私の文学散歩道 ―小林秀雄のモオツァルトをめぐってー  

 小林秀雄が、モオツアルトを書いていたのは、僕が生まれる前後の出来事であったと最近知って少し驚いた。彼は1902年生まれであるので、終戦当時は、43歳になっていたはずである。しかしそんなに年上であったにもかかわらず、僕は彼がもっと若い人だと思い込んでいた。

 その理由は、彼を知ったのがランボーの詩の翻訳家としてであったせいで、その後友人との会話の中で、彼が大阪の道頓堀をうろついていた若き日に「突如としてモオツアルトのト短調シンホニイの有名なテーマが頭の中でなり、そのとき衝撃的な感動を覚え、急いで近くの百貨店でレコードを聴いたが、もはや感動は還ってこなかった」と書いているとの話が、印象に残っているためである。

 この話をしてくれた友人は、当時早稲田の仏文科の学生であり、その友人とは、高校時代一夏高蔵寺の禅寺で受験勉強のため生活を共にしたことがあった。東京在住の彼を訪ねたのは、大学生活を半ばすぎた頃であった。何かの理由で上京した僕は、約束もないまま彼が入り浸りであった荻窪駅近くのミニオンとい音楽喫茶を訪ねた。僕としては、彼の日常生活の舞台を覗いてみようという単純な動機であったが、果たして彼がそこに居たのには、驚かされた。その彼が、その頃盛んにモオツァルトの音楽を聴いており、そのことが手紙の中に書かれていた。その彼の影響もあってその頃から僕もモオツァルトの音楽を聴くようになった。

 しかし、小林秀雄についてそれほど興味があったわけではなかった。しかし、小林秀雄がト短調シンホニイの有名なテーマが頭の中でなったという異常な体験だけは、深く心に残った。この話を再び記憶の底から呼び戻したのは、全く別の僕自身の体験であった。

 1993年営業がらみで企画された「欧州における鉄道の復興と再開発」の視察団の一員として、フランス、スイス、ドイツ、イギリスの4か国を訪れる機会を得、西欧文明の中心地帯を2週間にわたり旅する機会を得た。この旅の途中でスイスのチューリッヒへ立ち寄ったとき、視察団で一緒になった東芝の和田さんという人と親しくなったが、その彼から今チューリッヒの美術館でルーベンス展をやっているので、一緒に見ないかと誘われた。

 彼はほとんどが技術屋の視察団の中での文化的な趣味が合った貴重な存在であったこともあり、喜んで行動を共にした。自由な時間は、3時間ばかりであったが、中華料理の簡単な昼食を済ませ、みやげ展でスイスのアーミイナイフを買って、1時間ばかりでルーベンスの絵を見たあと、まだ15分ばかり時間があると云い聖マリアンヌ教会シャガールのステンドグラスがあるので、それを見ようと誘われ、急いで教会の中に入った。その時素晴らしく美しいステンドグラスをみて言葉で表現しようのない感動を覚えた。その感動を忘れないようにと大急ぎで、それを写したシオリを買って帰ったが、その時の感動を思い出すことはできなかった。この時、あの小林秀雄の話を思い出した。

 僕が再び小林秀雄を読んでみようという気になったのは、たまたま古書展でフランス文学者で作家の渋澤龍彦の「悪魔のいる文学史」という本を見つけ、フランスロマン主義とシュールリアリズムの等フランス文学の中でのランボーとその後の思想的潮流の概要を知り、 ようやく、ドイツロマン主義とフランスロマン主義を含めたヨーロッパ文化の底流を統一的に理解するようになったことと関係しており、さらに、ロシアの思想家ニコライ・アレクサンドロヴッイチ・ペルジャエフが「マルクス主義と宗教」という本の中で、マルクス主義は、人間を社会的構成部品とみていて、それ自身が一つの宇宙であるとの視点に欠け、人間における精神的原理の否定、人間の人格と自由を否定すると指摘しているのに触発されたためである。

 ペルジャエフは、当初マルクス主義者であったが、後にマルクス主義が、プロレタリアートを新たな選民とする救世主願望(メシア主義)に基づく科学的装いを持つある種の宗教であることを指摘したため、ロシア革命後に国外追放にあっている。社会主義革命の成功と崩壊を思想的にまとめてみようとする過程で、ペルジャエフの指摘に刺激されてあらためて自分を振り返ってみる気になった。

 元来理系で唯物論者であった僕は、自然の内に人間を外部から見る見方にならされていて、人間を一つの宇宙としてみる発想にあまり注意を払ってこなかった。何よりも興味の対象が宇宙論等外界にあったためである。しかし、人間を一つの宇宙として考えることに焦点を当てたら何が見えてくるのか。これこそがドイツロマン主義やフランスロマン主義の思想潮流が求め続けたものではないかと思いいたったとき、その観点から小林秀雄を捉えられるのではないかと思い至り、あらためて小林秀雄の書いたものを読んでみることにした。

 今回あらためて新潮文庫の「モーツァルト・無常ということ」を読み直してみた。と云うより初めて最後まで読んでみた。彼が、ここで問題にしていたのは、二つの事である。その一つが、音楽や絵画、文学等の作品が我々に与える感動とは何かということであり、今一つは、そうした作品を生み出す天才のエネルギーの源泉・創造性の秘密についてである。この二つの問題について天才的なモーツァルトの作品と凡人モオツアルトの生活の乖離の謎を中心に自分の体験を交えて考えた芸術についての思索の覚書、これが「モーツァルト」の中身であった。

 小林秀雄が青春期を迎えた時代は、ヨーロッパの近代の科学主義・合理主義が第一次世界大戦を生み出したことにより大きく揺らぎ、その反動として非合理主義が、ダダイズム・シュールリアリズムとして新たな潮流を形成しつつある時代であった。この時代では、人間とは何かが思想上の大きな問題として問われた時代でもある。つまり人間を外部から科学的に眺めるのではなく、その内部の宇宙に分け入って理解することこれが問題であった。ランボー、ニィーチェ、ドフトエフスキー、ワーグナー、ボードレール、ゲーテ、モーツァルト、ベートーベン、モネ、ゴッボ等、この時代は、こうしたテーマをめぐる素材には、事欠かない。この課題にアクセスするために、小林秀雄は、ほとんど政治的動向には、関心がなかったようであった。戦後「賢い奴は、反省するがよい。僕は馬鹿だから反省しない」と語ったと云われているが、これは、実感であったであろう。戦前・戦後を通して思想が変わらなかった人の一人に柳宗悦がいるが、小林秀雄もそうした人間の一人である。

 戦前・戦後で自らを変えなかった男に白州次郎がいるが、その彼の息子のところへ長女明子が嫁いだのも必然性のあることであったかもしれない。ところで小林秀雄は、無神論のように見えるが、彼の奥さんは、光の家の信者であったし、彼の妹の高見沢洵子は、クリスチャンであった。もっともこれは、漫画家長谷川町子が「のらくろ」の作者である夫河水泡(本名高見澤 仲太郎)に弟子入りした関係で、その長谷川町子がクリスチャンであり、一緒に教会に通っていた影響であったらしい。

 東大の仏文科にいた頃の中原中也と小林秀雄の関係や長谷川泰子との三角関係の事を詳しく知ったのは、山口県を旅したとき、中原中也の名前を至るところで見かけたことと関係がある。2010年(平成22年)の9月初め山口大学で、空気調和・衛生工学会の大会があり、その大会に参加するため、山口市の湯田温泉に2泊した。この時、大会の合間に市内の瑠璃光寺と少し離れた長門峡でスケッチをしたが、この長門峡の橋のたもとに中原中也の詩碑が立っていた。また、この時、湯田温泉の中に中原中也記念館があったが、この時は、訪れる時間を作れなかった。この2010年には、もう一度その約二か月後10月末に湯田温泉を訪れる機会があった。大学時代の知人達と山口から津和野、萩、そして湯田温泉から厳島神社をめぐる旅に誘われ、この時、中原中也記念館を訪ねることが出来た。

 湯田温泉が戦災を免れたこともあって、生家跡に建てられ、2004年にリニューアルそれた近代的な建物には、極めて豊富な資料が展示されていた。この中で、長谷川泰子の「中原中也との愛」(角川文庫2010年1月第5版)を買い求め、旅の途中で読んだ。小林秀雄が、長谷川泰子と同棲したのは、1925年11月から1928年4月(26歳)までの在学中のことである。その直後1929年改造の評論懸賞で「様々な意匠」で第二席を取る。ちなみにこの時の一席は、宮本顕治の「敗北の文学」であったことは、有名な話である。しかし、これ以降評論家としての地位が固まりその5年後の1934年(32歳)に時森喜代美と結婚している。

 小林秀雄が、晩年ベルグソンに興味を持ち続けていたことは、有名であるが、それは多分フロイド、ユング、ヤスパース等が指摘した、自我、、超自我、エスと云う人間の無意識領域で鼓動する生命の鼓動とその稲妻のような現出であるラプトウス(夢中、熱狂、自我喪失)と人間の創造活動の関係を哲学的・科学的に明確にしたかったためではなかろうか。

 ベルグソンは、無意識の底に蠢く生命の原初的な動きとその方向を「生命のはずみ」としてとらえていたようである。小林秀雄が生きた時代は、アインシュタインの相対性理論量子力学といった古典的な世界観を破壊する物理理論や宇宙観が誕生しつつあったが、彼は、これらの動きには、全く無関心のように見える。小林秀雄と湯川秀樹との対談を読んでいて感ずるのは、人間を内部から理解しようとする文学と外部から見ようとする科学の統合の難しさである。これを乗り越えるのが、哲学であるかもしれない。

 ベルグソンは、生命とは何か、人間とは何かを理解するため絶えず先端科学の動向に目を向け、それを自らの思想や世界観に取り入れようとしていたことを考えると科学的視点無しでベルグソンを理解するには限界があるように思う。小林秀雄が晩年突き当たった壁もこんなところにあったのかもしれない。

 小林秀雄も中原中也も裕福な家庭に育ち、食うことに追われる同時代の圧倒的多数とは異なった環境下であったため、第一次世界大戦後の時代の思想的課題を敏感に感じ反応する青春を送ることが出来た。彼らの青春の問題意識は、我々の青春と重なる。しかし、決して裕福とは云えない我々が同じような青春を経験できるまでには、40年もの歳月が必要であった。

今我々は、彼らが捜し求めたものをさらに奥まで極める条件にあるかもしれない。

 小林秀雄の「モーツァルト」に導かれ、ラプトウス精神病と創造性を扱った医師で精神病理学者渡辺哲夫の「創造の星―天才の人類史」2018年講談社選書を読み、人間の合理的意識なるものは、その下に隠されている無意識の世界の超自我やさらにその奥底で蠢く生命体としての無意識の生衝動(エス)云った不合理の大海に浮かぶ小舟のようなものでしかないとあらため整理できた。渡辺哲夫は、彼の手になる関連図書「フロイドとベルグソン」の中でフロイドの云う無意識の世界とベルグソンの云う生命体の生衝動である「生命のはずみ」との関係を扱っていると思われるが、まだその書籍は手元にない。だが、このコロナ下の時間の中で、小林秀雄が僕にとってより身近で理解しやすい存在になったことは事実である。

                                   了

フランスロマン主義とシュールリアリズムーその2

3.フランスロマン主義とドイツロマン主義

3.1フランス文学運動の三つの流れ

19世紀以後のフランスの大きな文学運動は、大きく次の三つに代表される (各定義はwikipediaによる)

象徴主義(サンボリスム;フランス語: symbolisme)とは、自然主義や高踏派運動への反動として1870年頃のフランスとベルギーに起きた文学運動および芸術運動である。1886年に「象徴主義宣言」« Le Symbolism  »を発表した詩人ジャン・モレアスが、「抽象的な観念とそれを表現するべきイージュの間にこれらの詩が打ち立てようと望む類比関係を指し示そうとして」提案した。

ダダイズム(仏: Dadaïsme)は、1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動のことで、ダダイズムダダ主義あるいは単にダダとも呼ばれる。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とする・

シュールリアリズム(超現実主義) (仏: surréalisme)は、理性の支配をしりぞけ、夢や幻想など非合理な潜在意識の世界を表現することによって、人間の全的解放をめざす20世紀の芸術運動。ダダイズムを継承しつつ、フロイドの精神分析の影響下に1924年発刊されたブルトンの「シュールレアリズム宣言」に始まる。画家のダリ・キリコ・エルンスト、詩人のアラゴン・エリュアール・滝口修三らが有名。

これらの流れる背景は何であるのか、これが私の問題意識であった。澁澤龍彦のこの本は、私のこうした問題意識にピッタリと照準を合わせたような本であった。

3.2西欧思想の土壌

西欧の思想を理解するためには、その古層を見る必要があると常々考えてきた。西欧思想は、二重の支配的思想の支配とそれへの反発の歴史とみることができる。その支配的思想とはすなわちローマ時代から近代にいたるまでのキリスト教的世界観とフランス革命以降の啓蒙主義的理性主義的世界観である。その両者の共通点は、明快さと論理性〈アポロン的世界〉のように思える。

キリスト教的世界観は、ローマ時代にそれ以前にあった自然のアニミズム的世界観を征服し、それらを表の舞台から駆逐したが、そのことへの反発は、地下に潜って、錬金術等ヨーロッパ神秘主義としてヨーロッパの裏の思想の底流として生き続け、やがてそれは、古代のギリシャ思想と結びつき、ルネッサンスの人間中心思想や近代科学を誕生させることとなった。

 3.3フランス革命の衝撃とロマン主義運動

近代科学のもたらした合理的精神は、フランス革命をもたらし従来の封建的社会や意識を破壊し、やがて近代合理主義としてキリスト教世界を突き崩してゆく。

フランスを中心とする啓蒙主義は、ナポレオン戦争を通して、ドイツ、ポーランド、ロシアへと全ヨーロッパを巻き込んでゆく。一方キリスト教的世界観の弱体化は、それまで抑圧されてきた神秘主義の勃興を促すともに、啓蒙主義の限界と負の側面に光を当てる動きももたらす。特に、フランスと絶えず対峙してきたドイツにおいて、それはドイツロマン主義として開花するが、啓蒙思想の本家のフランスでは、それらは、公然たる思想的な動きとして開花することなく、社会の片隅に追いやられることになった。この動きが、フランス革命後の社会的な混乱の中で目を覚まし、文学運動として表面化してきたのが、フランス象徴詩からダダイズムそしてシュールリアリズムの流れではなかろうか。フランス革命以降のフランス社会の変動をざっと見てみると次のようになる。

1789年フランス革命の勃発とブルボン王朝の崩壊第一共和政の開始

1804年第一共和政の崩壊とナポレオンによる第一帝政の開始

1814年第一帝政の崩壊とブルボン王政の復活

1830年7月革命によるブルボン王政の崩壊とオルレアン家による7月王政の成立

1848年2月革命による7月王政の崩壊と第二共和政の成立

1851年ナポレオン三世によるクーデタによる第二共和政の崩壊と第二帝政の成立

1870年普仏戦争によるナポレオン三世の敗北と第二帝政の崩壊とバリコミューンの失敗と第三共和政の誕生

1945年第二次世界大戦の終了と第四共和政の誕生

1958年ドゴール内閣の誕生と第五共和国憲法の制定と第五共和政の発足

ロマン主義運動とはもともと、論理に対して非合理なものを、知性に対して無意識的なものを、歴史に対して神話又は伝説を、日常的なものに対してを、に対してを、それぞれ称揚する精神の運動に他ならない(澁澤龍彦)」この運動は、合理主義の代表者としてのナポレオンに対するアンチテーゼとしてドイツを中心として沸き起こってきたため、フランスではドイツの猿真似的なものでしかなかったとみなされてきたが、フランス革命以降の何度にもわたる政権交代や混乱の中で、ドイツとは別の形でその流れが形成されていったようで、それが、象徴詩運動からダダイズム、シュールリアリズムの流れの底流となっていったということらしい。

フランスロマン主義とシュールリアリズム-その1

  1. 西欧詩と私

高校時代にランボオやボードレール、マラルメといったフランス象徴主義の詩に魅かれたのは、私だけではなかったようである。永い間、これは、その当時、旭丘文芸部にいた、友人の影響で極めて、限定的な現象であったと思い込んでいた。しかし、ある時、あれっと思わされる出来事があった。それは、明倫山岳会の70周年記念のパーティの席上でのことである。たまたま、同じテーブルに居合わせた一年下の尾崎という男が、高校時代、やはりランボオ等フランス象徴主義の詩に夢中になっていたと語っていた。彼とは、当時それほど親しくなかったこともあり、話はそれ以上に進まなかったが、あの当時僕らの世代の中にある一定の広がりをもって、フランスの象徴詩やシュールリアリズムへの憧れかがあったのは、事実である。

 その後、私の関心は、ブレイクやエリオット等に代表されるイギリスの詩やドイツロマン主義に移ってゆき、フランスの詩では、ルイ・アラゴン等わかりやすい詩にしか興味がわかなくなった。しかし、潜在意識の中で、あれは何であったのかという疑問がずっと続いていた。 

フランス象徴主義と社会問題との関係を教えてくれたのは、古書展で、見つけた大島博光のランボウ(新日本出版1987年初版)であったが、この本では、ランボーとバリコミュ―ンの関係等象徴詩とフランス社会との関係が詳しく語られていたが、それは、きわめて外面的な史実の記述で、私の疑問に応えるようなものではなかった。

 数年前、仲間と飯田市を訪ねたことがあり、そこで英文学者の日夏耿之介の名前を知り、彼の記念館での解説から彼の仕事に興味を持ち、書店で彼の代表的な著作、「サバト恠異帳」(ちくま学芸文庫2003年第一刷発行)を手にいれたが、大正生まれ(1890~1971)の碩学の古今東西の西欧から日本に亘るデモロジー(悪魔学)、オカルティズム(隠秘学)、ウイッチクラフト(魔女 の魔術(呪術))、ミスティシズム(神秘主義)等の知識に圧倒されるばかりで、文学の奥深さを知らされた。

2.渋澤龍彦について

以前から名前だけは、知っている渋澤龍彦に改めて興味を持つようになったのは、日夏耿之介を知った前後の時期である。そのきっかけは、数年前、死を目前にして人は何を考えるのだろうかに興味を持ち、著名な人達の最後の文章を読み散らしたことと関係がある。この時中野幸次等と並んで渋澤龍彦の「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」という最後のエッセイ集を読み、これをきっかけとして彼の「高円丘宮航海記」を読み、次第に澁澤龍彦の世界に興味を抱くようになった。無論澁澤龍彦の名前は、「サド裁判」で知っていたし、彼の翻訳したマルキド・サドの「悪徳の栄え」はすでに高校時代に興味本位で読んだこともあった。しかし、理想主義的であった当時の私には、その世界は到底受け入れることできないものであった。しかし、今の年になってみれば、彼の世界は奥深く驚異に満ちているように思われ、それ以来、古書店で、彼の単庫本を見つけ次第に買い求めるようになり、その数は20冊以上になる。

そんな時、古書店で新たな一冊を見つけたそれが、「悪魔のいる文学史―神秘家と狂詩人―」(昭和57年2月初版)であった。澁澤龍彦(1928年~1987年8月5日)は、31歳で結婚するも9年で死別し、40歳で再婚し、59歳でなくなっているが、これは、1982年つまり彼が54歳の時の作品である。

 澁澤龍彦は、苦労人である。終戦直後旧制高校へ進学、二浪して東大文学部に入学するが、肺結核で就職できず、校正と翻訳の傍ら作家活動を行う。サドの「悪徳の栄え」の翻訳で、有罪となり、世間で歪んで受け取られるも、三島由紀夫等に評価され昭和56年には、泉鏡花賞を受賞している。

 この「悪魔のいる文学史―神秘家と狂詩人―」は、この本の文庫版のあとがきで作者み自からが語っているように、フランス文学者らしからぬ作者が書いた「純然たるフランス文学についてのエッセイ集」である。この中で彼は、フランス文学史における三つの流れについて述べている。その三つの流れとは、まず、第一にフランスにおける「神秘主義乃至隠秘主義(オカルティズム)の伝統」であり、第二に「19世紀初頭における小ロマン派の運動であり」第三は「19世紀末における象徴詩派の一部過激分子達の動向である」、ここでは、私が西欧思想の中で従来密かに探究してきた、神秘主義、ロマン主義と漠として位置付けのはっきりしていなかったフランス象徴詩運動の関係が、統一的に取り上げられていた。

空海が見えてきた

空海について興味を抱くようになってもう何年経つだろう。20年近くにはなる。

空海に魅かれたのは、密教なるものが、理解しがたかったたてめであった。それは、とりもなおさず、原始仏教から大乗仏教までの流れに比べ、大乗仏教から密教への流れが理解し難たかったということと関連している。

原始仏教に呪術的な影は感じられない、それが、その普及と共に呪術的要素を加えてゆく、大乗仏教の代表的な教えは、法華経であるが、この法華経には、その観音経の中に既に呪術的要素が既に含まれている。それは、仏教がその時代の社会的要請に応えるための思想的変貌でもあった。

個人的な哲学思想から社会的思想への変貌は、その基礎を釈迦という歴史的実在をより普遍的価値の中に位置づけ、世界観・宇宙観として発展させることを意味していた。その普遍的価値として誕生したのが宇宙的秩序の中心としての毘盧遮那仏つまり大日如来信仰である。下記は、真言密教誕生前後の日本の時代区分である。

仏教伝来 538年

飛鳥時代 592年(崇峻天皇5年)-710年(和銅3年)

奈良時代710年(和銅3年)-794年(延暦13年)

平安時代 (794年延暦13年) – 1185年(文治元年)

空海は、774年(宝亀5年) -835年 (承和2年)

密教の源流には、大日経と金剛頂教の二つの教がある。この内大日経(大毘盧遮那成仏神変加持経)は、600年代、インドで成立し、東インド生まれの善無畏(637~735)が中国にもたらし724年漢語に翻訳され、金剛頂教『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経(大教王経)』は、『600年代の半ばから後半南インドのアマラバティで成立し、西インド生まれの金剛智(671~741)とその弟子不空(705~774)が漢語に翻訳し、中国に伝えた。

この二つの経は、唐の玄宗皇帝(685~762)の治世下の中国で広まる。空海は玄宗皇帝の亡くなった12年後に生まれている。

大日経は、大毘盧遮那如来(大日如来)が自由自在に活動し説法する様を描いた経典。教理は第1章で,他は実践行の象徴的説明である。この中で、護摩(ごま),曼荼羅(まんだら),印相(いんぞう)などの秘密の実践が詳述されている。

金剛頂教は、大日如来が釈迦に対して、自らの悟りの内容を明らかにし、その実践法を説いている。悟りの内容が金剛界曼荼羅であり、実践法としては五相成身観(ごそうじょうしんかん)という瞑想法が説かれている。『金剛頂経』は単数の経典ではなく、新古いくつかの同系統の経典の総称である。このうち初期の成立で、かつ内容的にも後の『金剛頂経』の方向を決定した、初会(しょえ)の『金剛頂経』が、アマラバティの成立と考えられている。理趣経は、この一部である。

真言密教では、この世界宇宙を救済論的に慈悲の働いている側面(胎藏界)と哲学的認識論的に智慧の働いている側面(金剛界)の二面からとらえる。その胎蔵界について大日経が、金剛界については金剛頂経がその生々とした実相を詳しく説いている。胎蔵界および金剛界の両界の曼荼羅はこれら両経の説くところを視覚的に絵画表現したものである。

空海は、当時部分的にしか伝わってきていなかった、密教を日本に本格的にもたらしただけでなく、大日経的世界と金剛頂経的世界を統合して真言密教として完成させた。

ところで、密教とは何か、一つには、大日如来という宇宙生命体の創造による仏教的世界観の完成であり、今一つは、それとの一体化への具体的手法・修法の確立であり、その結果として得られる心の平安と現実世界での利益と云うことである。

心の平安と現実世界での利益は、呪術と限りなく繋がっている。仏教の社会的広がりは、それによる現世的利益への期待を膨らませ、そこに焦点と社会的関心が集まっていったのは、当時の科学的知識や民衆の知的水準を考えれば必然のことであった。

ところで、空海は、呪術的効果を本当に信じていたのだろうか。空海には、もっと冷静な視点があったに違いない。修法は、何よりも人々を安定させまとめ上げ団結させる手法であり、この点に関して国家維持や統一の思想としての役割もあった。人々を対象とすることは、救済論仏教としての性格も合わせ持つ。

空海は、死の2年半程前、高野山金剛峰寺の金堂と諸仏の完成した翌年832年そこで初めて「万燈万華の法会」営むが、その願文は次の言葉で始められている。「黒暗は、生死の源、遍明は、円寂の本なり」とまた秘蔵宝艦には、「生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで生の終わりに昏し」とある。「暗い」は周りに何があるのか見えなくなるほどに物理的にくらい状態を指し、「昏い」は光が弱くなるものの、何も見えなくなるほどくらくはない。

我々は、全くの無から生じるが、生命と知恵の力で光明の下で生き、やがて生命の火が消えるように死を迎える。

「万燈万華の法会」では、暗闇に一万もの灯明と一万もの華(花)を供えて法会が行われたと云われる。空海は、原生林に囲まれた漆黒の闇の中に浮かび上がる一万もの灯明とそれに映える華花という具体的な映像を通して、仏法の役割を示したかったに違いない。

「空海の生涯」由良弥生 2019年2月20日王様文庫 三笠書房を手にして、思わず引き込まれてしまった。ポイントは、空海が虚空蔵菩薩求聞持法

を教えられた沙門に作者が善道尼という尼僧をあて、この尼僧との関係を一筋の糸として人間空海の生涯をまとめ上げた点である。女性の出現により、人間空海がよりリアリテイをもって描かれることになった。

以前空海の世界に迫ろうと「空海の詩」安部竜樹2002年6月30日(株)春秋社を手にしたが、あまりに難解で、その世界に触れる感覚がなかたが、今回、密教の世界を少しまとめることで、もっと触れることが出来そうな気がした。

それにしても、密教の影響は大きい。臨済宗のお寺で頂いた経本の中に消災呪と大悲円満無礙神呪と云う大日経系統の陀羅尼(真言)が含まれているのに気ずいた。陀羅尼(真言)を祈りの言葉とすれば、呪術と祈りは、表裏一体のものであるのかも知れない。空海にとって願文は、祈りよりももっと

力強い宣言文又は決意表明文と云うべきものであったような気がする。いずれにせよ、これからは空海を楽しみたい。 完

 

禅と良寛をめぐって

もう、30年以上にもなる。43歳で運転免許をとった数ヶ月後の頃、大學時代の友人から、河口にある別荘で、有志による同窓会を開催するので、参加しないかという誘いがあり、中央道を走って、大月インターから富士の樹海の中のその山荘まで、車で出掛けたことがあった。

早朝の中央道を走っていたとき、ふとラジオに耳をやるとNHKの番組で、臨済宗の中興の祖と云われる白隠禅師の話をしていた。それが、禅との出会いのきっかけとなり、それ以降、禅に関する書物を読み漁り、気かつけば、自分で座禅をするようになっていた。

まもなく、バブルの絶頂期を向かえた頃、唐津順三の「良寛」(ちくま文庫1989年発行)の本に出会い、たちまち、良寛の漢詩とその世界に魅了されてしまった。良寛の漢詩を全て、読みたいと云う気持が、次第にたかまって押さえがたく思われたとき、今年3月で取り壊される中日ビルの3階の書店で、渡辺秀英の「良寛詩集」( 木耳社1994年増訂5刷発行)を見つけた。

以来この本は、私のもっとも大切にしている本の一冊となり、今も手元にある。それまで、良寛は、和歌と書で知っていたが、それに劣らず、多くの漢詩を残しており、その詩の多くは、良寛の心象世界を、的確に表現しているように思われた。その一端は、唐津も絶賛する次の詩の中に表れている。

瀟条 三間の屋     瀟条 三間の屋

終日無人観       終日人の観るし

独座間窓下         独座す、間窓の下

唯聞落葉頻         唯聞く、落ち葉の頻りなるを

喧騒たるバブルの最中、良寛の漢詩を読み、その世界に触れることは、当時の私にとって、心の慰みであり、自分のこころが最終的に落ち着く場所を得た思いがした。

良寛は、40歳から、59歳まで、国上山の五合庵に住み、59歳から69歳まで、乙子神社境内の草庵に住み、69歳から三島郡島崎の木村元右衛門方の草庵に移り、74歳で死ぬまで、その草庵で過ごす。良寛の漢詩の多くは、五合庵時代に書かれている。

良寛が、若き貞心尼と出会い恋(?)をするのは、木村元右衛門方の草庵に移つた直後の69歳のときであり、このとき貞心尼は、29歳と云われている。

太宰治と津軽をめぐって

太宰治は、1948年6月13日に39歳で亡くなったが、今年は、それから70年経つ。今から14年程前の2004年、友人達と白神山地を訪れたとき、偶然太宰の生家を訪れたが、その感想を、「はらっぱ」という大学時代の仲間との会報に乗せたことがある。これは、その時の文章である。

7月27日、白神山地のブナ林散策の帰途、津軽半島を北上して竜飛岬に到つたが、その途中で、太宰治の記念館である斜陽館を訪ねた。先を急ぐ僕に、「ここまできたら見るものを見なくては」とのたまう女性陣に押されての訪問であったが。400坪もの太宰の生家を復元した屋敷の中を歩き、渺茫たる津軽平野をレンターカーで旅する間に、この北端の陸奥で、権力の象徴とも云える名家に多人数の兄弟の末の方の子として生まれた太宰を思って、久振りに胸の高まるのを感じた。その胸の高まりは、津軽半島を一周して青森駅に着き、青森空港から名古屋空港に到着し、家に落ち着いてから益々大きく感じられた。自分たちが旅した津軽地方とその印象が、作家太宰治(本名津島修司)の中でどのように感じられ、それが現在の自分とどのように繋がっているのか、それを確認したい要求が、ますます強くなった。

そういえば、太宰は、津軽という作品を残しているが、それは、昭和19年太宰が36歳の時、生まれ故郷の津軽を3週間がかりで旅した記録的な作品である。昭和19年は、私が生まれた年であり、それは丁度60年前のことである。記念館の中の陳列物の多くに津島美知子寄贈の札が掛っていたが、それが太宰の奥さんの名前であること作家の津島裕子が、次女の里子であることを始めて知った。一度作品「津軽」を読んで見たい。僕の中で、その気持ちが次第に押さえがたくなり、とうとう作品を手にしたのは、8月の9日久振りに出かけた栄地下の書店でのことだった。太宰の「津軽」の中には、私達が目にした北端の町々に関する記述が、その歴史と風土、それと太宰の少年期の思い出、旅で出会った知人達との会合・会話と共に示されていた。

少し自虐的でユーモアのセンスに満ちたこの作品の後には、作家亀井勝一郎が、その評の中で、これは太宰の前期と後期を繋ぐ作品で、太宰の精神が健全な時期の作品と絶賛していた。

36歳の彼の文章は、わかりやすい文体の割には難しい漢字や言葉が各所に出ており、旧制弘前高校から東大文科へ進んだ秀才の片鱗を感じさせ、彼の読書量と知識の豊かさを感じた。60歳の自分なら、彼と同じ程度の文章は書けるかも知れないが、この漢字表現には、脱帽せざるを得ない。36歳と60歳が同じ程度であるということは、つまり、彼は、いや彼も含めた、正岡子規、尾崎紅葉、国木田独歩、斉藤緑雨、長塚節、芥川龍之介など30代で亡くなった作家達は、我々より人生を6割も圧縮して生きていたのかも知れぬ。

「津軽」の中の彼の感覚や印象を自分の印象と対比させながら、僕はふとこんなことを考えていた。作品「津軽」は、彼が幼いときに育ててもらった「たけ」という乳母に出会うため北端の港町小泊を訪ねた場面で終わっている。

小泊は、豊かにカーブする日本海側の海岸線を北上した最後の港町で、この後、道は右に回り、竜飛岬まで舗装された山道が連なっていたが、無論太宰が旅した頃は、この竜飛に至る道路はなく、小泊は、北辺の行き止まりの港町であり、このことは、その後の太宰の生を象徴していた。

この繊細な少年の神経を持った作家は、これを書いてから3年後、玉川で入水自殺して亡くなる。彼が求め続けた「愛」と自分の現実との亀裂の中で生への衝動を見失ったためかも知れない。

そういえば17年前、長男・長女で結婚した古くから友人がガソリンを被って焼身自殺したことがあった。その彼は、早稲田の文学サークルに所属し、学生当時、太宰治についての一文が当時の文芸誌に掲載され、賞金を貰ったと僕に語ったことがあった。

かれが、自殺した当時、僕には彼の行動が全く内的に理解できなかった。夫婦間と親子間の愛憎の結果と理由ははっきりしていたが、高校教師で、分別も十分あったはずの彼の自殺に至るまでの絶望感がまるで想像できなかった。その思いは、いまだに変わらないが、太宰の「津軽」の中にその謎に迫る微かな足跡を見た思いがした。「津軽」を読み終えて、久振りに青春に戻った充実感があった。こんなきっかけをつくってくれたのは、Tさんの御主人の企画と無心でレンターカーを運転してくれたM君、そして、見るところは見なくてはと、強引に斜陽館見学に誘ってくれた、T、K、Eさんのおかげと感謝している。                                                                                                                                                         以 上

僕の詩的抒情史  ――詩・言語・宇宙ー

五年程前、家のリニューアルをしたときのことである。二人の娘が嫁いで出て行った後には、彼女等のそれまでの生活の足跡が各所に残されていて、その整理が問題となった。その中に、数多くの教科書や参考書、辞書の類があった。これ等を思い切って捨てることにしたが、まだ使えると思われるものは、残すことにした。特に、辞書類の一部は、自分の古いものと交換し。また、図鑑もまだ使えると判断した。

 しかし、教科書や参考書は、もはや不要のものと思われ、その多くを処分した。しかし、その中にどうしても、捨てがたいものがあり、その一つが高校時代の漢文の教科書であった。その教科書の中に、杜甫や李白、韓愈の詩と共に蘇軾の名文「前赤壁賦」を見つけ思わず胸が熱くなった。「壬)の秋、七月既望、蘇子客と舟を泛べて赤壁の下に遊ぶ。」で始まるこの名文は、今でもその半分を諳んじることが出来る程好きな文であったことを思い出したが、後半が思い出せなく、それが心に残り、いつか読み返そうと残すことにした。

 最近になって三国志の「赤壁の戦い」をテーマとした映画「レッドウルフ」を見ていて蘇軾の名文「前赤壁賦」を思い出し、あらため読み直し、それと共に、青春時代に詩や名文と出会った頃の思いが鮮明に蘇ってきた。

 僕は、高校時代、山岳部に入部したが、その動機は、当時愛読していた国木田独歩や若山牧水の詩に歌われる自然に魅かれたからであり、とくに独歩の「武蔵野」は暗誦するまでも好きであった。詩や名文へのこうした憧れは、中学時代にテニス部とともに合唱部に所属していたことや、放送室に出入りしてクラッシック音楽を聴いたことと関係している。中学・高校は、受験勉強に追われたが、国語の中に出ていた北原白秋の「落葉松の林」等の抒情詩には、心弾むものがあった。漢詩には、高校時代に初めて出会ったが、五言律詩や七音律詩のリズムやそれを基調とする名文に心をふるわせた。特に、漢文の先生は、詩吟の名人でもあり、講義の時、幾つかの詩を皆の前で朗朗と吟じて、我々を感動させた。その中でも「岐山悲愁の風更けて、陣雲暗し五丈原、零露の文は繁くして・・・・」で始まる土井晩翠の三国史の諸葛孔明の死を詠った長詩「星落秋風五丈原」の詩吟は圧巻であった。

 大学生になって、すぐ文学サークルに入った。文学サークルでの活動は、一年にも満たない期間で、数回の読書会に参加したことと文学を語れる友人を得た程度であったが、西欧の詩や現代詩に接するきっかけとなった。特に、現代詩についての決定的な出会いは、大学の文学サークルで一篇の詩と評論に出会ったことである。当時このサークルでは、「不毛の地名大に芸術の花を咲かせよう」のスローガンを掲げて「砂漠」という同人誌を発行していたが、その中に石井守さんの詩が掲載されていた。別れを詠った詩であり、同じ号に収録されていた村野四郎と現代詩に関する評論あった。そこで読んだ詩の書き出しは、次の詩句で始まっていた。

風景の中を木枯らしが吹き抜けるように

今こころの中から

すべての風景が消え去ってゆくのであった

さようなら、傷口がまだレモンのように匂っている間に

僕等は右と左に分かれよう

今は、心が貨幣のように固い時代なのだから

その声は沈黙の中へ

沈黙は都会の騒音の中に掻き消える

  ・・・・・・

五十二年前に出会ったこの詩はさらに続くが。当時の自分の生きている状況と生に対する新しい抒情に目覚めさせてくれたものとして終生忘れられぬものとなった。また、その時目にした村野四郎に関する評論もその内容を思い出すことは出来ないが、その詩が、哲学的な存在論をベースとした絵画的・イメージ的なものであり、それが、今まで慣れ親しんできた音楽的なリズムを主体とする抒情詩と全く異質なことにショックを受けたことは、はっきりと覚えている。その一つ槍投げという詩

 

あなたの狙ふのは何です

新しい原始の人よ

ふるえながら光は飛んだ

その方向で

突然おそろしい喚きごゑ

ごらん

背中に槍をたてられ

一瞬にげようと蹌くもの

しかし それも

ぢきに静かになる    (村野四郎体操詩集より)

 

 こうした詩の世界への導きとなったのは、創元社のポエムライブラリの四と六として発行された「西洋の詩を読む人に」と「現代詩はどう歩んできたか」(昭和三十一年発行)の二冊の本であり、西欧詩と現代詩への探索が始まった。

特に、中学からの友人の一人が早稲田の仏文科へ進んで、その影響もあって、ボールドレール、ヴアレリー、ランボーやマラルメ等のフランス関連の詩に接するようになったが、ゲーテやバイロン、リルケ等のドイツ関連詩にも魅かれていた。シュールリアリズム関連のフランスの詩は、訳語の問題もあり、フランス語を学んでいなかった僕には難解で、やがて興味は、エリュアールやアラゴン等の分かり易い左翼詩人に向かった。ドイツ詩は、ドイツ浪漫主義の詩から、ブレヒト等に向かったが、リルケの「マルテの手記」と「ドウイノの悲歌」に出会って終わり,アメリカでは、ポーからホイットマン、オーディンの詩と出会い、スペインでは、ロルカの詩に惹かれた。イギリスでは、ワーズワースの抒情詩に接したが、英文学の梅津先生の影響で、ブレイクの詩に興味をもった。ロシアの詩としては、手元に創元社版の「レールモントフ抒情詩集」(昭和二十七年発行)しかない。

日本の現代詩については、すぐに荒地派グル―プの詩に辿りつく、荒地派は、一九四七年~一九四八年にかけて刊行された現代詩の同人誌「荒地」に属した詩人達で、その中には、鮎川信夫北村太郎、中桐雅夫、加島祥造、三好豊一郎、黒田三郎、高野喜久雄田村隆一、野田理一、吉本隆明等がいる。「荒地」の名前は、第一次世界大戦後、T・Sエリオットが著した詩集「The Waste Land(一九二二)」による。

彼等は戦前のモダニズム詩やシュルレアリスム詩に影響を受けながらも、ヴァレリーらの西洋の大戦間詩人にも通暁していて、戦争での文明的変容の中で批判的に詩法を問い直し、独自のスタイルを確立してゆく。一九六十年代には、「荒地」は廃刊されていたが、その詩は、まだ時代の空気で呼吸していた。僕は、この荒地派の詩人達の詩集を読む中で田村隆一の詩と出会う。彼の詩の意味は、分からなかったが、言葉のリズムと言葉のイメージの融合が、僕の心と共鳴し、生きることの感動を呼び起こしてくれ、恋にも似た情感を感ずることができた。それ以来、数十年間、彼のあらゆる作品を読み続けている。その田村隆一は、詩集「一九九九年」の中で、「さようなら、遺伝子と電子工学だけを残した人間の世紀末」と詠い一九九八年八月七五才で亡くなった。その一〇月に現代詩手帳が田村隆一の特集号を出し、僕は、これによってその死の様子を知った。僕にとっては、一度会って肉声を聞きたいと思う数少ない人の一人であっただけに残念であった。

 荒地派の詩は、詩と言葉と存在の関係について考えるきっかけともなった。言葉には、論理的な側面とイメージ又は感情的な非論理的側面がある。このことは、大学時代から問題意識としてもっていた。社会人として技術の世界に入ってからは、論理的な側面としての言語と格闘することになる。設計と建築現場を経験した後、上京し配属された技術開発室という部署での仕事の一つは、内外の技術文書を調査し、その時点の技術的指針を設計基準や技術レポートの形でまとめることであったが、ここでは、情報伝達のツールとしての言語の扱いかたが問題になり、修飾語の掛かり方や接続詞の用い方を徹底的に学ぶことになった。また、英語の論文を日本語に翻訳する中で、その困難さが、その内容の理解より日本語で表現することにあることも痛感した。これらの技術文書の執筆経験の中で、基本的用語ほどその概念を明確にしないと論理展開が出来ないことも学んだ。

 非論理的側面として言葉の代表は、詩であるが、それが宇宙や世界認識と密接に関係しているのを痛感したのは、良寛の漢詩に出会ってからである。その一つ

     蕭条三間屋       蕭条三間の屋

     終日人無観       終日人の観る無し

     独座閒窓下       独座す閒窓の下

     只聞落葉頻       只聞く、落葉の頻りなるを

この漢詩では、漢字の形で絵画的イメージを表し 、意味で音楽を奏で、合わせて心の宇宙を表すように感じた。この視点から良寛詩集(渡辺秀英;木耳社:一九九四・三・一〇増訂五刷)を読み、その勢いで、一休宗純 狂雲集(柳田聖山訳:中央公論社二〇〇一・四・一〇発行)、空海の詩(阿部竜樹:(株)春秋社を読む。その中の一つ

 後夜に仏法僧鳥を聞く

閑林独座草堂暁   閑林の草堂に独り座り暁を迎える

三宝之声聞一鳥   三宝の声を一鳥に聞く

一鳥有声人有心   鳥の声とわが心が響きあい

声心雲水倶了了   声と心、雲と水が暁に融ける

 

言葉が、論理や感情だけでなく一つの宇宙に連なっていると感じるようになった。空海の声字実相義は、言葉と宇宙の関係を詩の形で表現したものであるが、そこにいわく。

 五大皆有響  五大(地、水、火、風、空)に皆響きあり

 十界具言語  十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人等)に言語を具す

  六塵悉文字  六塵(色、声、香、味、触、法)は悉く文字なり

 法身是実相  法身(大日如来)は、実相なり

 

 二〇一〇年、東京駅の八重洲口側にあるブックセンターに立ち寄ったとき、ちくま学芸文庫のコーナーで、言語に関する一冊の本に出会った。それが「言葉とはなにか」(丸山圭三郎:筑摩書房:二〇一〇・六・一〇第三刷)であった。なにげなく手に取ったその本には、今までの言語に対する僕の疑問を一挙に解消してくれる内容が書かれていた。言葉(ラング)は、一般に信じられているように「物や概念の呼び名」ではなく、人間に備わっている言語化能力(ランガージュ)により、混沌とした未分化の世界を切り取った結果であり、どのように切り取るかにより、個別の言語が誕生する。言葉の切り取り方が異なれば、当然言語ごとに連合関係もなってくる。ある地域での切り取り方は、その地域での特有の言語と文化を発生させ、それが民族を形成する。この基本的なヒントを僕は、大学時代に与えられていた。英文学の講義の中で、梅津先生は、リップという言葉は、日本語では、唇と訳されるが、リップと唇は、同じ領域を示していなくて、リップは、唇より広い範囲を表すので、英語では、リップに髭がある等の表現が成り立つ。このように異なる言語は必ずしも一対一の対応が成り立つものではないと説明されていた。そして、大学時代、物理学の本と格闘した結果、本は、順に読めば理解できるとは限らす、一通り最後まで、読むことにより、初めの一頁が理解できる場合が多いことを学んでいたが、一つの言語は他の言語との連合の中でその役割や定義を明確にすることを考えれば極めて当然のことであった。

 言葉は、そのままでは混沌でしかない世界に秩序をもたらすものであるなら、言葉は世界そのものであり、「始めに言葉ありき」の意味が明らかになる。丸山圭三郎の「言葉とはなにか」は、スイスの言語哲学者のソシュール(一八五七~ 一九一三)の言語論を発展させたものであり、その思想は、「言葉・狂気・エロス」(丸山圭三郎 (株)講談社二〇〇七 .一〇.一〇第一刷)「ソシュールを読む」(丸山圭三郎 (株)講談社 二〇一二.七.一〇第一刷)でその詳細を知ることが出来る。僕が、これ等の書物を手にしたとき、丸山圭三郎は一九九三年に六〇才で既に亡くなっていた。この本にもっと早く、大学生の時に出会っていたら、僕の勉強法はその影響を受け、僕の人生は、もっと違ったものになっていたかもしれない。完                      

 

-震災後の思想と私- 

2011年の震災から今年で7年経とうとしている。あの直後。私は何を感じていただろうか。そのとき感じた文章を読み返してみた。震災の記憶は遠くなりつつあるが、僕のこの気持ちは、まったく変らない。

あれから一年経った。あのとき、信じられない光景を前に、この事態をどう受け止めたらよいのか必死に考えていた。「およそ観るべきものは見、聞くべきものは聞き、知るべきことは知り、味わうべきは味わった」と思いはじめたときだった。水彩画の世界が突如として水墨画の世界に変わったような衝撃であった。その衝撃の感覚は、最愛の肉親や友を亡くしたときに似て、はじめは、それほどのダメージを感じなかったが数ヶ月経つ内に、ずっしりした心の痛みとして心の底に沈殿していった。僕の中での、何かがが変化した。そうした中で、名古屋学生の会の50周記念が行われたが、心から喜べなかった。自分だけが、陰画の世界に住んでいる感覚をうまく表現できなかつた。沈黙を守る以外になかった。あの出来事を皆は、どんな風に、受け止めたのであろうか。僕の感性が異常であったのかもしれない。

原発事故で東電批判が充満しているが、直後の東電の知り合いからは、定年直前の技術者が事故の現場で、命がけで働いているとの情報も入ってきた。技術者としての自分が、あのような現場にいたら、どんな気持ちであの事故に立ち向かっているのだろうかと思うと人ごとは思えなかった。災害の真っ只中にいたとしたら自分はどうしたのだろうか、そのなかで何を考えどう行動したのだろうか。災害の中でこそ、人間のすべてが試される。あの災害に対応できる思想とは、何か。その問いかけが、頭の中を駆け巡っていた。

あの出来事で、所属しているNPOが計画していた行事がすべて影響を受けた。予定されていた国際シンポジウムは、急遽震災をどう受け止め、復興に繋げるかの緊急集会に模様替えされた。

そのとき、技術者としての僕には、技術の分野では、設計基準とは何か、安全性とは何かが問われていると思った。武谷三男の安全性の問題に対するアプローチを手掛りにこの基本概念について考えを整理して発表した。それは、これから混迷を深めると予想される科学・技術をめぐる議論に備えるためでもあった。だが、こうした僕の問題意識に、共感してくれたのは、清華大学の若き準教授のみであった。僕は、自分の感性を伝えきれない自分に苛立ちを感ずるようになっていた。

問題の本質は、自然に比しての人間のひ弱さであり、世界の不安定さと不条理であり、あまりに、無自覚にエネルギー依存している人間と文明のあり方なのだ。だが、こうした本質的な問題は、覆い隠されたまま、人々の怒りは、原発事故を起こした東電や政府の対応等目の見える事象にのみに集中しているように思える。それが私には、思想的逃避に思えてしかたがない。これは、日本人の中で、何かが滅びつつある兆候ではないのか。そう感じた。

古の日本人は、自分を偽ることなく、悲しみに直面していたように思う。定年後、ふとしたきっかけから謡曲を習うようになったのは, 謡曲を習っていた仏文科出の友人がら、「墨田川」を聞いて、「こんなすごいものがあると感動した」という話を聞いたことがあり、そうした感動に自分も接してみたいと思ったこともあった。謡い7年、舞3年と云われて、個人教授を受けるようになって数年たった頃、知り合いとなった87歳の婦人に謡曲の謡のサークルに誘われ参加するようになり、数年経った頃、「墨田川」を謡う機会に恵まれた。

そのときのことである。シテ(主人公)役のベテランの先輩の声が、物語の中心にきたとき、思わず涙声になるのを目の当たりにした。「思わず感情が昂揚してしまった」ためであった。「墨田川」は、極めてシンプルな物語で、都から人さらいにあった子供の跡を追って東国までやってきた母親が墨田川まで、やってくるとその堤に人々が集まっているのでその理由を尋ねると、そこで、法要が行われるとのこと。何の法要かと尋ねると、人商人に連れられた幼子がここで病気になり捨てられたのを近所の人が哀れに思い保護したが、介抱も空しく亡くなった。今日がその命日であり、法要はそのためだという。その幼子の名を尋ね、それがまさしく我が子であることを知って嘆き悲しむという物語である。物語は、人々の読経の声の中に我が子の声を聞くところで終わる。

この単純な物語が何故、踊や芝居の題材となり、人々の心をとらえるのか。僕は1000年も前の物語が、人を動かすことに驚いた。そこには、悲しみを人のせいにするのではなく、悲しみそのものの純粋な表出があり、それに心が感応するためと思えた。つまり悲しみそのものに感能する能力が、人間にあり、それこそが、文化や思想の根本をつくるものではないのか、そしてそれこそが日本文化の基底となっているものではないか。

1000年も前の時代、自分の力では何とも出来ない巨大な力を前に、直面した人々の体験や悲しみを乗り越えるために生み出したのが、悲しみの純粋な表出を基本とする能であり、謡いであったように思われる。非力な人々は、悲しみへの感応を通して、よみがえり、不安定で、不条理な世界に対峙していったのでは無かろうか。こうした心のあり方、悲しみに対する感能力が、近代の合理主義や豊かさの中で、減退しつつあるのではないか。「日本人の中で、何かが滅びつつある兆候」と思われる事態とは、このことと関係している気がする。

巨大な自然、不安定な自然を前にしたときの人間のひ弱さ、はかなさ、文明とは絶えざる自然との緊張関係の上にのみ成立するものであること。このことを思い知らされたのが今回の震災と原発事故であった。そして、それは、我々の住んでいる日常世界のすぐ裏に非日常の不安定で不条理な世界があることを意味し、あたかも災害が予測可能であり、人間知が全てを制御出来、世界が日常世界からのみ成り立つかの論調は、この真実から目を背けるもののように思える。

今回のような災害は、地震だけでなく、宇宙の彼方から突如として訪れる小惑星の衝突や銀河系や太陽系の非線形な挙動からも起こりうる。人類の知や現代の文明は、こうした自然の不安定な挙動に対応するに十分な力をもっているわけではない。人類は、まだ未熟であり、成長の過程にある。そしてその人類の知を育てる,には不安定で不条理な世界と絶えず対峙する緊張感が必要である。この緊張感を喪失し、安全・安心を当然のこととするところに退廃が生まれる。絶対安全を要求する反原発派も絶対安全をいう原発推進派もこの意味では、同罪である。

あの日のほんの半年前、民主党の事業仕分けで、国交省の100年に一度の洪水を対象としたスーパー堤防の工事中止に喝采を送ったマスメデヤや国民が、手のひらを返したように1000年に一度の災害に備えよと意見を変えるのを目の当たりにすると。この国の思想の退廃を思わざるを得ない。一年経った今もマスメディアヤの主要な論調や多くの国民の意識は、願いさえすれば、安全や平和は、得られて当然のこととし、その責任を科学や技術に押し付けているように思える。しかし、こうした意識に衝撃を与えたのが、今回の震災であつたはずである。

新型ウィルスに怯え、地震に怯え、放射能に怯える姿は、豆腐が健康よいと聞けば、豆腐を買いに走り、納豆が良いと聞けば、それを買いに走る浅薄なメディヤとそれに翻弄される国民の姿そのままである。1000年前の人達が、地獄と亡霊に怯えたように現在の人々は、地震と放射能に怯えている。しかし、1000年の人々が不安定で不条理な世界を直視していたのに比べて、我々はどうだろうか。まだ、平和と安全の幻想を夢見てはいないか。

我々は、もう平和な時代に戻れない。我々の住んでいる世界の本質的な不安定さ、不条理さ、不安全さへの自覚なくして、これからの世界を語ることは出来ないはずである。逃避することなく、冷静に現実に対峙し、この世界を生きるための新たな思想が求められている。それは、現代の文明を支えている宇宙論や科学・技術等の現状と限界の正しい理解の上にしかない。

挑戦を受けるSFと将来―神鯨を読んで―

今世紀に入ってからの急激な科学・技術の発展が、過去のSFの多くの前提やテーマを陳腐化させつつある中で、かたどおりのテーマや物語では、満足できなくなってきた。しかし、こうした状況の中でも、はっとさせられ、未来社会の新たな様相を垣間見せてくれる作品もある。

 古書展の三冊100円コーナーで見つけた「神鯨」という昭和53年出版のこの本は、まさしく、宝石のように輝くこうした作品の一つである。

1974年バランタイン・ブックスより刊行されたトーマス・J・バスラーの「GODWHALE;神鯨」である。著者のT・J・バスは、1931年生まれで、ベトナム戦争にも従事したことのある医大卒の病理学の科学者で、この作品は、彼が43歳の時の作品である。彼は、この作品の後、科学研究活動が忙しく、作品を発表していないようである。

神鯨の時代背景は、今から数千年後の地球、その中で生きる変貌した諸人類、及び各種サイボーグや創造生物達の物語で。その扱うテーマは、性・タブー・宗教・神話・探検・ 植民・生物学・環境・コンピユーター・サイバネテックス・技術・工芸・ロボット・アンドロイド・サイボーグ・都市・海洋等、タイムトラベル等時空を除く殆どのSFのテーマが

取り上げられている。特に訳者の日夏響が解説で述べている「人間を腐敗性物質として捉える作者の生態学的視点」が、生物としての人間を感傷なく自由に捉えてるところが、時代の制約を乗り越えるかかる作品を生み出したと思わずにいられない。

訳者日夏 響は、1942年生れで、横浜国立大学史学科を中退した女性翻訳家で、オカルト本、SF、幻想文学を翻訳した。 その翻訳の数は多くいが、その人物像は、はっきりしない。

2012年の「終末期の赤い地球」電子版には、日夏響の著作権の継承者を探している旨が、記載されているので、この頃70歳前後で亡くなっていると思われる。訳者あとがきから見識がうかがえるが、一度は話が聞きたかった人である。苗字が本名ならば、あの日夏耿之介の関係者かもしれない。

定年後から始めた謡曲と私

「定年後に謡曲を習い始めた」と云うと、ほとんどの人が怪訝な表情を示す。その中には、謡曲とは何かについての基本的なことが分らぬ戸惑いもあれば、いまさら謡などに興味をもつことの不可解さに対する戸惑いもある。謡曲とは、能の謡いと台詞の部分を取り出したものである。織田信長が、桶狭間の合戦に出掛けるときに、「敦盛」を謡い舞う場面があるし、結婚式には、高砂の一節が謡われる。では、僕にとっての謡曲とは何か、そこにどんな出会いがあったのか。

もう55年も前、大学1年生のとき、県女の大学祭で、初めて謡いの場面に出会った。はかま姿の女子大生が、扇を前に垂らして端正に座って集団で謡う姿にいたく心を動かされたが、これはその集団の中に高校時代の文学仲間のマドンナ的存在であったT子さんの姿があったせいかも知れない。この文学仲間は、今から思えば、僕を除き比較的恵まれた家庭の子女が多く、高校生ながらクラッシックだけでなくジャズやイタリヤの歌曲に親しみ音楽喫茶やジャズ喫茶に出入りしたりする多分に知的で大人びた個人的な繋がりの連鎖といった緩やかな関係で結ばれていた。大学入学の当初、同人誌「砂漠」を発行していた文学サークルに加わり、大江健三郎や阿部公房といった当時新進の作家についての先輩達の議論を聞きながら、村野四郎の詩人論等が掲載された同人誌に刺激を受けたりしていたが、政治の時代の潮流の中で、こうした文学的な環境から次第に遠ざかることになった。

僕が、再び謡曲と出会うには、長い政治の時代とその後の荘子や仏教、キリスト教神秘主義、トインビー等の文明論等との出会いと格闘の長い道のりが必要であった。思想として生死の問題を考える中で出会ったのが、朝日選書として出版された田代慶一郎の「謡曲を読む」の中にある「文学としての謡曲」の一文であった。謡曲をギリシャ悲劇やシェクスピアの戯曲との対比で捉えたこの一文によって、僕の中には、謡曲への憧れが一気に芽生えた。そして、ここ十数年ばかり前、狂言や能の案内のチラシの中に懐かしい大学時代の文学サークルの仲間であった狂言師の佐藤友彦の名前を見つけ、彼が狂言師の家元の生まれであったのを思い出し、能や狂言の舞台を見に行くようになってから、狂言、能、謡曲が、日常的な身近なものと感じられるようになった。

そして定年の数年前、たまたま泊めてもらった友人の家で、謡いの和紙の教本をはじめて手にとって、伝統の持つ不思議な魅力にとりつかれた。謡曲「隅田川」を聞いて涙が流れ、こんなすごいものが日本にあったかと感動したのが、謡曲を始めたきっかけであったとは、その友人の話である。

そして定年後、ある技術者の集まりで、50年近く謡曲を習って名誉師範の資格を持つ人が、先輩の跡をついで、ある謡曲の会の先生をすることになったとの話を聞いて、早速弟子入りすることにした。月2回の個人レッスンを受けるようになり、30年以上習っている人達に囲まれてようやく10曲ばかりを習い終えた。謡い7年、舞3年といわれた、その時間の7年が過ぎた頃、師匠の健康上の理由で、この会は無くなり、これに代わって月一回の謡いのサークルにも加わるようになり、さらに7年が経過しようとしている。一回5曲を年12回で、合計年60曲を謡うことになった。

謡曲は、全部で250曲あまりであるが、あまり詠われない曲もあり、今までその約60%の150曲程に接したことになる。ただ月5曲は、結構キツイノルマで、その多くがかなり未消化のままであることには間違いない。それでもようやく、譜面を見ながらどんな曲でも挑戦できるようにはなった。

近頃は、練習のためのツールもテープレコーダー、ICレコーダー、ICウォークマンと進化しつつある。歴史と文化を凝縮した言葉、無駄のない台詞、七五調一句を八個拍子にはめる平のり等の日本語の特徴を生かした拍子法、喜怒哀楽の妙を表す深い音階等、洗練された文化の極としての謡曲の世界は、生者と死者の出会いの世界であり、古今東西、春夏秋冬、森羅万象の多次元の時空を超越した宇宙である。謡うことは、自らが主体となって人間世界を詩的に時空間旅行することである。今になって思えば、この日本文化の最も洗練された感性を共にする人が少子高齢化の流の中で、どんどん少なくなっているのが残念でならない。能観賞の後で、その感想を魚に、古酒を酌み交わし、人生と生死をしみじみ語り合えるならそれに勝る楽しみはない。同好の士よ、来たれ。