時間と風景をめぐってー日常の中の幾つもの時間と異風景との出会いー

日常の中に、幾つもの時間の流れのあることに気付いたのは、定年後の生活の中でであつた。

丁度、太平洋の中に黒潮だの親潮などのような海流が流れているように、我々の日常生活の中には、多様な時間が流れているようなのである。そして、その各々の流れの中では、日常の風景が微妙に違ってくる。我々の命は、時間と空間が密接に結びついている時空連続体の一筋の光の糸のようなものであると頭の中では、理解していたが、そのことが時間の多様な流れと多様な風景として実際に感じられるとは、思ってもみなかった。

特に、はっきりするのは、現役のサラリーマンと接するときである。定年後、現役の会社員と接するとき、彼等を取り巻く時間の早さに巻き込まれそうになる感覚が、エスカレーターに乗る時に感ずる加速度に似ている。そういえば、数年前長女の二人目の出産のとき、2ヶ月近く、我が家に滞在していた5歳の孫は、いつも有り余る時間をもてあましていた。彼女には、大人とは、全く違った時間が流れているようであった。

こんなとき、僕より10歳若い俳人 長谷川櫂の「俳句的生活」という本の中に、日本人は、文化的に三つの暦の時間を生きていると書かれてあった。

すなわち、新月を基準とする太陰暦が西暦604年中国から伝えられたが、それ以前の古代の日本は、満月を基準とする太陰暦を使用しており、明治維新の後明治5年に太陽暦が導入され、この年の12月3日を明治6年の1月1日としたときから新暦が始まった。お盆等の日本の伝統的な行事は、歴史的に仏教の導入と結びついている場合が多く新暦と旧暦の混同や混乱は、現代まで、続いている。古歌を読む場合は、この時間の違いを頭に入れ、古代の時間の流れから風景をみる必要がある。

かくてあの西行の歌ねがわくば、花の下にて我死なんもあの如月の望月の頃」の如月の望月が今の3月末であり、謡曲「竹生島」の中の「頃は弥生の半ばなれば・・」の弥生は、今の4月ということになる。日本の日常には、仏教渡来前の神道と仏教渡来後の中国文明そして明治維新後の西洋文明に代表される三つの時間が流れており、これが多様な四季の変化と相まって豊かな日本文化の土壌を形づくっている。

時間は、社会生活や文化生活の中で多様に流れているだけでなく、肉体的・精神的状況によっても異なる。かくて、幼児から少女、少女から娘、娘から妻、妻から母、母から老婆へと移ることは、均一な時間の中での変化ではなく、異なる時間の流れへの飛び移りのようなものであるのかも知れない。

平社員から主任へ、主任から課長へ、課長から部長へサラリーマンも又社会的な異なる時間の飛び移りをしているわけで、これら多様な時間には、その時間流からの風景が多様に展開していることになる。我々人間は、本質的にタイムトラベラーなのだ。人生を豊かに生きるとは、多様な時間を生きることであるのかも知れない。今日は、借りて来たCDで、アニメの「時をかける少女」を見た。このときは、確かに、50年もタイムスリップして青春の時間の中を泳いでいた。

青春都市の学友達

学友達の思い出には、幾多の謎がある、光があり、影がある

還暦を契機に回数を重ねてきた大学の同窓会

回数を重ねるごとにあの時代の輪郭が、姿を見せてくる

 

その時代は、薄明の中に浮かび上がってくる丘の上の

城壁に囲まれた中世都市のようでもあり

あるいは、砂漠の小高い丘に半ば埋もれた

古代都市の廃墟のようにも思える

 

しかし、じっと眼を凝らしてみれば

その都市は、迷路に満ち満ちており

明け方から夕方そして深夜に至るまでの

すべて風景が折り重なって

時間の中に凝縮されている

一つの宇宙コロニーのようにも思える

 

あの頃

僕らはやたらと自分の足跡だけを見つめながら

その都市の中を徘徊していた

あの都市で、僕等は、何人の仲間と出会ったのだろうか

多くの仲間達と出会ったようにも思えるし

異次元の幻影を見ただけのようにも思える

 

見知らぬ西洋の黒ずんだ街角を

幾つも曲がった先に

突如として見えた湖の湖面に

一瞬輝いた光の反射に

僕は進路を見失ってしまった

 

そのように、多くの仲間達が

迷路のような街の一角で

思わず立ち止まってしまったということだ

 

だが、その先が異なっていた

あるものは、尖塔の頂きに

天使が降臨するのを目撃したし、

あるものは、大空に巨大な風船をみた

 

あるものは、おびただしい群衆と共に

赤い旗をなびかせて街の先の砂漠に行進して

行き方知れずになってしまった

自らが、黒いマントを纏い、

軍勢の如く駆け抜けて行った者達もいた

 

路上に枯葉の舞う年の暮れ

一文無しの僕は、目的もなく街を歩き続けていた

それは僕の儀式のようなもので

その時、自分が何をしたいのか

さっぱり分らなくなっていた

 

しかし眼差しの方向は、皆異なっていて、

あるものは、町の尖塔の先を見つめていたし

あるいは街の外部へ至りそうな

微かな明かりを目指した

香に魅かれたもの、

風に魅かれたもの、

音に魅かれたもの、

 

やがて、各自が思いをさだめ始めた頃

時が引き潮のように消え去り

青春都市は、崩壊した

今、僕はその幻を遠望して砂漠の上、満天の星の下にいる

 神と神話をめぐって

もう、27年ほども前、東京に出張したとき会社のある飯田橋の本屋へぶらりとよった私は、その新刊書のコーナーで、「はじめてのインド哲学」と云う現代新書を手にして、どこか記憶の中にあるような名前に出会った。立川武蔵というその著者の略暦を確認して、数十年前のある夏の日の記憶か゛鮮やかに蘇ってきた。

それは、僕が大学2年の夏のことで、僕は、友人のKと学生会館の一角で、その立川武蔵さんと話し合っていた。大学に入学して、早くもマルキシズムの洗礼を受けていた僕は、入学して一年半の間に、はやくもいっぱしの唯物論者になっていた。高校生時代、倉田百三や西田哲学に惹かれていた僕は、大学に入ると共に、今度は、鮮やかに唯物論者に転向していた。その僕と哲学論争をしていた友人がKで、クリスチャンの家に育ったKは、聖書研究会かなんかを通じて、立川武蔵さんと知り合い、僕を引き合わせたのだった。

彼の真意がどこにあったのかは忘れてしまったが、そのときの話のテーマは、神と宗教についてであった。当時の存在や宗教を真っ向から否定する僕に、彼は、かれが問題にしているのは、神とはなにかではなく「神とは何かを問うている人間とはなにか」という問いかけこそが、哲学又は宗教の課題であるといい。「君は、反宗教的というより非宗教的な人間だね」とポツリと語った。夏の日差しの中で交わされたこの会話は、その後ずっと僕の心の奥に沈殿したままになっていた。

当時彼は、インド哲学を勉強していたといっていたが、その「はじめてのインド哲学」を中で、僕は始めて、彼があれから文学部の大学院に進み、その後アメリカのハーバード大学の大学院へ進み、そこでph.Dの資格をとり、名古屋大学の教授へ経て、国立民族学博物館の教授になっているのを知った。あのマルクス主義と唯物論の全盛時代に、彼は、インド哲学にキチンと照準を合わせ、ヨーガを実践するなど知と体験を通じての努力を続けており、その道が現在まで、続いていることを思って、僕は、目眩にも似たある種の清清しい感動を覚えた。

それは、この二十年間の僕の思索の中心テーマが、仏教や神秘主義と宗教体験をめぐる問題であったことと関係していたせいでもあった。宗教や神話と人間をめぐる問題は、マルクス主義に変わる歴史観を模索する中で、トインビーの歴史の研究を再読したり、エリアーデ等の宗教学に関する研究書を読んでゆく内に、序々に自分の中で明確な形で一つの認識を僕にもたらしつつあった。宗教とは何か、神話とはなにかそしてそれらは人間にとってどんな意味があるのかについて簡単にまとめてみたいとおもう。

人間は、世界を眺めるのに、自分なりに秩序づけて、理解しようとする。この場合、現実の世界は、何の意識もなしに眺めれば、ただ無秩序な現象の集まりにすぎないが、こうした無秩序な世界に秩序をもたらすものが、神や仏の概念であるのかも知れない。つまり

神は、遠近法で描かれた風景画の中の焦点に似ている。つまり、焦点の存在が、その風景に秩序を与え、それに美を与え、人を感動させることになる。

人間は、本質的に無秩序な世界の中にあって、その中を居心地よくするための壮大な知の仕組みをつくり上げて生きている。これらの知の仕組みの焦点となるものが神つまり普遍的な中心となる仮想の存在である。しかし、この仮想的存在は、世界に秩序を与える存在であるので、ある意味では、実在の存在でもある。社会が安定しているときこれらの観念も安定しているが、社会に変動が生ずるとこの観念にも変動が生ずる、ある局面では、観念の変動が現実の変動を誘導する。かくして、トインビーが語るように文明の衰退期には、その文明の象徴としての神の衰退をもたらし、その文明から離反する周辺から新しい価値観が生まれ、これが新たな秩序をもたらすにつれて、その価値観を担う新たな神が

新たな宗教を誕生させる。混沌がおさまり、安定期が訪れるとその秩序を象徴する価値体系が定まり、これがその文明の価値観としてひとつの知的観念体系を成長させる。

つまり、新たな文明や宗教の誕生は、風景の中に新しい焦点を設定する作業に似ている。

人間は、ある方向に行き詰まると別の方向へ歩き出そうとするが、その方向風景には、新しい焦点が必要でありその焦点を定める存在が、予言者であり、教祖であり、思想家であり、詩人であり芸術家、哲学者ではなかろうか。そして、行く手の世界が、新たな焦点

によって美しい風景画のように見え始めたとき民衆はそれらに支持を与え、新しい文明が

成長し始めることになる。                    以  上

 

 ――西行のもののあわれをめぐって――

「この文明は亡びるな・・・」今の社会に関する漠たる予感が突如言葉の形をとって脳裏に浮かんだのは、2005年11月の中国旅行で、香港島の頂から香港の夜景を見たときであった。超高層ビル群のネオンに彩られた夜景それは、莫大なエネルギー消費を伴うあまりに人工的で、きらびやかな光景であった。こうした、感想をもったのは、今回だけではなかった。

1980年代のバブルの絶頂期、土地神話と株価の高騰で、皆がばら色の未来を夢見ていた時期、古くからの友人と東京六本木の居酒屋で一杯飲んで、高層ビル群のネオンサインを眺めて帰途につきながら、「こんなこと続くはずがないね」どちらとも無く語りあったときも、同じような漠たる不安の中にあった。

市場経済化とグローバル化の流れの中で、地球が何億年もかかって蓄積してきた化石燃料の浪費を基盤とする現代文明に、未来がないことは誰の目にも明らかなはずなのに、この現実に対して、効果的な対策は何もなされていない。1974年にローマクラブが「成長の限界」を発表し、人類の危機を訴えてから事態は悪化するばかりである。

数十年先のことなど多くの人達にとっては、関係が無いことで真剣に考える人は、一万人に一人もいない。つまり、民主主義は、将来的な危機に対しては極めて応答が悪い制度といえる。亡びの兆候がはっきりとしていても、個人にこの流れを止めることは出来ない。

この感覚をどう表現するかで、悩んでいたとき、自然と脳裏に浮かんだのは、西行の次の歌であった。「こころなき身にも哀れは知られけり、鴫立つ沢の秋の夕暮れ」そしてその夜夢の中で、突如この歌の意味が、はっきりと分ったと思った。この光景は、沢に一羽立つ鴫が秋の夕暮れを見ている。このこころなき身の鴫は、西行そのものだ。この鴫は、秋の夕暮れを見ている。秋の夕暮れは、一年の終わりの夕暮れであり、これは、多分西行の目からは、貴族文化の亡びの時期で、ほんの短い自分の一生の黄昏を意味している。心を持たぬ鴫が、沢の中に一羽立って、秋の夕暮れを見つめている。あの鴫も哀れを知っている。自分も世間から離脱して一人、王朝文化の亡びの時期に、人生の終末を見つめている。この感情をものの哀れと表現した。僕には、そう思えた。

そして、僕の作った歌「雲去りてふるえる秋の夕暮れに、宵の月影みる人ぞなし」

「脳とこころ「の問題を研究している茂木健一郎「クオリヤ入門」という本を何気なく

書店で、買ったのは、彼が理学部物理科の出身でありながら小林秀雄賞を受賞したという点に興味をもったからであったが、彼に云わせると人間は皆、自分を通してしか世界を見られない。そして個々人は、孤立した存在であるが、歴史的に蓄積して来た文化や言語により自分の中に仮想の世界をつくって生きている。そしてこの言語や文化によって他者と係わるがこのことは時空を超えて他者とも係わることを意味する。このことにより、人間は、孤立しながら孤独ではない。西行の読んだ「もののあわれ」は一千年の時空を超えて僕のこころの中に伝わったといえる。

 

―定年後から始めた謡曲と私―

「定年後に謡曲を習い始めた」と云うと、ほとんどの人が怪訝な表情を示す。その中には、謡曲とは何かについての基本的なことが分らぬ戸惑いもあれば、いまさら謡などに興味をもつことの不可解さに対する戸惑いもある。謡曲とは、能の謡いと台詞の部分を取り出したものである。織田信長が、桶狭間の合戦に出掛けるときに、「敦盛」を謡い舞う場面があるし、結婚式には、高砂の一節が謡われる。では、僕にとっての謡曲とは何か、そこにどんな出会いがあったのか。

もう55年も前、大学1年生のとき、県女の大学祭で、初めて謡いの場面に出会った。はかま姿の女子大生が、扇を前に垂らして端正に座って集団で謡う姿にいたく心を動かされたが、これはその集団の中に高校時代の文学仲間のマドンナ的存在であったT子さんの姿があったせいかも知れない。この文学仲間は、今から思えば、僕を除き比較的恵まれた家庭の子女が多く、高校生ながらクラッシックだけでなくジャズやイタリヤの歌曲に親しみ音楽喫茶やジャズ喫茶に出入りしたりする多分に知的で大人びた個人的な繋がりの連鎖といった緩やかな関係で結ばれていた。大学入学の当初、同人誌「砂漠」を発行していた文学サークルに加わり、大江健三郎や阿部公房といった当時新進の作家についての先輩達の議論を聞きながら、村野四郎の詩人論等が掲載された同人誌に刺激を受けたりしていたが、政治の時代の潮流の中で、こうした文学的な環境から次第に遠ざかることになった。

僕が、再び謡曲と出会うには、長い政治の時代とその後の荘子や仏教、キリスト教神秘主義、トインビー等の文明論等との出会いと格闘の長い道のりが必要であった。思想として生死の問題を考える中で出会ったのが、朝日選書として出版された田代慶一郎の「謡曲を読む」の中にある「文学としての謡曲」の一文であった。謡曲をギリシャ悲劇やシェクスピアの戯曲との対比で捉えたこの一文によって、僕の中には、謡曲への憧れが一気に芽生えた。そして、ここ十数年ばかり前、狂言や能の案内のチラシの中に懐かしい大学時代の文学サークルの仲間であった狂言師の佐藤友彦の名前を見つけ、彼が狂言師の家元の生まれであったのを思い出し、能や狂言の舞台を見に行くようになってから、狂言、能、謡曲が、日常的な身近なものと感じられるようになった。

そして定年の数年前、たまたま泊めてもらった友人の家で、謡いの和紙の教本をはじめて手にとって、伝統の持つ不思議な魅力にとりつかれた。謡曲「隅田川」を聞いて涙が流れ、こんなすごいものが日本にあったかと感動したのが、謡曲を始めたきっかけであったとは、その友人の話である。

そして定年後、ある技術者の集まりで、50年近く謡曲を習って名誉師範の資格を持つ人が、先輩の跡をついで、ある謡曲の会の先生をすることになったとの話を聞いて、早速弟子入りすることにした。月2回の個人レッスンを受けるようになってはや5年目になる。謡い7年、舞3年といわれその半分の時間が過ぎた。30年以上習っている人達に囲まれてようやく10曲ばかりを習い終えた。謡曲は、全部で250曲あまりあり、この調子では、全て習うには、100年かかることになる。近頃は、月一回の謡いのサークルにも加わるようになった。練習のためのツールもテープレコーダー、ICレコーダー、ICウォークマンと進化しつつある。歴史と文化を凝縮した言葉、無駄のない台詞、七五調一句を八個拍子にはめる平のり等の日本語の特徴を生かした拍子法、喜怒哀楽の妙を表す深い音階等、洗練された文化の極としての謡曲の世界は、生者と死者の出会いの世界であり、古今東西、春夏秋冬、森羅万象の多次元の時空を超越した宇宙である。謡うことは、自らが主体となって人間世界を詩的に時空間旅行することである。今になって思えば、この日本文化の最も洗練された感性を共にする人が少ないのが残念でならない。能観賞の後で、その感想を魚に、古酒を酌み交わし、人生と生死をしみじみ語り合えるならそれに勝る楽しみはない。同好の士よ、来たれ。

――忘れられなない手帳の記録・・スペイン戦争と思想をめぐって――

もう30数年も前のことになるが一つの新聞記事についていたく感動し、その感想を手帳に書きとめたことがある。この手帳は、引越しや整理のたびごとに捨てようとしたが、この中に書いたその感想を読み返すたびに、そのときの感動がよみがえりどうしても捨てられなかった。その手帳は、最後には、表紙とその感想文だけとなり、今手元にある。記事に感動した私は、その著者に向けて手紙を出す気持ちで、その感想を書いた。以下はその内容である。

スペイン戦争について

1985年3月26日

拝啓 法政大学教授 川成 洋様

1985年3月26日(火)付けの朝日新聞にあなたが発表された「スペインで戦死した無名の日本人ジャック白井の足跡たどって」と称する一文を読み貴重なる御研究に思わず感動しました。この一文の中で、何よりも私を感動させたのは、50年近くを経てもなお且つ若き日の思想を持ち続けて集まってきた元義勇兵達の存在とその持続せる思想の輝きです。ここに焦点を合わせて貴重な取材結果を発表されたあなたの視点に心から敬意を表するものであります。一人の人間が一つの基本的な観点、それは、リンカーン大隊の隊長だったミルトン・ウルフの「われわれは、未熟な反ファシストだった。今でも同じだ」の言葉に集約されるが、このような観点を貫くことあるいは貫ける思想を持つ事の困難さと素晴らしさに心から感動すると共に、この50年間の歴史の中に美しく光を掲げ続ける一群の人達がいたことを知り、これらの人達と同じ時代に生きた一時期を持てたことを心から喜ぶものであります。

私の中のスペイン戦争は、頭の中の歴史のひとコマでしかありませんでした。しかし、あなたの報道に接し、それらの歴史が、50年の時空を超えて突如私の日常生活に訪れたような衝撃を受けました。今私の中には、これらの人々のことが、その言葉が、思想が、帰還後のその生活と戦いが想像され、1日でも早く、これらの人々の真実に接したい思いで一杯です。2月24日、サンフランシスコの隣の町オークランドで上映されたドキュメンタリー映画「果敢なる闘争」とはどんな映画であったでしょうか。

そして50年の歳月を経てもなお、連帯を感じさせるリンカーン大隊の仲間とそれを結びつける思想とは、何だったのでしょうか。その思想の根本には、今日の我々が失いつつあり、しかも失ってはならない熱いものがあるように思えてしかたがありません。サラリーマンとしての仕事に毎日追われる経済大国日本の中で、一見平和な生活を送っている41歳の私も20年前には、「未熟な反ファシスト」でありました。そしてこの私とて「今でも同じ」です。しかし、残念ながら集まるべき仲間はいず、一人の孤独な「未熟な反ファシスト」にしかすぎません。しかし、あなたの一文によって、遠く離れた世代の中に同じ仲間をみつけ、心から励ましを受けた次第です。無名の日本人ジャック白井のことに関する探索を続けられ、貴重な研究結果を発表して下さるよう心からお願い申しあげます。

敬具

()ジャック白井(1900年?-1937年7月11日)は、スペイン内戦において人民戦線・共和国側の国際旅

団に志願入隊して参戦、戦死した日本人義勇兵。北海道函館市出身。生まれてすぐに両親に捨てられ、孤児院で育ったということだが、その前半生は謎に包まれている。

詳細『スペイン戦争―ジャック白井と国際旅団』 朝日選書 川成 洋

 

 

甲烏賊

その話しを僕は友人のMから聞いた。上野の駅から歩いて十分程の蕎麦屋での話しである。「日本人に生まれてよかったと思うことは多々あるが、蕎麦屋で酒を飲むときこそ、まさにそう感じる最高の幸せの瞬間だ。う」と書いたのは、芝浦工大教授の古川修氏であるがその楽しみを理解してくれる数少ない友人が、幼馴染のM君であった。ここ数年会っていなかったが、年明けて、彼が上京してきて、以前一度行ったことのある蕎麦屋へ行き、昼間の酒でも飲もうといことになり、蕎麦屋で、一息ついたとき、その話が出てきた。

「実は、昨年の十一月のことなのだが、本当に驚かされる経験をした。」と神妙な表情で語り始めた。彼の話は、次のようなものであった。定年後の彼は、数年前から、知人に誘われて、チヌ(黒鯛)のイカダ釣りをしている。イカダ釣りは、海の上に浮かべたイカダの上でする魚釣りであり、イカダは、五メートル四方の広さで、屋根付きで、机やトイレもある。釣り人は船宿の船頭に、朝そこまで船で送ってもらい、夕方迎えに来てもらうシステムになっている。その日も仲間と共に早朝まだ暗い五時名古屋を立ち、釣り場の志摩半島の鵜方浜についたのは、午前七時三十分過ぎであった。無論途中で、いつものように、魚のエサやコマセの団子の材料、当日一日の飲み物と食料を仕入れてのことである。11月の半ばの平日は、釣り客も少なく、自由に場所とりが出来たので、比較的風の影響の少ない場所のイカダを選び、そこに運んでもらった。その日は、中潮で、午前八時頃と午後七時頃が満潮であり、着いた直後と潮目が変る干潮の前後の午後2時頃が魚の動きが活発となる釣りのチャンスとなるはずであった。

チヌ釣りは、忍耐の要る魚釣りで、魚の活性が強いときには、エサ取りと称する本命以外の魚に妨害され、本当のチヌが釣れるチャンスは、ほんの一二度のことである。チヌ釣りでは、そのチャンスのために黙々とエサをとり代える作業続ける。チヌが本命であるが、時期により、鯵がつれたり、キスがつれたりする場合があり、その日の都合により、こうした獲物狙いに軌道修正することもある。

その日は、魚の活性が弱く、アタリも少なく午前中数匹の鯵を釣上げただけで、帰りの船が迎えにくる午後四時まで、あと一時間となった頃である。大きな曳きがあり、サオを上げるとドーンと重い手ごたえがあった。期待をもって引き上げると奇妙な形の烏賊がかかっていた。それが、甲烏賊であった。コウイカ(英: Cuttlefish、甲イカ)は(イカ、タコ、オウムガイが属する)頭足綱の、コウイカ目の海洋生物で、体内に殻(イカの骨)があり、これが甲羅のようであるため、こう呼ばれている。

甲烏賊を釣上げているとき、もう一本のサオが動いたので、近くのSさんにそのサオを上げてくれるように頼んだのだが、結果的には、隣りのサオは、甲烏賊のかかったサオと糸が絡まっていただけであった。期せずして、Sさんは、M君が釣上げた甲烏賊を目の前にみることになった。Sさんが、目の前の甲烏賊に手をかけ、つかもうとした瞬間。「ヒャー」Sさんが素っ頓狂な声を上げた。その烏賊が、シューと海水を吹き出し、それに続いて真っ黒な墨を吐いたのである。烏賊は、イカダの上に投げ出され、逃げようともがく。Mはそれを押さえ込もうとするが、ヌルヌルした体のせいでなかなか押さえ込めない。イカと格闘したのは、ほんの数秒間であったが、その間、イカは、墨を吐き続けて、イカダの上を黒く汚し続けた。

ようやく取り押さえて、網篭に入れてからもイカは墨を吐き続けていた。その後も釣りは続いたが、その後は、たいしたアタリもなく、その日の釣りは、これでほぼ終わりとなった。午後四時に迎えの船がきて、船着場について、そこで獲物を分けることになり、Mは、氷を譲ってもらって、その上にイカを乗せた。そのときイカはかなり弱っており、身動きすらしなかった。船宿で支払いを済ませて、そこを出たのは、午後五時で、既に周りは薄暗かった。それから途中に二度の休憩をして、その一つで夕食をすませ、家についたときには、午後九時を過ぎていた。

釣った獲物は、その日の内に捌いておくのが、原則であるので、台所にクーラーを持ち込み、開いてみて「あっ」と驚いた。一瞬何が起こったかわからなかった。クーラーボックスの中が、真っ黒になっていたのである。それは、膨大なイカの墨であった。甲烏賊は、クーラーボックスに入れられてから、全生命をかけて墨を吐き続けたのであった。それは、不条理な死を迎えることに対する怒りの突出であり、抗議の叫びのように思われた。しかし、既に甲イカは、冷たく硬直して完全に死んでいた。その時、死というものを肉感的に理解できた気がした。この感覚は、どこかで経験したことがある。咄嗟にそう思った。

蕎麦屋の酒では、まずは、板わさ、焼き味噌やたたき海苔などの簡単な酒の肴で、最初の一本を飲み、その後、出汁巻き玉子や天ヌキや鴨焼きなどで、もう一本の酒を飲む。最初の一本が終わり、注文した出汁巻き玉子と天ヌキが出されたのを機に二本目の銚子を注文すると彼の話しは、続いた。

それは、その年の三月末のことで、癌の末期でホスピスに入院していた舅を見舞ったときのことである。その病室で、舅が無意識に手を虚空に差し出すのを見て、一瞬彼の死に対する抗議の叫びを聞いたように思った。その舅は、その二年ほど前に、舌癌と診断されたが、それまで、病気にかかったこともなく九十年を過ごしてきた彼には、それは全く不条理に感じられることで、受け入れがたいことであった。検査入院の一週間の病院の拘束が、彼には耐え難いことであり、「こんなところにいては、病気になってしまう」といい続け、舌癌と診断されたときも、その事実は、受け入れがたいものであった。彼は、病院へ行けば、医者が簡単に直してくれるべきであると確信していて、そのような期待に答えてくれない医者にいらだっていた。いよいよ治療の話しとなり、手術か放射線治療か抗がん剤治療かの選択を迫られる事態となっても飲み薬程度で治ることを望んで、憤りを周囲にぶっつけていた。医者もそんな彼をなだめあぐねていた。

結局通院で放射線治療をおこなうことになり、自分で、汽車にのり、歩いて病院にゆき、治療を続けた。その治療も限界となり、抗癌剤や痛み止めを使用するようになっても彼の病院嫌いは止まず、入院を余儀なくされてからも、帰宅申請をして、家に帰りたがり、あるときは、無断で病院を抜け出し、大目玉をくらったこともあった。その彼が、死の半年前、最後の旅行に行きたいといい、二泊三日の北海道旅行に付き合ったことがあった。この旅行の途中、彼は、有珠山の見学で、駐車場から火口までの約1・八.キロを元気に往復したほどである。

その彼が、病院に入院するようになったのは、それから二ヶ月半ばかりたった正月早々のことである。自宅での痛み治療が限界にきたのと便秘に耐えかねてのことであった。癌の進行は、阻止できていたが、そのままの状態で、次第に体力は無くなっていった。事態が改善しないままに、病院を移るように云われ、最終的には、ホスピスに移った。癌のせいで口臭がひどくなり、便秘のため食欲はなくなったが、当初は、意識はしっかりしており、トイレも自分でゆくことが出来た。もともと耳が遠かったので、会話は不自由であったが、死の一ヶ月程前からは、しゃべることも次第に分かりづらくなった。しかし、意識は比較的はっきりしていた。寝たきりになったのは、死を前にした一週間だけであった。ホスピスに入院し死を覚悟するようになってからも、感覚的に死は、彼にとって、不条理なこと、受け入れがたいことであり、そのこと対する憤りや怒りの気持ちがあり、その感情をイカが墨を吐くように周囲に発散し続けていたように思う。

リルケは、「マルテの手記」の中で、侍従職であった祖父ブリッゲの「放埓無体に暴れまわる死」について語っているが、この甲イカの死には、それに劣らぬものを感じた。今まで何度も死に立ち会う経験をしたが、このような死は、初めて経験した。

Mは、二本目の銚子を空にしつつそう語った。僕は、クーラーボックスの中にあふれる墨と甲イカの怒りを思うと恐怖を感じた。「ところで、その甲イカをどうした。」僕はおそるおそる聞いてみた。「無論頂いたさ」Mはサラリと云ってから次のように言葉を継いだ。イカの墨の量は多く、クーラーボックスの中を何度も洗った。このイカをどうすべきか一瞬考えたが、おいしく頂くことが、イカの供養になると即座に思った。甲イカは、その日の内に刺身にしたが、さすがにその日食べるのはやめ、翌日一人で食べた。甲イカの怒りは、釣上げた自分が、その責任において受け止めるべきと思ったからだ。

蕎麦屋の酒の締めくくりは、そば切りで終わる。注文した三本目の銚子に手をつけ、注文したそば切りを食べながら、話しは、EUの金融危機などの経済社会問題へと移っていった。やがて、彼は、新幹線の発車時刻が近づいてきたといい、店を出で、上野駅で別れた。

帰りの電車の中で、僕は、目の前一杯に広がる墨の海を思った。         完  (2012年7月まきば7号より)

 

生の源流をたどって―追憶と姉―

追憶とは、過去の出来事を思い出すことであるが、人は、自分の記憶をどこまで、辿ることが出来るのか。

二年程前、中学の同級生と六十年前に住んでいた田舎の家の跡を尋ねたことがある。かつて自分が住んでいた家と周囲の風景、それをもう一度目にしたかったためであるが、その期待は、完全に裏切られてしまった。家が跡形も無くなっているばかりか地形も木々もまるで異なってしまっていた。目を瞑れば、すぐに思い出す竹薮や柿の木や小道や池までもが無くなっていて当時の面影を残すものは、何も無くなっていた。近くで畑仕事をしている老婦人と話して分かったことは、彼女が、小学校の同級生の兄嫁で、私が小学校に上がったとき、隣家へ嫁にきた人だったということである。今や自分の生い立ちに係わるものは、自分の記憶の中にしか存在しないことを痛切に感じた瞬間であった。

人は、自分がこの世に生きていることを、何時から覚えているのだろうか。女二人、男三人の末っ子として生まれた私の生の初期の記憶は、二人の姉と密接に関連している。生まれて最初の記憶は、下の姉に背負われていた。八歳年上のこの姉は、私をおぶって、家から五十メートル程離れた当時「とらさん」と呼ばれていた人の屋敷の北西の角にある溜め池の横の三叉路で友達と立ち話をしていた。延々と続くおしゃべりが、内容の理解できない私には、たまらなく退屈で、背中で、暴れていた。下の姉が、小学校の五、六年生の頃であるので、私の二,三歳の頃、多分、昭和二十年か二十一年の冬のことである。

次の記憶では、私は、自転車の荷台に摑まって上の姉と林の中を走っていた。風は暖かく、さわやかであり、五月頃と思われる。十二歳年上の姉は、数人の仲間と共にどこかへ行こうとしていた。微かに歌声も聞こえていたような気がする。戦時中、愛知時計の工場が、疎開して近くにあったと聞かされたことがあり、上の姉も一時、そこに通ったことがあるらしい。これは、その当時の記憶で、多分私の三歳頃のことである。

名古屋の港区に住んでいた私の一家は、終戦の年、先祖代々住んでいた春日井の山里に親戚を頼って疎開してきた。六畳と八畳の二間の家に、祖母と母と叔母と子供三人の六人が住んでいた。父は、名古屋の家に残っており、上の姉もここに残っていたためである。私の中には、父の記憶は無い。終戦の少し前、名古屋で病死したためである。四十九歳であった。

疎開して住んだ家は、遠縁の家の馬小屋を改造した建物で、その八畳間の部屋には、天井がなく梁がむき出しになっていた。あるとき、数人の人が現れ、家の横にトタン葺きの建物を増築してくれ、そこに、お勝手場と風呂桶がすえつけられた。勝手場と風呂桶は、立派な食器棚で区切られたが、その食器棚は、名古屋から運んでいたものだった。その食器棚の引き出しの中には、ナイフやフォークやスプーン等料理屋であった名古屋の家の名残が詰まっていた。少し高台にあったその家には、水が無かったため五十メートル程離れた家の湧き水をもらっていた。風呂に入るためには、五十メートル離れたところからバケツで、何回も水を運んでくる必要があった。一、二年した頃、井戸堀の人が二人で現れ家の前に、井戸を掘った。七、八メートルで、水が出て、手押しの水汲みポンプが取り付けられた。水運搬の労働から解放された瞬間であった。

勝手場と反対側には、間口半間程の物置場があったが、その外側に、同じ幅でトタン葺きの鶏小屋も造られた。明治二十三年生まれの祖母は、代々神社の世話をしている神道の家柄の出で、当時珍しく、女子で尋常小学校を卒業しており、読み書きもできる気位の高い人であった。この祖母が、実家に預けてあった畑を返してもらい、そこで農業を始めた。また、家の横の空き地を耕して野菜畑とした。鶏小屋で、鶏を飼い始めたのも祖母であった。

この祖母の引くリヤカーに乗せられて今は、造形大学の敷地となっているこの畑へ出掛け、幼い私は、祖母の働く姿を畑の傍らで眺めていた。母は、父に代わって現金収入を得るために、手袋を編みの内職など様々な仕事をしていて、幼い私には、遠い存在であった。こういったことは、すべて小学校に上がる前の出来事で、家の改造や増築に手を貸してくれたのは、隣村に住む祖母の姉の連れ合いの友平さんだった。

小学校は、部落の中に分校があり、一、二年生までは、この分校で、三年生になると歩いて三十分程かかる岡の上の本校に通うことになっていた。入学式は分校で行われ、祖母が付き添ってくれた。その日の身体検査で、虫歯の無い子が十名おり、その子達が、黒板に10と書いた。私もその一人であった。二年生の学芸会の時の私の台詞は、「今年は、昭和二十七年、いよいよ日本独立の年」というものであった。

中学校は、小学校の本校の隣りにあった。本校に通うようになって間もなくのことである。中学校の学芸会を見学することがあった。何故か、下の姉が、私のところに来て、会場の講堂に案内してくれた。その時演じられたのは、「修善寺物語」の一節で、伊豆に流された源頼家に面の制作を依頼された能面師とその娘の物語で、その能面師が、何度面を打っても、そこに死相が出てしまうため、面を届けることが出来ない。それを責められる父親を見かねて、娘が代わって許しを請う。「お待ち下さい。面は、確かに出来ております。」この娘の役を姉が演じていた。何故か、この場面が、絵画の映像のように記憶に残っている。高校生まで、私の身近にいたのは下の姉であった。上の姉を身近に感ずるようになるのは、私が大学生になってからのことである。

その二人の姉は、もう居ない。下の姉は、母と祖母が亡くなってまもなく、五十三歳で亡くなり、上の姉も私の定年前、六十九歳で亡くなった。しかし、この二人が、私の生の原点とも云える記憶に繋がっているせいか、今でも身近に気配を感ずることがある。

定年の二年程前、東京で単身赴任で働いていた頃、全社的なプロジェクトの責任者をやり、心身共に疲れ、風邪で、一人社宅で寝込んでいたとき、突如二人のことが思い出され、背中を誰かに暖かく支えられている感覚を持ったことがあり、その後、急速に元気になったことがあった。 その時、私は、二人から見守られているかも知れないと、ふと思った。いつか二人の絵を描いてみよう。そしてその眼差しの彼方に、自分の生の源流を描きたい。そう思うようになった。彼女達の最も輝いていた時期を描こうとしたその絵はなかなか完成しなかった。次女がようやく子供を授かってお産ののために帰ってきたとき、二人の姉に安産の願いを託して、その絵を描きあげた。描き始めて7年が経過していた。しかし、この絵は多分これで完成したのではないのかも知れない。自分の生の源流を見つめる作業に終わりがないようにつ。            完

一枚の挿絵に導かれて ―泉鏡花と日本橋― 

もう二十数年も前のことになる。その当持勤めていた会社の北陸支店の近くに飯泉鏡花記念館があることに気がついて、立ち寄ったことがあった。その記念館は、金沢市尾張町にあり、付近には、粋な町並の御茶屋街がある。御茶屋は、芸者遊びして酒を飲む場所であるが、そこへ行ったのは、一度だけで、しかもそのときは、年配の中居さんのお酌で鍋を突いて、酒を飲んだだけなので、詳しく知らない。ただ、天井の低い和室は、何か一つの小宇宙のような趣があり、応時の雰囲気だけは感ずることができた。そんな街の一角に記念館があることを知ったのは、鏡花の小説を読み初めて、彼が金沢出身と知ってからである。

その記念館は、和風の二階屋で、その一階部分が、展示室となっており、鏡花が描いた女性「美しい人」や、「美しい本である鏡花本の装丁をテーマとした第一展示場と鏡花の創作活動やゆかりの品々を紹介した第二展示場と特定のテーマによる企画展を行う第三展示場などから構成されている小規模な家庭的ともいえる施設であった。

鏡花は、本の装丁に凝っていて、かれの小説の挿絵には、鏑木清方,小村雪岱、鰭崎英朋、鈴木華邨等10名以上が関係していが、この第一展示場で僕は、鏡花の本の様々な挿絵を見ることができた。

そこで、僕は一枚の挿絵を目にした。一見何気ない風景を描いたものであるが、何か奇妙な印象を受け、ひきつけられるものがあった。それは透視図法で描かれた冬の雪降る街の風景画で、遠景には、1人の女が描かれていた。ただその女は、背中を見せており、直接その表情は見えない。町並みを描いているが、その女を除いて周囲に人の気配はない。ただ深々と雪がふるばかりである。その絵の題名は、「日本橋に出る女の幽霊」で、鏡花の小説「日本橋」の挿絵として小村雪岱により描かれたものである。泉鏡花の作品の熱心な愛読者であった小村雪岱は、27歳のとき「日本橋」で、始めて泉鏡花の小説の装丁を手がけたが、これはその時の作品である。

第一展示場で、思わずその絵に惹きつけられた僕は、館内を一通り回ってから、また気になって再度その絵を眺めた。その絵を見て突如連想したのは、中学時代に読んだ青春小説「モーヌの大将」の寒空のパリで、人を探して佇むモーヌと街中を徘徊する狂女の世界であった。だが、そうした印象が、どこからくるのか、僕には、分からないまま、記念館を後にした。小村雪岱に「日本橋に出る女の幽霊」を描かすことになった「日本橋」とは

どんな作品なのか。そして「日本橋に出る女の幽霊」とは何か。僕は何故、あの絵に惹かれたのか、それらの疑問は、長い間僕の中で、沈殿したままであった。これ等のことを、全く忘れていたのではない。本屋へ立ち寄るたびに、僕は、無意識に小説「日本橋」を探していたし、泉鏡花の挿絵集が出版されていないかと探し回っていた。その証拠に泉鏡花の単行本や紹介本全集等を買ってきては、その幾つかを手にするようになった。しかし、

泉鏡花の文章は、視覚的な漢字が多い独特な文体で、その読書は、遅々として進まなかった。

泉鏡花の小説の真骨頂とも云える作品は、幻想譚の幻想と怪奇の物語であり、その世界の面白さに関心が集中するなか、その単行本が出版されたのは、1953年のことで、これは久しく絶版となっていたこともあり、小説「日本橋」は、僕の中から忘れられていた。その復刻版が、2010年の春出版され、それを書店の店頭で見つけ、沈殿していた疑問が再び

蘇えり、一気に読むことになった。日本橋は、泉鏡花晩年の作品で、怪奇小説ではなく

日本橋に住む芸姑と客をめぐる愛憎の物語であり、詩人の佐藤春夫は、その解説の中で、「日本橋は、教防日本橋の美的詩誌であると同時に鏡花の恋愛論乃至愛情一般についてのお談義である。」と述べている。僕はこの小説を何度も読み直し、あの「日本橋に出る女の幽霊」の場面がどこであるのかを捜し求めた。しかし、物語の本筋の中に、幽霊は現れてこない。

幽霊の話しは、物語の舞台の背景となる風景の中にでてくる。「~露地の細路駒下駄で~」の唄に示される場所、露地の細路で、寒空の夜に、そこで不幸な死に方をした芸姑の幽霊があるく駒下駄の響きがする、この風景を描いたのではないかというのが、僕の推測である。

しかし、十数年、僕はどうしてあの絵に引かれたのであろうか、泉鏡花の作品は、怪奇幻想譚が多いが、そこでは、日常と非日常が、紙一重に連なっている。日常の明るい日差しが、一転すると闇の世界につながっている。それが、性の不思議さでもあるし、この世の面白さでもある。全くの異界ではなく、日常の一部にふと顔を出す異界の兆し、それは異界への入り口乃至異界と現世の境界に出来た隙間、僕は、ここに惹かれたかも知れない。全たき異界の絵ではなく、普通の風景である日本橋、人通りが多ければ、現世そのものである風景に、ただ1人の女を描くことによってそこに非日常の感じを表現する。僕が感じた奇妙な感覚は、今では、この絵によって描かれた日常と非日常の境界つまり異界への入り口によって引き起こされたもののように思える。        完

 

姉と友人の死の前後

もう15年も前のことである。当時私は。単身赴任で東京で働いていた。単身赴任2年目の11月、姉が心不全で入院との連絡を受け、港区の協立病院を訪れたのが今さらのように思い出される。

看護をしていた養女のN子の話では、則雄はどうしたとさかんに私の名前を呼んでいたとのことで、私が東京から来たことを告げると何か納得し落ち着いた様子を見せるのであった。

付き添いしていれる義兄の話によると心不全の原因は血管の部分閉塞であり、その手術中に血管の破片が飛んで、脳系統の血管に入り込み、それが原因となり、脳梗塞を患っているとのことであった。

僕と面と向かっているときは、別に以前と大きな変化はないように見えたが、付き添いの人たちの意見を聞くと、意識の明暗の変化がかなり激しく、意識が明確なときは普段と変わらないが、意識が混濁してくると感情や欲望が丸出しになるらしく点滴もそのときにははずしたりするので、目が離せないとのことであった。

しかし、入院してまもなく病状が安定したということで、翌2月には退院して自宅療養をすることになり、少しはよくなるのかと期待をもつようになった。自宅療養するようになってから、自宅へ電話を入れるとかなりはっきりした反応であったので安心して見舞いにゆくと、以前と変わらぬように接してくれるので、快方に向かっていると思っていると付き添いの養女や義兄からは実は夜が目が離せないので大変との話であった。

4月に会社の人事異動と組織変更がありこの対応に追われて、2ケ月ぶりに姉を見舞ったのは、5月の初めであった。相変らずやさしく出迎えてくれたが、何か様子がおかしいので尋ねると昨夜誤って乾燥剤を口に入れ、それを除去するため、水でうがいをしたがこれが悪く、化学反応で発熱し、口の中を火傷したとのことであった。

しかし、痛みは多少和らいできたと見え、お経を上げたいということで、仏壇の前に座らせるとまもなくお経を始めた。しかし、どうも以前と様子が違うので横で見ているとまもなく彼女の目は、文字面を必死に追っているがもはや文字は意味のあるものとして理解できていない様子であった。

経文が途切れ途切れとなるので、一緒にお経を上げることになったが、彼女の読経は、もはや経文を読んでいるのではなく、自分の記憶の彼方から経文の断片を引き出してくるのがやっとの状態であることがハッキリとしてきた。

あれほどお経を上げることが好きであった姉が、その好きなお経も満足に上げられなくなっている。もはや彼女の意識は、別の世界に行ってしまっている。この事実を目の前にして思わず涙がこみ上げてきたが隣には、義兄がおり、大の大人が泣くこともままならず、嗚咽を押さえるように姉と観音経の数節を読み上げた。

僕の中からあの心強かった姉が明らかに遠くへ去っていったとの思いが不意に沸き起こってきて止めどもなく涙が流れる思いがした。お経を共に上げた後、姉は少し、恥ずかしげに僕に向かって「ありがとう」といったが、これが僕との別れであることがなんとなく感じられた。僕にとって姉が遠くに去っていったとの思いを強くした翌日僕は東京に帰った。

そして、6月1日(土)外出から帰ると留守電が入っていた。相手は、大学の同窓のS君弁護士の斎藤君の死を知らせる電話であった。彼は、5月26日に死去し既に密葬は終わっているとの話でお別れ会を6月の終わりに計画しているとの話であった。

ちょうど一年程前、理学部の同窓会の席上で、高校の先生をしているSM君から話を聞き半信半疑でメールで問い合わせたら、実は一昨年の12月に胃がんが見つかり、手術で胃を全摘出し、その後一時持ちなおしたが、又再発し、現在は抗癌剤をうちつつ仕事をしているが、まだ多少酒も飲めるので今のうちに一度会いたいとのことであった。

一人で会うには、気後れしたので、TY、SS,TKの三人を誘って斎藤と会い、食事をし、クラブで青春時代の歌を唄った。斎藤とは、その後、浜松の観山寺温泉での同窓会、大学時代のサークルの同窓会と2回に渡って話をする機会があり、それなりに出来ることはやったので悔いはないが心の味方の一人が無くなったとの思いが次第に気持ちを重くしていた。

その一週間後の6月7日(金)名古屋に帰った。再度入院したとの連絡を受け、姉の病状が心配であり、見舞いが必要であると感じたためである。翌日病院につくと姪達が付き添っていた。姉の意識は、ほとんどなく、容態はかなり悪そうであった。昨日の夜の12時頃容態が急に悪くなったが、今は持ち直して安定しているとのことであった。看護を続けていた姪達の疲労の色も濃くなっていたので、その日は、夕方近くまで付き添った。まだ命はあるそんな感じがしていた。

月曜日早朝の「のぞみ」で上京して、出社した。出社してまもなく自宅から電話が入った。すぐに姉の死の連絡と直感した。僕は、翌日からの予定をキャンセルしすぐ名古屋へ引き返した。

11日お通夜、12日葬儀と慌しい時間があっという間にすぎた。13日の名古屋での会議に出席したものの翌日は休暇をとり、7の2回目の法要を終えて、日曜日に東京へ戻った。

斉藤君のお別れ会は、6月27日にあったがどうしても出席できなかった。仕事の遅れもあったが、何より行動する気力が衰えていた。彼を悼むメッセージを送って気持ちの整理をするのが精一杯であった。

体に異変を感じたのは、その後からであった。水晶体出血で眼科にゆき、皮膚の発疹で皮膚科にゆき、そしてひどい風邪で内科にかかった。自分の生命力の衰えを感じさせられる出来事であった。二人の死によって自分の命を支えてくれていた力がなくなったせいかも知れない。人は、皆無数の人の命によって支えられており、その支えの力が弱まったときが「死」を迎えるときかもしれない。そんな考えが脳裏を横切った。7月末、姉の49日の法要があり、僕の体を気遣った姪の一人が「おじさん、体を大事にしてね」と声をかけてくれた。見えない力がそっと自分を支えてくれているのを感じた。  完