの多くの前提やテーマを陳腐化させつつある中で、かたどおりのテーマや物語では、満足できなくなってきた。しかし、こうした状況の中でも、はっとさせられ、未来社会の新たな様相を垣間見せてくれる作品もある。

 古書展の三冊100円コーナーで見つけた「神鯨」という昭和53年出版のこの本は、まさしく、宝石のように輝くこうした作品の一つである。

1974年バランタイン・ブックスより刊行されたトーマス・J・バスラーの「GODWHALE;神鯨」である。著者のT・J・バスは、1931年生まれで、ベトナム戦争にも従事したことのある医大卒の病理学の科学者で、この作品は、彼が43歳の時の作品である。彼は、この作品の後、科学研究活動が忙しく、作品を発表していないようである。

神鯨の時代背景は、今から数千年後の地球、その中で生きる変貌した諸人類、及び各種サイボーグや創造生物達の物語で。その扱うテーマは、性・タブー・宗教・神話・探検・ 植民・生物学・環境・コンピユーター・サイバネテックス・技術・工芸・ロボット・アンドロイド・サイボーグ・都市・海洋等、タイムトラベル等時空を除く殆どのSFのテーマが

取り上げられている。特に訳者の日夏響が解説で述べている「人間を腐敗性物質として捉える作者の生態学的視点」が、生物としての人間を感傷なく自由に捉えてるところが、時代の制約を乗り越えるかかる作品を生み出したと思わずにいられない。

訳者日夏 響は、1942年生れで、横浜国立大学史学科を中退した女性翻訳家で、オカルト本、SF、幻想文学を翻訳した。 その翻訳の数は多くいが、その人物像は、はっきりしない。

2012年の「終末期の赤い地球」電子版には、日夏響の著作権の継承者を探している旨が、記載されているので、この頃70歳前後で亡くなっていると思われる。訳者あとがきから見識がうかがえるが、一度は話が聞きたかった人である。苗字が本名ならば、あの日夏耿之介の関係者かもしれない。

時間と風景をめぐってー日常の中の幾つもの時間と異風景との出会いー

日常の中に、幾つもの時間の流れのあることに気付いたのは、定年後の生活の中でであつた。

丁度、太平洋の中に黒潮だの親潮などのような海流が流れているように、我々の日常生活の中には、多様な時間が流れているようなのである。そして、その各々の流れの中では、日常の風景が微妙に違ってくる。我々の命は、時間と空間が密接に結びついている時空連続体の一筋の光の糸のようなものであると頭の中では、理解していたが、そのことが時間の多様な流れと多様な風景として実際に感じられるとは、思ってもみなかった。

特に、はっきりするのは、現役のサラリーマンと接するときである。定年後、現役の会社員と接するとき、彼等を取り巻く時間の早さに巻き込まれそうになる感覚が、エスカレーターに乗る時に感ずる加速度に似ている。そういえば、数年前長女の二人目の出産のとき、2ヶ月近く、我が家に滞在していた5歳の孫は、いつも有り余る時間をもてあましていた。彼女には、大人とは、全く違った時間が流れているようであった。

こんなとき、僕より10歳若い俳人 長谷川櫂の「俳句的生活」という本の中に、日本人は、文化的に三つの暦の時間を生きていると書かれてあった。

すなわち、新月を基準とする太陰暦が西暦604年中国から伝えられたが、それ以前の古代の日本は、満月を基準とする太陰暦を使用しており、明治維新の後明治5年に太陽暦が導入され、この年の12月3日を明治6年の1月1日としたときから新暦が始まった。お盆等の日本の伝統的な行事は、歴史的に仏教の導入と結びついている場合が多く新暦と旧暦の混同や混乱は、現代まで、続いている。古歌を読む場合は、この時間の違いを頭に入れ、古代の時間の流れから風景をみる必要がある。

かくてあの西行の歌ねがわくば、花の下にて我死なんもあの如月の望月の頃」の如月の望月が今の3月末であり、謡曲「竹生島」の中の「頃は弥生の半ばなれば・・」の弥生は、今の4月ということになる。日本の日常には、仏教渡来前の神道と仏教渡来後の中国文明そして明治維新後の西洋文明に代表される三つの時間が流れており、これが多様な四季の変化と相まって豊かな日本文化の土壌を形づくっている。

時間は、社会生活や文化生活の中で多様に流れているだけでなく、肉体的・精神的状況によっても異なる。かくて、幼児から少女、少女から娘、娘から妻、妻から母、母から老婆へと移ることは、均一な時間の中での変化ではなく、異なる時間の流れへの飛び移りのようなものであるのかも知れない。

平社員から主任へ、主任から課長へ、課長から部長へサラリーマンも又社会的な異なる時間の飛び移りをしているわけで、これら多様な時間には、その時間流からの風景が多様に展開していることになる。我々人間は、本質的にタイムトラベラーなのだ。人生を豊かに生きるとは、多様な時間を生きることであるのかも知れない。今日は、借りて来たCDで、アニメの「時をかける少女」を見た。このときは、確かに、50年もタイムスリップして青春の時間の中を泳いでいた。

青春都市の学友達

学友達の思い出には、幾多の謎がある、光があり、影がある

還暦を契機に回数を重ねてきた大学の同窓会

回数を重ねるごとにあの時代の輪郭が、姿を見せてくる

 

その時代は、薄明の中に浮かび上がってくる丘の上の

城壁に囲まれた中世都市のようでもあり

あるいは、砂漠の小高い丘に半ば埋もれた

古代都市の廃墟のようにも思える

 

しかし、じっと眼を凝らしてみれば

その都市は、迷路に満ち満ちており

明け方から夕方そして深夜に至るまでの

すべて風景が折り重なって

時間の中に凝縮されている

一つの宇宙コロニーのようにも思える

 

あの頃

僕らはやたらと自分の足跡だけを見つめながら

その都市の中を徘徊していた

あの都市で、僕等は、何人の仲間と出会ったのだろうか

多くの仲間達と出会ったようにも思えるし

異次元の幻影を見ただけのようにも思える

 

見知らぬ西洋の黒ずんだ街角を

幾つも曲がった先に

突如として見えた湖の湖面に

一瞬輝いた光の反射に

僕は進路を見失ってしまった

 

そのように、多くの仲間達が

迷路のような街の一角で

思わず立ち止まってしまったということだ

 

だが、その先が異なっていた

あるものは、尖塔の頂きに

天使が降臨するのを目撃したし、

あるものは、大空に巨大な風船をみた

 

あるものは、おびただしい群衆と共に

赤い旗をなびかせて街の先の砂漠に行進して

行き方知れずになってしまった

自らが、黒いマントを纏い、

軍勢の如く駆け抜けて行った者達もいた

 

路上に枯葉の舞う年の暮れ

一文無しの僕は、目的もなく街を歩き続けていた

それは僕の儀式のようなもので

その時、自分が何をしたいのか

さっぱり分らなくなっていた

 

しかし眼差しの方向は、皆異なっていて、

あるものは、町の尖塔の先を見つめていたし

あるいは街の外部へ至りそうな

微かな明かりを目指した

香に魅かれたもの、

風に魅かれたもの、

音に魅かれたもの、

 

やがて、各自が思いをさだめ始めた頃

時が引き潮のように消え去り

青春都市は、崩壊した

今、僕はその幻を遠望して砂漠の上、満天の星の下にいる

 神と神話をめぐって

もう、27年ほども前、東京に出張したとき会社のある飯田橋の本屋へぶらりとよった私は、その新刊書のコーナーで、「はじめてのインド哲学」と云う現代新書を手にして、どこか記憶の中にあるような名前に出会った。立川武蔵というその著者の略暦を確認して、数十年前のある夏の日の記憶か゛鮮やかに蘇ってきた。

それは、僕が大学2年の夏のことで、僕は、友人のKと学生会館の一角で、その立川武蔵さんと話し合っていた。大学に入学して、早くもマルキシズムの洗礼を受けていた僕は、入学して一年半の間に、はやくもいっぱしの唯物論者になっていた。高校生時代、倉田百三や西田哲学に惹かれていた僕は、大学に入ると共に、今度は、鮮やかに唯物論者に転向していた。その僕と哲学論争をしていた友人がKで、クリスチャンの家に育ったKは、聖書研究会かなんかを通じて、立川武蔵さんと知り合い、僕を引き合わせたのだった。

彼の真意がどこにあったのかは忘れてしまったが、そのときの話のテーマは、神と宗教についてであった。当時の存在や宗教を真っ向から否定する僕に、彼は、かれが問題にしているのは、神とはなにかではなく「神とは何かを問うている人間とはなにか」という問いかけこそが、哲学又は宗教の課題であるといい。「君は、反宗教的というより非宗教的な人間だね」とポツリと語った。夏の日差しの中で交わされたこの会話は、その後ずっと僕の心の奥に沈殿したままになっていた。

当時彼は、インド哲学を勉強していたといっていたが、その「はじめてのインド哲学」を中で、僕は始めて、彼があれから文学部の大学院に進み、その後アメリカのハーバード大学の大学院へ進み、そこでph.Dの資格をとり、名古屋大学の教授へ経て、国立民族学博物館の教授になっているのを知った。あのマルクス主義と唯物論の全盛時代に、彼は、インド哲学にキチンと照準を合わせ、ヨーガを実践するなど知と体験を通じての努力を続けており、その道が現在まで、続いていることを思って、僕は、目眩にも似たある種の清清しい感動を覚えた。

それは、この二十年間の僕の思索の中心テーマが、仏教や神秘主義と宗教体験をめぐる問題であったことと関係していたせいでもあった。宗教や神話と人間をめぐる問題は、マルクス主義に変わる歴史観を模索する中で、トインビーの歴史の研究を再読したり、エリアーデ等の宗教学に関する研究書を読んでゆく内に、序々に自分の中で明確な形で一つの認識を僕にもたらしつつあった。宗教とは何か、神話とはなにかそしてそれらは人間にとってどんな意味があるのかについて簡単にまとめてみたいとおもう。

人間は、世界を眺めるのに、自分なりに秩序づけて、理解しようとする。この場合、現実の世界は、何の意識もなしに眺めれば、ただ無秩序な現象の集まりにすぎないが、こうした無秩序な世界に秩序をもたらすものが、神や仏の概念であるのかも知れない。つまり

神は、遠近法で描かれた風景画の中の焦点に似ている。つまり、焦点の存在が、その風景に秩序を与え、それに美を与え、人を感動させることになる。

人間は、本質的に無秩序な世界の中にあって、その中を居心地よくするための壮大な知の仕組みをつくり上げて生きている。これらの知の仕組みの焦点となるものが神つまり普遍的な中心となる仮想の存在である。しかし、この仮想的存在は、世界に秩序を与える存在であるので、ある意味では、実在の存在でもある。社会が安定しているときこれらの観念も安定しているが、社会に変動が生ずるとこの観念にも変動が生ずる、ある局面では、観念の変動が現実の変動を誘導する。かくして、トインビーが語るように文明の衰退期には、その文明の象徴としての神の衰退をもたらし、その文明から離反する周辺から新しい価値観が生まれ、これが新たな秩序をもたらすにつれて、その価値観を担う新たな神が

新たな宗教を誕生させる。混沌がおさまり、安定期が訪れるとその秩序を象徴する価値体系が定まり、これがその文明の価値観としてひとつの知的観念体系を成長させる。

つまり、新たな文明や宗教の誕生は、風景の中に新しい焦点を設定する作業に似ている。

人間は、ある方向に行き詰まると別の方向へ歩き出そうとするが、その方向風景には、新しい焦点が必要でありその焦点を定める存在が、予言者であり、教祖であり、思想家であり、詩人であり芸術家、哲学者ではなかろうか。そして、行く手の世界が、新たな焦点

によって美しい風景画のように見え始めたとき民衆はそれらに支持を与え、新しい文明が

成長し始めることになる。                    以  上

 

 ――西行のもののあわれをめぐって――

「この文明は亡びるな・・・」今の社会に関する漠たる予感が突如言葉の形をとって脳裏に浮かんだのは、2005年11月の中国旅行で、香港島の頂から香港の夜景を見たときであった。超高層ビル群のネオンに彩られた夜景それは、莫大なエネルギー消費を伴うあまりに人工的で、きらびやかな光景であった。こうした、感想をもったのは、今回だけではなかった。

1980年代のバブルの絶頂期、土地神話と株価の高騰で、皆がばら色の未来を夢見ていた時期、古くからの友人と東京六本木の居酒屋で一杯飲んで、高層ビル群のネオンサインを眺めて帰途につきながら、「こんなこと続くはずがないね」どちらとも無く語りあったときも、同じような漠たる不安の中にあった。

市場経済化とグローバル化の流れの中で、地球が何億年もかかって蓄積してきた化石燃料の浪費を基盤とする現代文明に、未来がないことは誰の目にも明らかなはずなのに、この現実に対して、効果的な対策は何もなされていない。1974年にローマクラブが「成長の限界」を発表し、人類の危機を訴えてから事態は悪化するばかりである。

数十年先のことなど多くの人達にとっては、関係が無いことで真剣に考える人は、一万人に一人もいない。つまり、民主主義は、将来的な危機に対しては極めて応答が悪い制度といえる。亡びの兆候がはっきりとしていても、個人にこの流れを止めることは出来ない。

この感覚をどう表現するかで、悩んでいたとき、自然と脳裏に浮かんだのは、西行の次の歌であった。「こころなき身にも哀れは知られけり、鴫立つ沢の秋の夕暮れ」そしてその夜夢の中で、突如この歌の意味が、はっきりと分ったと思った。この光景は、沢に一羽立つ鴫が秋の夕暮れを見ている。このこころなき身の鴫は、西行そのものだ。この鴫は、秋の夕暮れを見ている。秋の夕暮れは、一年の終わりの夕暮れであり、これは、多分西行の目からは、貴族文化の亡びの時期で、ほんの短い自分の一生の黄昏を意味している。心を持たぬ鴫が、沢の中に一羽立って、秋の夕暮れを見つめている。あの鴫も哀れを知っている。自分も世間から離脱して一人、王朝文化の亡びの時期に、人生の終末を見つめている。この感情をものの哀れと表現した。僕には、そう思えた。

そして、僕の作った歌「雲去りてふるえる秋の夕暮れに、宵の月影みる人ぞなし」

「脳とこころ「の問題を研究している茂木健一郎「クオリヤ入門」という本を何気なく

書店で、買ったのは、彼が理学部物理科の出身でありながら小林秀雄賞を受賞したという点に興味をもったからであったが、彼に云わせると人間は皆、自分を通してしか世界を見られない。そして個々人は、孤立した存在であるが、歴史的に蓄積して来た文化や言語により自分の中に仮想の世界をつくって生きている。そしてこの言語や文化によって他者と係わるがこのことは時空を超えて他者とも係わることを意味する。このことにより、人間は、孤立しながら孤独ではない。西行の読んだ「もののあわれ」は一千年の時空を超えて僕のこころの中に伝わったといえる。