T・Sエリオットと荒地をめぐって ―感動の源流を訪ねてー

もう45年も前のことになるが、一篇の詩に衝撃を受けたことがある。それは。次の詩句

から始まる全体で78行の詩であった。

   その声は、遠いところからきた

   その声は、非常に遠いところからきた

   あらゆる囁きよりもひくく

    あらゆる叫喚よりもたかく

    歴史の水深よりさらにふかい・・・・・・

  当時、私の視覚から入り、脳内で反響し、啓示的な刺激を与えて、魂を貫通していった田村隆一の「三つの声」というこの詩は、昭和30年の荒地詩集1955(荒地出版社)に収録された田村32歳のときの作品である。

   私が、田村隆一という詩人の名前を知るようになったのは大學へ入って間もない昭和38年頃であり、田村は、その頃既に、40歳になっていた。

  この詩との出会い以降、田村隆一の一連の詩を繰り返し読み、そのたび毎に、詩意識の再生と覚醒の刺激を受けてきた。田村の詩は、私にとって、精神のある種の栄養剤のようなものであったかも知れない。田村の詩や試論を読む過程で、戦後詩の中心的グループである荒地派を知りこれを中心とする現代詩に興味をもつことになった。

  そのとき、戦後詩と現代詩の風景のはるか源流には、T・Sエリオットとその詩「荒地」のあることを知った。だが、たまたま、文学関係の友人に仏文科関係が多かったこともあって大学時代の会話の中心は、ランボーやボードレール、ヴァレリー、ヴェルレーヌなどのフランスの象徴詩であり、「荒地」とT・Sエリオットは、不思議と話題とならかった。1998年田村隆一が亡くなり、現代詩手帳がその追悼特集を組んだ。私は、その特集号をようやく栄の書店で手にいれ、地下街の喫茶店「コンパル」の片隅で目を通しながら1人彼の死を悼んだ。

 田村隆一の最期の詩集は、「1999年」であり、その中で、彼は「さようなら、遺伝子と電子工学だけを残した世紀末1999」と詩っていた。彼は、20世紀を自分の生の時代と一致させ、それを高らかに詠ってこの世を去った。

田村隆一の死を契機に彼の詩集や彼のエッセイや詩論及びこれに関連する詩や評論を読む中で、現代詩の出発点ともなったT・Sエリオットと彼の作品「荒地」そのものを直接読んでみたいと思うようになった。長編詩「荒地」は、次の有名な詩句からはじまる。

   4月は、残酷極まる月だ

   リラの花を死んだ土から生み出し

   追憶に欲情をかきまぜたり

  春の雨で、鈍重な草根をふるい起こすのだ

  T・Sエリオット「荒地」第一部「埋葬」より(西脇順三郎訳)

    しかし、不思議なことに、ランボーやヴェルレーヌ、ボードレール等の詩やエリオット以降のオーデン等の詩集は、夥しく出版されているがT・Sエリオットの詩集としてまとまった詩集は、あまり出版されていない。とくに英語の原詩と翻訳を同時に参照できるものは、なかなか見当たらなかった。

  エリオットと荒地の現代詩における意味を全体として論じものは、昭和30年代に出版されていたがその多くは既に絶版となっていてなかなか手に入らなかった。その中の一冊現代英米作家研究業書「エリオット研究」深瀬基寛編 英宝社(昭和30年12月初版)を古本屋で見つけたのはこの8月のことで、同じ時期にT・Sエリオットの「荒地とゲロンチョン」福田陸太郎(1916年~2006年)と森山泰男(1930年~)の注・訳をみつけた。こちらの方は、2008年5月発行の新装第8刷であったが、これも初版は、1967年4月となっていた。この2冊を読んで、おぼろげながらT・Sエリオットと「荒地」の輪郭が見えてきた。

  田村隆一の詩のタイトル「三つの声」は、T・Sエリオットの講演「詩の三つの声」から着想したものと理解した。T・Sエリオットの三つの声は、声の詩劇論の関連で述べたもので第一の声は、詩人が自らに語る声、第二の声は、聴衆を意識して語る声、そして第三の声は、詩劇表現における詩人の声であるという。詩劇における詩人の声は、日常性の中から普遍的な精神の高みを目指す声とも言うべきもののようで、日本の能や謡曲は、エリオットのいう詩劇に相当するように感じる。いずれにせよ、若き田村隆一は、T・Sエリオットの講演「詩の三つの声」を読み、その内容に触発されて「三つの声」を作詩したのは確かなことと思われる。

  エリオットの文献を捜し求める内にエリオットの研究には、その後数々の人々が携わり、様々な解釈や評論がなされているが、エリオットがキリスト教への宗教色を強める中で、「荒地」程の衝撃を与えなくなっていったように感じた。エリオットは、様々な研究者により解剖され、分析されてきたが、解剖し、分解したものには、もはや我々の感性を変革する力はない。やはり「荒地」は、あの戦後の風景の中でこそ生きており、T・Sエリオットと「荒地」を新鮮な再生のメッセージとして受け取った若き田村隆一が、その詩意識の方向とその発見の感動を言葉としてあらわしたのが「三つの声」であったような気がする。

  エリオットの「荒地」を読んだ後で、田村隆一や荒地グループの詩人達の詩や評論への見方や感じ方は、どのように変わってくるのか、そしてそのことは、21世紀の詩の可能性についてどんな展望を与えてくれるのか、これが、これからの問題である。感動の源流を訪ねることは、自分自身を再発見することであるのかも知れない。

                                  完

 

 

京浜東北線の中で「田村隆一」を読む   ―青春の感動をめぐってー   

60年生きてきて、本当に魂を突き動かしたものは、田村隆一の詩だけだった。無論一時的な感動であれば、恋も死もその他の出来事でも何度も味わったが、それらの多くは、年を経るにつれ、忘却の彼方に姿を消していった。その中で「田村隆一」の詩だけは、何年経っても絶えず、若々しく、僕の心に蘇えってくる。田村隆一の詩は、世界であり、宇宙である。

2003年10月の朝、ラッシュアワーの電車の中で、僕は田村隆一の詩を読んでいた。いや正確に云えば、田村隆一の詩を聞いていた。昨晩、僕は田村隆一の詩を朗読し、それをICレコーダーに記録し、それをイヤホンで聞けるようにしたのだった。詩は本質的にリズム的でなければならないとは、40年前に田村隆一の詩に出会ったとき感じたことであった。ラッシュアワーの電車の中で聞く、田村隆一の詩は、眼で読む世界と別の世界に思えた。彼の詩のフレーズの一つ一つが世界の一瞬、一瞬の輝きであり、75年間の田村隆一の全ての視覚映像が言葉のきらめきの中に現れてきた。「眼が肉眼になるには、50年かかる。」と田村隆一は、詠っているが、この言葉の意味が分かるのに、僕は60年かかった。

2003年11月の連休、深夜、僕等は、東海北陸自動車道を車で駆けて、白鳥ICから油坂峠を越え、九頭龍川の上流を目指した。暗闇の中を2時間走って、四方を山に囲まれた渓流の川辺に立ち、迫ってくる冷気に対抗するようにテントを張った。曇り空、漆黒の闇の中で、僕等は、流木を焚き仲間達と酒を酌み交わし、ブリューゲルの絵のように幻想的な時間を過ごした。その日、天候の回復した空には、無数の銀河を湛えた満天の星空が広がっていた。積み上げた流木が真っ赤に燃え上がり、周囲に強烈な熱を放射し始める頃、夜が明け始め、僕は2重にした寝袋の中に入り、獣のように眠りについた。

この体験のほんの一週間前、友人に誘われ、東京サントリーホールの小ホールで、チェロ奏者堤剛のコンサートを聞いていた。「四世紀にわたるチェロ音楽」と銘打った、そのコンサートは、ピアニスト野平一郎のフロデュースによる競演で、作家の中西礼の姿も見かけたこの低音を主体とした音楽会は、いつになく男性が多いとは、一緒にいった友の言葉であった。しかし、僕にとって音楽は、ひとつ秩序と快感をもたらすものであっても、視覚映像に似た世界を開示するものにはならなかった。3回ものアンコールのあった演奏会は、それ自身充実していたにも拘わらず、である。その夜、六本木の居酒屋で麦焼酎をロックで飲み、高層ビル建設によって急激に変貌する都会の小雨に震えるネオンの中を有楽町経由で家路についた。

そして、2003年11月中旬、僕は、出張で金沢にいた。打ち合わせまでの僅かな時間を使って、僕は、泉鏡花記念館を訪れた。明治半ばから創作活動を始め、大正、昭和にかけて多くの作品を残した鏡花は、エドガーアランポーと共に、僕が心惹かれる作家であった。彼の作品には、リズムがあり、それは,詩の世界に類似しているためであった。その記念館には、鏡花の作品の挿絵が展示されており、その中で、僕は恐ろしい一枚の絵をみた。それは、遠近法で描かれた浮世絵風の絵で、冬の日本橋に佇む幽霊を描いたものだった。その冬の寒寒とした風景の彼方に僕は、中学時代読んだ青春小説アランフルニエの「モーヌの大将」の最終場面を連想していた。恋求める主人公が、雪降る木枯らしの中に佇む姿を。そして、突然その場面の中で、シューベルトの歌曲「冬の旅」が思い出された。僕の青春の出発点。自分でも理解できない衝動に突き動かされていた40年前、僕の中で青春の感動がほろ苦く蘇えった。人は、それ自身が、時間旅行機(タイムマシーン)であり、宇宙船であるのかもしれない。そして、詩人「田村隆一」は、このことを知っており、その証が彼の詩ではなかったのか。金沢からの帰る途中の特急「しらさぎ」の中で僕は再び「田村隆一」を聞き、そう思った。                 以 上

忘れえぬ人々 

 国木田独歩の作品「忘れ得ぬ人々」というのがある。これは、人生で出会った人々の内、特別に深い関係はないが、何故か印象にのこり、数十年経っても忘れられない人のことである。そして、そのとおりの人が私にもある。

   もう、40年近くも前のことである。当時私は、結婚して、神奈川県の川崎市の中原区というところに住んでおり、歩いて15分程の元住吉の駅から相互乗り入れのある東横線・地下鉄日比谷線で銀座にある勤務先に通っていた。28歳で、結婚したときそれと同時に移り住んだのは、同じく東横線の学芸大學駅から歩いて10分程のマンションであった。

  学芸大學駅は、東京都の目黒区に所属した高級住宅街を擁した駅で、そのマンションも閑静な住宅街の一 角にあり、その環境も申し分なかった。唯一の の欠点は、狭いことで、単身者を想定した1LDKであったことである。新婚当初はそれでもよかったが、子供が生まれるとその狭さは、耐え難くなり、とうとう直属の上司に願い出て、単身赴任で、大阪から移ってきた別の上司といれ替わってもらうことになった。この別の上司の住んでいたのが元住吉のマンションで、ここは、2LDKであった。通勤時間も長くなり、周囲の環境もわるくなるが、背に腹は変えられなかった。

   元住吉に引越して、間もない夏の日のことである。暑い盛の昼間の頃のことである。私は、地下鉄日比谷線に乗って家に帰る途中のことであった。今から思と普通の通勤であれば、夕方しか乗らない電車なので、休日出勤かなんかで、早く帰宅したものと思う。

  列車が、祐天寺の駅に到着したときのことである。子供連れの女性が、列車に乗り込んできた。その人は、赤ん坊を背負い、5歳ばかりの女の子の手を引いて、荷物も持っていた。赤ん坊との移動で、いつも大変な思いをしていた私は、思わず立って、席を譲った。

 彼女は、かるく会釈をして、子供と荷物をその席に乗せた。それだけのことである。

   それだけのことであれば、多分なんの記憶も残らなかったことと思う。しかし、列車が、自由が丘の駅につき、彼女が列車から降りるときのことである。出口近くに立っていた私の方をしっかりと見据えて、彼女は、僕に「今日は困っていたところを助けていただいて本当に嬉しかった。ありがとう御座いました。」とお礼をいったのである。

   そのとき、私は、初めて、彼女の顔をみたが20代後半の理知的な顔立ちの女性であった。その率直さに、私は、ドギマギするばありであったが、その時の真剣なまなざしが印象的であった。彼女達が降り、再び列車が動きはじめてからもしばらくの間、僕には、なにが起こったのかよくわからなかった。ただ、なんとなく嬉しくも恥ずかしい感覚だけが残った。

   元住吉から通勤していた同じその頃のことである。夏の夜、午後8時を過ぎた頃のことだったと思うが、銀座から地下鉄日比谷線にのり、東横線に入って間もなく、突如として、空が曇り、雨が降り出し、電車が元住吉の駅に着く頃には、本格的な雨になっていた。

   駅の改札口を出たところで、傘もなく呆然と立ち尽くしていたときのことである。突如若い男性が、声を掛けて来た。「お困りでしょう。この傘をお持ち下さい。」そう云って、雨傘を差し出してくれたのは、自分より数才若い、20台後半と見える背の高い青年であった。

   突然の申し出に私が戸惑っていると。「私は、大丈夫です。妻と一緒に帰りますから。」そう云って、彼が向けた視線の先には、小柄な若い女性が、笑顔で、こちらの方を見ていた。そのとき、その後。どんなやりとりがあったか、はっきりと覚えていないが、傘を返す必要がないと私に告げるとその若い夫婦は、寄り添って一本の傘に入り、暗闇の中へ消えていった。私は、実際に起こったことが信じられなく茫然と彼等を見送りながら、次第に心が暖かくなってゆくのを感じた。

   たったこれだけのことでる。しかし、結婚と共、移った知り合いの少ない東京で、都会というものが、自由である反面、個々人が、孤立して生きている空間として考えていた私にとって、全く見ず知らずの人達と偶然に通わしたこの二つの出来事は、衝撃的であった。

  その衝撃の意味は、今だによく分らないが、その時以来「人間もまんざら捨てたものではない。」そう思えるようになったような気がする。               完     (2010年9月まきば1号)

竹さんの奇妙な話

竹さんの奇妙な話

人は、あまり他人に話せない奇妙な体験をすることがある。これらの体験は、どんな人にもあると思うが、多くの場合、それを奇妙と感じないように知らぬふりして見過ごすか又は、あまりに奇妙なので、まじめに話すと人から笑われるので、個人の中に、秘密裡に止め置かれていることになる。六十数年生きているとこんな話は、一つや二つではない。この話も、その一つである。

「銀座の地下鉄の駅の出口についたのですが、ここからどう行けばよいのでしょう」「地下鉄の出口といっても、銀座の地下鉄の出口は、二十三箇所あるので、どこの出口かが問題です。出口を出てなにが見えるが教えてください。」これが、中途入社で、大阪の神戸支店から転勤してきた「竹さん」と私の始めての会話であった。当時私は、東京駅の東側を新橋に向かって走る外堀通り沿いの、有楽町駅とは反対側を、東側に一本入った東銀座の場末のアーニービルという古びたビルの2階の技術本部というところに勤務していた。

名古屋支店に勤務して五年目、結婚式を半年後に控えた十月頃、上司に呼ばれ、「今度本社に技術開発室というのが設けられることになった。ついては、そこに行って欲しい君が嫌でも行って欲しい。」とのことであり、有無を言わせぬ話であった。多分、入社五年目で、あまり戦力となっておらず、大卒が、珍しい時代でもあったので選ばれたのだろう。新設された、技術開発室は、室長と課長その他三名、合計五名の小規模な組織で、僕を入れてもたった六名の組織であった。その組織が、一年経って技術本部として再編・拡充されることになり、その流れで、竹さんも転勤してきたのであった。

竹さんは、商船大学で、機関科を卒業し、一等機関士として七年間も船に乗っていた異色の経歴の持ち主で、外洋勤務で、殆んどの時間を海上で過す船乗りの生活に飽き、当時の僕等の四倍もの俸給を投げ捨て、結婚を機に船を下り、中途で入社してきたとのことであった。僕より一つ年上であったが、酒好きで、気さくであり、同じ転勤続ということでたちまち仲良くなった。

竹さんは、当初から元住吉のマンションの一室の会社の借り入れ社宅に入っていた。一年程して私もこのマンションの四階に引越してからは、一階と四階とで、階は異なったが、家族ぐるみの付き合いをするようになった。竹さんは、酒がめっぽう強く、まず、酔っ払って乱れるようなことはなかった。僕らは、家が近くということで、よく酒を飲んだ。有楽町の駅の高架下の赤提灯で、いつも千円会費ということで飲んでいた。

竹さんは、普段は、穏やかに笑って皆の意見を聞くことが多く決して乱れない。しかし、時計が、午後十一時時近くなり、目が据わってくると妙に凄みのある表情になることがある。聞けば、拳法部に所属しており、後輩のトラブルに巻き込まれ、ヤクザとわたりあったこともあると話していた。その話が、まんざら嘘でもないと感じたのは、酔っ払った帰り道、なにかのついでに、コンクリートの塀を拳で打って、凹ませたのを目撃してからである。

元住吉に移って、一年経った頃、いつものように、居酒屋で、酒を飲み出したときのことである。普段、有楽町で、飲むときは、他の同僚と四~五名の場合が多いが、このときは、二人きりであった。またこの頃、酒好きの我々は、有楽町で飲み過ぎ過ぎ、タクシーで帰り、飲み代の数倍の料金を払って後で後悔した経験から、ときたま、元住吉の駅から家に帰る途中の焼鳥屋で一杯やることがあった。

この話も多分その時のことである。乾杯をして間もなく、竹さんが、何時になく真剣な眼差しで、「今まで、この話は、他の人にしたことはないが、奇妙な体験をしたことがある。これは、本当の話なんだ」と云って、次のような話をしてくれた。

彼が、後輩のトラブルに巻き込まれて、ヤクザと渡り合った結果、警察沙汰になり、休学させたれた時期、寮を離れて、ひと夏、試験勉強のため、海辺のある家の2階に下宿したとことがある。その時の話だという。

ある夜、重く寝苦しいので、ふと、目を覚まして、暗闇の中をよく見ると一人の子供が、体の上に乗っているのに気づいた。あわてて起きて、電気をつけた途端、その姿は、忽然と消えた。その時は、何かの錯覚であろうと思うことにしたが、翌日も同じことが起こった。これは、元来、亡霊や霊魂など頭から信じていない彼としては、全く理解できない出来事であった。こんな夜が二三日続いたが、気が弱いせいと思われるのがしゃくで、誰にも話せなかったという。

とうとう、彼は、これが何者なのか、はっきりさせるため、今度現れたら、捕まえようと固く決心し夜を待った。そして、その子供は、また現れた。その機会を狙っていた彼は、起きざまに、子供の足をつかもうとした。「それでどうした」と私が尋ねると、彼は、「がばっと捕まえた。」と云い。一呼吸おいて、「捕まえたのを確信して起き上がって電気をつけてみたら、捕まえたのは、自分の腕であった。」と云い、しかし、その夜以降は、その子供は、現れなくなった。

その下宿を引き払うとき、宿の人にその話をすると「やはり出たんですか。以前この浜で、溺れた男の子がいて、そのせいか、以前にもそんな話があった」とのことであった。その時、そんな話が、あれば、最初に話しをするべきだと憤激した覚えがあると話し、自分は、決して臆病な人間では、ないと思うが、どう思うかと質問された。

科学的に考えれば、寮生活という集団生活から離れた潜在的な不安感がなせるわざとも思えるが、宿の人の話との整合性がとれない。何かの現象があったことは、事実である。また、彼が、嘘を云っているとも思われない。その当時生きていた私の姉は、自分で霊媒体質だと云い、私が大学生であった頃から、自らの体験した奇妙な話をよくしてくれ、あるときには、数枚の心霊写真も見せてくれた。

当時唯物論者であった私は、自分の直接体験でないこうした話には、あまり関心がなかった。しかし、この姉が、私に嘘をいう理由もないので、多分本人が何かを体験したのは、事実であろうと思っていた。このため、竹さんの話もそれは、事実であろうとあっさり認めた。そのせいかこの話題は、その後私と竹さんとの間で、二度と話されることはなかった。それから数年して、私は、名古屋に帰り、たけさんも、生まれ故郷の熊本に帰っていった。姉以外から聞いたこの話は、深く印象に残った。竹さんとは、遠く離れているが、その後も付き合いが続いている。     完                      (2010年11月 まきば2号掲載)

詩精神の覚醒・・25歳の旅立ち

詩精神の覚醒急いで歩いてゆく街路の上に、ふと気が付くと濃紺の空が広がっていて、その深く鮮やかな光景を見つめていると、不意に突きあげてくる郷愁のために、我ながらどうしょうもなく打ち震えてしまう瞬間がある。僕自身の中の何者かが、その光景に触発され、沸騰する瞬間である。

それは、つまらぬ感傷であるかも知れない。しかしたとえそうであったとしても、僕はなおかつ、そうしたものの背後にいる何か未知なるものの存在を確信せざるを得ない。

僕の中にそうしたものがあるということ、そしてそれこそがある意味で僕の思想や行動や生活のエキスのようなものであること、そのことに気づき始めてはや一年になる。

それは始め予感としてあった。徐々に一つの終末が訪れ、何かが生まれようとしていた。

僕は、それを必死で追跡した。感情より先に、そのものの到来より先に僕は言葉でそれを捉えようとした。しかし、それは頑強に言葉を拒絶するかに見えた。それはただ予感としてあった。しかし、それは次第に姿を見せ始めた。僕の生活のほんの稀な瞬間にそれは、僕の内面の膜を激しく揺さぶり未知に向かって予告するように胎動した。そんな時、それは、僕自身の膜の薄い場所を突き破って忽然と顔を出し、僕がまだ、凝視しない内にたちまち、膜の背後に退いてしまった。

しかし、とにかく僕は、それを知り始めた。そのものの感触がまだ指先に残っている、その間に、そのものに僕は大急ぎで言葉を与えた。それはある時には、リルケの「死の核」であると思われ、またある時には、「生の原型」であり、またある時には、シューベルトの「冬の旅」であり、加藤周一の「羊の歌」の世界であると思われた。

しかし、そうした言葉は、そのものではなかった。それらは確かにそのものの一部分、一つの現れではあったのだが・・・。

けれども、そうした日常生活の偶然とも云える一つ一つの出来事や出会いや経験が、一つの終局点に向かって、ある一つの世界に向って追い込んでゆきつつあること、そのことを僕は自覚した。僕はそのものの正体が知りたかった。そのものこそ十年近くも僕が無意識の内に求め続けていたものと確信できたからである。

しかし、そのものは、なかなか正体を見せてはくれなかった。それは確かに以前より頻繁に僕の戸口のすぐ近くまで、訪れるようになっていた。しかしそれは僕が抱きしめようとすると素早く去っていった。僕自身の焦りや恋心をからかう少女の如く、それは僕の手の中からするりと逃げ去ってしまうのだ。しかし、その時の香は、確かに僕が求め続けていたものを暗示していた。

冬が訪れ、春が訪れ、僕とそのものの激しい追跡戦の日々が続いた。ある時は、ビルの谷間に、そしてある時は、群青の下の並木の道に、僕はそのものの映像を求め、見えない地図の上を探索し、進軍した。そして夏、僕の心は、疲労で憔悴し、見つめる僕の眼は、砂漠血に充血し、微かに差し伸べる僕の指先は、強烈な光の中で溺死した。僕自身の中で

一つの「死」が進行していた。思惟は、はやいたずらに感性の中で空転し、見つめる思考場の中に砂漠のような終末が広がっていた。

しかし、長い苦闘の結果、自我の膜は、今や極限まで問い詰められ、一つの薄い不透明な膜としてのみ僕の前にあった。僕は、熱つく海辺で確実に死を迎えた。僕の中の予告が終わり、倒れ伏した僕の上には、幾つもの幻影が降りそそいだ・・・。

そして長い眠りの後に、ふと気づくとそのものは、僕の周辺に漂っていた。それは、透明なままで僕の前にあった。

そのもの、それはかって誤って一人の女性の中に求めたもの、最も親しい友の中に求めたもの、学問の世界に求めたもの、そして結局は、それらの中には、見出し得なかったもの、いやそうした特定の対象の中にあると僕が錯覚したもの。

それは、求めるのではなく共有するところに初めて愛や友情が在り得るもの、始原であり、終末であるもの、僕等の生を貫いて、ずっと先まで広がっているもの。

そのものの到来によって突如として世界が変わるものではなく、そのものの到来によって孤絶するものでもなく、そのものの到来によって初めて僕自身が誕生し、僕の中にリルケの死のようなものが芽生えてくるものである。

それは、エゴイズムや自尊心が無意味になるもの、自己嫌悪の破産するもの、醜さを暖かく支えてくれるもの、対立さえも許しあうもの、悲劇さえも美しくし、悲惨にさえも栄光を与えるもの。

あらゆる理論に対して不敗であり、どんな恋人の愛よりもかるかに深いもの、田村隆一の云う

「詩人だけが発見する失われた海を貫通し、

世界の最も寒冷な空気を引き裂き、

世界の最もデリケートな艦隊を海底に沈め

我々の王と我々の感情の都市を支配するもの」

僕自身の今までの一つ一つの体験や経験が、苦しみや歓びが、悲惨や栄光が、彷徨や安住が、そして限りなく続けられる僕達の生の営みが、ある人との出会いが、その時の会話が、街角の光景が、喫茶店「ラムチー」の片隅で飲むコーヒーの胸に満ちてくるまろやかな情感が、そのものの中でその存在意義を明らかにしてくれるもの。

異なる世紀の異なる国々の一つ一つの事件の中、出会いと別離の中、無数の色彩をなす日々の労働の中、真っ暗な恋の中、悲惨な栄光の中、一つの地方のその風土文化の中、世界史の革命や反革命の中、土着したナショナリズムの中、海を越えるインターナショナリズムの中、それらを貫く全ての思想や意識の中、それら一切を貫いて、すべてを一つの流れの中に導くもの。

人々のその経験や年齢、知識や性別を乗り越えて流れるもの。人間である限り、誰もが空気のように呼吸しているもの、それは確かにそんなものである。それは、感情ではなく、ましてや理論ではなく、しかし理論を拒絶するねのでもなく、そのものの存在によって初めて理論が生命を持ちうるもの、それは確かにそんなものである。

そのもの、それは僕の自我の膜を潜り抜けた彼方に草原のように広がっていた。それは澄み切っていて透明であり、太陽のように明るくはないが、高原の夕暮れのように和やかであった。

それは、特定の言葉を拒絶し、すべての言葉を要求した。それは、固定した領土ではなく、一つの流れであり、無限に広がる大洋のようでもあった。

そのものとの出会いによって、僕は生の地平線をみた。そのものとの出会いによって、僕は都会の窓をみた。歴史のすすり泣きを人間の落ちてゆく地平をみた。幾千万の夜と幾億もの生と死を迎え入れた。そのものとの出会いによって僕は、歴史の落陽を見、欧州史の素顔をみた。愛の生まれてくるカオスを知り、不信が芽生える氷結の木枯らしを知った・

そのものとの出会いによって僕は、自我の彼方を見た。そのものとの出会いによって、僕は僕の母を生み、死は僕の生を生んだ。

それは、詩精神というものが僕の中で覚醒した瞬間であった。

(1970年 陽樹第一号「僕にとってロマンチシズムとはなにか」より)

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射る人(1971年)

射る人限りない詩を書いてみていと思う

たとえば10月

落ち葉の一杯詰まった地下街を散歩するように

あるいは又気流に乗って

秋空をどこまでも落下してゆくように

           僕らの心の窓を通して見える

           白い無人の都市をまっしぐらに駆けてみたいと思う。

                                          もう言葉なんかではない

                                            1971年10月

                                            正午の光線が噴水を切断し、

                                          僕等の瞳を貫通して背後の光景に消え去っていった。

                                           ほっそりとやせた木立の片隅では、丸いしずくがキラリと目を光らせて

                                          僕らのこころに警告の視線を送ってくる。

                                          そうかこんな瞬間だな、何かが生まれるのは

                                          僕は、黒いコートの襟をたて

                                          灰色の瞳で走査してみる。

                                          街角の陰から陰へ

                                          木立の沈黙から沈黙へ

                                           何かが走り接近する。

                                           網膜の地平を乗り越え

                                          何かが僕を襲撃する!

                                           愁漠たる心の荒野に銀色の太陽が落下する。

                                           不在証明を片手に幻影達が立ち現れる。

                                           胸からあふれ出てくる歳月に浸りながら

                                          僕は追跡を開始する。

                                            公園のベンチでは、

                                           マキシの女の子がチラリと流し目する。

                                           だが僕は立ち止まらない

                                            僕は急いでいる。

                                            (急いでいるときには、僕らはすべてを犠牲にしなければならない)

                                             だが、パチンとウインクだけはして僕は駆けた。

                                             見えない獲物が

                                           僕の視界に飛び込んでくる。

                                           足音を忍ばせて僕は論理の照準を合わせる。

                                           それは群れなして

                                           飛び立つ!

                                           僕の視線が

                                          獲物の影を追う!

                                           僕は心の空に向かって発砲する。

                                          しかし何故なんだろう

                                          こんな厳粛な瞬間なのに

                                           意志は、世界を集中し、

                                          欲望は全身に根を張っているのに

                                          僕の心は、貨幣のように冷ややかだ。

                                           そうだ!

                                           僕らの心はかかる具体的なイメージを求めてはいない。

                                            具体的なものは、僕らの自我にまとわりつきやがて序々に

                                          一 切の生を滅亡させるからだ

                                          一切の愛と一切の憎しみを消滅させ

                                          一切の歓喜と一切の絶望を虐殺するからだ

                                            だから僕らは

                                            どんな美しい少女にも恋することが出来ない。

                                            どんな幼いものをも愛することが出来ない。

                                            どんな絶望も僕らを挫折させることが出来ないし

                                            どんな勝利も僕らを満足させることが出来ない。

                                            本質的なのは僕らの意志であり、

                                            僕らはその呪縛から逃れることは出来ない。

                                            だから僕等は、

                                            飛べない鳥に向かって照準を合わせ

                                            見えないイメージに向かって発砲する。

                                            見えない恋人に向かって視線を送り

                                            存在しない友に向かって告別の手紙を書く

                                            そして

                                           あり得ない世界に向かって

                                            僕らは不意に旅立つ。

 

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ページCIMG5708の案内

芸術は、一瞬の内に永遠をみるものです。

我々は、宇宙の中では、ほんの一瞬の間の存在でしかない。それ故、永遠なるものは、我々の憧れであり、永遠なるものとの出会いとそれとの合一は、我々にとっての喜びであり、感動であり癒しであり、救いでもある。このため、芸術は、宗教や思想とも密接に関係してきた

科学や技術や歴史は、実時間の流れの中の知的営みであるが、芸術は、実時間の一点から時間軸とは直角方向につまり、虚時間の先に永遠を見ようとする営みと云える。

ここは、この永遠の探求の課題について映像を中心とした美術、言葉を中心とした文学、音を中心とした音楽の三つの観点から考える、特定の宗教、政党、思想集団とは、一切関係しないサイトです。

画像は、ドイツ浪漫主義の画家 Caspar  David  Friedrich(1774~1840年) の1818年から1820年の作品 Woman  before The Rising Sun です。永遠なるものを見たいとのドイツ浪漫主義の強い衝動を感ずる作品で、永遠の探求というこのページの趣旨を示します。