―定年後から始めた謡曲と私―

「定年後に謡曲を習い始めた」と云うと、ほとんどの人が怪訝な表情を示す。その中には、謡曲とは何かについての基本的なことが分らぬ戸惑いもあれば、いまさら謡などに興味をもつことの不可解さに対する戸惑いもある。謡曲とは、能の謡いと台詞の部分を取り出したものである。織田信長が、桶狭間の合戦に出掛けるときに、「敦盛」を謡い舞う場面があるし、結婚式には、高砂の一節が謡われる。では、僕にとっての謡曲とは何か、そこにどんな出会いがあったのか。

もう55年も前、大学1年生のとき、県女の大学祭で、初めて謡いの場面に出会った。はかま姿の女子大生が、扇を前に垂らして端正に座って集団で謡う姿にいたく心を動かされたが、これはその集団の中に高校時代の文学仲間のマドンナ的存在であったT子さんの姿があったせいかも知れない。この文学仲間は、今から思えば、僕を除き比較的恵まれた家庭の子女が多く、高校生ながらクラッシックだけでなくジャズやイタリヤの歌曲に親しみ音楽喫茶やジャズ喫茶に出入りしたりする多分に知的で大人びた個人的な繋がりの連鎖といった緩やかな関係で結ばれていた。大学入学の当初、同人誌「砂漠」を発行していた文学サークルに加わり、大江健三郎や阿部公房といった当時新進の作家についての先輩達の議論を聞きながら、村野四郎の詩人論等が掲載された同人誌に刺激を受けたりしていたが、政治の時代の潮流の中で、こうした文学的な環境から次第に遠ざかることになった。

僕が、再び謡曲と出会うには、長い政治の時代とその後の荘子や仏教、キリスト教神秘主義、トインビー等の文明論等との出会いと格闘の長い道のりが必要であった。思想として生死の問題を考える中で出会ったのが、朝日選書として出版された田代慶一郎の「謡曲を読む」の中にある「文学としての謡曲」の一文であった。謡曲をギリシャ悲劇やシェクスピアの戯曲との対比で捉えたこの一文によって、僕の中には、謡曲への憧れが一気に芽生えた。そして、ここ十数年ばかり前、狂言や能の案内のチラシの中に懐かしい大学時代の文学サークルの仲間であった狂言師の佐藤友彦の名前を見つけ、彼が狂言師の家元の生まれであったのを思い出し、能や狂言の舞台を見に行くようになってから、狂言、能、謡曲が、日常的な身近なものと感じられるようになった。

そして定年の数年前、たまたま泊めてもらった友人の家で、謡いの和紙の教本をはじめて手にとって、伝統の持つ不思議な魅力にとりつかれた。謡曲「隅田川」を聞いて涙が流れ、こんなすごいものが日本にあったかと感動したのが、謡曲を始めたきっかけであったとは、その友人の話である。

そして定年後、ある技術者の集まりで、50年近く謡曲を習って名誉師範の資格を持つ人が、先輩の跡をついで、ある謡曲の会の先生をすることになったとの話を聞いて、早速弟子入りすることにした。月2回の個人レッスンを受けるようになってはや5年目になる。謡い7年、舞3年といわれその半分の時間が過ぎた。30年以上習っている人達に囲まれてようやく10曲ばかりを習い終えた。謡曲は、全部で250曲あまりあり、この調子では、全て習うには、100年かかることになる。近頃は、月一回の謡いのサークルにも加わるようになった。練習のためのツールもテープレコーダー、ICレコーダー、ICウォークマンと進化しつつある。歴史と文化を凝縮した言葉、無駄のない台詞、七五調一句を八個拍子にはめる平のり等の日本語の特徴を生かした拍子法、喜怒哀楽の妙を表す深い音階等、洗練された文化の極としての謡曲の世界は、生者と死者の出会いの世界であり、古今東西、春夏秋冬、森羅万象の多次元の時空を超越した宇宙である。謡うことは、自らが主体となって人間世界を詩的に時空間旅行することである。今になって思えば、この日本文化の最も洗練された感性を共にする人が少ないのが残念でならない。能観賞の後で、その感想を魚に、古酒を酌み交わし、人生と生死をしみじみ語り合えるならそれに勝る楽しみはない。同好の士よ、来たれ。

甲烏賊

その話しを僕は友人のMから聞いた。上野の駅から歩いて十分程の蕎麦屋での話しである。「日本人に生まれてよかったと思うことは多々あるが、蕎麦屋で酒を飲むときこそ、まさにそう感じる最高の幸せの瞬間だ。う」と書いたのは、芝浦工大教授の古川修氏であるがその楽しみを理解してくれる数少ない友人が、幼馴染のM君であった。ここ数年会っていなかったが、年明けて、彼が上京してきて、以前一度行ったことのある蕎麦屋へ行き、昼間の酒でも飲もうといことになり、蕎麦屋で、一息ついたとき、その話が出てきた。

「実は、昨年の十一月のことなのだが、本当に驚かされる経験をした。」と神妙な表情で語り始めた。彼の話は、次のようなものであった。定年後の彼は、数年前から、知人に誘われて、チヌ(黒鯛)のイカダ釣りをしている。イカダ釣りは、海の上に浮かべたイカダの上でする魚釣りであり、イカダは、五メートル四方の広さで、屋根付きで、机やトイレもある。釣り人は船宿の船頭に、朝そこまで船で送ってもらい、夕方迎えに来てもらうシステムになっている。その日も仲間と共に早朝まだ暗い五時名古屋を立ち、釣り場の志摩半島の鵜方浜についたのは、午前七時三十分過ぎであった。無論途中で、いつものように、魚のエサやコマセの団子の材料、当日一日の飲み物と食料を仕入れてのことである。11月の半ばの平日は、釣り客も少なく、自由に場所とりが出来たので、比較的風の影響の少ない場所のイカダを選び、そこに運んでもらった。その日は、中潮で、午前八時頃と午後七時頃が満潮であり、着いた直後と潮目が変る干潮の前後の午後2時頃が魚の動きが活発となる釣りのチャンスとなるはずであった。

チヌ釣りは、忍耐の要る魚釣りで、魚の活性が強いときには、エサ取りと称する本命以外の魚に妨害され、本当のチヌが釣れるチャンスは、ほんの一二度のことである。チヌ釣りでは、そのチャンスのために黙々とエサをとり代える作業続ける。チヌが本命であるが、時期により、鯵がつれたり、キスがつれたりする場合があり、その日の都合により、こうした獲物狙いに軌道修正することもある。

その日は、魚の活性が弱く、アタリも少なく午前中数匹の鯵を釣上げただけで、帰りの船が迎えにくる午後四時まで、あと一時間となった頃である。大きな曳きがあり、サオを上げるとドーンと重い手ごたえがあった。期待をもって引き上げると奇妙な形の烏賊がかかっていた。それが、甲烏賊であった。コウイカ(英: Cuttlefish、甲イカ)は(イカ、タコ、オウムガイが属する)頭足綱の、コウイカ目の海洋生物で、体内に殻(イカの骨)があり、これが甲羅のようであるため、こう呼ばれている。

甲烏賊を釣上げているとき、もう一本のサオが動いたので、近くのSさんにそのサオを上げてくれるように頼んだのだが、結果的には、隣りのサオは、甲烏賊のかかったサオと糸が絡まっていただけであった。期せずして、Sさんは、M君が釣上げた甲烏賊を目の前にみることになった。Sさんが、目の前の甲烏賊に手をかけ、つかもうとした瞬間。「ヒャー」Sさんが素っ頓狂な声を上げた。その烏賊が、シューと海水を吹き出し、それに続いて真っ黒な墨を吐いたのである。烏賊は、イカダの上に投げ出され、逃げようともがく。Mはそれを押さえ込もうとするが、ヌルヌルした体のせいでなかなか押さえ込めない。イカと格闘したのは、ほんの数秒間であったが、その間、イカは、墨を吐き続けて、イカダの上を黒く汚し続けた。

ようやく取り押さえて、網篭に入れてからもイカは墨を吐き続けていた。その後も釣りは続いたが、その後は、たいしたアタリもなく、その日の釣りは、これでほぼ終わりとなった。午後四時に迎えの船がきて、船着場について、そこで獲物を分けることになり、Mは、氷を譲ってもらって、その上にイカを乗せた。そのときイカはかなり弱っており、身動きすらしなかった。船宿で支払いを済ませて、そこを出たのは、午後五時で、既に周りは薄暗かった。それから途中に二度の休憩をして、その一つで夕食をすませ、家についたときには、午後九時を過ぎていた。

釣った獲物は、その日の内に捌いておくのが、原則であるので、台所にクーラーを持ち込み、開いてみて「あっ」と驚いた。一瞬何が起こったかわからなかった。クーラーボックスの中が、真っ黒になっていたのである。それは、膨大なイカの墨であった。甲烏賊は、クーラーボックスに入れられてから、全生命をかけて墨を吐き続けたのであった。それは、不条理な死を迎えることに対する怒りの突出であり、抗議の叫びのように思われた。しかし、既に甲イカは、冷たく硬直して完全に死んでいた。その時、死というものを肉感的に理解できた気がした。この感覚は、どこかで経験したことがある。咄嗟にそう思った。

蕎麦屋の酒では、まずは、板わさ、焼き味噌やたたき海苔などの簡単な酒の肴で、最初の一本を飲み、その後、出汁巻き玉子や天ヌキや鴨焼きなどで、もう一本の酒を飲む。最初の一本が終わり、注文した出汁巻き玉子と天ヌキが出されたのを機に二本目の銚子を注文すると彼の話しは、続いた。

それは、その年の三月末のことで、癌の末期でホスピスに入院していた舅を見舞ったときのことである。その病室で、舅が無意識に手を虚空に差し出すのを見て、一瞬彼の死に対する抗議の叫びを聞いたように思った。その舅は、その二年ほど前に、舌癌と診断されたが、それまで、病気にかかったこともなく九十年を過ごしてきた彼には、それは全く不条理に感じられることで、受け入れがたいことであった。検査入院の一週間の病院の拘束が、彼には耐え難いことであり、「こんなところにいては、病気になってしまう」といい続け、舌癌と診断されたときも、その事実は、受け入れがたいものであった。彼は、病院へ行けば、医者が簡単に直してくれるべきであると確信していて、そのような期待に答えてくれない医者にいらだっていた。いよいよ治療の話しとなり、手術か放射線治療か抗がん剤治療かの選択を迫られる事態となっても飲み薬程度で治ることを望んで、憤りを周囲にぶっつけていた。医者もそんな彼をなだめあぐねていた。

結局通院で放射線治療をおこなうことになり、自分で、汽車にのり、歩いて病院にゆき、治療を続けた。その治療も限界となり、抗癌剤や痛み止めを使用するようになっても彼の病院嫌いは止まず、入院を余儀なくされてからも、帰宅申請をして、家に帰りたがり、あるときは、無断で病院を抜け出し、大目玉をくらったこともあった。その彼が、死の半年前、最後の旅行に行きたいといい、二泊三日の北海道旅行に付き合ったことがあった。この旅行の途中、彼は、有珠山の見学で、駐車場から火口までの約1・八.キロを元気に往復したほどである。

その彼が、病院に入院するようになったのは、それから二ヶ月半ばかりたった正月早々のことである。自宅での痛み治療が限界にきたのと便秘に耐えかねてのことであった。癌の進行は、阻止できていたが、そのままの状態で、次第に体力は無くなっていった。事態が改善しないままに、病院を移るように云われ、最終的には、ホスピスに移った。癌のせいで口臭がひどくなり、便秘のため食欲はなくなったが、当初は、意識はしっかりしており、トイレも自分でゆくことが出来た。もともと耳が遠かったので、会話は不自由であったが、死の一ヶ月程前からは、しゃべることも次第に分かりづらくなった。しかし、意識は比較的はっきりしていた。寝たきりになったのは、死を前にした一週間だけであった。ホスピスに入院し死を覚悟するようになってからも、感覚的に死は、彼にとって、不条理なこと、受け入れがたいことであり、そのこと対する憤りや怒りの気持ちがあり、その感情をイカが墨を吐くように周囲に発散し続けていたように思う。

リルケは、「マルテの手記」の中で、侍従職であった祖父ブリッゲの「放埓無体に暴れまわる死」について語っているが、この甲イカの死には、それに劣らぬものを感じた。今まで何度も死に立ち会う経験をしたが、このような死は、初めて経験した。

Mは、二本目の銚子を空にしつつそう語った。僕は、クーラーボックスの中にあふれる墨と甲イカの怒りを思うと恐怖を感じた。「ところで、その甲イカをどうした。」僕はおそるおそる聞いてみた。「無論頂いたさ」Mはサラリと云ってから次のように言葉を継いだ。イカの墨の量は多く、クーラーボックスの中を何度も洗った。このイカをどうすべきか一瞬考えたが、おいしく頂くことが、イカの供養になると即座に思った。甲イカは、その日の内に刺身にしたが、さすがにその日食べるのはやめ、翌日一人で食べた。甲イカの怒りは、釣上げた自分が、その責任において受け止めるべきと思ったからだ。

蕎麦屋の酒の締めくくりは、そば切りで終わる。注文した三本目の銚子に手をつけ、注文したそば切りを食べながら、話しは、EUの金融危機などの経済社会問題へと移っていった。やがて、彼は、新幹線の発車時刻が近づいてきたといい、店を出で、上野駅で別れた。

帰りの電車の中で、僕は、目の前一杯に広がる墨の海を思った。         完  (2012年7月まきば7号より)

 

生の源流をたどって―追憶と姉―

追憶とは、過去の出来事を思い出すことであるが、人は、自分の記憶をどこまで、辿ることが出来るのか。

二年程前、中学の同級生と六十年前に住んでいた田舎の家の跡を尋ねたことがある。かつて自分が住んでいた家と周囲の風景、それをもう一度目にしたかったためであるが、その期待は、完全に裏切られてしまった。家が跡形も無くなっているばかりか地形も木々もまるで異なってしまっていた。目を瞑れば、すぐに思い出す竹薮や柿の木や小道や池までもが無くなっていて当時の面影を残すものは、何も無くなっていた。近くで畑仕事をしている老婦人と話して分かったことは、彼女が、小学校の同級生の兄嫁で、私が小学校に上がったとき、隣家へ嫁にきた人だったということである。今や自分の生い立ちに係わるものは、自分の記憶の中にしか存在しないことを痛切に感じた瞬間であった。

人は、自分がこの世に生きていることを、何時から覚えているのだろうか。女二人、男三人の末っ子として生まれた私の生の初期の記憶は、二人の姉と密接に関連している。生まれて最初の記憶は、下の姉に背負われていた。八歳年上のこの姉は、私をおぶって、家から五十メートル程離れた当時「とらさん」と呼ばれていた人の屋敷の北西の角にある溜め池の横の三叉路で友達と立ち話をしていた。延々と続くおしゃべりが、内容の理解できない私には、たまらなく退屈で、背中で、暴れていた。下の姉が、小学校の五、六年生の頃であるので、私の二,三歳の頃、多分、昭和二十年か二十一年の冬のことである。

次の記憶では、私は、自転車の荷台に摑まって上の姉と林の中を走っていた。風は暖かく、さわやかであり、五月頃と思われる。十二歳年上の姉は、数人の仲間と共にどこかへ行こうとしていた。微かに歌声も聞こえていたような気がする。戦時中、愛知時計の工場が、疎開して近くにあったと聞かされたことがあり、上の姉も一時、そこに通ったことがあるらしい。これは、その当時の記憶で、多分私の三歳頃のことである。

名古屋の港区に住んでいた私の一家は、終戦の年、先祖代々住んでいた春日井の山里に親戚を頼って疎開してきた。六畳と八畳の二間の家に、祖母と母と叔母と子供三人の六人が住んでいた。父は、名古屋の家に残っており、上の姉もここに残っていたためである。私の中には、父の記憶は無い。終戦の少し前、名古屋で病死したためである。四十九歳であった。

疎開して住んだ家は、遠縁の家の馬小屋を改造した建物で、その八畳間の部屋には、天井がなく梁がむき出しになっていた。あるとき、数人の人が現れ、家の横にトタン葺きの建物を増築してくれ、そこに、お勝手場と風呂桶がすえつけられた。勝手場と風呂桶は、立派な食器棚で区切られたが、その食器棚は、名古屋から運んでいたものだった。その食器棚の引き出しの中には、ナイフやフォークやスプーン等料理屋であった名古屋の家の名残が詰まっていた。少し高台にあったその家には、水が無かったため五十メートル程離れた家の湧き水をもらっていた。風呂に入るためには、五十メートル離れたところからバケツで、何回も水を運んでくる必要があった。一、二年した頃、井戸堀の人が二人で現れ家の前に、井戸を掘った。七、八メートルで、水が出て、手押しの水汲みポンプが取り付けられた。水運搬の労働から解放された瞬間であった。

勝手場と反対側には、間口半間程の物置場があったが、その外側に、同じ幅でトタン葺きの鶏小屋も造られた。明治二十三年生まれの祖母は、代々神社の世話をしている神道の家柄の出で、当時珍しく、女子で尋常小学校を卒業しており、読み書きもできる気位の高い人であった。この祖母が、実家に預けてあった畑を返してもらい、そこで農業を始めた。また、家の横の空き地を耕して野菜畑とした。鶏小屋で、鶏を飼い始めたのも祖母であった。

この祖母の引くリヤカーに乗せられて今は、造形大学の敷地となっているこの畑へ出掛け、幼い私は、祖母の働く姿を畑の傍らで眺めていた。母は、父に代わって現金収入を得るために、手袋を編みの内職など様々な仕事をしていて、幼い私には、遠い存在であった。こういったことは、すべて小学校に上がる前の出来事で、家の改造や増築に手を貸してくれたのは、隣村に住む祖母の姉の連れ合いの友平さんだった。

小学校は、部落の中に分校があり、一、二年生までは、この分校で、三年生になると歩いて三十分程かかる岡の上の本校に通うことになっていた。入学式は分校で行われ、祖母が付き添ってくれた。その日の身体検査で、虫歯の無い子が十名おり、その子達が、黒板に10と書いた。私もその一人であった。二年生の学芸会の時の私の台詞は、「今年は、昭和二十七年、いよいよ日本独立の年」というものであった。

中学校は、小学校の本校の隣りにあった。本校に通うようになって間もなくのことである。中学校の学芸会を見学することがあった。何故か、下の姉が、私のところに来て、会場の講堂に案内してくれた。その時演じられたのは、「修善寺物語」の一節で、伊豆に流された源頼家に面の制作を依頼された能面師とその娘の物語で、その能面師が、何度面を打っても、そこに死相が出てしまうため、面を届けることが出来ない。それを責められる父親を見かねて、娘が代わって許しを請う。「お待ち下さい。面は、確かに出来ております。」この娘の役を姉が演じていた。何故か、この場面が、絵画の映像のように記憶に残っている。高校生まで、私の身近にいたのは下の姉であった。上の姉を身近に感ずるようになるのは、私が大学生になってからのことである。

その二人の姉は、もう居ない。下の姉は、母と祖母が亡くなってまもなく、五十三歳で亡くなり、上の姉も私の定年前、六十九歳で亡くなった。しかし、この二人が、私の生の原点とも云える記憶に繋がっているせいか、今でも身近に気配を感ずることがある。

定年の二年程前、東京で単身赴任で働いていた頃、全社的なプロジェクトの責任者をやり、心身共に疲れ、風邪で、一人社宅で寝込んでいたとき、突如二人のことが思い出され、背中を誰かに暖かく支えられている感覚を持ったことがあり、その後、急速に元気になったことがあった。 その時、私は、二人から見守られているかも知れないと、ふと思った。いつか二人の絵を描いてみよう。そしてその眼差しの彼方に、自分の生の源流を描きたい。そう思うようになった。彼女達の最も輝いていた時期を描こうとしたその絵はなかなか完成しなかった。次女がようやく子供を授かってお産ののために帰ってきたとき、二人の姉に安産の願いを託して、その絵を描きあげた。描き始めて7年が経過していた。しかし、この絵は多分これで完成したのではないのかも知れない。自分の生の源流を見つめる作業に終わりがないようにつ。            完

一枚の挿絵に導かれて ―泉鏡花と日本橋― 

もう二十数年も前のことになる。その当持勤めていた会社の北陸支店の近くに飯泉鏡花記念館があることに気がついて、立ち寄ったことがあった。その記念館は、金沢市尾張町にあり、付近には、粋な町並の御茶屋街がある。御茶屋は、芸者遊びして酒を飲む場所であるが、そこへ行ったのは、一度だけで、しかもそのときは、年配の中居さんのお酌で鍋を突いて、酒を飲んだだけなので、詳しく知らない。ただ、天井の低い和室は、何か一つの小宇宙のような趣があり、応時の雰囲気だけは感ずることができた。そんな街の一角に記念館があることを知ったのは、鏡花の小説を読み初めて、彼が金沢出身と知ってからである。

その記念館は、和風の二階屋で、その一階部分が、展示室となっており、鏡花が描いた女性「美しい人」や、「美しい本である鏡花本の装丁をテーマとした第一展示場と鏡花の創作活動やゆかりの品々を紹介した第二展示場と特定のテーマによる企画展を行う第三展示場などから構成されている小規模な家庭的ともいえる施設であった。

鏡花は、本の装丁に凝っていて、かれの小説の挿絵には、鏑木清方,小村雪岱、鰭崎英朋、鈴木華邨等10名以上が関係していが、この第一展示場で僕は、鏡花の本の様々な挿絵を見ることができた。

そこで、僕は一枚の挿絵を目にした。一見何気ない風景を描いたものであるが、何か奇妙な印象を受け、ひきつけられるものがあった。それは透視図法で描かれた冬の雪降る街の風景画で、遠景には、1人の女が描かれていた。ただその女は、背中を見せており、直接その表情は見えない。町並みを描いているが、その女を除いて周囲に人の気配はない。ただ深々と雪がふるばかりである。その絵の題名は、「日本橋に出る女の幽霊」で、鏡花の小説「日本橋」の挿絵として小村雪岱により描かれたものである。泉鏡花の作品の熱心な愛読者であった小村雪岱は、27歳のとき「日本橋」で、始めて泉鏡花の小説の装丁を手がけたが、これはその時の作品である。

第一展示場で、思わずその絵に惹きつけられた僕は、館内を一通り回ってから、また気になって再度その絵を眺めた。その絵を見て突如連想したのは、中学時代に読んだ青春小説「モーヌの大将」の寒空のパリで、人を探して佇むモーヌと街中を徘徊する狂女の世界であった。だが、そうした印象が、どこからくるのか、僕には、分からないまま、記念館を後にした。小村雪岱に「日本橋に出る女の幽霊」を描かすことになった「日本橋」とは

どんな作品なのか。そして「日本橋に出る女の幽霊」とは何か。僕は何故、あの絵に惹かれたのか、それらの疑問は、長い間僕の中で、沈殿したままであった。これ等のことを、全く忘れていたのではない。本屋へ立ち寄るたびに、僕は、無意識に小説「日本橋」を探していたし、泉鏡花の挿絵集が出版されていないかと探し回っていた。その証拠に泉鏡花の単行本や紹介本全集等を買ってきては、その幾つかを手にするようになった。しかし、

泉鏡花の文章は、視覚的な漢字が多い独特な文体で、その読書は、遅々として進まなかった。

泉鏡花の小説の真骨頂とも云える作品は、幻想譚の幻想と怪奇の物語であり、その世界の面白さに関心が集中するなか、その単行本が出版されたのは、1953年のことで、これは久しく絶版となっていたこともあり、小説「日本橋」は、僕の中から忘れられていた。その復刻版が、2010年の春出版され、それを書店の店頭で見つけ、沈殿していた疑問が再び

蘇えり、一気に読むことになった。日本橋は、泉鏡花晩年の作品で、怪奇小説ではなく

日本橋に住む芸姑と客をめぐる愛憎の物語であり、詩人の佐藤春夫は、その解説の中で、「日本橋は、教防日本橋の美的詩誌であると同時に鏡花の恋愛論乃至愛情一般についてのお談義である。」と述べている。僕はこの小説を何度も読み直し、あの「日本橋に出る女の幽霊」の場面がどこであるのかを捜し求めた。しかし、物語の本筋の中に、幽霊は現れてこない。

幽霊の話しは、物語の舞台の背景となる風景の中にでてくる。「~露地の細路駒下駄で~」の唄に示される場所、露地の細路で、寒空の夜に、そこで不幸な死に方をした芸姑の幽霊があるく駒下駄の響きがする、この風景を描いたのではないかというのが、僕の推測である。

しかし、十数年、僕はどうしてあの絵に引かれたのであろうか、泉鏡花の作品は、怪奇幻想譚が多いが、そこでは、日常と非日常が、紙一重に連なっている。日常の明るい日差しが、一転すると闇の世界につながっている。それが、性の不思議さでもあるし、この世の面白さでもある。全くの異界ではなく、日常の一部にふと顔を出す異界の兆し、それは異界への入り口乃至異界と現世の境界に出来た隙間、僕は、ここに惹かれたかも知れない。全たき異界の絵ではなく、普通の風景である日本橋、人通りが多ければ、現世そのものである風景に、ただ1人の女を描くことによってそこに非日常の感じを表現する。僕が感じた奇妙な感覚は、今では、この絵によって描かれた日常と非日常の境界つまり異界への入り口によって引き起こされたもののように思える。        完

 

姉と友人の死の前後

もう15年も前のことである。当時私は。単身赴任で東京で働いていた。単身赴任2年目の11月、姉が心不全で入院との連絡を受け、港区の協立病院を訪れたのが今さらのように思い出される。

看護をしていた養女のN子の話では、則雄はどうしたとさかんに私の名前を呼んでいたとのことで、私が東京から来たことを告げると何か納得し落ち着いた様子を見せるのであった。

付き添いしていれる義兄の話によると心不全の原因は血管の部分閉塞であり、その手術中に血管の破片が飛んで、脳系統の血管に入り込み、それが原因となり、脳梗塞を患っているとのことであった。

僕と面と向かっているときは、別に以前と大きな変化はないように見えたが、付き添いの人たちの意見を聞くと、意識の明暗の変化がかなり激しく、意識が明確なときは普段と変わらないが、意識が混濁してくると感情や欲望が丸出しになるらしく点滴もそのときにははずしたりするので、目が離せないとのことであった。

しかし、入院してまもなく病状が安定したということで、翌2月には退院して自宅療養をすることになり、少しはよくなるのかと期待をもつようになった。自宅療養するようになってから、自宅へ電話を入れるとかなりはっきりした反応であったので安心して見舞いにゆくと、以前と変わらぬように接してくれるので、快方に向かっていると思っていると付き添いの養女や義兄からは実は夜が目が離せないので大変との話であった。

4月に会社の人事異動と組織変更がありこの対応に追われて、2ケ月ぶりに姉を見舞ったのは、5月の初めであった。相変らずやさしく出迎えてくれたが、何か様子がおかしいので尋ねると昨夜誤って乾燥剤を口に入れ、それを除去するため、水でうがいをしたがこれが悪く、化学反応で発熱し、口の中を火傷したとのことであった。

しかし、痛みは多少和らいできたと見え、お経を上げたいということで、仏壇の前に座らせるとまもなくお経を始めた。しかし、どうも以前と様子が違うので横で見ているとまもなく彼女の目は、文字面を必死に追っているがもはや文字は意味のあるものとして理解できていない様子であった。

経文が途切れ途切れとなるので、一緒にお経を上げることになったが、彼女の読経は、もはや経文を読んでいるのではなく、自分の記憶の彼方から経文の断片を引き出してくるのがやっとの状態であることがハッキリとしてきた。

あれほどお経を上げることが好きであった姉が、その好きなお経も満足に上げられなくなっている。もはや彼女の意識は、別の世界に行ってしまっている。この事実を目の前にして思わず涙がこみ上げてきたが隣には、義兄がおり、大の大人が泣くこともままならず、嗚咽を押さえるように姉と観音経の数節を読み上げた。

僕の中からあの心強かった姉が明らかに遠くへ去っていったとの思いが不意に沸き起こってきて止めどもなく涙が流れる思いがした。お経を共に上げた後、姉は少し、恥ずかしげに僕に向かって「ありがとう」といったが、これが僕との別れであることがなんとなく感じられた。僕にとって姉が遠くに去っていったとの思いを強くした翌日僕は東京に帰った。

そして、6月1日(土)外出から帰ると留守電が入っていた。相手は、大学の同窓のS君弁護士の斎藤君の死を知らせる電話であった。彼は、5月26日に死去し既に密葬は終わっているとの話でお別れ会を6月の終わりに計画しているとの話であった。

ちょうど一年程前、理学部の同窓会の席上で、高校の先生をしているSM君から話を聞き半信半疑でメールで問い合わせたら、実は一昨年の12月に胃がんが見つかり、手術で胃を全摘出し、その後一時持ちなおしたが、又再発し、現在は抗癌剤をうちつつ仕事をしているが、まだ多少酒も飲めるので今のうちに一度会いたいとのことであった。

一人で会うには、気後れしたので、TY、SS,TKの三人を誘って斎藤と会い、食事をし、クラブで青春時代の歌を唄った。斎藤とは、その後、浜松の観山寺温泉での同窓会、大学時代のサークルの同窓会と2回に渡って話をする機会があり、それなりに出来ることはやったので悔いはないが心の味方の一人が無くなったとの思いが次第に気持ちを重くしていた。

その一週間後の6月7日(金)名古屋に帰った。再度入院したとの連絡を受け、姉の病状が心配であり、見舞いが必要であると感じたためである。翌日病院につくと姪達が付き添っていた。姉の意識は、ほとんどなく、容態はかなり悪そうであった。昨日の夜の12時頃容態が急に悪くなったが、今は持ち直して安定しているとのことであった。看護を続けていた姪達の疲労の色も濃くなっていたので、その日は、夕方近くまで付き添った。まだ命はあるそんな感じがしていた。

月曜日早朝の「のぞみ」で上京して、出社した。出社してまもなく自宅から電話が入った。すぐに姉の死の連絡と直感した。僕は、翌日からの予定をキャンセルしすぐ名古屋へ引き返した。

11日お通夜、12日葬儀と慌しい時間があっという間にすぎた。13日の名古屋での会議に出席したものの翌日は休暇をとり、7の2回目の法要を終えて、日曜日に東京へ戻った。

斉藤君のお別れ会は、6月27日にあったがどうしても出席できなかった。仕事の遅れもあったが、何より行動する気力が衰えていた。彼を悼むメッセージを送って気持ちの整理をするのが精一杯であった。

体に異変を感じたのは、その後からであった。水晶体出血で眼科にゆき、皮膚の発疹で皮膚科にゆき、そしてひどい風邪で内科にかかった。自分の生命力の衰えを感じさせられる出来事であった。二人の死によって自分の命を支えてくれていた力がなくなったせいかも知れない。人は、皆無数の人の命によって支えられており、その支えの力が弱まったときが「死」を迎えるときかもしれない。そんな考えが脳裏を横切った。7月末、姉の49日の法要があり、僕の体を気遣った姪の一人が「おじさん、体を大事にしてね」と声をかけてくれた。見えない力がそっと自分を支えてくれているのを感じた。  完

京浜東北線の中で「田村隆一」を読む   ―青春の感動をめぐってー   

60年生きてきて、本当に魂を突き動かしたものは、田村隆一の詩だけだった。無論一時的な感動であれば、恋も死もその他の出来事でも何度も味わったが、それらの多くは、年を経るにつれ、忘却の彼方に姿を消していった。その中で「田村隆一」の詩だけは、何年経っても絶えず、若々しく、僕の心に蘇えってくる。田村隆一の詩は、世界であり、宇宙である。

2003年10月の朝、ラッシュアワーの電車の中で、僕は田村隆一の詩を読んでいた。いや正確に云えば、田村隆一の詩を聞いていた。昨晩、僕は田村隆一の詩を朗読し、それをICレコーダーに記録し、それをイヤホンで聞けるようにしたのだった。詩は本質的にリズム的でなければならないとは、40年前に田村隆一の詩に出会ったとき感じたことであった。ラッシュアワーの電車の中で聞く、田村隆一の詩は、眼で読む世界と別の世界に思えた。彼の詩のフレーズの一つ一つが世界の一瞬、一瞬の輝きであり、75年間の田村隆一の全ての視覚映像が言葉のきらめきの中に現れてきた。「眼が肉眼になるには、50年かかる。」と田村隆一は、詠っているが、この言葉の意味が分かるのに、僕は60年かかった。

2003年11月の連休、深夜、僕等は、東海北陸自動車道を車で駆けて、白鳥ICから油坂峠を越え、九頭龍川の上流を目指した。暗闇の中を2時間走って、四方を山に囲まれた渓流の川辺に立ち、迫ってくる冷気に対抗するようにテントを張った。曇り空、漆黒の闇の中で、僕等は、流木を焚き仲間達と酒を酌み交わし、ブリューゲルの絵のように幻想的な時間を過ごした。その日、天候の回復した空には、無数の銀河を湛えた満天の星空が広がっていた。積み上げた流木が真っ赤に燃え上がり、周囲に強烈な熱を放射し始める頃、夜が明け始め、僕は2重にした寝袋の中に入り、獣のように眠りについた。

この体験のほんの一週間前、友人に誘われ、東京サントリーホールの小ホールで、チェロ奏者堤剛のコンサートを聞いていた。「四世紀にわたるチェロ音楽」と銘打った、そのコンサートは、ピアニスト野平一郎のフロデュースによる競演で、作家の中西礼の姿も見かけたこの低音を主体とした音楽会は、いつになく男性が多いとは、一緒にいった友の言葉であった。しかし、僕にとって音楽は、ひとつ秩序と快感をもたらすものであっても、視覚映像に似た世界を開示するものにはならなかった。3回ものアンコールのあった演奏会は、それ自身充実していたにも拘わらず、である。その夜、六本木の居酒屋で麦焼酎をロックで飲み、高層ビル建設によって急激に変貌する都会の小雨に震えるネオンの中を有楽町経由で家路についた。

そして、2003年11月中旬、僕は、出張で金沢にいた。打ち合わせまでの僅かな時間を使って、僕は、泉鏡花記念館を訪れた。明治半ばから創作活動を始め、大正、昭和にかけて多くの作品を残した鏡花は、エドガーアランポーと共に、僕が心惹かれる作家であった。彼の作品には、リズムがあり、それは,詩の世界に類似しているためであった。その記念館には、鏡花の作品の挿絵が展示されており、その中で、僕は恐ろしい一枚の絵をみた。それは、遠近法で描かれた浮世絵風の絵で、冬の日本橋に佇む幽霊を描いたものだった。その冬の寒寒とした風景の彼方に僕は、中学時代読んだ青春小説アランフルニエの「モーヌの大将」の最終場面を連想していた。恋求める主人公が、雪降る木枯らしの中に佇む姿を。そして、突然その場面の中で、シューベルトの歌曲「冬の旅」が思い出された。僕の青春の出発点。自分でも理解できない衝動に突き動かされていた40年前、僕の中で青春の感動がほろ苦く蘇えった。人は、それ自身が、時間旅行機(タイムマシーン)であり、宇宙船であるのかもしれない。そして、詩人「田村隆一」は、このことを知っており、その証が彼の詩ではなかったのか。金沢からの帰る途中の特急「しらさぎ」の中で僕は再び「田村隆一」を聞き、そう思った。                 以 上

忘れえぬ人々 

 国木田独歩の作品「忘れ得ぬ人々」というのがある。これは、人生で出会った人々の内、特別に深い関係はないが、何故か印象にのこり、数十年経っても忘れられない人のことである。そして、そのとおりの人が私にもある。

   もう、40年近くも前のことである。当時私は、結婚して、神奈川県の川崎市の中原区というところに住んでおり、歩いて15分程の元住吉の駅から相互乗り入れのある東横線・地下鉄日比谷線で銀座にある勤務先に通っていた。28歳で、結婚したときそれと同時に移り住んだのは、同じく東横線の学芸大學駅から歩いて10分程のマンションであった。

  学芸大學駅は、東京都の目黒区に所属した高級住宅街を擁した駅で、そのマンションも閑静な住宅街の一 角にあり、その環境も申し分なかった。唯一の の欠点は、狭いことで、単身者を想定した1LDKであったことである。新婚当初はそれでもよかったが、子供が生まれるとその狭さは、耐え難くなり、とうとう直属の上司に願い出て、単身赴任で、大阪から移ってきた別の上司といれ替わってもらうことになった。この別の上司の住んでいたのが元住吉のマンションで、ここは、2LDKであった。通勤時間も長くなり、周囲の環境もわるくなるが、背に腹は変えられなかった。

   元住吉に引越して、間もない夏の日のことである。暑い盛の昼間の頃のことである。私は、地下鉄日比谷線に乗って家に帰る途中のことであった。今から思と普通の通勤であれば、夕方しか乗らない電車なので、休日出勤かなんかで、早く帰宅したものと思う。

  列車が、祐天寺の駅に到着したときのことである。子供連れの女性が、列車に乗り込んできた。その人は、赤ん坊を背負い、5歳ばかりの女の子の手を引いて、荷物も持っていた。赤ん坊との移動で、いつも大変な思いをしていた私は、思わず立って、席を譲った。

 彼女は、かるく会釈をして、子供と荷物をその席に乗せた。それだけのことである。

   それだけのことであれば、多分なんの記憶も残らなかったことと思う。しかし、列車が、自由が丘の駅につき、彼女が列車から降りるときのことである。出口近くに立っていた私の方をしっかりと見据えて、彼女は、僕に「今日は困っていたところを助けていただいて本当に嬉しかった。ありがとう御座いました。」とお礼をいったのである。

   そのとき、私は、初めて、彼女の顔をみたが20代後半の理知的な顔立ちの女性であった。その率直さに、私は、ドギマギするばありであったが、その時の真剣なまなざしが印象的であった。彼女達が降り、再び列車が動きはじめてからもしばらくの間、僕には、なにが起こったのかよくわからなかった。ただ、なんとなく嬉しくも恥ずかしい感覚だけが残った。

   元住吉から通勤していた同じその頃のことである。夏の夜、午後8時を過ぎた頃のことだったと思うが、銀座から地下鉄日比谷線にのり、東横線に入って間もなく、突如として、空が曇り、雨が降り出し、電車が元住吉の駅に着く頃には、本格的な雨になっていた。

   駅の改札口を出たところで、傘もなく呆然と立ち尽くしていたときのことである。突如若い男性が、声を掛けて来た。「お困りでしょう。この傘をお持ち下さい。」そう云って、雨傘を差し出してくれたのは、自分より数才若い、20台後半と見える背の高い青年であった。

   突然の申し出に私が戸惑っていると。「私は、大丈夫です。妻と一緒に帰りますから。」そう云って、彼が向けた視線の先には、小柄な若い女性が、笑顔で、こちらの方を見ていた。そのとき、その後。どんなやりとりがあったか、はっきりと覚えていないが、傘を返す必要がないと私に告げるとその若い夫婦は、寄り添って一本の傘に入り、暗闇の中へ消えていった。私は、実際に起こったことが信じられなく茫然と彼等を見送りながら、次第に心が暖かくなってゆくのを感じた。

   たったこれだけのことでる。しかし、結婚と共、移った知り合いの少ない東京で、都会というものが、自由である反面、個々人が、孤立して生きている空間として考えていた私にとって、全く見ず知らずの人達と偶然に通わしたこの二つの出来事は、衝撃的であった。

  その衝撃の意味は、今だによく分らないが、その時以来「人間もまんざら捨てたものではない。」そう思えるようになったような気がする。               完     (2010年9月まきば1号)

竹さんの奇妙な話

竹さんの奇妙な話

人は、あまり他人に話せない奇妙な体験をすることがある。これらの体験は、どんな人にもあると思うが、多くの場合、それを奇妙と感じないように知らぬふりして見過ごすか又は、あまりに奇妙なので、まじめに話すと人から笑われるので、個人の中に、秘密裡に止め置かれていることになる。六十数年生きているとこんな話は、一つや二つではない。この話も、その一つである。

「銀座の地下鉄の駅の出口についたのですが、ここからどう行けばよいのでしょう」「地下鉄の出口といっても、銀座の地下鉄の出口は、二十三箇所あるので、どこの出口かが問題です。出口を出てなにが見えるが教えてください。」これが、中途入社で、大阪の神戸支店から転勤してきた「竹さん」と私の始めての会話であった。当時私は、東京駅の東側を新橋に向かって走る外堀通り沿いの、有楽町駅とは反対側を、東側に一本入った東銀座の場末のアーニービルという古びたビルの2階の技術本部というところに勤務していた。

名古屋支店に勤務して五年目、結婚式を半年後に控えた十月頃、上司に呼ばれ、「今度本社に技術開発室というのが設けられることになった。ついては、そこに行って欲しい君が嫌でも行って欲しい。」とのことであり、有無を言わせぬ話であった。多分、入社五年目で、あまり戦力となっておらず、大卒が、珍しい時代でもあったので選ばれたのだろう。新設された、技術開発室は、室長と課長その他三名、合計五名の小規模な組織で、僕を入れてもたった六名の組織であった。その組織が、一年経って技術本部として再編・拡充されることになり、その流れで、竹さんも転勤してきたのであった。

竹さんは、商船大学で、機関科を卒業し、一等機関士として七年間も船に乗っていた異色の経歴の持ち主で、外洋勤務で、殆んどの時間を海上で過す船乗りの生活に飽き、当時の僕等の四倍もの俸給を投げ捨て、結婚を機に船を下り、中途で入社してきたとのことであった。僕より一つ年上であったが、酒好きで、気さくであり、同じ転勤続ということでたちまち仲良くなった。

竹さんは、当初から元住吉のマンションの一室の会社の借り入れ社宅に入っていた。一年程して私もこのマンションの四階に引越してからは、一階と四階とで、階は異なったが、家族ぐるみの付き合いをするようになった。竹さんは、酒がめっぽう強く、まず、酔っ払って乱れるようなことはなかった。僕らは、家が近くということで、よく酒を飲んだ。有楽町の駅の高架下の赤提灯で、いつも千円会費ということで飲んでいた。

竹さんは、普段は、穏やかに笑って皆の意見を聞くことが多く決して乱れない。しかし、時計が、午後十一時時近くなり、目が据わってくると妙に凄みのある表情になることがある。聞けば、拳法部に所属しており、後輩のトラブルに巻き込まれ、ヤクザとわたりあったこともあると話していた。その話が、まんざら嘘でもないと感じたのは、酔っ払った帰り道、なにかのついでに、コンクリートの塀を拳で打って、凹ませたのを目撃してからである。

元住吉に移って、一年経った頃、いつものように、居酒屋で、酒を飲み出したときのことである。普段、有楽町で、飲むときは、他の同僚と四~五名の場合が多いが、このときは、二人きりであった。またこの頃、酒好きの我々は、有楽町で飲み過ぎ過ぎ、タクシーで帰り、飲み代の数倍の料金を払って後で後悔した経験から、ときたま、元住吉の駅から家に帰る途中の焼鳥屋で一杯やることがあった。

この話も多分その時のことである。乾杯をして間もなく、竹さんが、何時になく真剣な眼差しで、「今まで、この話は、他の人にしたことはないが、奇妙な体験をしたことがある。これは、本当の話なんだ」と云って、次のような話をしてくれた。

彼が、後輩のトラブルに巻き込まれて、ヤクザと渡り合った結果、警察沙汰になり、休学させたれた時期、寮を離れて、ひと夏、試験勉強のため、海辺のある家の2階に下宿したとことがある。その時の話だという。

ある夜、重く寝苦しいので、ふと、目を覚まして、暗闇の中をよく見ると一人の子供が、体の上に乗っているのに気づいた。あわてて起きて、電気をつけた途端、その姿は、忽然と消えた。その時は、何かの錯覚であろうと思うことにしたが、翌日も同じことが起こった。これは、元来、亡霊や霊魂など頭から信じていない彼としては、全く理解できない出来事であった。こんな夜が二三日続いたが、気が弱いせいと思われるのがしゃくで、誰にも話せなかったという。

とうとう、彼は、これが何者なのか、はっきりさせるため、今度現れたら、捕まえようと固く決心し夜を待った。そして、その子供は、また現れた。その機会を狙っていた彼は、起きざまに、子供の足をつかもうとした。「それでどうした」と私が尋ねると、彼は、「がばっと捕まえた。」と云い。一呼吸おいて、「捕まえたのを確信して起き上がって電気をつけてみたら、捕まえたのは、自分の腕であった。」と云い、しかし、その夜以降は、その子供は、現れなくなった。

その下宿を引き払うとき、宿の人にその話をすると「やはり出たんですか。以前この浜で、溺れた男の子がいて、そのせいか、以前にもそんな話があった」とのことであった。その時、そんな話が、あれば、最初に話しをするべきだと憤激した覚えがあると話し、自分は、決して臆病な人間では、ないと思うが、どう思うかと質問された。

科学的に考えれば、寮生活という集団生活から離れた潜在的な不安感がなせるわざとも思えるが、宿の人の話との整合性がとれない。何かの現象があったことは、事実である。また、彼が、嘘を云っているとも思われない。その当時生きていた私の姉は、自分で霊媒体質だと云い、私が大学生であった頃から、自らの体験した奇妙な話をよくしてくれ、あるときには、数枚の心霊写真も見せてくれた。

当時唯物論者であった私は、自分の直接体験でないこうした話には、あまり関心がなかった。しかし、この姉が、私に嘘をいう理由もないので、多分本人が何かを体験したのは、事実であろうと思っていた。このため、竹さんの話もそれは、事実であろうとあっさり認めた。そのせいかこの話題は、その後私と竹さんとの間で、二度と話されることはなかった。それから数年して、私は、名古屋に帰り、たけさんも、生まれ故郷の熊本に帰っていった。姉以外から聞いたこの話は、深く印象に残った。竹さんとは、遠く離れているが、その後も付き合いが続いている。     完                      (2010年11月 まきば2号掲載)

詩精神の覚醒・・25歳の旅立ち

詩精神の覚醒急いで歩いてゆく街路の上に、ふと気が付くと濃紺の空が広がっていて、その深く鮮やかな光景を見つめていると、不意に突きあげてくる郷愁のために、我ながらどうしょうもなく打ち震えてしまう瞬間がある。僕自身の中の何者かが、その光景に触発され、沸騰する瞬間である。

それは、つまらぬ感傷であるかも知れない。しかしたとえそうであったとしても、僕はなおかつ、そうしたものの背後にいる何か未知なるものの存在を確信せざるを得ない。

僕の中にそうしたものがあるということ、そしてそれこそがある意味で僕の思想や行動や生活のエキスのようなものであること、そのことに気づき始めてはや一年になる。

それは始め予感としてあった。徐々に一つの終末が訪れ、何かが生まれようとしていた。

僕は、それを必死で追跡した。感情より先に、そのものの到来より先に僕は言葉でそれを捉えようとした。しかし、それは頑強に言葉を拒絶するかに見えた。それはただ予感としてあった。しかし、それは次第に姿を見せ始めた。僕の生活のほんの稀な瞬間にそれは、僕の内面の膜を激しく揺さぶり未知に向かって予告するように胎動した。そんな時、それは、僕自身の膜の薄い場所を突き破って忽然と顔を出し、僕がまだ、凝視しない内にたちまち、膜の背後に退いてしまった。

しかし、とにかく僕は、それを知り始めた。そのものの感触がまだ指先に残っている、その間に、そのものに僕は大急ぎで言葉を与えた。それはある時には、リルケの「死の核」であると思われ、またある時には、「生の原型」であり、またある時には、シューベルトの「冬の旅」であり、加藤周一の「羊の歌」の世界であると思われた。

しかし、そうした言葉は、そのものではなかった。それらは確かにそのものの一部分、一つの現れではあったのだが・・・。

けれども、そうした日常生活の偶然とも云える一つ一つの出来事や出会いや経験が、一つの終局点に向かって、ある一つの世界に向って追い込んでゆきつつあること、そのことを僕は自覚した。僕はそのものの正体が知りたかった。そのものこそ十年近くも僕が無意識の内に求め続けていたものと確信できたからである。

しかし、そのものは、なかなか正体を見せてはくれなかった。それは確かに以前より頻繁に僕の戸口のすぐ近くまで、訪れるようになっていた。しかしそれは僕が抱きしめようとすると素早く去っていった。僕自身の焦りや恋心をからかう少女の如く、それは僕の手の中からするりと逃げ去ってしまうのだ。しかし、その時の香は、確かに僕が求め続けていたものを暗示していた。

冬が訪れ、春が訪れ、僕とそのものの激しい追跡戦の日々が続いた。ある時は、ビルの谷間に、そしてある時は、群青の下の並木の道に、僕はそのものの映像を求め、見えない地図の上を探索し、進軍した。そして夏、僕の心は、疲労で憔悴し、見つめる僕の眼は、砂漠血に充血し、微かに差し伸べる僕の指先は、強烈な光の中で溺死した。僕自身の中で

一つの「死」が進行していた。思惟は、はやいたずらに感性の中で空転し、見つめる思考場の中に砂漠のような終末が広がっていた。

しかし、長い苦闘の結果、自我の膜は、今や極限まで問い詰められ、一つの薄い不透明な膜としてのみ僕の前にあった。僕は、熱つく海辺で確実に死を迎えた。僕の中の予告が終わり、倒れ伏した僕の上には、幾つもの幻影が降りそそいだ・・・。

そして長い眠りの後に、ふと気づくとそのものは、僕の周辺に漂っていた。それは、透明なままで僕の前にあった。

そのもの、それはかって誤って一人の女性の中に求めたもの、最も親しい友の中に求めたもの、学問の世界に求めたもの、そして結局は、それらの中には、見出し得なかったもの、いやそうした特定の対象の中にあると僕が錯覚したもの。

それは、求めるのではなく共有するところに初めて愛や友情が在り得るもの、始原であり、終末であるもの、僕等の生を貫いて、ずっと先まで広がっているもの。

そのものの到来によって突如として世界が変わるものではなく、そのものの到来によって孤絶するものでもなく、そのものの到来によって初めて僕自身が誕生し、僕の中にリルケの死のようなものが芽生えてくるものである。

それは、エゴイズムや自尊心が無意味になるもの、自己嫌悪の破産するもの、醜さを暖かく支えてくれるもの、対立さえも許しあうもの、悲劇さえも美しくし、悲惨にさえも栄光を与えるもの。

あらゆる理論に対して不敗であり、どんな恋人の愛よりもかるかに深いもの、田村隆一の云う

「詩人だけが発見する失われた海を貫通し、

世界の最も寒冷な空気を引き裂き、

世界の最もデリケートな艦隊を海底に沈め

我々の王と我々の感情の都市を支配するもの」

僕自身の今までの一つ一つの体験や経験が、苦しみや歓びが、悲惨や栄光が、彷徨や安住が、そして限りなく続けられる僕達の生の営みが、ある人との出会いが、その時の会話が、街角の光景が、喫茶店「ラムチー」の片隅で飲むコーヒーの胸に満ちてくるまろやかな情感が、そのものの中でその存在意義を明らかにしてくれるもの。

異なる世紀の異なる国々の一つ一つの事件の中、出会いと別離の中、無数の色彩をなす日々の労働の中、真っ暗な恋の中、悲惨な栄光の中、一つの地方のその風土文化の中、世界史の革命や反革命の中、土着したナショナリズムの中、海を越えるインターナショナリズムの中、それらを貫く全ての思想や意識の中、それら一切を貫いて、すべてを一つの流れの中に導くもの。

人々のその経験や年齢、知識や性別を乗り越えて流れるもの。人間である限り、誰もが空気のように呼吸しているもの、それは確かにそんなものである。それは、感情ではなく、ましてや理論ではなく、しかし理論を拒絶するねのでもなく、そのものの存在によって初めて理論が生命を持ちうるもの、それは確かにそんなものである。

そのもの、それは僕の自我の膜を潜り抜けた彼方に草原のように広がっていた。それは澄み切っていて透明であり、太陽のように明るくはないが、高原の夕暮れのように和やかであった。

それは、特定の言葉を拒絶し、すべての言葉を要求した。それは、固定した領土ではなく、一つの流れであり、無限に広がる大洋のようでもあった。

そのものとの出会いによって、僕は生の地平線をみた。そのものとの出会いによって、僕は都会の窓をみた。歴史のすすり泣きを人間の落ちてゆく地平をみた。幾千万の夜と幾億もの生と死を迎え入れた。そのものとの出会いによって僕は、歴史の落陽を見、欧州史の素顔をみた。愛の生まれてくるカオスを知り、不信が芽生える氷結の木枯らしを知った・

そのものとの出会いによって僕は、自我の彼方を見た。そのものとの出会いによって、僕は僕の母を生み、死は僕の生を生んだ。

それは、詩精神というものが僕の中で覚醒した瞬間であった。

(1970年 陽樹第一号「僕にとってロマンチシズムとはなにか」より)

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射る人(1971年)

射る人限りない詩を書いてみていと思う

たとえば10月

落ち葉の一杯詰まった地下街を散歩するように

あるいは又気流に乗って

秋空をどこまでも落下してゆくように

           僕らの心の窓を通して見える

           白い無人の都市をまっしぐらに駆けてみたいと思う。

                                          もう言葉なんかではない

                                            1971年10月

                                            正午の光線が噴水を切断し、

                                          僕等の瞳を貫通して背後の光景に消え去っていった。

                                           ほっそりとやせた木立の片隅では、丸いしずくがキラリと目を光らせて

                                          僕らのこころに警告の視線を送ってくる。

                                          そうかこんな瞬間だな、何かが生まれるのは

                                          僕は、黒いコートの襟をたて

                                          灰色の瞳で走査してみる。

                                          街角の陰から陰へ

                                          木立の沈黙から沈黙へ

                                           何かが走り接近する。

                                           網膜の地平を乗り越え

                                          何かが僕を襲撃する!

                                           愁漠たる心の荒野に銀色の太陽が落下する。

                                           不在証明を片手に幻影達が立ち現れる。

                                           胸からあふれ出てくる歳月に浸りながら

                                          僕は追跡を開始する。

                                            公園のベンチでは、

                                           マキシの女の子がチラリと流し目する。

                                           だが僕は立ち止まらない

                                            僕は急いでいる。

                                            (急いでいるときには、僕らはすべてを犠牲にしなければならない)

                                             だが、パチンとウインクだけはして僕は駆けた。

                                             見えない獲物が

                                           僕の視界に飛び込んでくる。

                                           足音を忍ばせて僕は論理の照準を合わせる。

                                           それは群れなして

                                           飛び立つ!

                                           僕の視線が

                                          獲物の影を追う!

                                           僕は心の空に向かって発砲する。

                                          しかし何故なんだろう

                                          こんな厳粛な瞬間なのに

                                           意志は、世界を集中し、

                                          欲望は全身に根を張っているのに

                                          僕の心は、貨幣のように冷ややかだ。

                                           そうだ!

                                           僕らの心はかかる具体的なイメージを求めてはいない。

                                            具体的なものは、僕らの自我にまとわりつきやがて序々に

                                          一 切の生を滅亡させるからだ

                                          一切の愛と一切の憎しみを消滅させ

                                          一切の歓喜と一切の絶望を虐殺するからだ

                                            だから僕らは

                                            どんな美しい少女にも恋することが出来ない。

                                            どんな幼いものをも愛することが出来ない。

                                            どんな絶望も僕らを挫折させることが出来ないし

                                            どんな勝利も僕らを満足させることが出来ない。

                                            本質的なのは僕らの意志であり、

                                            僕らはその呪縛から逃れることは出来ない。

                                            だから僕等は、

                                            飛べない鳥に向かって照準を合わせ

                                            見えないイメージに向かって発砲する。

                                            見えない恋人に向かって視線を送り

                                            存在しない友に向かって告別の手紙を書く

                                            そして

                                           あり得ない世界に向かって

                                            僕らは不意に旅立つ。